カテゴリー「伝道」の記事

2008年6月14日 (土)

預言

ちょうど2年前に見た幻。

長い一枚の布が織り上げられていく。布にはすばらしい絵柄が織り込まれていっている。

この幻の解き明かしはこうである。
その絵柄は歴史を現している。今、織り込まれている場所は現在で、そこだけを見ても何が起こっているのかはわからない。ただ、織り上げられた布全体を見ると見事な絵柄が織り込まれている。
ここから次の教訓を得る。

  • 織り職人によって計画通りに絵柄が織り込まれていっている。
  • 何が織り込まれていっているのかはわからない。
  • 既に織り込まれた絵柄を見ることはできる。

この後、伝道者の書を読んで生きることそのものに、未来に希望をおくことに意味がないことを悟った。存在しないことに思いを馳せていることを知って涙が出た。

日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
(1章3-4節)

私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。
また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。
(3章12-13節)

私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。
また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。
(4章2-3節)

何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。
風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救いえない。
(8章7-8節)

人生の行く末を眺めることは意味がない。なぜなら、未来はこれから作られるのであって実在しないから。
過去を悔やむことも意味がない。なぜなら、自分の意思とは関係なくひとつの完成された形になっていくから。

憂鬱の根

2008年6月 9日 (月)

クリスチャンの生き方

昨日、メッセージを担当する。
テーマは”クリスチャンの生き方”で自然体の薦め。

聖書に関心を持つ人がいる。クリスチャン系の学校に子供を通わせたりと、クリスチャンの集まりは倫理的に優れていると考える傾向があるようである。

神様がおられることを知っている人がいる。無心論者の集まりでは神様の不在証明に一生懸命な人たちもいるが、潜在意識にある神様の否定が中心で単独の思想としては成立していないように見受けられる。論旨の多くは病、飢饉、戦争などの不幸を避けられないことを不在証明の根拠にしているが、それはどうかと思う。

自分が正しい人でないことを知っている人がいる。罪人という表現に抵抗はあるかもしれないが。

キリストが十字架につけられたのは物語ではなく歴史的事実だと知っている人がいる。
キリストは私たちの罪の身代わりになって十字架につけられたことを知っている人もいる。

そんな中、聖書の伝えていることを受け入れるべきだと考えているが、クリスチャンになろうと決心できない人がいる。また、クリスチャンで教会を離れていく人もいる。私もそうであった。
生き方を変えないといけないことに、不安を抱いたり、耐えられないと考えたりと、重荷になるようである。

禁欲的であるか、開放的であるか。
この狭間に陥って苦しむクリスチャンは多くいる。

そもそもクリスチャンは人である。
“クリスチャンは罪を許された罪人”と言う上手な表現がある。
クリスチャンは肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を避けて我慢一筋に生きないといけないのだろうか。

  • こんな生き方は現実的なのだろうか。
  • こんな生き方を望むことができるのだろうか。なぜ、望まないといけないのだろうか。
  • クリスチャンがそうだとして、はたしてそんなクリスチャンになることを望むだろうか。
  • 宗教、修行となにが違うのだろうか。

クリスチャンになって手に入れることのできる、幸いな生き方について考えてみたいと思う。

何のために生きるのか。

この世で生きるとは長くても100年そこらの期間である。
我々には永遠に対する思いが備えられている。死んでからのことを考える。この思いがどこから来たのかそれはわからないが考えることは事実である。この永遠に対して人生はあまりに短い。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

聖書は永遠の備えをするために今の人生があると説いている。人生のあり方を超要約したみ言葉だと考える。

私たちは神様の愛を知らないでこの世の生を始める。神様は我々人間を被造物の頂点として愛してくださっている。ただ生きているだけで知ることができるだろうか。このことの重さをわずかでも認識できるだろうか。先述の病、飢饉、戦争などの不幸のないパラダイスに生きたとして、神様の愛を知ることができるだろうか。
想像主が恋焦がれるほどに被造物を愛してくださる。こんなことを誰が想像し、信じることができるだろうか。

愛の尊さ。このことも私たちは知っている。この思いがどこから来たのか。それはわからないが知っていることは事実である。

神様は私たちを愛していることを、私たちに知らせるために十字架による罪からの贖いを実現してくださったのである。
神様は全能なお方である。罪と十字架のない歴史をお創りになることもできる。十字架による罪からの贖いは、不完全な人間をお創りになり、それを救済すると言う神様が自己満足を得るためにされた自作自演ではない。そんなことのために被造物に辱められ、死刑に処せられるようなことはされない。我々が考えてもあまりにむなしいことではないか。
十字架による罪からの贖いは私たち人間が、神様の愛を知るために、神様が示してくださった愛の形なのである。

神様の愛を知ることが永遠への備えなのだ。生きることはただこのことをもって全うするのである。

では、イエス様を信じ永遠への備えを終えた者は、余生をどう生きればよいのだろうか。
たとえば伝道(これはイエス様の直接的な命令)がある。しかし、これだけではない。人生には圧倒的にたくさんのかつさまざなことが起こる。

創造の始めに被造物としての人間のあり方を見ることができる。

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」(創世記1章26節)

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。(創世記1章31節)

神様は我々を非常に良いものとして創ってくださった。

罪によって事態は変わるのだが、さて何が変わったのか。

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
(創世記3章7-10節)

アダムは裸であることを恐れて神様の目を避けた。しかし、罪の入る前からアダムは裸だった。裸であることに気づいただけである。
裸である自分を受け入れられなくなってしまったのだ。
ここに律法などない。何か悪いことをしたから罪が顕在化したのではない。裸であることに気づいた、それだけである。

(自分を受け入れられなくなってしまったことを解決するには、自分を受けいれらるように変わるしかない。これは自分自身単独では解決できない。)

クリスチャンになって変わるのは自分が裸であることを認めることである。こうして罪の入る前のアダム同様に裸で生きればよいのである。神様の御顔を避けず、神様の前に立てば良い。救われるとは、生きていくにあたって“こんな自分を神様は愛してくださる”とありのままの自分を受け入れることができるようになることである。

肉にあって世を楽しむことは、神様の創造の目的である。神様の愛の対象として、なんの思い煩いもなく生きることを楽しめばよいのである。

すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。
(ヨハネの手紙第一2章16-17節)

”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”このことから人は解放されるだろうか。無理であろう。神様から出たものではないのは確かなのだが、我々は罪人である。はたして”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”を否定することが正しい道なのだろうか。

ただこのことを知っておくべきである。すべての世のものはむなしい。世のこと”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”だけに期待、心をおくと人生はむなしい。
また、それを避けて通れないことを受け入れ、どうあるべきかを考える必要がある。
神様の前に裸で素直な思いを持っていけば良いのである。

イエス様の人生に人としてのあり方を見ることができる。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と空腹の中で悪魔の試みをはねつけられたイエス様は、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み』と評されるほどに(これは中傷だが)パンもぶどう酒も楽しまれた。
”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”の奴隷ではなくて自由に楽しまれたことを示してくださっている。人としてのあり方を福音書の中に見ることができる。

”神のみこころを行なう者”とはなにか。イエス様を救い主として信じることである。ここに心をおくことに希望がある。
 永遠に対する希望
 そして、今を生きる、本来の人としての自由を持ったことに対する希望

自由を唱えると次のことが心配になる。

  • 人を傷つけないか
  • 神様の栄光を汚さないか
  • 人ののつまずきにならないか

”神様の栄光を汚さないか”、これは心配することはない、我々に神様の栄光を汚すことなどできない。
周りの人に対して、これは注意が必要である。神様は我々が相互に影響しあうためにたくさんの人間の集まりとなるように創ってくださった。
よく考えないといけない。”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”を捨てることを望むのではなく、”人を傷つけないか”、”人ののつまずきにならないか”が本質である。このことを神様の前に願い求めるべきである。

クリスチャンになる良さは、裸の自分を受け入れ、神様の与えてくれた被造物を楽しむことの自由を得ることである。

2007年9月16日 (日)

彦根キリスト集会

070916_10520001 彦根キリスト集会に行く。

あかしをする。
30分の時間枠で45分も使ってしまった。
15分経過時に時計を見て、未だ5分しかたっていないと勘違いし、一気に緊張する。
話を膨らまさなければと苦心し、時間超過してしまった。
開始時間を確認する習慣をつけなければならないと反省。

ワーカーホーリクスとうつ病の話題で、ある求道者の方から共感を得る。
歓談でも話が弾む。

みんなと良い交わりを持つ事ができ、祝福された伝道旅行であった。

2007年7月 2日 (月)

あかし

初のカテゴリー”伝道”。

伝道集会であかしをする。

メッセージをネットに公開しても良いとのことなので掲載する。

緊張してるなー。(^_^;)
夢中で話してしまった。

2006年9月25日 (月)

帰り道

200609253 息子が運動会の振り替え休日なので、昨晩から二人で実家に行く。

実家には祖母と両親の3人が暮らしている。
老人が老人介護をしている。

みんな救われて欲しい。特に祖母が救われて欲しい。
足が悪く車椅子なので行動範囲が狭く、耳が遠い。
いつも本を読んでる。寂しそうでならない。

両親もかなり介護のストレスがたまっている。平安を得て欲しい。

息子と二人で食事の感謝のお祈りをし、本(聖書のエッセンス)を渡してきた。
伝道らしいこと、神様の話はまったくできず。

耳の遠い祖母に大きな声で”神様をしっているか、イエスキリストを知っているか”と聞いてみた。
知っているとの事。何度か話を聞くことがあったが、積極的には参加したくないといつも思っていたらしい。

最初の第一歩。

2006年9月21日 (木)

200609212 やっと息子と聖書の話をじっくりすることができた。
今年2月に失敗して依頼である。

永遠と一生、罪、十字架、復活、天国、信仰による救いについて語ることができた。

人間は死んで消滅するのではなく、永遠があることは受け入れてくれたようである。

永遠について自分なりに考えてみると言ってくれた。

神様、祈りをかなえて下さって感謝します。
どうか息子を救いに導いてください。