昨日、メッセージを担当する。
テーマは”クリスチャンの生き方”で自然体の薦め。
聖書に関心を持つ人がいる。クリスチャン系の学校に子供を通わせたりと、クリスチャンの集まりは倫理的に優れていると考える傾向があるようである。
神様がおられることを知っている人がいる。無心論者の集まりでは神様の不在証明に一生懸命な人たちもいるが、潜在意識にある神様の否定が中心で単独の思想としては成立していないように見受けられる。論旨の多くは病、飢饉、戦争などの不幸を避けられないことを不在証明の根拠にしているが、それはどうかと思う。
自分が正しい人でないことを知っている人がいる。罪人という表現に抵抗はあるかもしれないが。
キリストが十字架につけられたのは物語ではなく歴史的事実だと知っている人がいる。
キリストは私たちの罪の身代わりになって十字架につけられたことを知っている人もいる。
そんな中、聖書の伝えていることを受け入れるべきだと考えているが、クリスチャンになろうと決心できない人がいる。また、クリスチャンで教会を離れていく人もいる。私もそうであった。
生き方を変えないといけないことに、不安を抱いたり、耐えられないと考えたりと、重荷になるようである。
禁欲的であるか、開放的であるか。
この狭間に陥って苦しむクリスチャンは多くいる。
そもそもクリスチャンは人である。
“クリスチャンは罪を許された罪人”と言う上手な表現がある。
クリスチャンは肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を避けて我慢一筋に生きないといけないのだろうか。
- こんな生き方は現実的なのだろうか。
- こんな生き方を望むことができるのだろうか。なぜ、望まないといけないのだろうか。
- クリスチャンがそうだとして、はたしてそんなクリスチャンになることを望むだろうか。
- 宗教、修行となにが違うのだろうか。
クリスチャンになって手に入れることのできる、幸いな生き方について考えてみたいと思う。
何のために生きるのか。
この世で生きるとは長くても100年そこらの期間である。
我々には永遠に対する思いが備えられている。死んでからのことを考える。この思いがどこから来たのかそれはわからないが考えることは事実である。この永遠に対して人生はあまりに短い。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)
聖書は永遠の備えをするために今の人生があると説いている。人生のあり方を超要約したみ言葉だと考える。
私たちは神様の愛を知らないでこの世の生を始める。神様は我々人間を被造物の頂点として愛してくださっている。ただ生きているだけで知ることができるだろうか。このことの重さをわずかでも認識できるだろうか。先述の病、飢饉、戦争などの不幸のないパラダイスに生きたとして、神様の愛を知ることができるだろうか。
想像主が恋焦がれるほどに被造物を愛してくださる。こんなことを誰が想像し、信じることができるだろうか。
愛の尊さ。このことも私たちは知っている。この思いがどこから来たのか。それはわからないが知っていることは事実である。
神様は私たちを愛していることを、私たちに知らせるために十字架による罪からの贖いを実現してくださったのである。
神様は全能なお方である。罪と十字架のない歴史をお創りになることもできる。十字架による罪からの贖いは、不完全な人間をお創りになり、それを救済すると言う神様が自己満足を得るためにされた自作自演ではない。そんなことのために被造物に辱められ、死刑に処せられるようなことはされない。我々が考えてもあまりにむなしいことではないか。
十字架による罪からの贖いは私たち人間が、神様の愛を知るために、神様が示してくださった愛の形なのである。
神様の愛を知ることが永遠への備えなのだ。生きることはただこのことをもって全うするのである。
では、イエス様を信じ永遠への備えを終えた者は、余生をどう生きればよいのだろうか。
たとえば伝道(これはイエス様の直接的な命令)がある。しかし、これだけではない。人生には圧倒的にたくさんのかつさまざなことが起こる。
創造の始めに被造物としての人間のあり方を見ることができる。
神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」(創世記1章26節)
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。(創世記1章31節)
神様は我々を非常に良いものとして創ってくださった。
罪によって事態は変わるのだが、さて何が変わったのか。
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」(創世記3章7-10節)
アダムは裸であることを恐れて神様の目を避けた。しかし、罪の入る前からアダムは裸だった。裸であることに気づいただけである。
裸である自分を受け入れられなくなってしまったのだ。
ここに律法などない。何か悪いことをしたから罪が顕在化したのではない。裸であることに気づいた、それだけである。
(自分を受け入れられなくなってしまったことを解決するには、自分を受けいれらるように変わるしかない。これは自分自身単独では解決できない。)
クリスチャンになって変わるのは自分が裸であることを認めることである。こうして罪の入る前のアダム同様に裸で生きればよいのである。神様の御顔を避けず、神様の前に立てば良い。救われるとは、生きていくにあたって“こんな自分を神様は愛してくださる”とありのままの自分を受け入れることができるようになることである。
肉にあって世を楽しむことは、神様の創造の目的である。神様の愛の対象として、なんの思い煩いもなく生きることを楽しめばよいのである。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(ヨハネの手紙第一2章16-17節)
”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”このことから人は解放されるだろうか。無理であろう。神様から出たものではないのは確かなのだが、我々は罪人である。はたして”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”を否定することが正しい道なのだろうか。
ただこのことを知っておくべきである。すべての世のものはむなしい。世のこと”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”だけに期待、心をおくと人生はむなしい。
また、それを避けて通れないことを受け入れ、どうあるべきかを考える必要がある。
神様の前に裸で素直な思いを持っていけば良いのである。
イエス様の人生に人としてのあり方を見ることができる。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と空腹の中で悪魔の試みをはねつけられたイエス様は、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み』と評されるほどに(これは中傷だが)パンもぶどう酒も楽しまれた。
”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”の奴隷ではなくて自由に楽しまれたことを示してくださっている。人としてのあり方を福音書の中に見ることができる。
”神のみこころを行なう者”とはなにか。イエス様を救い主として信じることである。ここに心をおくことに希望がある。
永遠に対する希望
そして、今を生きる、本来の人としての自由を持ったことに対する希望
自由を唱えると次のことが心配になる。
- 人を傷つけないか
- 神様の栄光を汚さないか
- 人ののつまずきにならないか
”神様の栄光を汚さないか”、これは心配することはない、我々に神様の栄光を汚すことなどできない。
周りの人に対して、これは注意が必要である。神様は我々が相互に影響しあうためにたくさんの人間の集まりとなるように創ってくださった。
よく考えないといけない。”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”を捨てることを望むのではなく、”人を傷つけないか”、”人ののつまずきにならないか”が本質である。このことを神様の前に願い求めるべきである。
クリスチャンになる良さは、裸の自分を受け入れ、神様の与えてくれた被造物を楽しむことの自由を得ることである。
最近のコメント