カテゴリー「聖書」の記事

2016年4月 2日 (土)

来て、そして、見なさい

今日の神戸聖書フォーラムで学んだこと。

"彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」"(ヨハネによる福音書)

ピリポの対応は正しい。

福音を伝えるのは難しい。私が難しくしてる。

聖句を引用して、自分なりの解釈をし、相手に伝えたい内容に適用し、語るのだけれど、出しゃばってはいけない、私的解釈をしてはいけない。これが結構怖い。神様が愛する人の永遠がかかっているのだから。
その上、そもそも相手が知りたいことを私は知っているのかと疑問に感じてしまった。

仲介せずに相手をイエス様に合わせる。このピリポメソッドが福音伝道の基本ではないかと気付かされた。いかにして相手をイエス様に向かせるか。そして後はイエス様にお任せする。
まだ頭が働く。今のうちに考察し実践しよう。

Image_2と桜の満開の下で黙想する。

2013年1月 4日 (金)

「ナザレのイエス」と呼ぶことは良くないのか?

よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、 エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。 また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた。 (ルカによる福音書 4:25-27 JA1955)
この後、群衆は怒ってイエスを殺そうとする。この一連の記述はどう解釈して良いのかわからない。
汚れた霊は「ナザレのイエスよ・・・・あなたは神の聖者です。」と叫んだところ、イエスに「黙れ」と言われる。
さて、群衆の反応は何を間違っていて、どうあるべきだったのだろうか。神の言葉を聞きながら、「ナザレのイエス」と評した盲目さが問題なのか?
誰か教えてください。

2011年12月25日 (日)

ロゴス(?)、カシコイモノ、"言"は"愛"で良いのかも

息子に誘われてクリスマス礼拝に行ってきました。近所の教会です。参照した聖句はイザヤ書52章7ー10節とヨハネによる福音書1章1ー14節でした。
"初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。" (ヨハネによる福音書 1:1-4 JA1955)
"彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。" (ヨハネによる福音書 1:10-12 JA1955)新共同訳だったので"彼"は"言"でした。
牧師さんの話しは「ヨハネによる福音書は難しいですね」から始まりました。確かにこの最初の4節は難解です。
"言"が何なのかわかりません。これが難解にしているようです。10-12節を読むと"言"は世にあって、世を成し、世に認められず、民が受け入れなかった対象だとわかります。それでは1-4節が難解なのは当然ですね。"言"、カシコイモノは訳が適切かと言うことではなくて、そもそもわからないものなのですね。
私は神がイエスと言う人として世に来られて、民の罪の贖いのために十字架に架かられたのはご自身の本質である"愛"を民に教えるためだと思っています。
つまりロゴス(?)、カシコイモノ、"言"は"愛"で良いのかと思いました。"言"、"彼"を"愛"に読み替えても、聖書の伝えることと一致してますね。

2011年10月15日 (土)

バプテスマついてひらめいた。

洗礼またはバプテスマについて思ったこと。

「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。 (使徒行伝 10:47 JA1955)
その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰せになった言葉を思い出した。 (使徒行伝 11:16 JA1955)
後者の聖句からするとバプテスマは二つしかない。また前者からすると洗礼またはバプテスマと言われている行為はヨハネの水のバプテスマになる。

自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。 (マタイによる福音書 3:6 JA1955)
ヨハネの水のバプテスマは自分が罪人だと認識した人の悔い改めの意思表示によってなされる。決して地方教会に受け入れる儀式ではない。そもそも律法の理解度を指標とした資格を前提としていない。

だから、悔改めにふさわしい実を結べ。 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。 (マタイによる福音書 3:6, 8, 9 JA1955)
悔い改めは神に対する態度を問われている。

彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。 (使徒行伝 11:23 JA1955)
これが初心者に対して教会が取るべき態度であり。篩に掛けるようなことをしてはいけない。

2010年12月25日 (土)

クリスマスの意味 #bible

むごたらしい死に方や、俗に言う神に見捨てられた状態を目指す人なんていない。

“そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。”

ただ一人イエスだけが始めからこの生き方を目指して産まれてこられた。

“主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。”

これが愛を知らな者が愛を知る唯一の方法だ。そして神を離れ神を知らない者が神に出会う。なぜなら、

“神は愛である。”

2010年11月16日 (火)

今の悩みについてその原理がわかったかも知れない

昔聞いたことがある。「神の恵みを得るには今持っているものを手放さないといけない。」
それで節制に努めようと苦労する。結局のところ努力は虚しく悶々とした日々となる。

"この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。"(コリント人への手紙第2)

幸いなことに私の意とは関係なく神の恵みは満たされる。その過程において勝手に思い悩むだけのようだ。

身についたつまらないものは自然と消えていく。先に消えていくことを望んでいなければ、その消えていく様を見て悩みも多い。確かに開放されたいと望んだものが消えていくのは喜ばしい。

私にとっては酒がそうだ。「酒をやめる」は一言だがそれに纏わる様々なことを身に帯びている。酒を断つ日々において喜びと寂しさが入り乱れている。もうすぐ酒をやめて5年になるがこの状態は続くだろう。古い幕屋の中にいるからだ。そして一生を通してそこから出ることは無い。

そう私はアルコール依存症のケパです。

2010年2月 9日 (火)

教会時代の始まり

使徒の働きまで読んだ。

プロテスタントの諸教会、諸集会はこの時の教会のように在りたいと言う。確かにその通りだ。信仰を二の次にして掟を作り、解釈の相違から分派が起こる。
その分派の結果、新しい教会が建てあげられ、救いが広がっていく。

口語訳は全然読みやすいしわかりやすいと思うのだけど、改訳する必要ってあったのだろうか。

2010年1月19日 (火)

君もそこにいたのか

聖歌400番「君もそこにいたのか」が好きだ。曲の素晴らしさもさることながら、歌詞が良い。まさに福音書を読むこと、イエスを思い描くこと、そのものを歌っていると思う。

ルカによる福音書を読んだ。十字架の描写は23章33節から49節と僅かなのだけど、イエスの生涯は十字架につくためにあったとわかる。

わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである(ルカの福音書5章32節)

私の罪が釘を打ち込んだ。
私の罪が身を裂いた。
私の罪が神様との断絶をもたらした。
私の罪が死に至らしめた。

イエスは私の罪の負債を完済したのでよみがえられた。

わたしは言って置く、最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来ることはできない。(ルカの福音書12章59節)

聖歌400番「君もそこにいたのか」

君もそこにいたのか 主が十字架につくとき
ああ なんだかこころが ふるえる ふるえる ふるえる
君もそこにいたのか

君もきいていたのか くぎをうちこむおとを
ああ なんだかこころが ふるえる ふるえる ふるえる
君もきいていたのか

君もながめていたのか ちしおがながれるのを
ああ なんだかこころが ふるえる ふるえる ふるえる
君もながめていたのか

君もきがついたのか とつぜん日がかげるのを
ああ なんだかこころが ふるえる ふるえる ふるえる
君もきがついたのか

君も墓にいったのか 主をばほうむるために
ああ なんだかこころが ふるえる ふるえる ふるえる
君も墓にいったのか 

2010年1月11日 (月)

マルコの福音書を読んだ

死と呼ばれる状態。わからない。
変な日本語なのだが、このわからなさをどう表現すればいいのか、これすらわからない。経験がないし、経験談も聞けないし、手掛かりがない。
全身麻酔の経験と似ているのだろうか。1、2、3、で意識が飛んで、起こされる。ハイ、おしまいみたいな感じか。
必ずその時が来るのだから、さっさと終わらせたいのだけど、それすら解決できない。なぜ解決できないのか、これもわからない。

また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。(マルコの福音書9章1節)

もしかしたら2,000年間生きている人がいたりするのかな、なんて思ったりもするけど、やっぱりイエスを信じた者の死は眠るってことなのだろうな。

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。(マルコの福音書 12章27節)

イエスが私の代わりに死を経験されたので、私は死を経験しない。これは正しい解釈なのだろう。死なないとなると、命に関わる行為に関与できないわけだから、これが解決できない理由なのだろうかと思ったりする。

2010年1月 5日 (火)

マタイの福音書を読んだ。

罪のゆるしを得なくてはならないと思っている人はどれだけ居るのだろうか。

というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。(マタイの福音書21章32節)

取税人や遊女は自分の罪を見てヨハネのところに行った。神様と自分との関係を修復するために罪のゆるしを得ようとしている。このような人を今は見ない。

実を言うと私も神様から罪のゆるしを得なくてはならないと思い詰めたことは多分ない。良心の呵責と天国と地獄の噂だけが思いの中にあったが、罪の意識は誰かに怒られるとか非難されるとか対人関係の領域のことで、絶対的な義に対する責務なんて感じたことはなかった。

今も罪とは何かをよくわかっていない。「私は罪人です」の一言を受け入れ、とりあえずお咎めなしの身分になったことに安堵している。こんな感じだ。

天に帰った時の罪のない状態を想像できない。ただ今の状態で永遠を、いやこれ以上を過ごすのは嫌なので、嫌じゃない状態に変われると書かれている聖書の言葉に希望を置いている。
この嫌な状態の原因が罪なのだろうけど、その関係はやっぱり良くわからない。
考えてみれば、罪のない状態を経験したことがないのだから、どれだけ素晴らしいか、なぜ今が惨めなのか、これらがわからないいのも当然かと思う。

ではなぜ良い状態に変われると信じられるかと言うと、イエスが十字架で死なれたからだ。この十字架の死が自分の身代りだったのだと聖書を読めばよくわかる。私が罪のゆるしを得るためにイエスは自分の命を代価として払われた。罪についてよくわかっていないけれども、これはすごいことだとはわかる。ここに想像できないイエスの私への思いがあることがわかる。これが愛なのだと愛を持ち合わせていない私も知ることができる。無いからわからないのではなく、無いからこそ存在を表された時に認識できるのだと思う。
そしてこの世に存在を認められない愛を持つイエスは神様だと知ることができる。

私はこれしか知らないけれど、これで十分だと思う。

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