カテゴリー「交わり」の記事

2012年2月27日 (月)

メッセージが自分に向けて送られているように思うことってよくありますよね。

「メッセージが自分に向けて送られているように思うことってよくありますよね。」「そうだね。何でばれてるんやろと思うことがあるね。」こんな話をしたことがある。集う人々も様々でメッセンジャーが個人向けの指摘をすることはないのだけど、このような不思議な事象は起こる。
正に聖書には次の通り書いてある。"この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。" (コリント人への第一の手紙 1:21 JA1955)
メッセンジャーが語った言葉と起こっている事象について思慮が足りなかったと責任を感じるのは如何なものかと思う。自分の口を通して皆に必要な事を語ってくださいと祈り、メッセージするのだから、私は口となりましたから後は神様よろしくお願いしますで良いではないか。これも先輩クリスチャンから教わったことである。
家内から聞いてビックリしたことに、この方は自分のメッセージに起因して私が集会に行かなくなったと責任を感じておられるそうだ。私が集会に行かなくなった一因にこの方がこのような責任の感じ方をする傾向があったことは事実だけれど、それは集会の信者に対する教え方の問題の表れはだと思っていた。このことは出て行く際に例としてお伝えしたはずである。
改善、改善、改善、こんな風な集会のしきたりや伝統が神様の愛を無にしているといつも感じていた。私が集会を後にしたのは、牧することの不安から行動様式や思想の統一に心の拠り所を求める神様に対する侮りに嫌気がさしたからである。

2011年12月25日 (日)

ロゴス(?)、カシコイモノ、"言"は"愛"で良いのかも

息子に誘われてクリスマス礼拝に行ってきました。近所の教会です。参照した聖句はイザヤ書52章7ー10節とヨハネによる福音書1章1ー14節でした。
"初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。" (ヨハネによる福音書 1:1-4 JA1955)
"彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。" (ヨハネによる福音書 1:10-12 JA1955)新共同訳だったので"彼"は"言"でした。
牧師さんの話しは「ヨハネによる福音書は難しいですね」から始まりました。確かにこの最初の4節は難解です。
"言"が何なのかわかりません。これが難解にしているようです。10-12節を読むと"言"は世にあって、世を成し、世に認められず、民が受け入れなかった対象だとわかります。それでは1-4節が難解なのは当然ですね。"言"、カシコイモノは訳が適切かと言うことではなくて、そもそもわからないものなのですね。
私は神がイエスと言う人として世に来られて、民の罪の贖いのために十字架に架かられたのはご自身の本質である"愛"を民に教えるためだと思っています。
つまりロゴス(?)、カシコイモノ、"言"は"愛"で良いのかと思いました。"言"、"彼"を"愛"に読み替えても、聖書の伝えることと一致してますね。

2009年5月17日 (日)

久しぶりに礼拝にあずかることができました



賛美の祈りを捧げたい。思いが爆発してしました。熱かったのか目から少し汗が。

裂いたパンを見つめて十字架を、杯(葡萄ジュース)を見つめて血を思い浮かべて、感慨にひたりました。

2009年5月16日 (土)

心のやすらぎ



久しぶりに集会に参加しました。特別聖書講演会です。
聖書と福音高原剛一郎さんの伝道メッセージです。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
(マタイの福音書11章28節)

2008年11月 2日 (日)

聖歌485番 まよえるとき光を 

これは私の人生のテーマソングだ!!

重荷もなく、迷いもなき旅路ぞ楽しき。ともにいますキリストこそ我が身の神なれ♪

2008年10月19日 (日)

クリスチャンの成長の段階

クリスチャンの誕生は新しい創造である。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 (コリント人への手紙第二5章17節)

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ人への手紙6章15節)

かつての創造が6日間の段階を経てなされたようにクリスチャンの新しい創造も段階を経ると考えられる。創造の6日間の段階の必然性は確実にあるはずである。

「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(コリント人への手紙第24章6節)

クリスチャンを光で照らしてくださる。創造の第一日目

大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。(創世記1章7節)

分別の確立。創造の第二日目

神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。
神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。
それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。
こうして夕があり、朝があった。第三日。
(創世記1章10-13節)

キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる
。(ルカの福音書24章47節)

三日目に本質が現れそこに実を結ぶ木が生じる。
そして神様は第三日目以降をよしとされている。

なるほど!!

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2008年10月 5日 (日)

かいぬしなる主よ(聖歌332番)

”わがかいぬし”と言う表現にはいささか抵抗がある。それは良い牧者に飼われた羊がいかに幸いかを知らないからだ。さすがに私に飼われた小動物、植物は悲惨だった。飼われる立場に立った関係がなかった。

振り返って見て考えるに、神様が全ての必要を、願望を常に満たしてくださっていると、やはり良い牧者に飼われた羊の幸いを知ることができない。窮地が解決したときに”何が私を救ったのか”を考える機会を得る。困難や身に起こる災いは神様を知るきっかけである。もっと言うと知るきっかけでしかない。

大切なのは神様は私自信が解っていない全ての必要を常に満たしてくださることを知ることである。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネの福音書10章11節)

良い牧者。”かいぬしなる主よ”は受け入れるに値する真実である。

この方(イエス様)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。(使徒の働き4章12節)

2008年9月28日 (日)

信仰の不足

信仰の不足が問題になる。充足することはないのであろう。

あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。(テサロニケ人への手紙第一3章2-3節)

動揺する者とあるとおり心の状態でしかない。事態は程度問題でしかなくそれそのものは意味を持たない。自分で自分を追い詰め苦しんでいる。

これが試練である。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙第一10章13節)

意味がある。

2008年9月14日 (日)

信仰がなくならないように

もはや信仰がなくなったら生きていけない。何が起こるかなんてわからない。今がどういう状態なのかわからない。

彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
(ローマ人への手紙420-22節)

ただただ、信仰がなくならないように、このことだけを祈る。

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
(マタイの福音書13章44-45節)

もはや神様により頼むこと意外、何も持っていない。

2008年8月31日 (日)

教え

宗教なんてみな同じ。人は神様の知恵と知識の前には塵に等しい。

解釈の統一はよりどころとなる。神様の知恵と知識によって権威付けされたよりどころ意外は形骸化し排他的である。人の知恵によってはけっして成り立たない。誰も何が正しいのかわからない。正しいと信じる以外に術はない。正しい道に導かなければどのようにしてそこにいたることができるのか。

導く人がなければ、どうしてわかりましょう(使徒の働き8章31節)

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。(ヨハネの福音書10章27節)

羊は自分の牧者に従うものであるようだ。イエス様が私の牧者でよかった。

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