カテゴリー「聖書」の記事

2009年7月27日 (月)

経験したからわかる違い

5千人の給食、4千人の給食の後、弟子たちがパンを忘れたことで互いに議論し合っていた時に、イエス様は「まだ悟らないのですか。」と仰られました。(マルコの福音書8章21節)

私は2005年12月5日に破滅しました。それ以来、全く生きる意味や目的を見出せません。でも失望や絶望も全くありません。いろんな事を経験している事実はあります。
たしかにいまさら何を心配することがあるでしょうかとしみじみ思います。

時間の流れがゆっくりになった。と言うか、以前はぶっ飛ぶように早かった。
以前は、置かれた状態から夢中で逃げ出すように暮らしていました。今は、苦しんだり、楽しんだり、眠りこけたり、夢中になったり、ドキドキしたり、ワクワクしたりの一刻一刻を受け入れるように暮らしています。

破滅したくせに何様って感じで意味不明ですね。説明が難しい。

2005年12月5日以前は暗闇を突き進んでいた感じなんです。それに対して2005年12月5日以降は、後ろ向きに運ばれてのんびり景色を見ているような感じなんです。
そんな風に変わってるんです。

決して幸せではないです。こんなことで良いのだろうかと考え、このように答えを得る。それだけの日々です。

ますます何それって感じですが、事実なのでしかたがない。私だってこんな風になるとは夢にも思わなかった。

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2009年7月 1日 (水)

下がれ。サタン。

イエス様とサタンの戦いです。

その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
(マタイの福音書16章22-23節)

実に恐ろしい。

神様の思いは人類の罪を赦し、神様と人類の関係を正常に戻すことです。
そのためには人類の罪の代償が必要なのです。人類が自分の力で自分自身の罪を償うことができないからです。悔い改めと言いますが、悔いることはあっても改めることができません。みな自分自身を振り返るとわかることです。
その代償がイエス様の十字架による死です。イエス様はわれわれが受けるべき神様からの呪いを一身に引き受けられました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23章34節)

十字架上でのイエス様の言葉です。これが自分の命を犠牲にした取り成しです。しかもこの取り成しは自分を苦しめ、殺そうとしている者たちのための取り成しです。この言葉の後、十字架上でイエスさまは亡くなりました。
そして神様が全ての罪からの贖いの代価を受けられたことの証印として三日目にイエス様はよみがえられました。完済したとを表しています。
これが実現したので、このことを信じ受け入れる者は神様と和解できるわけです。後述しますが事実として信じること、この救いに与りたい望むことが重要です。

さてこの神様のご計画を踏まえてイエス様とサタンの戦いを見てみましょう。

ペテロは事の次第を理解していません。実はこの直前に”「あなたは、生ける神の御子キリストです。」”(16章16節)と告白しています。イエス様を自分にとって必要な”キリスト”(救い主)だと信じているわけです。しかし、まさか”神の御子”が、”キリスト”が死ぬのか、しかもご自身がお創りになった人類によって苦しめられ殺されて、と考えているわけです。
ペテロは今まで見てきた奇跡の集大成によって勝利をおさめ王の座に着かれると思っていたようです。

サタンはイエス様が神としての栄光をお捨てになること、神様からの呪いを一身に受けることを躊躇するように誘惑しています。ここなどは心理的に、違う箇所では肉体的に苦痛を持って攻めます。

イエス様はご自分がなさろうとしていることを邪魔する余地があると仰ってます。そうです実際に苦しんで闘っておられるのです。

神様は全能なお方です。何でもできるのです。初めから人類に罪が入らないようにすることもできたのです。しかしあえて愛する者に自由に選択する機会を与えて実現される歴史を良しとされました。なぜでしょうか。

神は愛です。(ヨハネの手紙第一4章16節)

目に見えない、存在を体感できない方をどのようにして知ることができるでしょう。その方は””だとしています。では””とは何でしょうか。
私たちは愛と言う言葉をよく使いますが、そこに神様の存在を認識することがあできるでしょうか。全くありません。では”神は愛”ではないのでしょうか。決してそんなことはありません。私たちの愛がここでの””ではないのです。ではもう一度、””とは何でしょうか。

この私たちの持っていない””を私たちに知らせるために神様はこの歴史を良しとされたのです。
ペテロや全ての人類が理解できない方法、サタンが妨げようとした方法、イエス様が苦しみの末に達成された方法、すなわち”自分を憎む者のためのご自身の命を犠牲にした取り成し”の実現、これこそが””であり神様の本質なのです。

なので、”イエス様の十字架の死は自分のため”とわかった者は、””を知り、すなわち神様を知り、神様の””の対象として自分を差し出す、という仕組みが成り立つのです。
これが信仰の原理です。
つまり最初の一歩は”イエス様の十字架”を歴史上の事実として認めることです。今年は2009年ですが、いつから2009年ですか。
そして”イエス様の十字架”が何のためにあったのかを考え、それが自分の人生の清算のためだと信じ、この救いに与りたいと望めばいいのです。

天国とはこの””で満たされたいと望む者が行く所です。地獄とはこの””を必要ないと望む者が行く所です。各々が自発的にそれぞれが望むところに行くのです。
今の世を生きるのは辛くて苦しいです。しかし、この世で生きるとは、それを終えた時に、””に対してどちらに行くかを選択するだけの一時的なものなのです。

神は愛です。

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2009年6月17日 (水)

国際時事講演会に行ってきました

宇野正美氏の講演に行ってきました。

申命記28章と30章を引用して伝えられたことが心に残りました。
28章は”神の命令(律法)を守るなら祝福される”、”神の命令(律法)を守らないのなら呪われる”に要約されます。
しかし人間は命令(律法)を守ることはできません。
30章は”散らされたユダヤの子孫が神に立ち返った時、神はその民を地の果てから集めて栄えさせられる”に要約されます。

氏の伝えたいことは次の二つだと思いました。

  • イエスは”命令(律法)を守ることができないと認め救いを求めるなら、私が代わりに呪わいを受ける”とした。これがあの十字架であり、新約なのです。
  • 古代ユダヤ人の末裔達へ”今の境遇の意味がわからないかもしれないが、あなたがたの内で終末の艱難辛苦を生き残った者が神に立ち返り、約束の地に連れ戻される時が必ず来る。”このことを覚えて聖書的な考えを身に付けてほしい。

後者の古代ユダヤの末裔へのメッセージこそまさに終末を示しているような気がしました。

申命記引用箇所(抜粋)

もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。 (28章1-2節)

もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。 (28章15節)

私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留めあなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。
たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。
あなたの神、主は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。
(30章1-5節)

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2009年6月 8日 (月)

畑仕事

マタイの福音書13章を読みました。イエス様の種蒔きのたとえと良い麦と毒麦のたとえが載っています。

種蒔きのたとえ

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
耳のある者は聞きなさい。」
(マタイの福音書13章4-9節)

私はずっと、自分は良い地なのだろうかと考えていました。それはそれで一つの考え方かもしれません。しかし自分を見ると到底良い地には思えません。ですから実を結ばないのでしょうか。それとも少しは良い地なのでしょうか。良い地であるためにはどうすればよいのでしょうか。どれもよくわかりません。
今日読んでいて違う解釈を考えていました。地とは伝道していく対象なのではないかと。
考えてみれば当たり前ですね。種を蒔く前に地を耕し整えなければなりません。

良い麦と毒麦のたとえ

「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
(マタイの福音書13章24-30節)

教会には偽教師がいます。異端があります。このたとえのようにせっかく整えられた地に毒麦も混じって実ります。ですが今の栽培中は一本の良い麦を誤って損なわないために毒麦を抜いて集めてははいけませんと書いています。収穫時(この世の終わり)には全て刈り取り選別します。その時を待たなくてはいけません。
私は新約聖書の手紙には教会が堕落することの預言と教会の堕落の中でどう信仰を守り通すかの教えが書かれていると解釈しています。

罪から救ってくださるのはイエス様

これに尽きます。

  • イエス様だけです。イエス様が創造主と人との仲介をされたのです。誰も割り込んではいけません。
  • 罪から救い出されなくてはならないのはならないのです。貧困や虐げや災いからではありません。

この信仰を持つクリスチャンが良い麦です。毒麦である偽教師、異端を見分けるのもこの信仰の有無です。
クリスチャンは罪赦された罪人です。間違いを犯します。ここに惑わされてはだめです。逆に見せかけの正しさや不思議な業に惑わされてもだめです。

イエス様は良い種を蒔かれます。実を結ばない良い麦を思い悲しくなってきました。麦が成長し実を結ぶための地を耕し整えることがクリスチャンの仕事だと思いました。

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2009年2月21日 (土)

3日分ともなるとさすがに多いな

出エジプト記31-35章、詩篇89-93篇、コリント人への第一の手紙1-5章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

昨日、本日、明日分の3日分を読む。
昨晩、夜更かししたせいもあって頭あさえない。気になる個所を抜き出してみたが、どのようにつながるのだとるか。

学びについて考える。

息子の通っているカナダの教会には学び会など無いようである。福音集会が学びを兼ねているのかというとそうでもないようである。地域にキリスト教が浸透しているとはいえ、魂の獲得が主たるメッセージのテーマのようであり、それを皆で聞く。

集会独自の教えを持って集会の在り方の健全さを保とうとする地域集会はある。基本は聖書の理解の要約であるがこれをクリスチャンとしての生活の支えにする発想はいただけない。

彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。
(出エジプト記31章3節)

必要な知恵と知識は神様の霊によって満たされる。クリスチャンの内には聖霊がお住まいになられている。

それがこうなるといけない。

『私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。』
それで、私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。

(出エジプト記32章23-24節)

クリスチャンはとかく不安を抱える存在である。その不安を神様の前に持っていくのが良い。しかし指導者に求めるとおかしくなる。
学びを通して偶像が作られることになる。
指導者はやはり信者から求められている解決策を神様に求めるべきである。

決して急いではいけない。

また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。
(出エジプト記32章12節)

救い主イエスの命をもって贖われたのである。恐れることなど無い。

私たちの齢は七十年。
健やかであっても八十年。
しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。
それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
だれが御怒りの力を知っているでしょう。
だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。
その恐れにふさわしく。
それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。
そうして私たちに知恵の心を得させてください。

(出エジプト記90章10-12節)

人生は長いか短いか。苦しみから早く抜け出したくて焦りが生じる。時間の長さに対する感覚がおかしくなるものである。

それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
(コリント人への第一の手紙2章5節)

信仰からくる衝動に忠実であることは大切である。信仰を高める努力は無意味である。

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2009年2月19日 (木)

今日は楽しみにしていた日なのに浮かない気分である

出エジプト記30章、詩篇86-88篇、マルコの福音書15章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

福音書は救い主イエスについて叙事的に記述されている。詩篇はイエスの神様に対する叫びの祈りが書かれているのだと思う。

私の祈りがあなたの御前に届きますように。
どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。
私のたましいは、悩みに満ち、私のいのちは、よみに触れていますから。

(詩篇88篇2-3節)

これはゲッセマネの祈りか、十字架での祈りか、はたまた日々の祈りなのかはわからないが、いつも神様の身近にいて心の思いを打ち明けておられたのだと察する。
私も日々の境遇の中で感じ思うことを逐一神様にお伝えするのが良いのだと思う。
神様とこの関係にある時、悲しくても、不安でも、苦しくても、孤独ではないことを認識することができる。これで十分なのかもしれない。

それから、彼らは、イエスを十字架につけた。
(マルコの福音書15章24節)

いつも思うがあっさりと記述されている。映画では生々しい描写が見せ場になるが、福音書の記者は詳しくは触れない。
預言の成就が叙事的に記述されイエスの受けた苦しみは伝わってこない。イエスの視点に立った抒情的な表現はやはり詩篇にある。

詩篇の記者はイエスの苦しみや喜びや感謝の思いの一端を体感し、それを詩として残している。同様に私も日々のなかでイエスの思いの一端を体感しているのではないかと思う。
裏返せば、イエスは全ての人の全ての思いを経験されたのだとはと思う。
だから聖書は万人に共感を与えることができるのだろう。

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2009年2月18日 (水)

理屈ではわからない

出エジプト記29章、詩篇85篇、マルコの福音書14章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

救い主イエスは聖書の預言どおりに十字架に架けられ救いを実現される。
救い主イエスを捕え殺そうとする者、裏切る者、等々が自分の意志でかかわっていく。

確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。
(マルコの福音書14章21節)

生まれなかったほうがよかった人々のなした事によって十字架は実現する。その人々に罪がなければ十字架は実現しない。

十字架を実現するために”生まれなかったほうがよかった人”がうまれたのではない。それぞれの人の自由意思による悪事の積み重ねが神様の業によって救いという恵を実現させている。

神様の業がそこにあったことを認めなければならない。

同様に私自身が犯す罪の行いも神様の業によって恵みとなると知る。

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。
(マルコの福音書14章38節)

救い主イエスの命令であり励まし。
また私がダメでも結果は良い。

創り主なる神に感謝。

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2009年2月17日 (火)

脚痛い

出エジプト記28章、詩篇83-84篇、マルコの福音書13章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

万軍の【主】よ。
なんと幸いなことでしょう。
あなたに信頼するその人は。

(詩篇84篇12節)

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2009年2月16日 (月)

ものは考え様なのは知っているが、なかなかうまくいかない。

出エジプト記27章、詩篇81-82篇、マルコの福音書12章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

自殺未遂者の掲示板を拝読させて頂いた。
多くの人が生きることに意義を見出させず、責任を果たせていない罪責感にさいなまれ、自己の存在そのものに辟易している。
またその方たちをとどまらせようとする方もおられ、話し相手になったり、けなしたり、茶化したり、自殺によって発生する影響を再認識させたりと発言の多様さのそれぞれに意味を見出し敬服した。
私も死を望む一人である。自殺未遂者の心理分析は自分自身を重ね合わせたたものに他ならない。酒を止めた時から人生に価値を見いだせないことに直面し、元気になるにつれ何もできない罪責感にさいなまれ、生きることが苦痛以外の何物でもない。

毎朝、一日が始まることを考えると憂鬱になる。すべきことをなしていない怠惰なな自分、すべきことが何かを探し求めようともしない怠惰な自分との直面が始まる。そしてただ時間を消費するだけの一日を過ごす。
仕事に熱心であった時、酒におぼれていた時、聖書や教会に熱心であった時、これも時間の消費にすぎなかったと考えている。ただ何かに熱心になってこの憂鬱に目を向けようとしていなかっただけだろう。
自分は何をしたいのか。何を満たしたいのか。これがわからないのである。それ故に何のために苦痛を引きずり生きる必要があるのかと考えてしまう。

聖書を含め世の全ての宗教は、次の世の幸福に対する希望と精神の鍛練の配分の上に成り立っている。両者とも今の不幸を起点とし、前者は今の世では達成できないとするし、後者は苦痛を忘れさせる手法でしかなく大量の酒と大差がない。

書き込みしている人たちと私には人生のとらえ方に大きな違いがある。

  • 彼らは自分の意志で生きていると考えている。対して私は神の意志によって生かされていると考えている。
  • 彼らは生きる権利があると考えている。対して私は生きる義務があると考えている。

根底で共通するのは、生きることの苦痛を感じ続けていることと、死を選択する自由持っていると考えていることであるが、この違いの故に私は自殺しない。

これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。
(マルコの福音書12章11節)

解らない状態は死ぬまで続くのだろう。

なぜ先の違いが自殺に至らないのかというと、生かされているのであれば、生きることに責任がないと考えることができるからである。
私の脚は慢性的に痛む。しかしこの痛む脚は責任を果たせない理由になるので私の気持ちを楽にする。
私はもうすぐ入院する。入院は社会との断絶の理由になるので私の気持ちを楽にする。
同様に命を支配される方に自分の生き方をお任せすることは、用が無くなれば命をとられるのであろうし、生きている限りはあの方都合のご用があり、これは重大な使命に違いないと考えることができるのである。

しかるにあの書き込みをされた方々の苦痛は私のそれをはるかに超えるものだと察する。

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2009年2月14日 (土)

ひどく疲れてるが二日分読んでみる

出エジプト記24-26章、詩篇78-80篇、マルコの福音書10-11章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「【主】の仰せられたことはみな行い、聞き従います。」
(出エジプト記24章7節)

”無理です。従えません”と言ったらどうなったのだろうか。

しかしまた彼らは、その口で神を欺き、その舌で神に偽りを言った。
(詩篇78篇35節)

結果はこうだ。今の私もそうだ。

イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
(マルコの福音書10章27節)

好きな御言葉である。罪悪感と無力さだけが残るがそれで良いではないか。

だからのんびりと過ごすことができる。

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2009年2月13日 (金)

アサフの叫びが心に響く

出エジプト記23章、詩篇77篇、マルコの福音書9章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

律法は罪の意識を起こさせ、その目的は救いを求めさせることにある。

私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。
私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。

(詩篇77篇1節)

この魂の叫びが祈りだ。

律法を破らないように一生懸命努めることは重荷が増すだけでかいがない。

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2009年2月12日 (木)

姦淫と罪の時代

出エジプト記22章、詩篇75-76篇、マルコの福音書8章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

たくさんの奇跡をされた救い主イエスはなぜ次のようにいったのだろうか。

イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」
(マルコの福音書8章12節)

悟ることを求めておられる。

イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」
(マルコの福音書8章21節)

神様の存在や、神様の愛は十分に現されており、その中にあって悟らぬ者にはしるしなど意味がないと理解する。

しるしを売り物にする宗教は偽物だと判断して良い。

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2009年2月11日 (水)

もっと素直になれば

出エジプト記21章、詩篇74篇、マルコの福音書7章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

読者の方から励ましとなぐさめのお手紙をいただいた。集会にご無沙汰している私にはうれしい限りである。神様の恵みに感謝。
そのお手紙の中でコリント人への手紙第一1章18節-31節、テモテへの手紙第二3章15節-17節を勧められたので合わせて読んでみる。

私の中に二つの思いがある。

  • ひとつは”その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。”の通り、常識的に考えてこのままでは悪くなるだろう。
  • もうひとつは”神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる”だから心配ない。

この二つの思いが対立して苦悩を生み出す。

天に帰ればこの苦悩から解放されるのは知っている。では地に在ってどう生きるのかが課題となるのだが、明確な在り様は示されないので信仰に従順であるしかない。

あなたの信じたとおりになるように。”この御言葉にすがる。
私の願いは聖書に記されていないヨブの残りの人生を知ることである。

クリスチャンは言う”満足していますか?”。
私は人生に満足しているクリスチャンがどれだけいるのか疑問である。少なくとも私は満足していない。いつも今の自分の人格が変わることを望んでいる。つまり否定しかない。
これを向上心ととらえ充実感を得ることが”満足”だなどとは到底思えない。

私は自分が特殊だとは思わないことにしているので、視点の違いで満足と不満、充実と空虚が感情として現れるのだと考えている。特定の視点で眺める習慣を持てばよいのかもしれないがそれは単なるまやかしだと思う。やはり本質の変化を望む。
このことも聖書に記載されている。

私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
(コリント人への手紙第二5章2節)

私は罪赦された罪人である。この壁の前にひざまずく。

ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。
(出エジプト記21章13節)

私にとっては殺意があっても逃れる場所は救い主イエスの元である。

あなたの聖所に火を放ち、あなたの御名の住まいを、その地まで汚しました。
(詩篇74篇7節)

詩篇74篇は私の祈りそのものである。聖所である私自身を罪が汚す。
”いつ私をこの苦悩から解放してくれるのですか”
しかし、生きてる限りこの苦悩から解放されることはないことも知っている。

この支離滅裂な話は次の御言葉によって意味を持つのである。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
(コリント人への手紙第一1章27節)

結局のところどんな自分であろうと、神様が愛した対象として自分自身を認めていること、それだけが自由と平安の根拠なのだと思う。

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2009年2月10日 (火)

税務な一日

出エジプト記19-20章、詩篇73篇、マルコの福音書6章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。
しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。
あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。
天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。
地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。

(詩篇73篇21-25節)

日々このとおりである。

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2009年2月 9日 (月)

一日の終わり

出エジプト記17-18章、詩篇72篇、マルコの福音書5章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

夢を見た。
内容は思い出せないが嫌な思いだけが残った。理由のわからない罪責感が攻め立ててくる。
鬱だ。

そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
(マルコの福音書5章34節)

直す信仰がない。

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2009年2月 8日 (日)

今日は寒いな

出エジプト記16章、詩篇70-71篇、マルコの福音書4章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

なぜ聖書日課には休みがないのかと思う。

六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。
(出エジプト記16章26節)

なるほど6日目に2日分を読めば良いのか。

それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。
(マルコの福音書4章12節)

人の努力は何の役にも立たない。

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2009年2月 7日 (土)

高校生のころを回顧してみる

出エジプト記15章、詩篇69篇、マルコの福音書3章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

この世には数えきれない神々が存在する。私も願いをかなえてくれる何か、自分を罰する何か、善には善を悪には悪を報いる何かが存在すると思っていた。
だが今を楽しむことに精一杯になりだしたころに、そんなもに対する関心は薄れどうでもよくなった。生きてくというのは自分で切り開いて進んでいくのだと思うようになっていた。ただ畏怖の念はおぼろげながらに残った。
神社仏閣で拝む人は石や木や紙を拝んでいるのではない。それに権威を与える得体の知れないものを拝むのである。信じるか信じないかではなく、それに頼るか頼らないかが態度の分かれ目である。感謝やぼやきはそのあらわれである。

祖父の遺体を見た時それを人だとは思わなかった。それは木や石と同じ物だった。”死ぬ瞬間に何かかが変わる。電池が切れたように何かがなくなる。”と思った。その時は木や石と同じ物になることが自分の末路であると思っていた。無くなった何かが自分の本質だなんて思いもしなかった。

だから初めて聖書の話を聞いたころはまったくわからなかった。ただ本当に参った時に誰に祈ればいいのかだけがわかった。

【主】よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。
だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行うことができましょうか。

(出エジプト記15章11節)

まさにこれである。
このことがわかった時から今に至るまでで変わったのは祈る頻度が増えたこれだけである。ようするに苦難に自分で立ち向かうのをどんどん止めてることを表しているのだと思う。

それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。
(詩篇69篇9節)

この聖句はヨハネの福音書2章17節で引用されている。福音書では意味がわからなかったが、詩篇を読んでこれがキリストの、そしてそれに続くクリスチャンの苦悩だとわかった。

それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。
(マルコの福音書3章4節)

安息日に対する熱心さに対する救い主イエスの回答。本質は実に単純である。

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2009年2月 6日 (金)

信じた様を表現するのは難しいのだろうな

出エジプト記13-14章、詩篇68篇、マルコの福音書2章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

人が救いを信じるについて考える。

イスラエルは【主】がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は【主】を恐れ、【主】とそのしもべモーセを信じた。
(出エジプト記14章31節)

海が左右に別れてその間をモーセとイスラエルが渡った後の記述である。これまでに多くの神の技があったがイスラエルは人たちは救い出されるのを信じていなかった。

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。 セラ

(詩篇68篇19節)

ダビデはいつも自分の救いとして神様を捉えていたようである。

中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
(マルコの福音書2章9節)

『あなたの罪は赦された』がイエスを救い主と信じていない者の反感を買う。『起きて、寝床をたたんで歩け』を受けてみなの者が神をあがめる。
”病を癒せる=罪を赦せる”、”罪を赦される方が病を癒されるよりも重要”ということを知らしめさせるやりとりなのであろうと思う。
救い主イエスが病気が癒されると信じてやってきた中風の人とその人を連れてきた4人。救い主イエスがこの5人に見られた信仰とは何なのだろうか。

信仰の尺度を持ち出すのは好きではない。それぞれの人に背景があり多様であるのだと思う。
信仰は神様の愛と栄光を現実のものとしてこの世に現す。

神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。
しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。

(詩篇68篇6節)

頑迷(考え方に柔軟性がない)な者は神様に見捨てられるのではない。神様の元に行かないのだ。

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2009年2月 5日 (木)

自分に何が起こっているのかわからないけどそれで良い

出エジプト記11-12章、詩篇66-67篇、マルコの福音書1章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

出エジプトは罪の奴隷からの解放、神様の裁きからの免除の預言である。

なるほど神様の権威と力は示され、救われるべき民の立場は変わる。世は打ち負かされるであろうことを知る。

【主】はエジプトが民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた。
(出エジプト記11章3節)

子羊の血によって救われるものと、救われないものが区別される。そしてそのことは言い伝えられる。

あなたがたはこう答えなさい。『それは【主】への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて、礼拝した。
(出エジプト記12章27節)

罪からの救いは苦難を通り抜けることになる。その先に希望がある。

あなたは人々に、  私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。
しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。

(詩篇66篇12節)

過ぎ越しの預言が現実になって現される。

神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
(マルコの福音書1章1節)

自分の身に起こったこと、起こっていることを当てはめて振り返るのが良と思うが、その気力がない。今は待つしかできない。

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2009年2月 4日 (水)

何もしたくないのだが

出エジプト記10章、詩篇64-65篇、ローマ人への手紙15-16章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

よく解らなくて、何も得られなくて二度読んだ。

【主】はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行うためであり、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが【主】であることを、あなたがたが知るためである。」
(出エジプト記10章1-2節)

弱いものをかたくなにして徹底的に痛めつける。この繰り返し。

神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。
恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。

(詩篇64篇1節)

なぜ敵の存在や苦難そのものがなくなることを祈らないのだろうか。

こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。
(詩篇64篇9節)

地の果て果てに住む者もあなたの数々のしるしを恐れます。
あなたは、朝と夕べの起こる所を、高らかに歌うようにされます。

(詩篇65篇8節)

やはり神様の力の誇示の繰り返し。
根本の排斥がない。

しかし根本の排斥について突き詰めて考えると、自分自身の存在そのもの煩わしさに到達する。どうもこの壁を越えられない。

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
(ローマ人への手紙15章13節)

この一節を発掘するも、自分のバランス感覚の悪さを痛感する。

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2009年2月 3日 (火)

仕事が終わってからというもの

出エジプト記9章、詩篇62-63篇、ローマ人への手紙13-14章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

ここ数日、”何かを怠っている気がするのだが、それが何かわからない”こんな気分で目覚める。
この思いを神様に伝え、願いにもなっていない導きを求めることができるのは本当に良い。

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。
神は、われらの避け所である。 セラ

(詩篇62篇8節)

間違いなく目標に向かっている確信を持ち続けることができる。

今はのんびりと自分の状態を眺めていたいと思う。塗りつぶすようにこの思いを埋めてしまうのはいやだ。

手紙の解釈について神様からの悟りを得たい。
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ”(13章9節)を実践できている人なんているのだろうか。私の場合、自分を愛していないので前提すら満たさないと思っている。
8章の件を踏まえての差し当たりの注意事項なのであれば、今は人との関わりを絶つのがやはり良いのかと思える。

あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
(ローマ人への手紙14章22-23節)

短い時間ではあるが思いめぐらして疑いがないのでこれで良しとする。

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2009年2月 2日 (月)

他人との関係が希薄なので詩篇や手紙が入ってこない

出エジプト記7-8章、詩篇60-61篇、ローマ人への手紙12章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

生きるとは逆境の連続であるので、そこから目をそらすと人生の価値はなくなる。逆境はそれが逆境である意味を考えさせる。

わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真ん中から連れ出すとき、エジプトはわたしが【主】であることを知るようになる。
(出エジプト記7章5節)

逆境は真の神様を見出す機会となる。ここで二つに道が分かれる。

わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。
(出エジプト記8章23節)

救い主イエスを信じる者が真の神様の民であるから、”区別して、救いを置く。”はおもしろい表現である。こうすることで信じる力に全てがかかっていることがわかる。

宣教をしているのではなく日記を書いていることに気付いて書き直す。

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2009年2月 1日 (日)

ヤハウェ

出エジプト記5-6章、詩篇58-59篇、ローマ人への手紙10-11章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

先日書いたまさにハイヤーパワーでふれた『わたしはある』は時代を超えて、民族を超えて意味を持っているようである。

神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは【主】である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、【主】という名では、わたしを彼らに知らせなかった。
(出エジプト記6章2-3節)

これまた不思議な記述だと思いwikiでヤハウェについて調べてみた。
今も昔も、どこにでも神々がある。
祈願する、呪いをかける、祝福を求める、これは人の本性である。だが、いったいだれに願い求めているのかが曖昧なようである。一人であれば得体の知れない畏怖の念になるが、集団になるとその願いを叶える権威を明確にするために特定の必要が生じてくる。そして偶像が作られる。

『わたしはある』には被造物による定義付は不要とする権威が包含されている。

あなたは万軍の神、【主】。イスラエルの神。
(詩篇59篇5節)

ダビデはこう呼んでいる。【主】はヤハウェ。この【主】がモーセに『わたしはある』と名乗った。

私の信仰の対象は、、、”初めに天と地を創造された方”、”愛なる方”、”その愛とは何かを自由意思を持った人に教えるために救い主イエスの十字架を実現された方”。

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
(ローマ人への手紙11章36節)

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2009年1月31日 (土)

あわれみの器

出エジプト記3-4章、詩篇56-57篇、ローマ人への手紙9章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

普通のだと思うが、私は論旨を練って日記を付けていない。思いつくままに御言葉を引用し書き連ねている。
このブログに移って記事の数が1,000になった。よく続くもんである。

【主】は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、【主】ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
(出エジプト記4章11-12節)

日記を書くこともこの一環であれば幸いだと思う。

陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
(ローマ人への手紙9章21節)

つまらないことに用いる器であっても 自分の存在価値を見出せるのは幸いなことである。

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2009年1月30日 (金)

勝ったり負けたりするだろ

出エジプト記1-2章、詩篇53-55篇、ローマ人への手紙7-8章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

神様に覚えられた者は幸いだ。

助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。
(出エジプト記1章21節)

神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

(出エジプト記2章24-25節)

神様を恐れる者と、約束によって覚えられた者が幸いに至る。

詩篇53篇と14篇は同じであることに気づく。1節だけが違うのだがそのことに深い意味があるのか考えてみる。

見よ。彼らが恐れのないところで、いかに恐れたかを。
それは神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らされたからだ。
あなたは彼らをはずかしめた。
それは神が彼らを捨てられたからだ。

(詩篇53篇5節)

見よ。彼らが、いかに恐れたかを。
神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。
おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。
しかし、【主】が彼の避け所である。

(詩篇14篇5-6節)

この二つが同じことに対する言及なら、それはクリスチャンではないかと思う。

ローマ人への手紙は好きな箇所である。

それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

(ローマ人への手紙7章7-8節)

罪が主体を持って人を陥れていると書いている。憎むべきは罪である。

私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
(ローマ人への手紙7章15節)

陥れられた者の嘆きが書かれている。人は罪に打ち勝つことができない。

クリスチャンは肉と御霊の二つの思いを持っている。肉の思いは神様に反抗する。御霊の思いは神の律法の要求を全うしようとする。
どちらの思いに従うかについて責任を問われるかのように見受けられる状況を目にするがはたしてそれは妥当なののだろうか。

ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
(ローマ人への手紙8章12節)

”負ってはいけません”と書いているのではない。”負ってはいません”と書いている。この違いが現実の中で交錯しているように思う。
重要なのは肉の思いに従う奴隷の身分ではなくなったという事実だけなのではないだろうか。神様の御心がなされる限りにおいては肉の思いを無にすることができる。しかし自由意思の領域においては努力が必要になる。肉の思いに対して従わない自由を主張するのは困難な戦いである。
この戦う意思は神様に対する恐れの現れである。神様は見ておられる。でもその一つの戦いに勝つことが御心とは限らない。常勝し続けるような錯覚を起こすことがある。

負けるまで戦った人に対して”あなたは闘っていない”と評価するのはあきらかに軽率である。もっと言えば闘っていないクリスチャンなんていないのではと思う。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
(ローマ人への手紙8章33-34節)

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」を思う。

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2009年1月29日 (木)

私は目指さない

創世記48-50章、詩篇51-52篇、ローマ人への手紙5-6章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

創世記ヨセフの物語は救い主イエスの預言である。

あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。
(創世記50章20-21節)

またこれは身近なことにも当てはまると思う。私の目には悪いことでも、神はそれを、良いことのための計らいとなさる。
実に気楽なことだが、あれこれ思い悩んでも何が良いのかなんてわからない。私の視点には全てが悪く見えてくる。もう頑張るのはやめて身をゆだねていたい。

神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇51篇17節)

この御言葉は慰めになる。自分の持てる唯一のものを神様は受け入れてくださる。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
(ローマ人への手紙5章8節)

私が何かしたから愛されたのではない。

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2009年1月28日 (水)

善悪

創世記46-47章、詩篇50篇、ローマ人への手紙3-4章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

さばきの前に聖徒たちは集められる。

「わたしの聖徒たちをわたしのところに集めよ。いけにえにより、わたしの契約を結んだ者たちを。」
(詩篇50篇5節)

聖徒たちとはクリスチャンである。
いけにえとは救い主イエスであり、わたしの契約とは救い主イエスを信じることである。

しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

(ローマ人への手紙3章21-24節)

ところで「善を現すために、悪をしようではないか」(ローマ人への手紙3章8節)とはどういう状態なのだろうか。
善が定義されたので対して悪が生じ、神様に従えない性質すなわち罪によって悪にあるのだと考えている。この手紙も以降の章でこのことを解き明かしていると思っている。
私は悪から離れられないと考えることはこれに該当するのだろうか。単にユダヤ教徒がキリスト教徒に改宗して、律法による義への道を全うすることはできないと説くことを言っているのだろうか。

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2009年1月27日 (火)

難しいね

創世記44-45章、詩篇49篇、ローマ人への手紙1-2章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

今までの経験が聖書の解釈に反映される。意味の解らないことや、なぜこうなるのだろうと思うところが多くある。

彼らすべてにめいめい晴れ着を与えたが、ベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五枚とを与えた。
(創世記45章22節)

人が思い入れに従って恵を施すように、神様も多く恵みたいと思う対象には多く恵まれるということだろうか。これを第三者的な視点で依怙贔屓だと見るのは間違いで、ベニヤミン以外も十分に受けており神様の恵には必要をはるかに超える懐の深さがあると読み取るべきなのだろうか。それとも単純にヨセフの場合こうだったと読むのだろうか。
解釈の選択を許されているのかもしれない。

しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。
神が私を受け入れてくださるからだ。 セラ

(詩篇49篇15節)

ローマ人への手紙の書き出しは一見するとクリスチャンもその行いによってさばかれるので、行いを正す努力をしないさいと読みとれる。しかしこれは間違いのような気がしてならない。実際にこのことに関する解説がここから展開されていくと思っている。
先の詩篇で表された神様の愛を踏まえて、ローマ人への手紙の一部を見てみる。

ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。(2章1節)

まことにその通りです。私には他人をさばく時点でそのさばきの基準、すなわち律法を持っています。その基準に従って、私は誰とも変わらない罪人です。どの点をとってもすぐれたところなどありません。

私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。(2章2節)

まことにその通りです。

そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。(2章3節)

免れるはずはないでしょう。だからただ救い主イエスの贖いによってさばきを免れる特権を得たという意識が根強くあるのです。

それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。(2章4節)

いいえそんな風には考えていません。

以下この繰り返し。これで良いのだろうか。

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2009年1月26日 (月)

まさにハイヤーパワー

創世記42-43章、詩篇46-48篇、マタイの福音書28章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

約束の期日が近づいてるのに完了の目処が立たなかったり、手に負えない問題が起こると途方に暮れてテンパってしまう。
物心ついてからずっとこの苦悶にさいなまれ続けていた。薬と酒に溺れて信用や責任を失ってからのここ数年はこのことから解放されていたが、断酒から回復に合わせてこの怪物は蘇ってきては社会復帰を躊躇させる。

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
(詩篇46篇1節)

神様に助けを求め、大丈夫たと知らされる。時が来れば全て良い結果となることを信じて待つ力を養っているようである。

この方こそまさしく神。
世々限りなくわれらの神であられる。
神は私たちをとこしえに導かれる。

(詩篇48篇14節)

この信じて待つという基礎体力は永遠を生きるのに必要なのかもしれない。
神経質な私にとって何を信じているのかは非常に重要だ。やみくもに信じるなんてできない。
私は”神”という訳が嫌いだ。”創造主”の方が良いがこれも自分の信じている方の一面でしかない。

神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」
(出エジプト記3章14節)

まさにこんな感じがする。被造物と違い思考も言動も存在すらも一切の根拠を必要としない力強さを従えておられる方。

イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
(ヨハネの福音書8章58節:新共同訳)

救い主イエスもご自身について『わたしはある』と使われている。
そして十字架の死から復活された救い主イエスの約束はこうである。

いつも、あなたがたとともにいます。
(マタイの福音書28章20節)

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2009年1月25日 (日)

罪の負い目を隠そうと闇に向かってはいけない。明るみで神様が赦して下さったことをはっきりさせよう。

創世記41章、詩篇45篇、マタイの福音書27章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

ユダは自分の罪を悔いて自殺した。

そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言った。
それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。

(マタイの福音書27章3-5節)

ユダは天国に行かなかったと使徒の働きに明確に書いてある。

ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。
(使徒の働き1章25節)

注目すべきは自発的に行ったことである。報いを受けたのではない。

ユダが天国に行けないのは自殺したからではない。救い主イエスを売ったからではない。救い主イエスと共にいた時に不正を働いたからではない。
イエスを救い主として信じていなかったからだ。
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」を祭司長、長老たちにではなく、神様に言いイエスを救い主として受け入れる選択肢があった。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

(ヨハネの福音書3章18-20節)

悪いこと”に”真理”が対比されている。”正しいこと”ではない。
神様はご自身のあわれみ、すなわち救い主イエスによる贖いによって罪人を赦された。これが”真理”だ。

イエスはご自身を救い主だと信じるすべての者の全ての罪の贖いの代価としてご自分を捧げられた。

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
(マタイの福音書27章46節)

罪のない人”が身代わりとなって見捨てられた。

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2009年1月24日 (土)

詩篇が

創世記39-40章、詩篇41-44篇、マタイの福音書26章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

神様の御心によって人は繁栄する。人の思いや行いが繁栄をもたらすのではない。

主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで【主】の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。(創世記39章5節)

しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
(創世記39章21節)

彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。
ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。
あなたが彼らを愛されたからです。

(詩篇44篇3節)

本当は皆十分に足りている。だから繁栄はその人にとっては意味がない。
満たされないのは本当に必要なひとつのものを得ないからである。その本当に必要なひとつのものは救い主イエスの死によってもたらされる。

この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
(マタイの福音書26章12節)

自分の埋葬の用意に言及するなんて普通はありえない。ご自分の人生の目的をまっすぐに目指される救い主イエスだからこそであろう。
そしてこう仰る。

これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(マタイの福音書26章28節)

神様から罪を赦されることこれが本当に必要なひとつのものだ。私の罪を赦すために救い主イエスは十字架で血を流された。この方の人生はこの救いを実現することがすべてであった、私の人生はこの救いを受けることが全てであった。

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破戒

創世記38章、詩篇41篇、マタイの福音書25章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
(この日記は昨日書き始めたが、疲れて眠くなったので今日に持ち越している)

性について二つの事が書かれている。一つ目は自慰行為について、二つ目は遊女について。

しかしオナンは、その生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないために、兄嫁のところに入ると、地に流していた。
(創世記38章9節)

ユダは、彼女を見たとき、彼女が顔をおおっていたので遊女だと思い、道ばたの彼女のところに行き、「さあ、あなたのところに入ろう」と言った。彼はその女が自分の嫁だとは知らなかったからである。
(創世記38章15-16節)

オナンの問題は地に流したことではないような気がする。よくわからない背景があるように思う。ユダは遊女のもとに行ったがオナンのように殺されない。

そもそも人間に罪が入る前からある性欲に問題があるとは思えない。性欲を無くすことなんてできない。対して”生めよ。ふえよ。地を満たせ。”はいつのまにか制限がかかっている。
性欲と姦淫の境界が何なのか正直なところよくわからない。自慰行為は虚しさを伴い、セックスは子孫繁栄とは無関係になった時点で羞恥の対象である。このように本能を当初の在り方どおりに機能させることができないことに起因して性の世界は歪んでいる。

私も自慰行為の虚しさとハラスメントを避けて性欲を満たすために遊女のもとに行ったことがある。今も機会があれば行きたいと思っている。

あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
(コリント人への手紙第一6章15節)

あるときこの御言葉を発見して自分のしたことを悔いた。
私はキリストの権威を損なう行為としてこのことを悔いた。性欲を満たすことやハラスメントとしては悔いていない。だから改まるとは思えない。私は”本能が罪となる”この現実に辟易している。今遊女のもとに通わないのはただただ守られているから以外の何物でもない。

あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。
あなたは私の耳を開いてくださいました。
あなたは、 全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

(詩篇40篇6節)

その時の、また今の、私が捉えている神様のあわれみである。

数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。
それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。
【主】よ。どうかみこころによって私を救い出してください。
【主】よ。急いで、私を助けてください。

(詩篇40篇12-13節)

ずっと持っている私の気持ちである。

姦淫とハラスメントという事実を隠していた。これは”偽りの証言”だ。

だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
(マタイの福音書25章26節)

今回これを書くことを躊躇する私の背中を押してくれた御言葉である。

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2009年1月22日 (木)

元気がないのも生きてる証拠だな

創世記37章、詩篇39-40篇、マタイの福音書24章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

なぜか今日は調子が悪い。聖書読むも上の空である。

【主】よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。
私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。

(詩篇39篇4節)

生きることは辛くて苦しい。
目的や欲しているものが何なのかまったくわからないからだ。がむしゃらに何かに没頭しても、何か意味を見出そうとしても、そんなこは何の役にもたたない。
自分に影響力がないことはさみしいことだが、人に影響を及ぼすのは非常に恐ろしい。関係に対するこんな態度に煮え切らない自我の惨めさを痛感する。

自分が”はかない”ことを知るのは慰めになる。だがそれさえ叶わぬ願いである。
”生きるというのは権利ではなく義務です”とはよく言ったものである。

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2009年1月21日 (水)

矛盾なんて言葉遊びであって、何の足しにもならんだろ

創世記36章、詩篇38篇、マタイの福音書23章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

長い歴史を伝えていく中で温泉の発見が特筆されるとは驚きである。

ツィブオンの子は次のとおり。アヤ、アナ。このアナは父ツィブオンのろばを飼っていたとき荒野で温泉を発見したアナである。
(創世記46章4節)

温泉がいかに素晴らしいか。久しぶりにゆっくり浸かりたいものである。

詩篇38篇はキリストの苦しみの預言。

【主】よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。
あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。

(詩篇38篇1節)

・・・

私を見捨てないでください。【主】よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。
急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。

(詩篇38篇21-22節)

神であり、人としてお生まれになった救い主の苦しみ。これはわれわれの身代わりの苦しみである。
この身代わりのおかげで罪ある者が正しい者とみなされるようになった。

聖書を信じる者も、信じない者も聖書の伝えることを現実世界に投影する時に矛盾を見出し自分の行動指針に(かなり大きく)参考にするようである。

  • 聖書を信じないものは言う。”神が全能であるなら自分が持ち上げられない物体を創って見せよ。”
  • 聖書を信じる者も言う。”人にはできない。だがやらねばならない。”

前者は単なる言葉遊びだ。空想することはいくらでもできる。
論理的に存在しえない事象を発生させることなんてできない。全能とは論理のすべてを取り扱うことができることである。論理を完成させた方こそ全能者であり、論理的に破綻し得ないからこそ完成と言えるのである。

後者に関しては私も悩んでいる。

律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。

(マタイの福音書23章2-3節)

救い主イエスはこのように仰る。
そもそも神様がおられることを信じた私は、神様の義の前に自力では一点の義も全うできない、これはいけないと思い、救い主イエスを信じて仰いだのである。だからと言ってその場で人格が変わったわけではない。
だから”行い、守りなさい”だけが重くのしかかってくる。特に”互いに愛し合いなさい”は強烈な重荷である。

この悩みの前にクリスチャンの多様性が発生するようである。
だがこれは矛盾ではない。できるからこそ救い主イエスはあのように仰られたのである。そもそも聖書の伝えていることを正しく理解していないのに、なぜできない、できていないと決めつけるのかと思う。

もしかしたら全ての事はその機会がないだけであって既にできるのではないだろうか。

ペテロは次のように書いている。

あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。(第一ペテロの手紙1章7節 新共同訳)

パウロは次のように書きいている。

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
(ローマ人への手紙5章3-4節)

前述のキリストの苦しみによって既に獲得した本質に、我らの神の御前に負い目なく立てる人格を徐々に伴わせて下さっているのではないかと思う。
なぜ徐々になのかは分からない。人の成長とはそういうものだで片づけても良いが、一つ言えるのは、そのおかげで日々獲得する喜びがある。

皆変わっていく。心配なんていらない。

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2009年1月20日 (火)

正しい者とはどんな人

創世記34-35章、詩篇37篇、マタイの福音書22章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

私は自分の目には正しくない。私は自分を律することができない。
私は神様の目には正しい。救いを信じたから。選ばれたから。

聖書に従うことなんてできない。聖書は私を罪人にする。
聖書に自分の在り方を求める。聖書は私を憐みの対象としてくれる。

心の奥底から声が聞こえる。無意味で悪いと思っていることを魅力的に見せる。
誰かが呼んでいるようであり、自分自身の声のようである。
何が正しいのかはわからない。どうしたらいいのかもわからない。

そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。
(創世記35章3節)

ベテルは私の心の中にある。心の声が賛美する。

あなたの道を【主】にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
(詩篇37篇5節)

私は行き先を知らない。地図も持っていない。心の赴くままに道を選ぶ。
何かが成し遂げられるのを信じて。稚拙な解釈だが最初の第一歩を踏み出すことができる。

正しい者の救いは、【主】から来る。
苦難のときの彼らのとりでは主である。
【主】は彼らを助け、彼らを解き放たれる。
主は、悪者どもから彼らを解き放ち、
彼らを救われる。
彼らが主に身を避けるからだ。

(詩篇37篇39-40節)

正しくあろうとするのではなく、ただ神様が一方的に私は正しいと認めてくださったのだと信じる。
でないと聖書の記述に現実感がない。稚拙な解釈だが平安があるのは事実である。

彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
(マタイの福音書22章21節)

正しさの基準はその人の心にあるようだ。救い主イエスは私がどう思い、どういう態度を取るかを問われる。
そして”あなたの信仰が”、”あなたの信じたとおりに”と仰られる。

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2009年1月19日 (月)

二者択一だな

創世記32-33章、詩篇36篇、マタイの福音書21章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

創世記はヤコブがエサウを恐れる件で物語として読み流してしまった。和解に至る背景や”イスラエル”に改名があるが気に止まるところはなかった。
対して詩篇の冒頭2節は意味がよくわからず読み飛ばそうと思ったが、無性に気になり訴えて来ていることを知りたくなった。

罪は悪者の心の中に語りかける。
彼の目の前には、神に対する恐れがない。
(1節)
彼はおのれの目で自分にへつらっている。
おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。
(2節)
(詩篇36篇1-2節)

2節がわからない。
リビングバイブルでは次のように訳している。

罪は悪者どもの心に巣くい、いつも悪事へとけしかけます。
彼らには、神様を恐れて悪事から遠ざかろうとする気持ちなどありません。
それどころか、知らぬ存ぜぬで押し通せば、どんな不正行為も隠しおおせ、逮捕にまでは至らないと、自分に言い聞かせています。

これはわかりやすい。
口語訳は”おもねる”を使っている。”おもねる”は”へつらう”と類語のようで、”人の気に入るように振る舞う”と意味を当てれば3訳は同じになる。”自分の罪を憎み、自分が悪いことを罪の責任にすることで、悪事から遠ざかろうとせず、人の目を気にして振る舞う”と自分流に訳を組み立ててみる。
悪い自分を神様の前に持っていくか、人の前に持っていくかの違いによって取る態度は変わることを訴えているようである。
”罪を憎んで人を憎まず”は自分に対して使う言葉ではない。

救い主イエスはこのことを実例を持って対比している。

・・・(有名な兄弟のたとえを割愛)・・・イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。
というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。

(マタイの福音書21章28-32節)

バプテスマのヨハネを信じたの人たちは、神様の前に自分自身を恥じ、変わりたいけど自分の力では変われないから助けて欲しいと望んだでのである。

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2009年1月18日 (日)

ジレンマはなぜ発生するのか

創世記31章、詩篇35篇、マタイの福音書20章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

私に必要な物を与え養ってくださるのは神様である。そのことを知っているのに追い求めている自分がいる。

さてヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と言っているのを聞いた。
(創世記31章1節)

盗みや謀は富を得させるかもしれない。しかしそれは富を得るだけのことでしかない。名声も、権力も同じである。
これらは欲しいと願っているものではない。私は自分が何を欲しているのかを知らない。

私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。
彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる【主】は、大いなるかな」と。

(詩篇35篇27節)

これはダビデの祈りであるが、救い主イエスの取りなしの祈りの預言だ。私もこの取りなしに与りたい。
義を喜びとする者”でありたい。義に対して熱心であった時、胸の奥に熱いものを感じる。これが自分の本当に欲するものであり、喜び、楽しみなのかもしてない。

不自由なことを克服することを目指す熱意は充実感を与えてくれるが、所詮は時を埋める生き方でしかなく依存に溺れるのと同じである。対してなに不自由なく在るのは虚しさの極みでる。
どちらかでしかないことが憂鬱を引き起こす。

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
(マタイの福音書20章28節)

救い主イエスの生き方ははっきりとしている。
必要を満たす熱意などなく、願うだけである。時間を埋めるのではなく時間を使用している。目的に価値が伴っているので迷いがない。

こんな生き方を望み、同時に躊躇する。

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2009年1月17日 (土)

聖書は発掘するように読むもんだねー

創世記30章、詩篇34篇、マタイの福音書19章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

自分が欲望の赴くままに行動する以外に何もできないことを認め神様にすべてゆだねて暮らすのは本当に良い。自分自身が変わり分相応な生活に収まっている感じである。欠乏ばかりもたらす欲望からは解放されるに限る。これが自由というものなのだろう。

ヤコブと4人の女性の子作り合戦はどういう意図で聖書に記載されたのかは分からない。ただこの手の物語を批判するのはよくないのであろう。なぜなら今の自分と人としての本質は変わらず、言動としての表れが違うだけだからだ。

ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。」
ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。「私が神に代わることができようか。おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ。」

(創世記30章1-2節)

これとおなじことが起こった。生活資金の不足を心配する家内と必要なものは必要な時に満たされると思う私の温度差である。正直この温度差にいらだちを感じる。なぜ何も持っていない私に求めるのかと思う。

神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。
(創世記30章22節)

結果はこの通りである。うちの家計においても何の問題もなかった。いらだちを感じたぶんバカみたいである。

【主】を恐れよ。その聖徒たちよ。
彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
若い獅子も乏しくなって飢える。
しかし、【主】を尋ね求める者は、
良いものに何一つ欠けることはない。

(詩篇34篇9-10節)

私は富んではいないが貧しくもない。以前より格段良い生活をしているがたくわえなど無い。持っているのは心配しない信仰だけだ。

イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
(マタイの福音書19章21節)

いずれ天に帰る。今のところ天での生活を心配する必要があるとは思えない。既に天に宝を積む生活をしているような気がする。

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2009年1月16日 (金)

創世記と詩篇とマタイの福音書ばかり読んでいると思わない

創世記28-29章、詩篇33篇、マタイの福音書18章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

男女の愛を久しく感じた事がない。若かったころの思い出もハッキリしなのでヤコブとラケルの馴れ初めについてよくわからない。

ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。
(創世記29章20節)

7年が数日とは恐れ入る。こんな思いはしたことがあっただろうか。そもそもこの件は一目ぼれから始まる。インスピレーションがここまで衝動を駆り立て持続させるとは。それとも当時のこの民族の婚姻に関する風習は私のそれとは大きく違うのだろうか。

レアはみごもって、男の子を産み、その子をルベンと名づけた。それは彼女が、「【主】が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう」と言ったからである。
(創世記29章32節)

レアの一途な思いも切なるものである。ヤコブの態度は、当たり前ながら、かなり露骨である。ここまで思いつめる理由は何なのだろう。
一夫多妻、村が狭くて巡り合いがないからがこの物語の背景なら、さらっと読み飛ばして終わりである。何か意味があるのだろうけど必至だなとしか思えない。

彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は【主】をほめたたえよう」と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた。それから彼女は子を産まなくなった。
(創世記29章35節)

ユダの系図に救い主イエスが登場することと合わせると意味深いものがある。
やっと満足して神様への賛美に至っている。イエスの系図は救い主が登場するとは思えないほど負の要素が多いが、それぞれの負の要素と合わせて神様の祝福がある。

主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。
(詩篇33篇15節)

【主】よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。
私たちがあなたを待ち望んだときに。

(詩篇33篇22節)

神様は人それぞれに個性をお創りになり、負の要素の中でその個性が助けを求めるのをよしとされる。

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。
(マタイの福音書9章13節)

私の好きな救い主イエスの言葉である。”神様は我々をあわれみたい”と考えておられる。

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

(マタイの福音書18章19-20節)

食事の時に家族とお祈りをする。そこに救い主がおられて、神様はそこでの願いをなんでも聞いて下さる。

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2009年1月15日 (木)

細君との関係に悩みたくないと思わないかい

創世記27章、詩篇32篇、マタイの福音書17章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

妻が夫の邪魔をする。

リベカはその子ヤコブにこう言った。「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。
『獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、【主】の前でおまえを祝福したいのだ。』
それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。
さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。
あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」

(創世記27章6-10節)

あまり存在感のないイサクだけに物語として感じることがある。この一連の件の大きな意味はヤコブの系図が選ばれていたことである。
とはいえ妻と息子が結託して意思を邪魔したイサクはたまらないだろうなと思う。まんまとイサクは騙される。私には赦せないことである。

母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」
(創世記27章13節)

リベカはのろいを受ける覚悟ではあったがイサクにとってはそんなことどうでもいいだろう。

同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。
(ペテロの第一の手紙3章7節)

この聖句に通じると思う。”細君に悩まされるのは男子一生の恥”と何かで聞いたことがあるが、細君との阿吽の呼吸は喜ばしいことである。これはキリストと教会の関係にも当てはまると思う。クリスチャンである我々は救い主イエスの花嫁にふさわしく変えられていくものだろうと思う。

もちろん救い主イエスは”自分よりも弱い器”として我々を守られる。

幸いなことよ。
そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。
【主】が、咎をお認めにならない人、
その霊に欺きのない人は。

(詩篇32篇1-2節)

私は、自分の罪を、あなたに知らせ、
私の咎を隠しませんでした。
私は申しました。
「私のそむきの罪を【主】に告白しよう。」
すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。
セラ

(詩篇32篇5節)

悪者には心の痛みが多い。
しかし、【主】に信頼する者には、
恵みが、その人を取り囲む。
正しい者たち。【主】にあって、喜び、楽しめ。
すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

(詩篇32篇10-11節)

救い主イエスは神様に取り成してくださり、幸いな立場を守って下さる。

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2009年1月14日 (水)

本当に人生は年輪を刻むのか

創世記25-26章、詩篇31篇、マタイの福音書16章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

短絡的に重要な物事を破棄することがある。

エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言った。
(創世記25章32節)

欲望は待ってくれない。欲望は容赦しない。果てしない欲望はあらゆるものを放棄させる。
私は全ての物を放棄して酒代にした。時間、生きる楽しみ、愛、自分自身、それらを切り売りして酒代を得た。酒を止めた今もあの時に失ったものは心の欠けのままである。なので聖書を読んでいても、人と話をしていても、ドラマを見ていてもわからないことがたくさんある。失うことを悲しむ描写にはまったく共感を持てない。喜びを得るために行為を継続するなんて理解できない。

私はただ空白を埋めるために何かを追い求めるだけで、いつもうまくいかないし達成の喜びもない。

窮地に陥った時、神様は私を助けてくださる。

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。
あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。
あなたは私を敵の手に渡さず、私の足を広い所に立たせてくださいました。

(詩篇31編7-8節)

これも束の間の思いとなって消えていく。

まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。

(マタイの福音書16章9-10節)

結局のところ何も残っていない。

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2009年1月13日 (火)

よりどころは聖書じゃないのか

創世記24章、詩篇29-30篇、マタイの福音書15章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

クリスチャンの集いには”学び”と言うのがある。”学び会”などとも言う。
大体の場合は”学ばしていただきます”とか”ともに学びたいと思います”から始まるのだが、どうもこれに違和感を感じる。教えたいのか経験を共有したいのかがよくわからない。
運営は人数が多いせいもあるが質問もできないし感想を述べることもない。経験の共有であればこれで良いとお思う。聞き手の意思に任されているし、”言いぱなし、聞きっぱなし”は、依存症の自助グループの経験上、大変有益であると思っている。だが教えたいのであれば、質問をしたり、フリーディスカッションの場がないと、理解できていないこともあるので本当に困る。

「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。

(マタイの福音書15章2-3節)

私が嫌なのがこれだ態度や行いを強要するように導くことである。初信者のための拠り所という解釈もあるが、ここに戒律や行動指針を持ってくるとそれは長老、教師。ガイドライン等を偶像として仰いでいるのと同じである。
クリスチャンは必ず”こんな私でいいのでしょうか”という思いに苛まれる。これは解放された自己が発する正しい感覚である。

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

(マタイの福音書5章13-16節)

クリスチャンは世の模範である。しかしこれは努力してなるものではない。そもそも自分の生き方がおかしい、自分では正せないから救い主イエスを信じたのである。

救い主イエスを信じた時点で人は変わっていく。聖霊を受けているのだから。

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2009年1月12日 (月)

試練は何のためにあるのだろうか

創世記22-23章、詩篇26-28篇、マタイの福音書14章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

アブラハムのイサクを捧げる信仰の件から読み始めたので、一貫して試練について考えることになった。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
(創世記22章2節)

強烈な試みである。こらはアブラハムに対する試練なのだろうか。だとすると何のためにアブラハムはこの試練にあったのだろうか。
神様は全てご存知である。神様はアブラハムの信仰を見て義と認められた。しかし神様にとって時間軸は関係ない。

試練は何を選択するのかを試されている。そしてそれは困難な状況を乗り越える力を養うためにある。
なぜ人は試練を通して人格を練り上げる必要があるのだろうか。来たるべき新天地に必要なのだろうか。それとも残りの人生において神様のご計画を果たすために必要なのであろうか。

アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。]
(創世記22章8節)

これは救い主イエスの預言である。
アブラハムは何も心配する必要がないことを知っている。アブラハムはイサクを捧げようとし、その信仰を認められる。なんとこれでアブラハムの話は終わる。
つまりこの最後の試みはアブラハムの練り上げられた人格を後世に残すためのものである。

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。
あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

(ヤコブの手紙2章21-23節)

アブラハムは既に試練によって人格が練り上げられており、救い主イエスの預言を現すための働きをこなすことができたのである。
来たるべき新天地に必要な人格についてはわからない。
人生は神様のご計画を実現するためにあり、それに必要な人格を練り上げるために試練があると言える。

それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。
(詩篇27篇5節)

ダビデの信仰である。ダビデが追い込まれて切なる願いでこの信仰にすがったのか、この信仰があったから何をも恐れなかったのかは分からない。ただ神様により頼めば平安をもって苦難を乗り切れるという信仰を現し、アブラハムと同様にその人格を後世に残している。

やはり人生の一つ一つの出来事はその人にとっては苦難の連続でしかない。しかしそれは信仰すなわち神様への思いを周りの人や後世に表すための人格を形成する。
神様のご計画に人生の意味や方向性が一致しないと辛くて苦しいだけと言うのもうなずける。

ペテロの人格も私を励ましてくれる。

ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」

(マタイの福音書14章30-31節)

私の人生もこの通り。信じて踏み出してはすぐに怯える。
救い主イエスは”信仰の薄い”と言われた”信仰がない”とは言われていない。日々の苦難の中で厚みが増すのだ。

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
(マタイの福音書13章31-32節)

神様のご計画を果たしたとき歴史から消える。この苦難の連続の道のりの先には出口があり、そこに明かりが見える。これこそ希望である。

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2009年1月11日 (日)

ヒューマンインターフェースはきちんと作るべきだ

創世記20-21章、詩篇23-25篇、マタイの福音書13章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

おもしろかった。

書いてる途中に下書き保存しようとしたら、ログインパネルが出て記事が消えたので記録はなし。
チョームカついてマウスに八つ当たりしたら、マウスが吹っ飛んだ。

ちょっとしたことで最低な気分になるし、ちょっとしたことで喜びを得る。やっぱり喜怒哀楽は煩わしい。
書こうとしたこともこんなことである。信仰の人もちょっとしたことで萎える。神様はいつも見守り励ましていてくれるようであるが、こちらが気づくのは困ったときだけである。”困った時の神頼み”は人の性だ。

ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイの福音書13章23節)

実を結ぶとは成長することだ。成長の過程では苦しみと、背信が入り乱れているものだ。

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2009年1月10日 (土)

身代わりという愛

創世記19章、詩篇21-22篇、マタイの福音書12章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

神様は悪を見逃すようなことはされない。神様は聖であり義である方だからだ。一点の悪のシミを見逃すことをできない方である。
また神様は愛である。罪に支配された悪である人を愛しておられる。永遠に人と共にすごしたいと望んでおられる。
ここにジレンマがある。このジレンマを解決するために救い主イエスの十字架を代価とする私の罪からの贖いを実現されたのだ。
神様はご自身の愛からご自身を犠牲にされたのだ。しかも聖と義の尊厳を保たれたままで。ご自身を贖いの代価として私の罪を認めないとされたのである。

そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。
(創世記19章1節)

神様の聖と義の本質は権威を伴っており。誰が一目見てもあの方だとわかるようである。神様を求める目を開くだけで見ることができる。

ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。
わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが【主】の前で大きくなったので、【主】はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」

(創世記19章12-13節)

神様は悪を滅ぼされる。そして救おうとされる者とその者が愛する者が共に滅びることを望まれない。人の不完全な愛も尊重されるのである。愛する者を失うことの悲しみを知っておられるからである。

しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。──【主】の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
(創世記19章16節)

人は滅びるとわかっていてもその場を立ち去ろうとしない。しかし神様はあわれみにより連れ出される。

ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」
その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。
急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこに入るまでは、わたしは何もできないから。」

(創世記19章20-22節)

連れ出されても指示された逃げ場に行くこともできない。神様の求めておられる聖と義には到達できない。しかし神様は私のできるだけのことで滅びから救ってくださる。

この通り神様は徹底して罪の支配にいる私を救ってくださる。
なぜか。救い主イエスがすでに私の身代わりとなって滅びにあわれたからだ。
だから神様の目には私は愛の対象であるだけでなく、聖であり、義であるように映るのである。

救い主の滅びの苦しみに身を置かれた時の叫びが詩篇に書かれている。

わが神、わが神。
どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠く離れて私をお救いにならないのですか。
私のうめきのことばにも。

(詩篇22編1節)

これは預言である。救い主イエスは十字架上でこの言葉を発せられる。(マタイの福音書27章48節、マルこの福音書15章34節)

救い主イエスは滅びの束縛から解放されて復活される。全ての罪の贖いの代価を支払われたのである。それ故に私も滅びと復活を遂げたことになるのである。

滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
(ローマ人への手紙8章21節)

救い主イエスは神様の人としての現れである。神様は救い主イエスを次のように紹介されている。

「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。
わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。
異邦人は彼の名に望みをかける。」

(マタイの福音書12章18-21節)

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2009年1月 9日 (金)

十人のため

創世記17-18章、詩篇19-20篇、マタイの福音書11章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

アブラハムと神様(ここでは【主】、たぶん救い主イエス)のやり取りは圧巻である。神様がアブラハムの言葉に耳を傾けられる。アブラハムは謙虚さを持って、かつ大胆に神様に嘆願する。そして聞き入れられる。アブラハムは信じている神様が自分の願いを聞いて下さることを。

彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
(創世記18章32節)

神様の正義である。神様は滅ぼすことは望まれない。神様は願われ、憐れむことを望まれる。”五十人の正しい者のために”から”十人のため”まで願われるままに赦す条件を引き下げられたのは、赦しを願い求める姿勢を受け入れられるからである。
”こんな私でも赦して下さい”と願えばいいのだ。

わたしは罪人だ。聖書にこう書いてある。

義人はいない。ひとりもいない。
(ローマ人の手紙3章10節)

これは確認することではない。

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。
どうか、隠れている私の罪をお赦しください。
あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。
それらが私を支配しませんように。
そうすれば、私は全き者となり、
大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。

(詩篇19篇12-13節)

認めることが重要なのだ。なぜなら自分のことについてただしく知らないのだから。
神様に自分の罪を赦してもらい。罪が引き起こすうんざりする状態から救い出していただけるように願えばよい。

そのために神様にとりなしをしてて下さる救い主を探し求めなければいけない。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
(マタイの福音書11章3節)

必ず見つかる。

彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。
(創世記18章2節)

救い主がどなたなのかは必ずわかる。

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2009年1月 8日 (木)

ただ信じただけである

創世記15-16章、詩篇18篇、マタイの福音書10章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

昨晩は色々な事で頭の中がいっぱいになってしまって眠れなった。だから今日はひどく疲れている。気力があまりない。
こんな時に聖書が手短に活力を与えてくれる。
そうだ、これしかない。これだけが私の心の支えだ。これさえあればそれでいい。

彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
(創世記15章6節)

私は神様を救い主イエスを信じている。

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙8章28節)

こんな風に信じている。

私は罪の前に弱い。依存症のおかで何かしらで心を満たしていないと耐えられない。
私は取り巻くさまざまな脅威に弱い。何が起こるかなんてわからないのに心配ばかりしている。
私は弱い。クリスチャンらしくなんて全然ない。でもそれで良い。そんな私をよく知っておられ助け出してくださる方を信じているのだから。

主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。
彼らは私より強かったから。

(詩篇18篇17節)

私は義であるための葛藤と戦わない。私は勝てないのだから。
信仰のあかしのために義人であろうと努めたりはしない。神様が義と認めてくださったのだから。

胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。
旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。

(マタイの福音書10章9-10節)

私はもう心配したくない。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイの福音書10章38節)

これが私の十字架なのだろうと思う。

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2009年1月 7日 (水)

もう何もいらない

創世記13-14章、詩篇17篇、マタイの福音書9章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

私は以前のように働いていない。でも生活水準は変わっていない。会社を辞めようと決断したときに与えられた信仰がずっと生きている。

糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。
(創世記14章23節)

私は神様以外には頼らない。「神様この信仰を最後まで守ってください。」

私はある行為を習慣的に行っている。自然な様なのか依存の新たな現れなのかの区別もつかなくなっている。嫌悪を感じるのだがそれは人の目が気になるからである。神様の目にはこれも愛されている自分自身なのだと感じる。ただ自由にそれを避けることができないのが悲しい。

私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。
私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。

(詩篇17篇8-9節)

自由でありたい。ただただ助けてほしい。

これは罪なのだ。私自身がこれは罪だと思っているので罪なのだ。

しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
(ローマ人への手紙14章23節)

なのに決着をつける熱意もない。この繰り返しに疲れてしまっている。

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

(マタイの福音書9章12-13節)

救い主イエスに招かれたこと。これだけでいい。

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2009年1月 6日 (火)

Tower of Babel

創世記11-12章、詩篇14-16篇、マタイの福音書8章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

バベルの話が登場する。聖書を信じる者には多種の言語が存在する起点だとされている。

そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
そのとき【主】は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

(創世記11章4-7節)

神様は塔の建設に何を見られたのだろうか。映画「天地創造」では天に弓を放つことが神様の怒りをまねいたかのように脚色されていた(と思う)。たしかに”名をあげよう”とある。その理由が”われわれが全地に散らされるといけないから。”である。
「プロジェクトを立ち上げた時に最初にすることは、シンボルマークを作ること」と習ったことがあるが、その通りのことが当時行われていたようである。「テーマを設けてコミュニティを作りましょう」もその類か。共同体を持とうとすることが悪いこととは思えない。地域集会もコミュニティである。

神様は今後二度と”一つの民、一つのことば”となることを許されなかった。人の作る共同体の持つ可能性に制限をかけられた。
なぜ神様は”一つの民、一つのことば”となることを許されなかったのだろうか。偶像も王もこの後に登場するので、容易に想像することができない踏み入れてはいけない未知の驚異があるのだと思う。神様は人を単独ではなく共同体として大きな力を実現するものとして創られたことをこのバベルの話は示唆している。

インターネットは世界を小さくした。聖書を読んで感じたことを不特定の人に発信できるし、カナダの息子や韓国のクリスチャンとテレビ電話で話したりできる。通販で買い物をしてと体の不自由も補ってくれる。素晴らしいメディアである。もしかしたら、、、、
しかし”一つの民、一つのことば”を超えることは許されていない。決してバベルは形成されない。となると現実世界から仮想世界に抱く幻想の限界が形成するのは、大切な物を失ってしまったことに起因する孤立である。

さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると
(マタイの福音書8章18節)

私もまたイエスの周りに集う群衆の一人で在りたい。
神様の霊のメディアの上で信仰を共通言語にした神様を見上げる共同体である。決して崩壊しない。

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2009年1月 5日 (月)

人の負い目を追及してもいいことはない

創世記9-10章、詩篇11-14篇、マタイの福音書7章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

ソフトウエアトラブルの記事を書いたり、通販クレームをしている奴に言われたくないだろうなと思う。
私は与えられた物の不満を爆発させるといつも後悔する。いずれ自分のした失敗も追及されるのだろうと不安になる。

さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

(マタイの福音書1-2節)

この不安は大切に取扱はないといけない。

引用箇所の索引がついた聖書を読んでないので、今日は大発見をした気分である。

それは、次のように書いてあるとおりです。
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」

(ローマ人への手紙3章9-11節)

この箇所はどこの引用なのか知りたかった。PC検索では言葉が完全一致しないと見つからない。何度も通読しないと発見できないことになるが、それもまた楽しい。

【主】は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。
善を行う者はいない。ひとりもいない。

(詩篇14篇2-3節)

今日読んだこの箇所を引用している。

ここで言い切られている内容は社会的にそうとう反感を買うだろうと思う。”皆自分なりに努力しているんだから良いじゃないか”という感じである。
でも慰めが欲しいのではない。もう少し欲を出してここで指摘されたことを解決したいのだ。

私は意味を持った存在でありたい。善をおこなう者でありたい。
そのために聖書から悟りを得て、神様を尋ね求めたい。

指摘に解決策がなかったら無意味ではないか。

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2009年1月 4日 (日)

オリーブの若葉そして空の鳥、野の草

創世記7-9章、詩篇9-10篇、マタイの福音書6章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

やはり私が救い主イエスを信じて救われれば、それに伴って家族も救いに迎えられる。

【主】はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。
(創世記7章1節)

これはパウロが言った次の言葉と同じである。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます
(使徒の働き16章31節)

”ノアは救い主イエスの預言として解釈するべきであり、家族への救に対して努力は行うべきである”という見方もあるとは思う。でもそれは個人が聖書をどう解釈して何を信じたかにかかっているはずである。

するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
(マタイの福音書19章26節)

私は家族が救われることに何の疑いも持っていない。
その範囲を妻と子供たちとその子供たちの妻、つまり子孫になると思っている。この範囲の限定が何に基づくのかは分からない。たぶん私の愛の広さに基づくのだと思う。これは自分の努力ではどうにもならない。愛する者を失う悲しみ、これを神様の思いの継承として持てば救いは広がっていくのだと思う。
ただ自分の愛が豊かになることを信じている。それに伴い範囲はいずれ広がり両親や兄弟、親戚、友人と救いが広がっていくのだと思う。

鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。
(創世記8章11節)

感動の瞬間である。

新天地に辿り着く希望と、この世での心配がなくなることが救われた者の特権である。

私は心を尽くして【主】に感謝します。
あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。

(詩篇9-10篇1節)

奇しいわざ、まさにこれの連続である。産まれてからこのかたの道のりが全て意味を持っているように感じる。人生での出来事はすべて偶然ではない。

御名を知る者はあなたに拠り頼みます。
【主】よ。あなたはあなたを尋ね求める者を
お見捨てになりませんでした。

(詩篇9-篇10節)

この賛美を信じて、救い主イエスの言葉を信じて、決断しよう。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
(マタイの福音書6章19節)

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
(マタイの福音書6章25節)

妻と話そう。

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2009年1月 3日 (土)

救済

創世記5-6章、詩篇6-8篇、マタイの福音書5章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

クリスチャンの望み。それは天に帰ることである。人は地の塵から創られたが救い主イエスの死と復活にならい、死と再度の誕生をもって天に帰る者となった。

エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
(創世記5章24節)

クリスチャンはみなこの救いを待っている。この世で幸せに生き続けることを第一とはしていない。天に帰りたいのだ。

人は悪い。でも人には神様の霊がとどまっている。これはすごいことである。神様と人は繋がっているのだ。

そこで、【主】は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。
(創世記6章3節)

ノアの時代、人は本当に悪かった。今と比べてなんてわからないが神様が滅ぼそうとされるぐらい悪かった。残念なことにノアの家族以外の人は大洪水によって滅びる。

そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
(創世記6章7節)

神様は根絶やしにされない。神様は人が悪かったことで悔やまれたが無に帰するようなことはされなかった。

さてノアの家族から始まって人は増え続けたがやはり人はやはり悪い。

あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。

(詩篇6-8篇3-4節)

神様はあくまでも人を特別なものとして扱われる。

そして救い主イエスが来られた。救い主イエスは人の悪の負債を肩代わりされた。十字架の上で神様から見捨てられたのだ。

救い主イエスを十字架につけたのは私の罪のせいだ。

まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。
(マタイの福音書5章26節)

救い主イエスがよみがえられたのは全ての負債を返済されたからである。だから救い主イエスを信じる者に神様は全く罪を認められない。

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2009年1月 2日 (金)

なぜ生きるのかなんてことはわからない。

創世記3-4章、詩篇3-5篇、マタイの福音書3-4章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

私はいつも悩みの中に居る。私を苦しめるのは乏しい経験に基づく知識と不完全な知性だ。

神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
(創世記3章22節)

永遠を約束されているのに私の本質は永遠を生きるには望ましくない。ただこの世を去る時に変えられることを信じて天に変えるのを待っている。

今生きている。今のままで一瞬たりとも存在していたくないのに生きている。 本来あるべき姿から遠く離れてしまった自分自身を救済する必要がある。初めはいちじくの葉で身を覆った、そして神様から皮の衣を着せていただいた。

そのとき、人々は【主】の御名によって祈ることを始めた。
(創世記4章26節)

神様に祈るのは神様を遠く感じるからだ。自分の選択がいつも恐れを伴うから神様が見守って下さっていることを、神様が招いておられることを身近に感じていたいからだ。

私は身を横たえて、眠る。
私はまた目をさます。
【主】がささえてくださるから。
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。

(詩篇3篇5-6節)

あなたは私の心に喜びを下さいました。
それは穀物と新しいぶどう酒が
豊かにあるときにもまさっています。
平安のうちに私は身を横たえ、
すぐ、眠りにつきます。
【主】よ。あなただけが、
私を安らかに住まわせてくださいます。

(詩篇4篇7-8節)

詩篇の作者は皆同じく神様を身近に感じていたいことを切望しているように思える。
まるで隣にいる方に聞いていただくように祈る。祈ることによって関係を想像する。妄想だと言われるかもしれない。でも事実平安が祈りにはある。また祈り以外に生きる苦痛から抜け出す方法を知らない。

【主】よ。私を待ち伏せている者がおりますから、
あなたの義によって私を導いてください。
私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。
彼らの口には真実がなく、
その心には破滅があるのです。
彼らののどは、開いた墓で、
彼らはその舌でへつらいを言うのです。

(詩篇5篇8-9節)

今決断の時が来ている。私にはどの道が正しいのか考えても分からない。余計な知識や推測が私の心をおびえさせる。口に真実のない者が上手に私をだます。この口に真実のない者は私自身なのを知っている。

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
(マタイの福音書4章4節)

イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
(マタイの福音書4章7節)

神様が必要なものを備えてくださると、神様は必要なものを備えてくださるか試してみよう、が相反して私の中に共存していて困ってしまう。

衝動がある。この衝動が心の奥底の神様が宿っておらるところから聞こえてくるのだと信じている。なぜなら”私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。”と祈ったのだから。
この衝動にしたがっていれば相反すると考えていた思いは両立する。

私は思う。知識と善悪を得たことによって不幸な本質を持った我々は生きていく中で試され衝動に忠実な人格に変えられていくのではないかと。そして神様が最初に良しとされた人となりに近づいて行くのではないかと。これが皮の衣を着せられて生きることの醍醐味なのではないかと。

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2009年1月 1日 (木)

聖書日課がリセットされている件

ヨブ記42章、マラキ書4章、ヨハネの黙示録22章、創世記1-2章、詩篇1-2篇、マタイの福音書1-2章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

iPhoneの聖書日課がリセットされていると思ったが改善されていた。おかげで今日は大量に読むことになった。ヨハネの黙示録22章が飛んでいたようだが・・・・。

ヨブは【主】に答えて言った。
あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。

(ヨブ記42章)

神様のご計画は必ず成し遂げられる。人が邪魔をすることはありえない。すべてのことには意味がある。これを踏まえて聖書を読むのが良い。

しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。
(マラキ書4章2節)

神様を恐れることこれが人の道である。何も恐れることはない。

不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
(ヨハネの黙示録22章11節)

神様は人の自由意思を尊重される。神様は不正な者の意思も尊重される。そして不正な者がその追い求めることを永遠に続けるところ、そこが地獄である。人は自分から望んで地獄に行くのだ。地獄が辛いのは今生きることが辛いのと同じである。満たされない思いを永遠に抱き存在し続けるのだから。

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

(創世記1章26-28節)

創世、神様は失敗することができない方である。私たちの本質は目的を持っている。この目的から離れて自己の確立はできない。

神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。

(創世記2章15-16節)

労働と日毎の糧を得ることに因果関係はない。人は神様に養われながら労働の尊さに喜びを得るものなのである。

幸いなことよ。
すべて主に身を避ける人は。

(詩篇2篇12節)

信じて神様のもとに帰り留まろう。

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
(マタイの福音書1章23節)

神様は救い主イエスとなられて私たちを迎えておられる。神様はいつも私たちとともにおられる。私たちがそのことを受け入れればよいのである。
かたくなになってしまった心。この心を迎えておられる。

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2008年12月31日 (水)

天の下

ヨブ記41章、マラキ書3章、ヨハネの黙示録20-21章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

だれがわたしにささげたのか、
わたしが報いなければならないほどに。
天の下にあるものはみな、わたしのものだ。

(ヨブ記41章11節)

しかりその通りです。私はなすべきことをしているだけです。しかもあなたが導かれ、その道を祝福されました。ただあなたが私を愛されたのです。

そのとき、
【主】を恐れる者たちが、互いに語り合った。
【主】は耳を傾けて、これを聞かれた。
【主】を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、
主の前で、記憶の書がしるされた。
「彼らは、わたしのものとなる。
──万軍の【主】は仰せられる──
わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。
人が自分に仕える子をあわれむように、
わたしは彼らをあわれむ。
あなたがたは再び、正しい人と悪者、
神に仕える者と仕えない者との違いを
見るようになる。

(マラキ書3章16-18節)

人とはいったい何者なのでしょうか。あなたの宝になるとは。

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

(ヨハネの黙示録21章3-4節)

これはこれからくるものなのでしょうか。もうすでにあなたは私とともにおられます。
悲しむ時になぐさめがあり。叫ぶとき励ましがあり、苦しみの時それに打ち勝つ望みがあります。

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2008年12月30日 (火)

婚礼とウエディングドレスを纏った美しい花嫁

ヨブ記40章、マラキ書2章、ヨハネの黙示録18-19章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

私は神様から離れて好き放題に生活していた時、悪いことが起こるといつも神様を呪った。「なぜ私を苦しめるのか。私にかかわらないでくれ」と。

神様はお答えになる。

あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。
自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。

(ヨブ記40章8節)

神様は御心をなされる。悪いのは私だ。私の無知と思慮の無さが、自分を正しいと人に見せたいと思う浅はかさが、正義と真実を曲げる。いつもそうだ。

私の姪が近々結婚する。
結婚の誓いの言葉に「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、 これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか。」というのがある。この言葉は聖書にはない。この誓いの言葉の由来は知らないが尊重すべきことをよく表していると思う。

救い主イエスは結婚について次のように教えておられる。

創造者は、初めから人を男と女に造って、 『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。
(マタイの福音書19章5節)

結婚は救い主イエスと教会すなわち十字架の救いを信じた者たちの関係を表している。

ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。

(黙示録19章6-8節)

これがその婚礼の預言である。

私はこの婚礼の尊厳さ重んじていない。私の結婚への態度は救い主イエスの教会に対する愛とは程遠い。だから新しい夫婦に対する祝福の言葉は実に希薄であった。残念でならない。

花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された
クリスチャンが清いのではない聖徒たちの正しい行いの証を身にまとうのである。このウエディングドレスは主イエスの十字架の救いに他ならない。

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2008年12月29日 (月)

駝鳥

ヨブ記39章、ゼカリヤ書14章、マラキ書1章、ヨハネの黙示録16-17章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

人は確かに創造物の頂点にいる。しかしそこには摂理もある。

野牛は喜んであなたに仕え、
あなたの飼葉おけのそばで夜を過ごすだろうか。
あなたはあぜみぞで野牛に手綱をかけることができるか。
それが、あなたに従って谷間を耕すだろうか。
その力が強いからといって、
あなたはそれに拠り頼むだろうか。
また、あなたの働きをこれに任せるだろうか。
あなたはそれがあなたの穀物を持ち帰り、
あなたの打ち場で、これを集めるとでも信じているのか。

(ヨブ記39章9-12節)

すべて神様のお考えに従っている。これは神様が被造物の自由を奪ったのではない。

だちょうは自分の子を自分のものでないかのように荒く扱い、
その産みの苦しみがむだになることも気にしない。
神がこれに知恵を忘れさせ、
悟りをこれに授けなかったからだ。

(ヨブ記39章16-17節)

人も自分の分をわきまえなければならない。これは限界を嘆くことではない。人が最も幸せでいることができる術である。人は多くのことを知りたがるが、多く知ると辛いことも多くなる。

「わたしはあなたがたを愛している」と【主】は仰せられる。
あなたがたは言う。
「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。

マラキ書1章2節

救い主イエスが私たちの罪の贖いの代価として自らの命を差し出したほどにである。

「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。
もし、わたしが父であるなら、
どこに、わたしへの尊敬があるのか。
もし、わたしが主人であるなら、
どこに、わたしへの恐れがあるのか。

(マラキ書1章6節

本来であれば神様はこのように私たちに主張し、私たちを滅ぼしてよい。
だが神様はそうはされない。

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2008年12月28日 (日)

心配するのはやめよう

ヨブ記38章、ゼカリヤ書13章、ヨハネの黙示録15章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

ヨブ記はここから神様の御言葉が始まる。

だれが心のうちに知恵を置いたか。
だれが心の奥に悟りを与えたか。

(ヨブ記38章36節)

これが私には主題に思える。どのようにして私は今知っていることを知ったのか。どのようにして私はこのように考えるに至ったのか。
人は事物を見聞きしたときひらめきをもって関連性を得て悟る。このひらめきはどこから来るのか。
私は、その人が必要なことを悟るように神様がされているのだと考える。

全ては神様のお考えによるのである。だから今の自分を神様の目には特別な存在であると信じるのが良い。

烏の子が神に向かって鳴き叫び、
食物がなくてさまようとき、
烏にえさを備えるのはだれか。

(ヨブ記38章41節)

救い主イエスの有名な言葉が重なる。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

(マタイの福音書26-31節)

心配している人たちへ、
その心配には意味がない。境遇そのものに意味がある。それも神様のお考えによるのだから、神様に尋ね、求めるのが良い。神様がヨブにお答えになられたようにあなたにも答えてくださる。

だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
(マタイの福音書7章8節)

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2008年12月27日 (土)

人は必ず神様と出会う

ヨブ記36-37章、ゼカリヤ書12章、ヨハネの黙示録13-14章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

ヨブ記はこの章をもってヨブとその友人たちの議論が終わる。一連の議論の焦点は神様の描写である。

しばらく待て。あなたに示そう。
まだ、神のために言い分があるからだ。
私は遠くから私の意見を持って来て、
私の造り主に義を返そう。

(ヨブ記36章2-3節)

神のために言い分ある”とはなにごとか。神様は人の弁護を必要とするとでも思っているのであろうか。

神は彼らの耳を開いて戒め、
悪から立ち返るように命じる。
もし彼らが聞き入れて仕えるなら、
彼らはその日々をしあわせのうちに全うし、
その年々を楽しく過ごす。
しかし、もし聞き入れなければ、
彼らは槍によって滅び、
知識を持たないで息絶える。

(ヨブ記36章10-12節)

えてしてこのように”勧善懲悪”をもって神様を説明しようとする。人はその良心からまた今まで受けた教育から自然とそうなる。
以前、息子に神様について説明していた時に息子がこう言った”悪い人を罰する神なんか信じない”。まことにもって正しい見解である。自分が神様から受け入れられないことは明白だからである。

私たちが人からの良い評価を必要とするように神様もそのような方だととらえてはいけない。神様はご自身で栄光を現される。
神様は預言してご自分の栄光の現し方を次のように仰っておられる。

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。
(ゼカリヤ書12章10節)

彼らは、自分たちが突き刺した者十字架上の救い主イエス、わたし(神様)を仰ぎ見”これが神様ご自身による私たち人間への顕現である。
人はみな自分の罪によって十字架につけた救い主イエスが神であったことを知るのである。そして神様について”神は愛”だと知る。

神様は誰の弁護も必要ない。私たちはどのようにして神様とであったのかをあかしすることしかできない。

また神様と出会ってこのことを信じた者は次のようになる。

地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
(ヨハネの福音書13章8節)

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2008年12月26日 (金)

能なし牧者

ヨブ記35章、ゼカリヤ書11章、ヨハネの黙示録11-12章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

ヨブ記エリフのことばが少しわかってきたような気がする。彼は正しいがヨブに対して的外れな議論を持ちかけているようである。

天を仰ぎ見よ。
あなたより、はるかに高い雲を見よ。
あなたが罪を犯しても、神に対して何ができよう。
あなたのそむきの罪が多くても、
あなたは神に何をなしえようか。
あなたが正しくても、
あなたは神に何を与ええようか。
神は、あなたの手から何を受けられるだろうか。
あなたの悪は、ただ、あなたのような人間に、
あなたの正しさは、ただ、人の子に、
かかわりを持つだけだ。

(ヨブ記35章5-8節)

確かに私たちは創り主である神様にに対して何も与えることはできない。人の視点に立てばそうである。神様は私たちに関心を持たれている。神様の視点で見ることはできないが、神様は私たちの自由意思がもたらす思いや言動の一つ一つを見守っておられる。

救い主イエスの預言が登場する。ユダの裏切りに対してユダヤ人が支払った対価である。

【主】は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを【主】の宮の陶器師に投げ与えた。
(ゼカリヤ書11章12節)

私たちは神様を評価する。なんという傲慢。何という愚かな行為か。我々が何を知っていると言うのか。
同じように私たちは愛の尊さを値踏みする。

もうすぐこの日がやってくる。

「万物の支配者、今いまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」

(ヨハネの黙示録11章17節)

死者のさばかれる時である。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている
(へブル人への手紙9章27節)

この日が来る。備えをしなくてはならない。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
(ヨハネの黙示録12章11節)

救い主イエスの十字架の贖いとそのあかし。これにより死と復活による命を得る。そして死者のさばかれる時を免れる。

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2008年12月25日 (木)

神様の自己紹介

ヨブ記34章、ゼカリヤ書10章、ヨハネの黙示録8-10章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

だれが、この地を神にゆだねたのか。
だれが、全世界を神に任せたのか。

(ヨブ記34章13節)

神とはそういう方である。
あなたが認めるのではない。

神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」
And God said to Moses, "I AM WHO I AM."

(出エジプト記3章14節)

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2008年12月24日 (水)

望みを持つ捕らわれ人よ

ヨブ記32-33章、ゼカリヤ書9章、ヨハネの黙示録6-7章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

エリフは最終章でヨブのとりなしの対象となっていない。エリフの発言は正しいのか。

私は思った。
「日を重ねた者が語り、年の多い者が知恵を教える」と。
しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。

(ヨブ記32章7-8節)

心の奥底から聞いたこともない、考えたこともない知識と知恵があふれ出ることがある。
このいきどおりを目下だからと言って、新参者だからといって抑え込んではいけない。

エリフは救い主イエスを信じている。

もし彼のそばに、ひとりの御使い、すなわち千人にひとりの代言者がおり、それが人に代わってその正しさを告げてくれるなら、
神は彼をあわれんで仰せられる。
「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。」

(ヨブ記33章23-24節)

主イエスのエルサレム入場の預言。

シオンの娘よ。大いに喜べ。
エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子の子ろばに。

(ゼカリヤ書9章9節)

今日も昨日と変わらず神様の恵みはある。

望みを持つ捕らわれ人よ。とりでに帰れ。
わたしは、きょうもまた告げ知らせる。
わたしは二倍のものをあなたに返すと。

(ゼカリヤ書99章12節)

望みを持ち続けよう。

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2008年12月23日 (火)

ヨブ記31章、ゼカリヤ書7-8、ヨハネの黙示録4-5章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

何のために義を追い求めるのか。

万軍の【主】の宮に仕える祭司たちと、預言者たちに尋ねさせた。「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」
(ゼカリヤ書7章3節)

義を行うことに嘆く民。
これにたいして神様は答えられる。

すると、私に次のような万軍の【主】のことばがあった。
  「この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。
あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。

(ゼカリヤ書7章4-6節)

また来たるべきじだいについて神様は語られる。

万軍の【主】はこう仰せられる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとっては、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。だから、真実と平和を愛せよ。」
(ゼカリヤ書8章19節)

義は喜びとなる。

ヨブのことばは終わった。(ヨブ記31章40節)

ヨブの自分を義とする主張は終わった。義であることに努力し続けたのであろう。そして聖書が証印を押している。

ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。(ヨブ記1章1節)

私にとって義であることは非常につらい。義が自分の喜となることを知らない。

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2008年12月22日 (月)

苦難の中に生きている意味を見つけ出すために、7つの教会への言葉を覚書として要約しておく

ヨブ記29-30章、ゼカリヤ書5-6章、ヨハネの黙示録2-3章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

(ゼカリヤ書はよく解らない・・・・・)

ヨブの言葉を読んでいて、幸せは相対的なんだなと思った。そうであれば人類はいつまでたってもそれを克服できないことからすると、苦難には重要な意味があるのがわかる。

ああ、できれば、私は、
昔の月日のようであったらよいのに。
神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに。

(ヨブ記29章2節)

この後ヨブは自分の身分が下がったことを嘆いている。ヨブの状況は極端だが惨めな自分を見て嘆いているのがうかがえる。

私はあなたに向かって叫びますが、
あなたはお答えになりません。
私が立っていても、
あなたは私に目を留めてくださいません。
あなたは、私にとって、残酷な方に変わられ、
御手の力で、私を攻めたてられます。

(ヨブ記30章20-21節)

神様が守ってくれなくなったことの現れとしての境遇を嘆いている。ヨブは自分の繁栄は神様の守りと恵によることを知っていた。苦難にあって神様の主権を尊重している。

話を戻して。ヨブの死は許されていない。もちろんヨブは知らないが。

【主】はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」
(ヨブ記2章6節)

死によって苦難が終わることを知っているのであるから、ヨブはこの境遇を生きて何かを得ようとしている。ただただ苦難の意味を見出そうと生き続ける。

さて実際のところ人が不幸なのは、次の瞬間の自分が苦難にあるかもしれないことの恐れが原因であると常々思っている。惨めな自分、痛み、貧しさかもしれない。それ故に多くの人がそこから目をそらそうと何かに夢中でいる。時間の感覚を麻痺させているように見える。一生は思っているよりも短い。

苦難は突如としてやってくる。人それぞれの苦難は多様である。相対的であり困ってる人にとってはもちろん一杯一杯である。自殺者の心理は生きてる人間には絶対にわからないと思っている。

神様は人それぞれに個性と境遇とをおあたえになり、そして励まされる。そして勝利の報いを約束して下さる。
黙示録の7つの教会に学ぶことができる。以下は自分のためのメモである。

エペソにある教会

  • わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった
    (2章3節)
  • あなたは初めの愛から離れてしまった
    (2章4節)
  • 初めの行いをしなさい(2章5節)
  • 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。
    (2章7節)

スミルナにある教会

  • サタンの会衆である人たちから、ののしられている(が耐えている)
    (2章9節)
  • 苦しみを恐れてはいけない
  • (2章10節)
  • 死に至るまで忠実でありなさい
    (2章11節)
  • 勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。
    (2章11節)

ペルガモにある教会

  • (サタンの王座にあって)わたしに対する信仰を捨てなかった
    (2章13節)
  • (一部ある偶像崇拝を)悔い改めなさい
    (2章16節)
  • もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう
    (2章16節)
  • 勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。
    (2章17節)

テアテラにある教会

  • あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている
    (2章19節)
  • サタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない
    (2章24節)
  • あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい
    (2章25節)
  • 勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
    彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
    また、彼に明けの明星を与えよう。

    (2章26-28節)

サルデスにある教会

  • あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
    (3章1節)
  • 目をさましなさい
    (3章2節)
  • あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。
    (3章3節)
  • 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
    (3章5節)

フィラデルフィヤにある教会

  1. あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった
    (3章8節)
  2. あなたを守ろう。(3章10節)
  3. あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
    (3章11節)
  4. 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
    (3章12節)

ラオデキヤにある教会

  • あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
    (3章16節)
  • 熱心になって、悔い改めなさい。
    (3章19節)
  • 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
    (3章20節)
  • 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
    (3章21節)

7つの報いについてはそれがどれだけの価値を持っているのかがわからない。想像を絶する栄誉を得ることだけを知っている。

ただ死ぬまでは今の思いを守り通していたい。

実を言うと”ラオデキヤにある教会”への言葉が一番好きである。熱心でありたい。戸がたたかれた時には喜んでお迎えしたい。食事の席に付きたい。

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2008年12月21日 (日)

二倍の祝福とはすでに与えられた恵みを二倍知ることだ

ヨブ記28章、ゼカリヤ書4章、ヨハネの黙示録1章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

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このボトルには水道水が入っている。しかし冷蔵庫で冷やすとあら不思議旨いのだ。最高の水になる。三本のボトルを使って水道水を優雅な気分んで飲み続ける。
パソコンにはCD700枚分7200曲が入っていて、今私を楽しませてくれる。
ピカピカのベースギターも私にとってはビンテージものだ。肩が動くようになったので、またお付き合いできる。
旅に出たくなったらバイクがある。

私は十分に持っていることに気づいて驚いた。

こうして、神は人に仰せられた。
「見よ。主を恐れること、これが知恵である。
悪から離れることは悟りである。」

(ヨブ記28章28節)

知恵と悟りは探しても見つからない。

また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

(ヨハネの黙示録1章6-7節)

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2008年12月20日 (土)

万軍の主と義人

ヨブ記24-27章、ゼカリヤ書2-3章、ヨハネの第三の手紙、ユダの手紙を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

私は仕事で恐怖におののいたとき、”万軍の主”に向かって助けをもとめた。

私の息が私のうちにあり、
神の霊が私の鼻にあるかぎり、
私のくちびるは不正を言わず、
私の舌は決して欺きを告げない。
あなたがたを義と認めることは、
私には絶対にできない。
私は息絶えるまで、
自分の潔白を離さない。
私は自分の義を堅く保って、手放さない。
私の良心は生涯私を責めはしない。

(ヨブ記27章3-6節)

今、私はこんな人でありたい。

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2008年12月19日 (金)

詳しく調べる気はないが聖書日課はよくできているな

ヨブ記23章、ゼカリヤ書1章、ヨハネの第二の手紙1章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

神様は私に一番良い道を開いてくださる。だがその工程にはつらい道のりもある。これからのことを考えたとき、私もまたヨブと同じ思いになる。

神は、私について定めたことを、
成し遂げられるからだ。
このような多くの定めが神のうちにある。
だから、私は神の前でおびえ、
これを思って、神を恐れているのだ。

(ヨブ記23章14-15節)

神様の今なさろうとしているこはこうである。

それゆえ、【主】はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。──万軍の【主】の御告げ──測りなわはエルサレムの上に張られる。』
(ゼカリヤ書1章16節)

我々の中に宮を立てられ一緒に住まわれる。目で見える宮ではなく、実在を伴われない。しかし我々と共におられる。

このことは、私たちのうちに宿る真理によることです。そして真理はいつまでも私たちとともにあります。
真理と愛のうちに、父なる神と御父の御子イエス・キリストからの恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。

(ヨハネの第二の手紙1章2-3節)

神様が世の初めからなさりたかったことは我々とともにおられることなのだ。

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2008年12月18日 (木)

愛の始まりを信じて..........wktk

ヨブ記22章、ハガイ書1章、ヨハネの第一の手紙4-5章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

あなたが正しくても、それが全能者に何の喜びであろうか。あなたの道が潔白であっても、それが何の益になろう。
(ヨブ記22章3節)

悲しいことである。ではなぜ神様は人を創造されたと言うのだろうか。

今、万軍の【主】はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。
あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。

(ハガイ書1章5-6節)

我々の人生を象徴していないだろうか。何かが欠けている。その必要についてハガイ書では神の宮の再建の話が続く。
新約聖書は解説している。神の宮とは救い主イエスを信じたクリスチャンそのものである。短い人生でまず第一にすべきことは神の宮の再建、すなわち救い主イエスを信じることである。

ヨハネは神の宮であるクリスチャンについて解説している。”愛”の在り方を詳細に伝えている。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
(ヨハネの第一の手紙4章8節)

常々感じていることは”自分には愛がない”である。では私はクリスチャンではないのか。いや違う。愛を持つことへの渇望の現れのように思える。これは愛の始まりなのだろう。そして時間をかけて愛がはぐくまれるのだと信じる。
私は次の御言葉が好きだ。

いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

(ヨハネの第一の手紙4章12-17節)

人はなぜ本当の愛を理解し追い求めようとするのか。そしてどのようにして愛を理解することができるだろうか。この答えが聖書に書かれている。この御言葉はその答えを私に要約して教えてくれる。

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2008年12月17日 (水)

過渡期にある混沌とした苦悩

ヨブ記21章、ゼパニヤ書3章、ヨハネの第一の手紙2-3章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

神様は完全に人の自由意思を尊重される。

彼らはしあわせのうちに寿命を全うし、すぐによみに下る。
しかし、彼らは神に向かって言う。「私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。
全能者が何者なので、私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが彼に祈って、どんな利益があるのか」と。

(ヨブ記21章13-15節)

神様に向かわない者はよみ(地獄)に行っても神様の元に立ち返ろうとしない。

ああ。反逆と汚れに満ちた暴力の町。
呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、【主】に信頼せず、神に近づこうともしない。
その首長たちは、町の中にあってほえたける雄獅子。そのさばきつかさたちは、日暮れの狼だ。朝まで骨をかじってはいない。
その預言者たちは、ずうずうしく、裏切る者。その祭司たちは、聖なる物を汚し、律法を犯す。
【主】は、その町の中にあって正しく、不正を行わない。朝ごとに、ご自分の公義を残らず明るみに示す。しかし、不正をする者は恥を知らない。

(ゼパニヤ書3章1-5節)

神様は最初から最後まで義を示し、我々を招いておられる。そして悔い改めて神様の元に帰るクリスチャンがいる。かたくなに拒否する者も、関心を持たないものもいる。

その日には、あなたは、わたしに逆らったすべてのしわざのために、恥を見ることはない。そのとき、わたしは、あなたの中からおごり高ぶる者どもを取り去り、あなたはわたしの聖なる山で、二度と高ぶることはない。
わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ【主】の御名に身を避ける。

(ゼパニヤ書3章11-12節)

悔いる者に対するに対する神様の寛容である。

人は変わることができる。

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2008年12月16日 (火)

なるほど1日3章ではなく、きりのいいところをで区切ってるのか

ヨブ記19-20章、ゼパニヤ書2章、ヨハネの第一の手紙1章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

ヨブ記の議論を見ていると救い主イエスとパリサイ派の長老の議論と重なる。義人への糾弾は一見正しく見えるが、それは人が作りあげた正しさの基準である。

もし、私がほんとうにあやまって罪を犯したとしても、私のあやまって犯した罪が私のうちにとどまっているだろうか。
(ヨブ記19章4節)

犯した罪と本質としての罪がある。ローマ人への手紙の中で解説されている。行為の結果が状況を生み出すが、それは関係の産物であり色々な事象となる。罪の結果として悪いことが起こるなどの因果などない。

いま知れ。「神が私を迷わせ、神の網で私を取り囲まれた」ことを。
(ヨブ記19章6節)

ヨブ記の冒頭に出てくるがヨブは義人である。神様がヨブに対する災いをサタンに許されたのだ。

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。
(ヨブ記19章25節)

まだ登場しない救い主イエスに対する希望がまた登場する。このことを見出すことに災いの意味はある。ヨブ記はこのことを後世の我々に教えている。

悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみはつかのまだ。
(ヨブ記20章5節)

これは間違いである。すべての人の喜びは短く、楽しみはつかのまである。世はサタンの支配下にあり。人は飽くことを知らない。

昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに。【主】の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。【主】の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。
主の定めを行うこの国のすべてのへりくだる者よ。【主】を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、【主】の怒りの日にかくまわれるかもしれない。
(ゼパニヤ書2章2-3節)

【主】の怒りの日はまだである。神様は待っておられる。

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

(ヨハネの第一の手紙1章8-9)

ヨブの主張の通り、あやまって犯した罪は私たちの中にとどまらない。ひとつの罪が我々を責め神様から我々を引き離そうとする。これが罪の性質である。遅くはない神様に”ごめんなさい”と言おう。

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2008年12月15日 (月)

聖書日課がずれているような

ヨブ記17-18章、ゼパニヤ書1章、ペテロの第二の手紙2-3章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

不自由、苦るしみ、困難、悪いこと、痛み、悲しみ、恐怖、不安、これらに見舞われたときには考えないといけない。神様に出会うチャンスである。「神様なぜですか」と問いかけるのが良い。
ヨブ記を読んでいていつもそう思う。

わたしは必ず地の面から、すべてのものを取り除く。──【主】の御告げ──
(ゼパニヤ書1章2節)

その日まで神様は待っておられる。人がそのつらい人生の中で神様に出会うのを。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
(ペテロの第二の手紙3章9節)

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2008年12月14日 (日)

ヨブの道

ヨブ記16章、ハバクク書3章、ペテロの第二の手紙1章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

命以外のすべてを失う苦難と友の虚しい叱咤激励の中でヨブはまだ聞いたことも、見たこともないキリストを信じていた。

今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。
私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。
その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。
数年もたてば、私は帰らぬ旅路につくからです。

(ヨブ記16章19-22節)

神様の裁きの中でハバククはまだ聞いたことも、見たこともない自分の救い主(キリスト)にを信じていた。

しかし、私は【主】にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
(ハバクク書3章18節)

ペテロは”恵みと平安”の源について述べ伝えた。

神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
(ペテロの第二の手紙1章)

”恵みと平安”は本当にある。見切りをつけないで求めてみよう。次元の違う安心感に包まれるから。

私はヨブの道、神様に祝福されて生き続ける道を求め続けた。そしてその道に入ることを許されたようである。これは私の望んだ道である。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。

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2008年12月13日 (土)

得体のしれない畏怖の念

ヨブ記15章、ハバクク書2章、ペテロの第一の手紙3章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

ハバクク書の次の件は実に身近なことである。

彫刻師の刻んだ彫像や鋳像、偽りを教える者が、何の役に立とう。物言わぬ偽りの神々を造って、これを造った者が、それにたよったところで、何の役に立とう。
わざわいだ。木に向かって目をさませと言い、黙っている石に向かって起きろと言う者よ。それは像だ。それは金や銀をかぶせたもの。その中には何の息もない。
しかし【主】は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ。

(ハバクク書2章18-20節)

人は不可知の領域にある何かしらに畏怖の念を抱く。それは太古の昔から今に至るまで同じである。不可知の領域は、森の外から宇宙の果てへと切り開かれて行ったが、依然として畏怖の念は変わらない。無知や未熟が宗教を生むのではなく、この畏怖の念が宗教を生むのである。
なぜ畏怖の念を形造ろうそうとするのか。創った方を被造物が形で表すことなどできない。ここに本物と偽物の違いがある。
これが言った者勝ちであるかどうかを吟味するために聖書を調べればよい。その価値は大いにある。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
(ペテロの第一の手紙3章15節)

私の弁明はこの手紙にある。

キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
(ペテロの第一の手紙3章18節)

神が全てのものをお創りになられたこと。神は愛であり、ご自身を現されるためにキリストを実現されたこと。このことを信じる。

昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。
(ペテロの第一の手紙3章20節)

ノアは雨など見たことも聞いたこともなかった時に、大洪水が来ることを信じて、また神様がそれから救ってくださることを信じて、箱舟を作ったのだ。なぜ雨がなかったかはあの大洪水の時に初めて虹がかかったことからわかる。

選択の時が来る。信じて舟に乗るか、あざけって舟に乗らないか。

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2008年12月12日 (金)

理解しがたい境遇に身を置いて

ヨブ記14章、ハバクク書1章、ペテロの第一の手紙2章を読む。

人生とはまことにこのようである。虚しく、悲しく、義を全うすることなどできない。しかし神様はそのような人間、神様が作られた人間を裁くと言う。

女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまりません。
あなたはこのような者にさえ、あなたの目を開き、私をご自身とともに、さばきの座に連れて行かれるのですか。だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません。

(ヨブ記14章1-4節)

我々を取り巻く世の中はあまりに不合理である。神様は今のこの一事には介入して下さらない。

【主】よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。
なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。
それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行われません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行われています。

(ハバクク書1章2-4節)

これらは無神論者の方々の”不在理由”によく登場する。”それ故に神はいない”と。
ご指摘の通りのことを聖書には事実として記載してある。

なぜ、神様はこのような誹りを甘んじて受けられるのだろうか。全能な方なのに。

なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
(ペテロの第一の手紙2章6節)

神様は我々の叫びに対して救い主イエスという実在を通してご自分現わされた。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

(ペテロの第一の手紙2章22-24節)

救い主イエスは真の義と犠牲という愛を私たちに示して下さったのだ。これこそが神様そのものなのである。

ヨブは言った。

だれひとり、できません。

救い主イエスはお答えになられた。

それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。

ハバククは言った。

あなたは救ってくださらないのですか。

救い主イエスはお答えになられた。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

信じませんか。

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2008年12月11日 (木)

聖書日課

ヨブ記13章、ナホム書3章、ペテロの第一の手紙1章を読む。

見よ。私の目はこれをことごとく見た。私の耳はこれを聞いて悟った。あなたがたの知っていることは私も知っている。私はあなたがたに劣っていない。
(ヨブ記13章1-2節)

ここにヨブの間違いがある。ヨブは確かに知っているのだが、それはヨブの努力によるのではない。神様からの教育によるのである(38章でこのことをヨブは神様から教えられる)。であるからこれに続く”神と論じ合ってみたい。”には意味がない。

しかし、あなたがたは偽りをでっちあげる者、あなたがたはみな、能なしの医者だ。
(ヨブ記13章4節)

私はよく同じように感じる。これを傲慢だとは思わないで当たり前のことだと思っている。相手から見てもまた然り。1-2節についてと同様に神様からの教育はそれぞれのクリスチャン毎に違いあるのだから。ただ自分の直観に訴えてくるものをそのまま正直に伝えるのが良い。教育をするのであれば、自分がどう思っているかではなく自分の拙い言葉を通して神様が語ってくれることを祈るのが良い。
”・・・して欲しい”は不要である。人を変えたければ自分が変わらなければならない。今の自分では伝えるのに不十分だから相手は変わっていないのである。

包囲の日のための水を汲み、要塞を強固にせよ。泥の中に入り、粘土を踏みつけ、れんがの型を取っておけ。(ナホム書3章14節)

なんか気になるが全く分からない。ただ準備しておきなさいと言われているようである。具体的にはおいおいわかるのかも知れない。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
(ペテロの第一の手紙1章8-9節)

人はみな一人ではないことを確信していたい。たくさんの人々がいるが特別な相手を探している。誰か自分を理解してくれる存在を求める。
クリスチャンは見たことのないイエス・キリストを感じ取ることができる。彼が私に触って下さり、彼の心に触れさせて下さるのである。私の様なものでもこの喜びに満ちている。

また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるの
なら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。
(ペテロの第一の手紙1章17節)

親子関係は私が子供であった時と比べると大きく変わっているように見える。だがこれも偏見のように思える。子供は親に対するありようを変えてはいないと思う。何かをきっかけに態度を変えることはあるがそれは見せかけのことである。親の子供に対するありようも変わっていないと思う。ただ自分の子供のころの親に対する態度を振り返って不器用になってしまうだけではないだろうか。
子供はいつも実の親を恐れかしこんでいる。

久しいぶりにカテゴリ”聖書”について書いた。
昨日耳の痛みからイヤホンをできずiPhoneの使い勝手向上を目指していじっていた(成果は絵文字入力とアプリの活用)。アプリ”HORY BIBLE”が無料配信されていたのでダウンロードした。そこに聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)があった。今日の箇所はそれに基づく。
続くかな・・・

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2008年10月 5日 (日)

2レプタ投げ入れた貧しいやもめ

もう神様に頼る以外することがないほど進退窮まった状態。

また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。
それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」
(ルカの福音書21章2-4節)

貧しいやもめは残りがレプタ銅貨二つになるまで、なくなっていく物を見て苦しんだのだと思う。そして投げ入れたと同時に平安が訪れたのだと思う。
投げ入れたのは自我である。

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2008年9月30日 (火)

被造物の憂鬱

知りたいことは知りえない。

私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。(エレミヤ書18章3-4節)

陶器師は気に入らければ作り直す。気に入ったものが出来上がる。このことを知っていることに希望がある。

今はこれでは満足できない。

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2008年9月22日 (月)

生きる目的の話について息子と語り合う。しかも実に都合よく。

息子はこの御言葉に勇気を与えられ、落ち込むことも悩むこともすくなったと思うそうである。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)

この御言葉を信じることができれば、心を支えるか細い糸が切れないように。
私はイエス様が身代わりになってくれたほどに神様から愛されている。

 

 

息子

今日の集会は生きる目的がテーマだった。
ダビデの箇所が主な引用で「ダビデと同じように神様は皆さんに役目を与えてくださっているのです」という展開だった。ダビデがイスラエルの王に選ばれた時、神様だけが彼の内面を見ていたっていう話。

  1. 神様はわからないことを正しく判断するようには期待はされない
  2. 「ダビデと同じように神様は皆さんに役目を与えてくださっているのです」は我々は何の使命持っているかはわからない
  3. 然るに、今の自分で良いことを信じる

ってことか?

息子

そこまではつっこんでなかった。

息子

3.が抜けてるから突っ込んでないと言ってるんだと思うんだけど。何て言ってたの?

息子

人それぞれに使命があること。人は外見を取り繕ったりさば読んだりして誤魔化せるけど神様の目は誤魔化せませんって。

”人それぞれに使命があること”→我々は何の使命を持っているかはわからないことを意味してるね。
”神様の目は誤魔化せません”→それはそうやね。ごまかす気もないだろうし。

息子

伝道集会ちっくな感じだったからね

”神様の目は誤魔化せません”は伝道集会ちっくやね。
”人それぞれに使命があること”は聞き方が良く解らないな。

息子

使命の事は伝道集会の通りでいいと思う。「大切な君へ」と同じシンプルに受け取ればいいと思う。

  1. 人それぞれに使命があること→我々は何の使命を持っているかはわからない→だから今の自分でよいんですよ。
  2. 人それぞれに使命があること→我々は何の使命を持っているかはわからない→使命が何か知ることを求めて、その使命の通りにありましょう。

1っていってる?

息子

うん

 

 

自分を窮屈にしてるのは自分である。自分の目や、自分自信で想像する他人の目を気にして窮屈にしてる。”神様は全てご存知だから”の前には”自分の目や、自分自信で想像している他人の目”は意味がない。そもそも何が大事か、何が良いか、なんてわからない。

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2008年8月25日 (月)

重荷を負う

”重荷”を負うと言う表現は好きでない。重荷を感じたら積極的に下ろしたい。それはイエス様が次のように約束してくださったからである。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11章28-30節)

荷は軽いはずである。

ちなみに福音書には”重荷”という単語はここ一箇所しかない。使途の働きから黙示録までは9箇所あり、実際のところは皆が重荷を負っていることを示唆している。

人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。(ガラテヤ人への手紙6章5節)

ここまで言い切られるともう悲しくなってくる。トホホ・・・・と思いきや続きがある。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ人への手紙6章7-9節)

重くはない。確かに荷は軽い。

パウロが解き明かしてくれている。

あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。(コリント人への手紙第二6章14節)

なるほど私は混乱してる。

働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。(ルカの福音書10章7節)

解った。志を保とう。

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2008年8月 7日 (木)

人は知りません

マルコの福音書1-5章を読む。

また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
(マルコの福音書4章26-29節)

自分の今の状態はわからないもののようである。しかし確実に成長している。

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2008年8月 2日 (土)

これから

マタイの福音書1-14章を読む。

何も望むものが無くただ生きる。時間だけが過ぎていく。今を良しとする。これは自由である。自由は良い。ここに留まることを模索するがこれは上手くいかない。

我は劣る者である。

イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。家に入られると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか」と言われると、彼らは「そうです。主よ」と言った。(マタイの福音書9章27-28節)

盲人の望みは目が見えることではなく目が見えることによって得られるであろう何かである。目が開くことで到達はしない。
ただただイエスと自己との関係が形成されていることが意味を持っている。

盲人は目が開いて生きる。目の開いた人生が始まる。

満足を見出す術を持って不満を抱えて生きる。

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2008年6月21日 (土)

アサ王

House M.D. season2-19"House vs God"冒頭シーンでの聖書の引用。

それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。(歴代誌第二16章12節)

この箇所だけを引用してとある教会が医療を排斥するカルト集団になってる設定。

この箇所の前をきちんと読まないといけない。

そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手からのがれ出たのです。
あのクシュ人とルブ人は大軍勢ではなかったでしょうか。戦車と騎兵は非常におびただしかったではありませんか。しかし、あなたが主に拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡されたのです。
主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」
  (歴代誌第二16章7-9節)

医者を求めた”はアサ王の経験を踏まえての記述なのだ。

ドラマの信仰に対する批判はいささか稚拙だが、信仰に対する思い違いはそこかしこにある。
このドラマの間違った解釈は我々に重要な教訓を与えてくれる。

個人と神様との関係は人それぞれである。

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。(ローマ人への手紙12章3節)

信仰の乏しさは”神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて”とある通り埋める努力をするものではない。自分の考えや行動が神様の思いと一致していると認識できることなどありえない。誰が神様の思いを推し量れようか。一致していると信じて疑わないものである。これこそ”その心がご自分と全く一つになっている人々”である。

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
(マタイの福音書9章12-13節)

神様は我々をあわれみたいのだ。その対象として我々をお創りになられたのだ。(この関係は幼子に対する両親の愛の中に見ることができる。この愛はどこから生まれてくるのか。神様の愛を投影しているのではないか。)
なぜ、神様があわれみたいとされる人となりを否定し変わろうとするのか。
罪人としての負い目は神様からその人を遠ざけると知るべきである。”善悪の知識の木”を食べたアダムの最初の行為に学べ。

謙遜を演じることは謙遜ではない。謙遜から起こる思いは高みを求めることではない。謙遜から起こる思いは自由を持つ自分を受け入れることだ。神様のあわれみの対象としての自分の価値を認めることだ。

”善悪の知識”は人を不幸にする。本来は人に必要のないものだ。善を自力で実践できない人から自由を奪う。

マックス ルケード著”たいせつなきみ”を薦めながら、今の人となりを否定するがごとく向上を目指す教えはやはり誤っている。

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2008年3月24日 (月)

すぐに

意味がわからず、いつもは読み飛ばすのだが、気付いたこと。

イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」 (ヨハネの福音書21章22節)

イエス様はいつ自分が再臨されるかをご存じない。再臨される日が近いことを望んでおられる。すぐ(ヨハネの生きている間)に再臨したいと言う願いはかなわなかった。

見習うべきである。

これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。(ヨハネの黙示録22章20節)

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2008年3月 6日 (木)

Ecclesiastes

人は絶望して自己を再構築する。
自己の再構築には関係が必要である。

仮想空間にアノニマスな自己を確立する。

大勢の人が居る。
コミュニケーションは成立する。
文化があるが虚栄である。

私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。(伝道者の書7章29節)

無神論者のもとに答えを見つけに行く。

誰か、祈って欲しい。

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2008年2月22日 (金)

minor tranquilizer

レビ記26章を読む。

先日、処方されたレキソタン錠5が良い感じである。

夕食後にのんびりしていたら胸がもやもやしていたのだが、服用するとそれがスッキリとする。
その上、熟睡できる。朝置きぬけに寝たって感じがする。これまでは寝つきが悪く、気が付けば朝だった。

ひさびさの開放感に気分が良い。

胸がもやもやする感じは、やらないといけないことが残っていて、追い込まれている時に起こっていたのだが。
以前はこの感じを解消するために必死で働いたり、蟻のように動き回ったりしていた。

もしかしたらやるべきことをしていないのかもしれない。

人が追い詰められた気分になるのは、神様のもとに帰るための機能だと思っている。

神様から離れていこうとする人間に神様は仰る。

わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。(レビ記26章16節)
だれも追いかけて来ないのに、あなたがたは逃げる。(レビ記26章17節)

これは神様のもとに帰るように仕向けておられるのである。

そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。(レビ記26章41節)

人とはこういうものだ。

前にもこのことについて書いたような気がする。
薬で気分を制御することはどうなのだろう。人格を変えてしまっているとおもわれるのだが。

自然であることを人為的に変貌させてしまっていることは往々にしてある。
これもその一つか。

ただ言えるのは、私は病んでいるということである。
肉体的に、精神的に、霊的に、いずれも病んでいる。

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2008年2月 3日 (日)

一年の長さ

伝道集会にて感じたこと。

本物と偽者

エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。
さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」
そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。
エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。
彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。
あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい。」と言った。
エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたがたで一頭の雄牛を選び、あなたがたのほうからまず始めよ。人数が多いのだから。あなたがたの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」
そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。
真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」
彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。
このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。
エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい。」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。
エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる。」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。
その石で彼は主の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。
ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、
「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。」と命じた。ついで「それを二度せよ。」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ。」と言ったので、彼らは三度そうした。
水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。
ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。
私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。
民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。
(第一列王記18章18-39節)

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネの福音書14章27節)

ベテスダの池

ヘロデ大王が神殿に行くにあたって、身を清めるために作った池。

その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。{彼らは水の動くのを待っていた。}
{主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初にはいった者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである。}
そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
(ヨハネの福音書5章1-9節)

「よくなりたいか。」”、厳しい質問に聞こえる。”いいえ”と答えることなどあるのだろうか。
イエス様はなぜ聞かれたのだろうか。

病人は直接的に”はい”とは答えていない。行間に書かれているのは”あたりまえだろう”なのか”もうあきらめました”なのだろうか。
後者であることが往々にあるように思える。病気の日常も、健常な日常も、何らかの点であきらめの日々である。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
(イザヤ書53章3-4節)

イエス様は”私たちの病を”、”私たちの痛みを”知っておられる。

私たちは病気ではなく本質的な問題を抱えている。その問題が解決する希望が必要なのだ。

病人はその希望を得たのだろう。

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2008年1月28日 (月)

風を見て

レビ記7章、歴代史第二21章、雅歌6章、ゼカリヤ書6章、マルコの福音書13章、コリント人への手紙第一12章、マタイの福音書5章3-12節(Clay)を読む。

昨日は何とかメッセージを伝えることができた。
これを話した。

途中、時計を気にしていたら。話しも終盤に近づいてるのに、10分近く残っていることに気付き、あせった。

ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。(マタイの福音書14章30節)

調子良かったのだが、まさに”風を見て、こわくなり、沈みかけたので”な感じであった。

時計や下書きを気にするのはいかん。流れが悪くなる。

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2008年1月26日 (土)

働き

レビ記6章、歴代史第二20章、雅歌5章、ゼカリヤ書5章、マルコの福音書12章、コリント人への手紙第一11章、箴言23章15-16節(Clay)を読む。

メッセージの準備もできたし、明日を待つのみである。

この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから(歴代史第二20章15節)

この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。(歴代史第二20章17節)

励ましを受ける。

イエス様を信じ、救いを受けた私が、なお生きるのは、このためである。

イエス様はこの世にあって、触れられることに飢えている者に直接触れ。ことばを求める者に直接語られた。福音を必要とするところに、直接、出向かれた。
イエス様が天に帰られたこの世で、その良い働きを続けるために我々クリスチャンは生きている。

イエス様の手となって触れ、口となって語り、足となって出向くのだ。

神の戦いある”、”主の救いを見よ

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2008年1月25日 (金)

信じられねぇことまでする

レビ記5章、歴代史第二19章、雅歌4章、ゼカリヤ書4章、マルコの福音書11章、コリント人への手紙第一10章、マタイの福音書5章1-2節(Clay)を読む。

”日本以外全部沈没”と”硫黄島からの手紙”を見た。
くだらなさすぎると悲しすぎるの両極端であった。

興味深いのは、両映画の全ての登場人物の言動が作り出されている現実と乖離していないと思われることである。
その一つ一つの言動が物語を構成していき映画として完結している。
色々な意味で超越的だと思われる登場人物は一人もいない。映画は淡々と物語が展開していく。

しかし、両映画とも眺めている私にとっては愚かなことをと思ってしまう。

”硫黄島からの手紙”の主人公が言った”ただ生きるってためだけに、信じられねぇことまでする。”が象徴的だった。

そう、両映画とも状況が日常と乖離しているだけである。方やSFで方や戦争である。
常軌を逸した状況が人間に愚かしい行為をさせる。

さて、自分自身を人生という状況に当てはめてみてはどうだろうか。
現実は想像通り現実的だろうか。

何を考えているかわからない他人との関係や、想像を絶する事物との関係が現実を構成しているのだ。
何が起こるかわからないだろう。
現実感という言葉がいかに軽いかと思ってしまう。

常軌を逸した世界と今直面している世界の違いはなんだろうか。
都合よく合理的で都合よく不可解、これが現実の実態ではないだろうか。

我々も両映画の登場人物と同じだ。状況に流されるままに信じられねぇことまでする。
我々は自分の欲望を果たそうとする。不可解な現実を理由に都合の良い判断をする。そして、新たに不可解な現実を構成する。
この繰り返しが作り出す悪化に歯止めが利かない。現実は淡々と展開する。

世は明らかに正しい方向に進んではいない。そもそも正しいとは何だ、想像できないではないか。
理想的な未来など想像できない。
そんな我々には平和と満足の両立、自由と平等の両立など実現できるわけがない。
現実的な未来像は想像できない。しかし展望は暗い。そしてそのことがますます我々の欲望を刺激する。

なぜか。

全てが偶然の産物だったら、こう悪くなることもあるまい。

すべては罪が原因なのだ。

せっかく神様が我々人類に最適な世界を下さったのに、我々は正しい言動を選択できない。
このことに全てが起因している。

まさに我々は生きるためと言う理由だけに、信じられねぇことをする。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。(ルカの福音書23章34節)

十字架上でのイエス様の祈りである。イエス様のとりなしの祈りは、我々のためである。

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2008年1月24日 (木)

子供

レビ記4章、歴代史第二18章、雅歌3章、ゼカリヤ書3章、マルコの福音書10章、コリント人への手紙第一9章、マタイの福音書4章23-25節(Clay)を読む。

子供について考える。

イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
(マルコの福音書10章14-15節)

三男はまことにこのように神様を、イエス様を信じた。
以前、罪人の話を車でしている時に、三男は自分が罪人であることに動揺している様子であった。しかし、その後まもなく、”自分は信じている”と告白した。
確かにうれしかったが、それよりも”すごい”とその時は思った。

子どものように神の国を受け入れ”、大人のように振舞うなんて事ができるのだろうか。
そんな風に思ってしまう。

物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。(コリント人への手紙第一14章20節)

ここはよくわからない。
”異言”とは外国語?ぐらいにしかわかってないので、本当によくわからない。
ただ、こう書かれているということは、みんなそうなのかもしれない。
学びを聞いていて、”こうありたいものです。”と言われると、”無理”と反発したくなる。(大人気ないなー)

話は変わるが、子供たちを見ていると、彼らは私の持っていない、欲しかったものをみんな持っている。
スポーツ、音楽、語学、勉強、ゲーム、ラジコン、、、忍耐、寛容、友情、愛、、、
私が一流になりたいと望んで試した物を、子供たちが分担して持っている。
私にとっては、うらやましいというより、あきらめが付いた感じである。

これで良い。

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2008年1月23日 (水)

滅私

レビ記3章、歴代史第二17章、雅歌2章、ゼカリヤ書2章、マルコの福音書9章、コリント人への手紙第一8章、マタイの福音書4章11-22節(Clay)を読む。

自分を捨てる。私欲を捨てる。私情を捨てる。これはつまずく。

ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。(コリント人への手紙第一8章13節)

私も肉を絶つのであればできそうである。でも、バイクをあきらめることはできない。

パウロがこのように言い切れたのは、肉を食べることがパウロにとって嗜好でも重要でもなかったからだと思う。
できる範囲での配慮を訴えているように思う。

やりたいことを兄弟姉妹のために我慢するのはやはり辛い。いっそうのこと縁を切りたいと先走った考えが浮かんでくる。これこそつまずきだ。

固執していなければ、自分を律することができる。
固執していないのは、イエス様の故に、思いを洗い流したからである。

”キリストにはかえられません”

つまり、固執こそが”弱い良心”であり、固執している自分こそ”つまずきとならないように気をつけられるべき弱い人たち”のひとりなのだ。

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2008年1月21日 (月)

整形外科

レビ記2章、歴代史第二16章、雅歌1章、ゼカリヤ書1章、マルコの福音書8章、コリント人への手紙第一7章、マタイの福音書4章1-11節(Clay)を読む。

明日は病院である。

アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。(歴代史第二16章12節)

たぶん入院している時にもこのみことばを読んだような気がする。
このみことばと関係なく、医者により頼んではいない。整形外科とはそんなものである。自然治癒に完全丸投げが実情だからである。
つまりは自然体に主を求めることになる。良い病気だ。

彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。
イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。
すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。
それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。
(マルコの福音書8章22-25節)

イエス様に病気を癒される人には共通の背景がある。

  • 病気である。
  • 癒してもらいたいと思っている。つまり、困っている。
  • イエス様は癒せるという信仰を持っている。なければ来ないだろう。

奇跡に着目するより、この背景に着目すべきである。
病気の持つ負の要素が、幸いに転じる。
イエス様は病気を癒された時に”あなたの罪は赦されました”と仰る。これは背景にある信仰が実を結ぶからである。

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2008年1月19日 (土)

知識のことば

レビ記1章、歴代史第二15章、伝道者の書12章、ハガイ書通読、マルコの福音書7章、コリント人への手紙第一6章、箴言23章12-14節(Clay)を読む。

もう、若くない。

耳を澄まして聞き取ろうとするが、頭の中を通り抜けるように言葉が過ぎ去っていく。

あなたは訓戒に意を用い、知識のことばに耳を傾けよ。(箴言23章12節)

何を読み取ればよいのかわからず必死になるが、言葉が過ぎ去っていく。
しかし、ふと気づくと心に染み入るように伝わることもある。

聖書を読むときは、知識の言葉を蓄えて、神様を、イエス様を、自分自身を、もっと知りたいと思う。

実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。(伝道者の書1章18節)

知らないから悩まなくて、悲しまなくて済んでいることも多くあると思う。
確かに、知って何のいいことがあるのかはよくわからない、は正直なところである。

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝道者の書12章1節)

ここでの年月は年齢のことを言っているのだと思っている。
実際に体力、精神力、好奇心、どれも衰え、”「何の喜びもない」と言う年月”を近くに感じる。
知恵や知識が増し加わることが自分にとって良いことなのか、ますます疑問に感じる。

すべては活動的な若さにあって、有意義なのだろうとも考える。

では若さを失って、もはや何が残るのだろうか。

正しくありたい。

正しくあると、この世的には損をする。でも正しくありたいと思う。
人生において、今の欠乏や、今の損失が何の意味を持つのか。
そんなことより、神様がそれでよいとしてくださること、神様が報いてくださること、神様が必要を満たしてくださること、困難に陥ったときに万軍の主である神様により頼むことができること、このことが最上の慰めであり、励ましであり、平安である。

これで十分ではないか。

若い日に、あなたの創造者を覚えよ”このことばはそのまま受け入れるのが良い。

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2008年1月18日 (金)

主の日

出エジプト記40章、歴代史第二14章、伝道者の書11章、ゼパニヤ書通読、マルコの福音書6章、コリント人への手紙第一5章、マタイの福音書4章1-2(Clay)を読む。

神様がこの地を滅ぼされる日は必ず来る。

わたしは必ず地の面から、すべてのものを取り除く。――主の御告げ――
わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除く。わたしは、悪者どもをつまずかせ、人を地の面から断ち滅ぼす。――主の御告げ――
(ゼパニヤ書1章1-2節)

平和な過去がこのことから目をそらさせる。
明日も、今日の延長線上にあり、同じように過ぎ去ると思ってはいけない。

神である主の前に静まれ。主の日は近い。主が一頭のほふる獣を備え、主に招かれた者を聖別されたからだ。(ゼパニヤ書1章7節)

既に人選は終わっている。”主に招かれた者”とは、イエス様を信じて救いを受け入た者のことだ。”主に招かれた者”に加えられなければいけない。

陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
(ローマ人への手紙9章21-22節)

神様は忍耐して待っておられる。
滅んではいけない。

主の日がいつかは決められている。その日がいつかは誰も知らない。

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2008年1月17日 (木)

休養7

出エジプト記39章、歴代史第二13章、伝道者の書10章、ハバクク書通読、マルコの福音書5章、コリント人への手紙第一4章、マタイの福音書3章13-17節(Clay)を読む。

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2008年1月16日 (水)

実存

出エジプト記38章、歴代史第二12章、伝道者の書9章、ナホム書3章、マルコの福音書4章、コリント人への手紙第一3章、マタイの福音書3章11-12節(Clay)を読む。

全ての人は同じことを経験するのではないかと、うすうす気付いていた。

すべての事はすべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。善人にも、罪人にも同様である。誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様である。(伝道者の書9章2節)

今、持っているか、持っていないかは重要な違いではない。欠乏を経験することが体験であり、人生の分岐点である。そこで人は選択をし自分の人生を構成していく。

お金、物、権利、義務、心身的健康、これらを持っていることを望んだり、持っていることに安心したりすることは意味がない。持っている量に関わらず欠乏は平等に訪れる。
今のおかれた状態で、状況にどう反応するかに違いが現れるのだ。

しかし、それら行為の積み重ねの行き着く先は死である。死によって全ては無に帰す。
つまり、行為に意義を見出すことはできない。そもそも意義など無いが正しい。

人生においては実存していること意外に真理は無い。
なぜ、実存しているのかのみが意味を持っている。
実存は選択の結果ではないので、何らかの意思が働いた結果である。

実存を偶然と仮定することはできるが、それは意味を見失わせるための卑劣な意思である。

実存に意味があることは自己を見つめると理解できることである。
愛、善悪の境界がそこにある。

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2008年1月15日 (火)

機織

出エジプト記37章、歴代史第二11章、伝道者の書8章、ナホム書2章、マルコの福音書3章、コリント人への手紙第一2章、箴言23章9-11節、マタイの福音書2章19-3章10節(Clay)を読む。

私はオートバイに乗るのが好きだ。
目下の楽しみは、景色にハッとして”こんな景色を見たかったんだ”と体験すること、メンテナンスによる燃費と性能の向上、そして運転技術の向上である。
このことに思いと時間を費やしている。
しかし、満足することは一度もない。いつも何かしら不満である。

さて、では何か満足を得ているかと言うと、この服が欲しい、このうまそうな物を食べたい、あれしてこれして達成したいと望むが、一向に満足、これで充分の域には到達しない。
過去において試したことを数え上げるときりがない。音楽、スポーツ、娯楽、、、趣味と言う物はどれもだめである。
そして今は頭の中で想像できることを望んでみても、それを達成しようと実際の行動を取らない。面倒なのである。寒し、しんどいし、どうせ挫折するし、などの負の要素が思い浮かんできて躊躇してしまう。
得ても決して満足しないだろう、果てしのない欲望が次から次へと浮かんでくるだけだろう、と言う体験から、あきらめているのである。

私は”目が見たことのあるもの”、”耳が聞いたことのあるもの”、つまり”人の心に浮かぶもの”、これは人に満足を与えないと結論してしまっている。

何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。 (伝道者の書8章7節)

この通り(このことを否定するひとはいないだろう)、これが私の人生の前に立ちはだかっているのである。”何が起こるかわからない”。
”だから人生は楽しい”と言うか。
私にとっては”だから不安で不安でたまらない”だった。仕事で思い巡らし眠れない日が何度あったか。ああなったら、こうなったら、無数の分岐をシミュレーションできるほど頭は良くないのだ。
楽しみなんて入り込む余地がない。
このことも、新しいことに踏み出すのを躊躇する一因となっている。

悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。(伝道者の書8章11節)

犯罪はともかく、私には悪い思いや流れに乗った行為に規制がかからない。
損得勘定からくる不正の選択がいつも頭の中で優先順位の上位にある。嫌なものは嫌だ。迷惑な他人を目の当たりにすると、つい悪口が出る。車を運転中に無理な割り込みをされると、腹が立って無茶な運転になる。

嫌になる。
だから、こんなことを考えないように何かに熱中していたい。でも、めんどくさい。依存症になったらどうしよう。
一念発起して実行に移してもいづれ何事もなかったように終わってしまう。実態は辛くて苦しいだけである。
手から水が漏れるように色々なことが過ぎ去ってしまう。時間もそうである。ただ過ぎ去っていく。
そしてまた考え込む。この悪循環から抜け出せない。

そんな私は特殊なのだろうか。そんな風に考えてしまう。
”なぜ生きるのか”、論点をはっきりさせるために言い換えると、”何を求めて生きているのか。”
これさえあれば幸せと言う人がいれば実にうらやましい。

私は満足を得ない、不安でたまらない、許容できる自分像がない、そして有り余る時間、これらのことがこの”何を求めて生きているのか。”に目を向けさせる。
有り余る時間の点で私は特殊である。
以前はこんなことで思い悩むほど考え込んだことはないように思える。とにかく行動していた。

私は快楽を賛美する。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。これは、日の下で、神が人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。(伝道者の書8章15節)

労苦の時間が惜しくて労働を辞めたが、労苦に添えられている楽しみを失ったようである。
何も楽しむことが無くなったから、何もする気がせず、有り余る時間を持て余し、人生のあり方に不満が爆発したようである。
皮肉である。

これで終わりなのだろうか。このまま余生を送るのだろうか。本当にわからない。

所詮、人生は労苦か快楽の放棄かの選択なのだろうか。
ただ生きていくことにおいてはそのようであるから、選択しないといけないようである。

罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。
悪者にはしあわせがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らは神を敬わないからだ。
(伝道者の書8章12-13節)

罪人と神を恐れる者、この対比が聖書を貫いている。
子供のころから知っている単純な対比である。あまりに単純すぎてすり抜けてしまう。
重要な意味があるようで、ピンと来ない。そのぐらい私は自分の置かれている立場がわかっていない。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 (コリント人への手紙第一2章9節)

神を恐れる者つまり神を愛する者の受ける恵みの本質に着目することができる。
見たことも、聞いたことも、心に思い浮かんだこともないもの、つまり人知をはるかに超えたものが必要なのだ。

なぜなら私は何も知らない。

私は人生に満足することはない。”何を求めて生きているのか。”の答えが無いのだ。
私は自分自身の本質を知らない。また、自分のおかれている立場も知らない。
ただ、不満な状態であることを知っているだけなのだ。そこから抜け出そうと考える。そして行動を起こす。それが人生を構成している。
しかし、そうして織り出される人生の絵柄は無秩序ではないのであろうと思えてならない。最後には見事な絵柄がうまれるのであろうと考える。
振り返って、無駄だと思われた物が意味を持った瞬間がある。
人知をはるかに超えている。

私はこのことを知っていることに望みを持っている。
人生は退屈で、もう生きたくないと思うほどに意味を見出せない。しかしこの望みがあるので絶望しないのである。

しかし苦しい。

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2008年1月11日 (金)

宣教

出エジプト記36章、歴代史第二10章、伝道者の書7章、ナホム書1章、マルコの福音書2章、コリント人への手紙1章、マタイの福音書2章16-18節(Clay)を読む。

1月22日にメッセージを担当する。

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(コリント人への手紙第一1章21節)

宣教のことばの愚かさ”、この表現が好きである。事実、何を語るのが適切なのかはわからない。

どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。
(マタイの福音書10章19-20節)

私の務めは神様のことばをお取次ぎすることである。ただ示されることを語ればよい。
とはいえ、何の準備もしないのはせっかくの機会を無駄にしてしまいそうで恐ろしい。
不信仰なのであろう。弱さである。だから事前にことばを頂いて平安を保つのだと考える。

そうだ不信仰は弱さである。だから怖くて神様にすがる。
良いことだ。

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2008年1月10日 (木)

出エジプト記35章、歴代史第二9章、伝道者の書6章、ミカ書7章、マルコの福音書1章、ローマ人への手紙16章、マタイの福音書2章4-12節(Clay)を読む。

恐怖はそこかしこに有る。恐怖は妄想となって襲い掛かり、人を支配下に置こうとする。
恐怖は正しい判断を奪い取る。恐怖は追い詰める。恐怖は心を絞るように締め付ける。

恐怖は悪の武器の一つである。悪は恐怖と誘惑を持って働きかける。
悪は人を破滅に導く。

悪に打ち勝つことは人生の命題である。

平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。(ローマ人への16章20節)

あなたがたの足で”とある。私が踏み砕くのだ。
神様が取り除いてくださるのではない。私に勝つ力を与えてくださる。

恐怖と共存することはできない。誘惑を避けて通ることはできない。
悪を打ち負かすことが必要なのだ。

その希望がある。約束されている。

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2008年1月 9日 (水)

労苦

出エジプト記34章、歴代史第二8章、伝道者の書5章、ミカ書6章、マタイの福音書28章、ローマ人への手紙15章、マタイの福音書2章4-12節(Clay)を読む。

自分の労苦を喜ぶ。

見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。(伝道者の書5章18節)

振り返って、自分がそうであったのかわからなくなってしまった。
労苦の内にやりがいを見出していたような気がする。仕事の後のほっと一息がそうか。終わらぬ労苦を走り抜けていたことそのものがそうか。

今、まったく労苦がないので、喜びがないのかもしれない。
いや、あたまりまえのことのように思っていただけのような気がする。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6章8節)

ここに在り方を見出す。自分とは程遠い憧れであるが。

明らかに変化が起こっている。

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2008年1月 8日 (火)

存在している者

出エジプト記33章、歴代史第二7章、伝道者の書4章、ミカ書5章、マタイの福音書27章、ローマ人への手紙14章-15章13節、マタイの福音書2章1-3節(Clay)を読む。

何をして生きたら良いのだろうか。
この質問の答えはない。
では、なぜ生きるのだろうか。
ただ時間だけが過ぎていくのを待つのはなかなか辛い。
さりとて何かをしても意味を見出せないのは、ただただむなしい。

私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。
また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行なわれる悪いわざを見なかった者だ。
(伝道者の書4章2-3節)

私は”存在しなかった者”ではない。
私は今、生きている。
自己の存在は自分自身で選択したのではない。であるから、これを否定するのは罪である。

すると、目の欲するままに進んで、罪はない。もしかしたらこういう者ではないのだろうか。

私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 (ローマ人への手紙14章7-8節)

このように生きることができるようになったのだ。ここに信仰を持つことが秘訣のようである。

主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。 (ローマ人への手紙14章14節)

パウロも悩んだようである。そして、自然体であることの正当性を見出している。

あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。(ローマ人への手紙14章16節)

人につまずきを与えるような人の場合は、悪いのです。(ローマ人への手紙14章20節)

しかし、せっかく思い立ったことも、関係が迷いに引き込む。他人と関わりたくない、一人でいたい理由である。
おかれた立場も自分の選択したものではないので、否定してはいけない。これもまた罪である。
関係を絶つことはできない。こんな時に”存在しなかった者”であったら良かったのにと願う。まさに罪である。

クリスチャンの余生とは、

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ人への手紙7章24節)

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ人への手紙3章24節)

ただただ感謝である。

結局のところ、私は既に目標を達成したので、生きることに行き詰っていることになる。
つまり、何をするにも私自身の目には意味を見出すことはできない。
意味があることを信じることだけである。先に見たとおりこれが秘訣である。しかし、体得することができない。だから、辛い。

肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ人への手紙8章4節)

これは私の選択ではない。私にできることではない。恵によっていただいた事実なのである。

もし、明日があるなら、何をしようか。否、何が起こるのだろうか。

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2008年1月 7日 (月)

Higher Power

出エジプト記32章、歴代史第二6章、伝道者の書3章、ミカ書4章、マタイの福音書26章、ローマ人への手紙13章、マタイの福音書1章18-25節(Clay)を読む。

人は神様から離れて、迷い出て、困難に陥り、立ち返るものようである。

Higher Power

私は断酒の戦いに勝てないのを悟った時、神様に再会した。

民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」 (出エジプト記32章1節)

この一節は神様から離れる→偶像の構図を要約して書いている。”神を、造ってください。”とは字面から判断するところ、大いにばかばかしいが、八百万の神々はまさにこのことの表れであろう。現世ご利益的信仰と言うらしい。

あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天からこれを聞いてください。聞いて、お赦しください。(歴代史第二6章21節)

これは宮の建設を完成させたソロモンの祈りである。この祈りには、もしこんなことになったらと、困難に対する解決の願いが7回出てくる。主旨は”もし神様に立ち返り、神様により頼むならば、助けてください”である。

神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。(伝道者の書3章18節)

人は自分の無力さを思い知るために困難に遭うのだ。人はそれほどに高慢なのである。
辛い境遇は決して行いが悪いからではない。因果や業などはない。

現世ご利益的信仰は人の本質である。”困った時の神頼み”と言うではないか。

皆がHigher Powerを待ち望むように創られている。そして多くの人がHigher Powerを見出せないで思い悩んでいる。また、偽者のHigher Powerが多すぎる。

天地を創られた方こそHigher Powerである。
神様は仰る。

なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか。(イザヤ書50章2節)

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2008年1月 6日 (日)

礼拝

出エジプト記31章、歴代史第二5章、伝道者の書2章、ミカ書3章、マタイの福音書25章、ローマ人への手紙12章、マタイの福音書1章1-17節(Clay)を読む。

礼拝にて、

神様がどのように見ておられるのかは想像できない。

神様が喜んでおられるのは信仰によって知る。

自分がどう参加しているかは問題ではない。

自分がどう感じるかは意味がない。

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2008年1月 5日 (土)

幾人でも

出エジプト記30章、歴代史第二4章、伝道者の書1章、ミカ書2章、マタイの福音書24章、ローマ人への手紙11章、箴言23章6-8節(Clay)を読む。

伝道に対する熱心さが自分には欠けている。
自分の受けた幸いを喜んで入るが、自分が特殊なように思えて自分を恥じている。
つまり右に行っても、左に行っても満足を得ない。悲しいことである。

その中の幾人でも救おうと願っているのです(ローマ人への手紙11章14節)

パウロの熱心さである。
自分もこうありたいと思う。どっちつかずな在り方は嫌だ。

このことを通して、自分に愛がないことを知る。

不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。(マタイの福音書24章12節)

このことはよくわかる。今の世相をよく言い表している。
では、よいものに満たされたのであれば、愛は暖かくなるのが筋というものではないだろうか。なぜ、自分はこうはならないのか。
自分を一歩先に進ませないものがあるようだ。

神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。(ローマ人への手紙11章32節)

わたしも神様のあわれみを受けるために不従順のうちに閉じ込められているのだと理解する。
今は開花するときを待つか。

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2008年1月 4日 (金)

酔払い

出エジプト記29章、歴代史第二3章、箴言31章、ミカ書1章、マタイの福音書23章、ローマ人への手紙9-10章、アモス書4章6-6章14節(Clay)、詩篇103篇(Clay)、創世記1章1-5節(Clay)を読む。

2日、3日と一泊二日で私の実家に帰っていた。
2日の夜は正月の宴会騒ぎである。みな酔っ払っている。

酒の席は久しぶりであった。酒は飲みたいとは思わなかったが手持ち無沙汰な感じである。
酔払いが騒ぐのを見ていて思った。”酒止めてよかった”、正しくは、”酒から開放されてよかった”

深酒は明らかに人生を無駄にしている。

よっぽどのことがない限り、”人生を無駄にしている”なんて思わない。なぜなら今の意味を正しく理解できないと考えているからである。

しかし、深酒は明らかに人生を無駄にしている。

酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。(エペソ人への手紙5章18節)

確かに放蕩すると思う。
頭を麻痺させることに積極的になっているのだから当然である。

酒との格闘も終わったようである。感謝である。
次は何から開放されるのだろうか。楽しみだ。

まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。(アモス書5章4節)

とある。

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2007年12月30日 (日)

死の理由

なぜ十字架なのか。
全能のお方がなぜ一人子を犠牲にしないといけなかったのか。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(ヨハネの手紙第一3章16節)

愛がわかった”とある。
この方法でしかわからないのだろう。

人として、生きている間にこのみことばを体験したい。

既に体験したのか。体験することはないのか。

わからないことが罪か。死んだ信仰か。成長か。

愛とは何か。

私は今日の直感を忘れない。

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2007年12月29日 (土)

ヨナ(続き)

今日、手紙が来て、昨年の事故の決着が着いた。もう、私にすることはない。

神様がなぜ、このような展開にされたのかが解らない。さっきまでこの結果になるとは思っていなかった。しっくり来ない物がある。

神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」 (ヨナ書4章9節)

神様に死ぬほど怒っているわけではないが、胸の中がもやもやする。期待させておいてこの結果か、は正直な感想である。

聖書はこの後、こう続く。

主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。
まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」
(ヨナ書4章10-11節)

確かにヨナが体験したのと同じようなことが、二つの事故を通して私に起こっている。
自分で労せず、自分の都合の良いように事が進まなかったことを惜しんでいる。全て必要な物は備えられているのに。

摂理

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ヨナ

出エジプト記28章、歴代史第二2章、箴言30章、ヨナ書4章、マタイの福音書22章、ローマ人への手紙8章、箴言23章4-5節(Clay)を読む。

ヨナ書は預言書の中でも読みやすい。また、預言者ヨナの人となりが他の預言者と異なり実に興味深い。

主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」 (ヨナ書4章3節)

私もこの祈りをよくする。
死んだ後の希望に満ちた永遠を知っているので、今の(主に精神的に)苦しい状態から逃げ出したいのだ。

今の(主に精神的に)苦しい状態とは虚無との戦いである。生きる意味を見失い、見出せなくなった時に切に願う。
虚無に服する原因が自分のからだに染み付いた罪のせいだと知っている。
だから、

私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ人への手紙8章23節)

となるのだと考える。

ヨナ書全体を通して見て、逃亡者ヨナが自分と重なる。
弱くて、無知で、自分勝手な私。私は人を救うお手伝いにはならない。

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2007年12月28日 (金)

。。。

出エジプト記27章、歴代史第二1章、箴言29章、ヨナ書4章、マタイの福音書21章、ローマ人への手紙7章、ルカの福音書5章8-20節(Clay)、アモス書3章1-4章5節(Clay)を読む。

頭痛中。

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2007年12月24日 (月)

義の奴隷

出エジプト記26章、歴代史第一29章、箴言28章、ヨナ書3章、マタイの福音書20章、ローマ人への手紙6章、箴言23章1-3節(Clay)、イザヤ書9章1-7節(Clay)、ルカの福音書2章1-7節(Clay)を読む。

今を満足しない傾向について行けない。

罪から解放されて、義の奴隷となったのです。(ローマ人への手紙6章18節)

これ以上に何が必要なのだろうか。”義の奴隷”となった者の選択は義に至る道である。
それ故、義に対する渇望は自然に起こってくるものだ。

今の自分に満足してよいはずである。

次のみことばは新しい歩みをしなさいと解釈するのだろうか。既に新しい歩みをしていると解釈するのが正しいのではないだろうか。

私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ人への手紙6章4節)

次のみことばは神様に対して生きなさいと解釈するのだろうか。既にそうだと解釈するのが正しいのではないだろうか。

キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。(ローマ人への手紙6章10節)

罪に対しては自由であることが述べられている。

罪から解放されているのです。(ローマ人への手紙6章7節)
罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。(ローマ人への手紙6章12節)
あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。(ローマ人への手紙6章13節)

罪に対しては選択の余地が残っているのである。

あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ローマ人への手紙6章16節)

義の奴隷”なのだ、唯一、罪に対しては戦って生きなければならない。

奴隷は嫌な事をこらえて働くしもべである。そして罪こそが嫌悪の対象である。

そんな人間に望んで変えられたのだ。

神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
(ローマ人への手紙6章17-18節)

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2007年12月21日 (金)

偶像

出エジプト記25章、歴代史第一28章、箴言27章、ヨナ書2章、マタイの福音書19章、ローマ人への手紙5章、アモス書2章9-16節(Clay)を読む。

生きるのが非常に楽である。余計な悩みがない。

むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。(ヨナ書2章8節)

偶像から開放されたからだと思う。
自分を幸せにするもの、災いから守ってくれるもの、つまりより頼む対象が明らかに変わっている。

お金は人を幸せにしないし、窮地から救ってもくれない。必要なものは必ず備えられている。
お金を求めるのはおろかだ。お金ではなく、欲しいものを直接的に求めるべきだ。
お金の量で人生の価値を決めるのは無意味である。必要なものがなければ、お金は必要ないし。十分な備えがどれほどかなど計り知れない。

一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。(箴言27章1節)

人に頼るのもおろかである。裏切りもするし、力量に応じた助けしか得られない。第一、彼(彼女)は正しいのか。

鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。(イザヤ書2章22節)

振り返ってみて自分にとっての偶像はこの二つであった。この偶像に見切りをつけて、神様にすべてより頼むようになって心配事がない。
以前は悩みの毎日だった。綱渡りのような日々であった。でも、それも心がどう捉えているかである。金や人に頼って心配しているが、実は陰で神様が守ってくださっていた。
恵みを捨てて、不幸にとどまっているようなものである。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイの福音書5章45節)

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2007年12月20日 (木)

神様を信じる

出エジプト記23章、歴代史第一27章、箴言26章、ヨナ書1章、マタイの福音書18章、ローマ人への手紙4章、アモス書2章6-8節(Clay)を読む。

神様を信じるとはどういうことだろうか。存在を信じる。どういう方か聖書に書いてあるとおりに信じる。私たちを愛してくださっていることを信じる。

私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
(ローマ人への手紙4章24-25節)

死者の中からよみがえった人など見たことがないし、誰かがよみがえらせたなんて聞いたこともない。しかし、死人をよみがえらせる、死人がよみがえる空想話はたくさんある。死人がよみがえるとは重要な意味を持っている。
神様はイエス様をよみがえらせた。

そもそも何のためにイエス様を死んだのか。私たちの罪の刑罰の身代わりに死なれたのである。

このことが事実だと信じれば、罪の刑罰を受けなくてよい特権を受けることができる。
それだけでない、聖書が約束する義人の受ける報いを受けることができる。罪を認められないのだから義人として扱われるのだ。

信じますか。

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2007年12月19日 (水)

恵み

出エジプト記22章、歴代史第一26章、箴言25章、オバデヤ書、マタイの福音書17章、ローマ人への手紙3章、アモス書1章11節-2章5節(Clay)を読む。

三男がVジャンプの景品を当てた。
前日、”当たれば良いのに”と言うので、”サンタさんにお願いしたら”と言ってやった。
もちろん、サンタさんは神様を象徴している。誤解のないように付け加えるが偶像ではない。
すぐさまお願いをしていた。

本当に当たった。
景品を眺めていて、もしかしたら”クリスチャンの受ける恵みは価なし”は事実ではないかと考えていた。
価なしは価なしである。代価のためのなんらかも必要ないし、無制限である。

食べるものは備えられている。着るものは備えられている。だからそのことに対する心配は無用と考えている。このことについて言えば確信している。
また、心配は無用である。救われ、罪を認められないものと言う意味で次のとおりである。

主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。(詩篇5篇12節)

ならば、遊びほうけて暮らそうか。神様が楽しみを保障してくださる。

「善を現わすために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。(ローマ人への手紙3章8節)

神様を試みてはいけない。ただ、恵みに感謝すべきである。

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2007年12月17日 (月)

仕事

出エジプト記21章、歴代史第一25章、箴言24章、アモス書9章、マタイの福音書16章、ローマ人への手紙2章、箴言22章26-29節(Clay)、アモス書1章3-10節(Clay)を読む。

”私は、なまけ者の畑と、思慮に欠けている者のぶどう畑のそばを、通った。
すると、いばらが一面に生え、いらくさが地面をおおい、その石垣はこわれていた。
私はこれを見て、心に留め、これを見て、戒めを受けた。
”(箴言24章30-32節)

そろそろ仕事のことも考える時期なのだろうかと思い巡らす。
仕事する気が無いので怠け者かなとも思うし、聖書を読んで霊的に成長するためにじっくりと時間をかけ時期かとも思う。

まだ脚が痛い。朝の冷えなどは辛いところからすると、仕事は無理っぽいのも事実である。

罪悪感はまったくない。過去とは違い有意義な人生を送っていると思っている。生活に困る心配がない。次から次へと生活、遊びともに必要が満たされている。

家内は心配している様子である。

今までのように思い立ったらすぐではなく、じっくり準備して無理なくという感じなのかもしれない。今からイメージトレーニングを始めて、開始は春からか。
そのころになれば、両脚の髄内釘(チタン製の棒)を抜いて、痛みも取れてだとすればそれも良い。

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2007年12月14日 (金)

意味がある

出エジプト記20章、歴代史第一24章、箴言23章、アモス書8章、マタイの福音書15章、ローマ人への手紙1章、アモス書1章2節(Clay)を読む。

事故の翌日、自分の身体の状態を再確認しても自分の境遇を受け入れることができた。
”意味がある”、この中に動かない思いがあった。自分自身の状態に意味があると確信できることは生きるうえで非常に重要なことである。

そしてヨブ記を思い返し、”主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。”(ヨブ記42章10節)の通り、2倍に良くなると信じることが心の支えになった。また、因果よろしく自分の行いが事故を引き起こしたのではないと考えていった。身の回りに起こる悪いことは因果によるのではないことがヨブ記の主題である。ヨブはなぜ自分が災難にあったのか最後まで知らない。ただ、残りの半生に神様の祝福を多く受ける。

福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。”(ローマ人への手紙1章16節)
神様を信じていて良かった。

単なる気持ちの切り替えじゃないかって。
それを実現させる希望があることが本物たる所以である。

では、両脚切断だったら乗り切ることができたのだろうか。
それはわからない。経験していないので。

怪我が直り、身体障害から開放されるゴールが近いことをしりながら、今、抱えている絶望感は、不自然に思えるが理由がはっきりしている。
意味を見出せない。見失っている。

生きることは不条理に見える。
苦しみの