カテゴリー「聖書」の記事

2009年12月 8日 (火)

久しぶりに聖書を読んで自分をみつめてみた

聖書日課に従って久しぶりに聖書を読んだ。

わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
(ヤコブの手紙2章14節)

そしてこの聖句と再会する。

前回この聖句を読んだ時に書いた記事を読み返してみた。この時の延長線上に今の私は居る。聖書を通して直接培われた意識が力強く生きている。まさに信仰が私を救っていることを知る。

全てを神に委ね、神の祝福こそが全てだと一心に求めて、心のおもむくままに行動する。
これは自由である。そして私は完全な自由を知らない。私は完全な自由が完成することを待ち望み、それがいずれ実現することを知っている。
今はその影に与り人としての喜びの片鱗を表している。
これが私の行いを伴った信仰である。

思い煩いは、時期がくれば解決することを知っているが、心の向きを一定に保つようにと常に襲ってくる。
欲望は、一時の心の高揚でしかないことを知っているが、本物を見失わないようにと心を捕える。
これらが今の自由が影たる故である。だから激しい渇望が私をさいなむ。

この件について「自分は正しいのか」という思いは実に虚しく、そこに正さの尺度がないとわかる。そんな私がここにいるだけのこと。ただそれだけなのだ。
そう、私は正しいと主張しているのではない。私は最後の2レプタを投げ込んだ者なので何も持っていない。分け与えるものも、誇るものもない。
世に在っては何の価値もない。

私はこの証のために生きているのかもしれない。

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2009年7月27日 (月)

経験したからわかる違い

5千人の給食、4千人の給食の後、弟子たちがパンを忘れたことで互いに議論し合っていた時に、イエス様は「まだ悟らないのですか。」と仰られました。(マルコの福音書8章21節)

私は2005年12月5日に破滅しました。それ以来、全く生きる意味や目的を見出せません。でも失望や絶望も全くありません。いろんな事を経験している事実はあります。
たしかにいまさら何を心配することがあるでしょうかとしみじみ思います。

時間の流れがゆっくりになった。と言うか、以前はぶっ飛ぶように早かった。
以前は、置かれた状態から夢中で逃げ出すように暮らしていました。今は、苦しんだり、楽しんだり、眠りこけたり、夢中になったり、ドキドキしたり、ワクワクしたりの一刻一刻を受け入れるように暮らしています。

破滅したくせに何様って感じで意味不明ですね。説明が難しい。

2005年12月5日以前は暗闇を突き進んでいた感じなんです。それに対して2005年12月5日以降は、後ろ向きに運ばれてのんびり景色を見ているような感じなんです。
そんな風に変わってるんです。

決して幸せではないです。こんなことで良いのだろうかと考え、このように答えを得る。それだけの日々です。

ますます何それって感じですが、事実なのでしかたがない。私だってこんな風になるとは夢にも思わなかった。

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2009年7月 1日 (水)

下がれ。サタン。

イエス様とサタンの戦いです。

その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
(マタイの福音書16章22-23節)

実に恐ろしい。

神様の思いは人類の罪を赦し、神様と人類の関係を正常に戻すことです。
そのためには人類の罪の代償が必要なのです。人類が自分の力で自分自身の罪を償うことができないからです。悔い改めと言いますが、悔いることはあっても改めることができません。みな自分自身を振り返るとわかることです。
その代償がイエス様の十字架による死です。イエス様はわれわれが受けるべき神様からの呪いを一身に引き受けられました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23章34節)

十字架上でのイエス様の言葉です。これが自分の命を犠牲にした取り成しです。しかもこの取り成しは自分を苦しめ、殺そうとしている者たちのための取り成しです。この言葉の後、十字架上でイエスさまは亡くなりました。
そして神様が全ての罪からの贖いの代価を受けられたことの証印として三日目にイエス様はよみがえられました。完済したとを表しています。
これが実現したので、このことを信じ受け入れる者は神様と和解できるわけです。後述しますが事実として信じること、この救いに与りたい望むことが重要です。

さてこの神様のご計画を踏まえてイエス様とサタンの戦いを見てみましょう。

ペテロは事の次第を理解していません。実はこの直前に”「あなたは、生ける神の御子キリストです。」”(16章16節)と告白しています。イエス様を自分にとって必要な”キリスト”(救い主)だと信じているわけです。しかし、まさか”神の御子”が、”キリスト”が死ぬのか、しかもご自身がお創りになった人類によって苦しめられ殺されて、と考えているわけです。
ペテロは今まで見てきた奇跡の集大成によって勝利をおさめ王の座に着かれると思っていたようです。

サタンはイエス様が神としての栄光をお捨てになること、神様からの呪いを一身に受けることを躊躇するように誘惑しています。ここなどは心理的に、違う箇所では肉体的に苦痛を持って攻めます。

イエス様はご自分がなさろうとしていることを邪魔する余地があると仰ってます。そうです実際に苦しんで闘っておられるのです。

神様は全能なお方です。何でもできるのです。初めから人類に罪が入らないようにすることもできたのです。しかしあえて愛する者に自由に選択する機会を与えて実現される歴史を良しとされました。なぜでしょうか。

神は愛です。(ヨハネの手紙第一4章16節)

目に見えない、存在を体感できない方をどのようにして知ることができるでしょう。その方は””だとしています。では””とは何でしょうか。
私たちは愛と言う言葉をよく使いますが、そこに神様の存在を認識することがあできるでしょうか。全くありません。では”神は愛”ではないのでしょうか。決してそんなことはありません。私たちの愛がここでの””ではないのです。ではもう一度、””とは何でしょうか。

この私たちの持っていない””を私たちに知らせるために神様はこの歴史を良しとされたのです。
ペテロや全ての人類が理解できない方法、サタンが妨げようとした方法、イエス様が苦しみの末に達成された方法、すなわち”自分を憎む者のためのご自身の命を犠牲にした取り成し”の実現、これこそが””であり神様の本質なのです。

なので、”イエス様の十字架の死は自分のため”とわかった者は、””を知り、すなわち神様を知り、神様の””の対象として自分を差し出す、という仕組みが成り立つのです。
これが信仰の原理です。
つまり最初の一歩は”イエス様の十字架”を歴史上の事実として認めることです。今年は2009年ですが、いつから2009年ですか。
そして”イエス様の十字架”が何のためにあったのかを考え、それが自分の人生の清算のためだと信じ、この救いに与りたいと望めばいいのです。

天国とはこの””で満たされたいと望む者が行く所です。地獄とはこの””を必要ないと望む者が行く所です。各々が自発的にそれぞれが望むところに行くのです。
今の世を生きるのは辛くて苦しいです。しかし、この世で生きるとは、それを終えた時に、””に対してどちらに行くかを選択するだけの一時的なものなのです。

神は愛です。

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2009年6月17日 (水)

国際時事講演会に行ってきました

宇野正美氏の講演に行ってきました。

申命記28章と30章を引用して伝えられたことが心に残りました。
28章は”神の命令(律法)を守るなら祝福される”、”神の命令(律法)を守らないのなら呪われる”に要約されます。
しかし人間は命令(律法)を守ることはできません。
30章は”散らされたユダヤの子孫が神に立ち返った時、神はその民を地の果てから集めて栄えさせられる”に要約されます。

氏の伝えたいことは次の二つだと思いました。

  • イエスは”命令(律法)を守ることができないと認め救いを求めるなら、私が代わりに呪わいを受ける”とした。これがあの十字架であり、新約なのです。
  • 古代ユダヤ人の末裔達へ”今の境遇の意味がわからないかもしれないが、あなたがたの内で終末の艱難辛苦を生き残った者が神に立ち返り、約束の地に連れ戻される時が必ず来る。”このことを覚えて聖書的な考えを身に付けてほしい。

後者の古代ユダヤの末裔へのメッセージこそまさに終末を示しているような気がしました。

申命記引用箇所(抜粋)

もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。 (28章1-2節)

もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。 (28章15節)

私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留めあなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。
たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。
あなたの神、主は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。
(30章1-5節)

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2009年6月 8日 (月)

畑仕事

マタイの福音書13章を読みました。イエス様の種蒔きのたとえと良い麦と毒麦のたとえが載っています。

種蒔きのたとえ

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
耳のある者は聞きなさい。」
(マタイの福音書13章4-9節)

私はずっと、自分は良い地なのだろうかと考えていました。それはそれで一つの考え方かもしれません。しかし自分を見ると到底良い地には思えません。ですから実を結ばないのでしょうか。それとも少しは良い地なのでしょうか。良い地であるためにはどうすればよいのでしょうか。どれもよくわかりません。
今日読んでいて違う解釈を考えていました。地とは伝道していく対象なのではないかと。
考えてみれば当たり前ですね。種を蒔く前に地を耕し整えなければなりません。

良い麦と毒麦のたとえ

「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
(マタイの福音書13章24-30節)

教会には偽教師がいます。異端があります。このたとえのようにせっかく整えられた地に毒麦も混じって実ります。ですが今の栽培中は一本の良い麦を誤って損なわないために毒麦を抜いて集めてははいけませんと書いています。収穫時(この世の終わり)には全て刈り取り選別します。その時を待たなくてはいけません。
私は新約聖書の手紙には教会が堕落することの預言と教会の堕落の中でどう信仰を守り通すかの教えが書かれていると解釈しています。

罪から救ってくださるのはイエス様

これに尽きます。

  • イエス様だけです。イエス様が創造主と人との仲介をされたのです。誰も割り込んではいけません。
  • 罪から救い出されなくてはならないのはならないのです。貧困や虐げや災いからではありません。

この信仰を持つクリスチャンが良い麦です。毒麦である偽教師、異端を見分けるのもこの信仰の有無です。
クリスチャンは罪赦された罪人です。間違いを犯します。ここに惑わされてはだめです。逆に見せかけの正しさや不思議な業に惑わされてもだめです。

イエス様は良い種を蒔かれます。実を結ばない良い麦を思い悲しくなってきました。麦が成長し実を結ぶための地を耕し整えることがクリスチャンの仕事だと思いました。

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2009年2月21日 (土)

3日分ともなるとさすがに多いな

出エジプト記31-35章、詩篇89-93篇、コリント人への第一の手紙1-5章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

昨日、本日、明日分の3日分を読む。
昨晩、夜更かししたせいもあって頭あさえない。気になる個所を抜き出してみたが、どのようにつながるのだとるか。

学びについて考える。

息子の通っているカナダの教会には学び会など無いようである。福音集会が学びを兼ねているのかというとそうでもないようである。地域にキリスト教が浸透しているとはいえ、魂の獲得が主たるメッセージのテーマのようであり、それを皆で聞く。

集会独自の教えを持って集会の在り方の健全さを保とうとする地域集会はある。基本は聖書の理解の要約であるがこれをクリスチャンとしての生活の支えにする発想はいただけない。

彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。
(出エジプト記31章3節)

必要な知恵と知識は神様の霊によって満たされる。クリスチャンの内には聖霊がお住まいになられている。

それがこうなるといけない。

『私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。』
それで、私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。

(出エジプト記32章23-24節)

クリスチャンはとかく不安を抱える存在である。その不安を神様の前に持っていくのが良い。しかし指導者に求めるとおかしくなる。
学びを通して偶像が作られることになる。
指導者はやはり信者から求められている解決策を神様に求めるべきである。

決して急いではいけない。

また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。
(出エジプト記32章12節)

救い主イエスの命をもって贖われたのである。恐れることなど無い。

私たちの齢は七十年。
健やかであっても八十年。
しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。
それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
だれが御怒りの力を知っているでしょう。
だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。
その恐れにふさわしく。
それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。
そうして私たちに知恵の心を得させてください。

(出エジプト記90章10-12節)

人生は長いか短いか。苦しみから早く抜け出したくて焦りが生じる。時間の長さに対する感覚がおかしくなるものである。

それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
(コリント人への第一の手紙2章5節)

信仰からくる衝動に忠実であることは大切である。信仰を高める努力は無意味である。

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2009年2月19日 (木)

今日は楽しみにしていた日なのに浮かない気分である

出エジプト記30章、詩篇86-88篇、マルコの福音書15章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

福音書は救い主イエスについて叙事的に記述されている。詩篇はイエスの神様に対する叫びの祈りが書かれているのだと思う。

私の祈りがあなたの御前に届きますように。
どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。
私のたましいは、悩みに満ち、私のいのちは、よみに触れていますから。

(詩篇88篇2-3節)

これはゲッセマネの祈りか、十字架での祈りか、はたまた日々の祈りなのかはわからないが、いつも神様の身近にいて心の思いを打ち明けておられたのだと察する。
私も日々の境遇の中で感じ思うことを逐一神様にお伝えするのが良いのだと思う。
神様とこの関係にある時、悲しくても、不安でも、苦しくても、孤独ではないことを認識することができる。これで十分なのかもしれない。

それから、彼らは、イエスを十字架につけた。
(マルコの福音書15章24節)

いつも思うがあっさりと記述されている。映画では生々しい描写が見せ場になるが、福音書の記者は詳しくは触れない。
預言の成就が叙事的に記述されイエスの受けた苦しみは伝わってこない。イエスの視点に立った抒情的な表現はやはり詩篇にある。

詩篇の記者はイエスの苦しみや喜びや感謝の思いの一端を体感し、それを詩として残している。同様に私も日々のなかでイエスの思いの一端を体感しているのではないかと思う。
裏返せば、イエスは全ての人の全ての思いを経験されたのだとはと思う。
だから聖書は万人に共感を与えることができるのだろう。

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2009年2月18日 (水)

理屈ではわからない

出エジプト記29章、詩篇85篇、マルコの福音書14章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

救い主イエスは聖書の預言どおりに十字架に架けられ救いを実現される。
救い主イエスを捕え殺そうとする者、裏切る者、等々が自分の意志でかかわっていく。

確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。
(マルコの福音書14章21節)

生まれなかったほうがよかった人々のなした事によって十字架は実現する。その人々に罪がなければ十字架は実現しない。

十字架を実現するために”生まれなかったほうがよかった人”がうまれたのではない。それぞれの人の自由意思による悪事の積み重ねが神様の業によって救いという恵を実現させている。

神様の業がそこにあったことを認めなければならない。

同様に私自身が犯す罪の行いも神様の業によって恵みとなると知る。

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。
(マルコの福音書14章38節)

救い主イエスの命令であり励まし。
また私がダメでも結果は良い。

創り主なる神に感謝。

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2009年2月17日 (火)

脚痛い

出エジプト記28章、詩篇83-84篇、マルコの福音書13章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

万軍の【主】よ。
なんと幸いなことでしょう。
あなたに信頼するその人は。

(詩篇84篇12節)

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2009年2月16日 (月)

ものは考え様なのは知っているが、なかなかうまくいかない。

出エジプト記27章、詩篇81-82篇、マルコの福音書12章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

自殺未遂者の掲示板を拝読させて頂いた。
多くの人が生きることに意義を見出させず、責任を果たせていない罪責感にさいなまれ、自己の存在そのものに辟易している。
またその方たちをとどまらせようとする方もおられ、話し相手になったり、けなしたり、茶化したり、自殺によって発生する影響を再認識させたりと発言の多様さのそれぞれに意味を見出し敬服した。
私も死を望む一人である。自殺未遂者の心理分析は自分自身を重ね合わせたたものに他ならない。酒を止めた時から人生に価値を見いだせないことに直面し、元気になるにつれ何もできない罪責感にさいなまれ、生きることが苦痛以外の何物でもない。

毎朝、一日が始まることを考えると憂鬱になる。すべきことをなしていない怠惰なな自分、すべきことが何かを探し求めようともしない怠惰な自分との直面が始まる。そしてただ時間を消費するだけの一日を過ごす。
仕事に熱心であった時、酒におぼれていた時、聖書や教会に熱心であった時、これも時間の消費にすぎなかったと考えている。ただ何かに熱心になってこの憂鬱に目を向けようとしていなかっただけだろう。
自分は何をしたいのか。何を満たしたいのか。これがわからないのである。それ故に何のために苦痛を引きずり生きる必要があるのかと考えてしまう。

聖書を含め世の全ての宗教は、次の世の幸福に対する希望と精神の鍛練の配分の上に成り立っている。両者とも今の不幸を起点とし、前者は今の世では達成できないとするし、後者は苦痛を忘れさせる手法でしかなく大量の酒と大差がない。

書き込みしている人たちと私には人生のとらえ方に大きな違いがある。

  • 彼らは自分の意志で生きていると考えている。対して私は神の意志によって生かされていると考えている。
  • 彼らは生きる権利があると考えている。対して私は生きる義務があると考えている。

根底で共通するのは、生きることの苦痛を感じ続けていることと、死を選択する自由持っていると考えていることであるが、この違いの故に私は自殺しない。

これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。
(マルコの福音書12章11節)

解らない状態は死ぬまで続くのだろう。

なぜ先の違いが自殺に至らないのかというと、生かされているのであれば、生きることに責任がないと考えることができるからである。
私の脚は慢性的に痛む。しかしこの痛む脚は責任を果たせない理由になるので私の気持ちを楽にする。
私はもうすぐ入院する。入院は社会との断絶の理由になるので私の気持ちを楽にする。
同様に命を支配される方に自分の生き方をお任せすることは、用が無くなれば命をとられるのであろうし、生きている限りはあの方都合のご用があり、これは重大な使命に違いないと考えることができるのである。

しかるにあの書き込みをされた方々の苦痛は私のそれをはるかに超えるものだと察する。

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