出エジプト記37章、歴代史第二11章、伝道者の書8章、ナホム書2章、マルコの福音書3章、コリント人への手紙第一2章、箴言23章9-11節、マタイの福音書2章19-3章10節(Clay)を読む。
私はオートバイに乗るのが好きだ。
目下の楽しみは、景色にハッとして”こんな景色を見たかったんだ”と体験すること、メンテナンスによる燃費と性能の向上、そして運転技術の向上である。
このことに思いと時間を費やしている。
しかし、満足することは一度もない。いつも何かしら不満である。
さて、では何か満足を得ているかと言うと、この服が欲しい、このうまそうな物を食べたい、あれしてこれして達成したいと望むが、一向に満足、これで充分の域には到達しない。
過去において試したことを数え上げるときりがない。音楽、スポーツ、娯楽、、、趣味と言う物はどれもだめである。
そして今は頭の中で想像できることを望んでみても、それを達成しようと実際の行動を取らない。面倒なのである。寒し、しんどいし、どうせ挫折するし、などの負の要素が思い浮かんできて躊躇してしまう。
得ても決して満足しないだろう、果てしのない欲望が次から次へと浮かんでくるだけだろう、と言う体験から、あきらめているのである。
私は”目が見たことのあるもの”、”耳が聞いたことのあるもの”、つまり”人の心に浮かぶもの”、これは人に満足を与えないと結論してしまっている。
何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。 (伝道者の書8章7節)
この通り(このことを否定するひとはいないだろう)、これが私の人生の前に立ちはだかっているのである。”何が起こるかわからない”。
”だから人生は楽しい”と言うか。
私にとっては”だから不安で不安でたまらない”だった。仕事で思い巡らし眠れない日が何度あったか。ああなったら、こうなったら、無数の分岐をシミュレーションできるほど頭は良くないのだ。
楽しみなんて入り込む余地がない。
このことも、新しいことに踏み出すのを躊躇する一因となっている。
悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。(伝道者の書8章11節)
犯罪はともかく、私には悪い思いや流れに乗った行為に規制がかからない。
損得勘定からくる不正の選択がいつも頭の中で優先順位の上位にある。嫌なものは嫌だ。迷惑な他人を目の当たりにすると、つい悪口が出る。車を運転中に無理な割り込みをされると、腹が立って無茶な運転になる。
嫌になる。
だから、こんなことを考えないように何かに熱中していたい。でも、めんどくさい。依存症になったらどうしよう。
一念発起して実行に移してもいづれ何事もなかったように終わってしまう。実態は辛くて苦しいだけである。
手から水が漏れるように色々なことが過ぎ去ってしまう。時間もそうである。ただ過ぎ去っていく。
そしてまた考え込む。この悪循環から抜け出せない。
そんな私は特殊なのだろうか。そんな風に考えてしまう。
”なぜ生きるのか”、論点をはっきりさせるために言い換えると、”何を求めて生きているのか。”
これさえあれば幸せと言う人がいれば実にうらやましい。
私は満足を得ない、不安でたまらない、許容できる自分像がない、そして有り余る時間、これらのことがこの”何を求めて生きているのか。”に目を向けさせる。
有り余る時間の点で私は特殊である。
以前はこんなことで思い悩むほど考え込んだことはないように思える。とにかく行動していた。
私は快楽を賛美する。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。これは、日の下で、神が人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。(伝道者の書8章15節)
労苦の時間が惜しくて労働を辞めたが、労苦に添えられている楽しみを失ったようである。
何も楽しむことが無くなったから、何もする気がせず、有り余る時間を持て余し、人生のあり方に不満が爆発したようである。
皮肉である。
これで終わりなのだろうか。このまま余生を送るのだろうか。本当にわからない。
所詮、人生は労苦か快楽の放棄かの選択なのだろうか。
ただ生きていくことにおいてはそのようであるから、選択しないといけないようである。
罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。
悪者にはしあわせがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らは神を敬わないからだ。(伝道者の書8章12-13節)
罪人と神を恐れる者、この対比が聖書を貫いている。
子供のころから知っている単純な対比である。あまりに単純すぎてすり抜けてしまう。
重要な意味があるようで、ピンと来ない。そのぐらい私は自分の置かれている立場がわかっていない。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 (コリント人への手紙第一2章9節)
神を恐れる者つまり神を愛する者の受ける恵みの本質に着目することができる。
見たことも、聞いたことも、心に思い浮かんだこともないもの、つまり人知をはるかに超えたものが必要なのだ。
なぜなら私は何も知らない。
私は人生に満足することはない。”何を求めて生きているのか。”の答えが無いのだ。
私は自分自身の本質を知らない。また、自分のおかれている立場も知らない。
ただ、不満な状態であることを知っているだけなのだ。そこから抜け出そうと考える。そして行動を起こす。それが人生を構成している。
しかし、そうして織り出される人生の絵柄は無秩序ではないのであろうと思えてならない。最後には見事な絵柄がうまれるのであろうと考える。
振り返って、無駄だと思われた物が意味を持った瞬間がある。
人知をはるかに超えている。
私はこのことを知っていることに望みを持っている。
人生は退屈で、もう生きたくないと思うほどに意味を見出せない。しかしこの望みがあるので絶望しないのである。
しかし苦しい。