久しぶりに礼拝にあずかることができました

賛美の祈りを捧げたい。思いが爆発してしました。熱かったのか目から少し汗が。
裂いたパンを見つめて十字架を、杯(葡萄ジュース)を見つめて血を思い浮かべて、感慨にひたりました。
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賛美の祈りを捧げたい。思いが爆発してしました。熱かったのか目から少し汗が。
裂いたパンを見つめて十字架を、杯(葡萄ジュース)を見つめて血を思い浮かべて、感慨にひたりました。
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久しぶりに集会に参加しました。特別聖書講演会です。
聖書と福音高原剛一郎さんの伝道メッセージです。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
(マタイの福音書11章28節)
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これは私の人生のテーマソングだ!!
重荷もなく、迷いもなき旅路ぞ楽しき。ともにいますキリストこそ我が身の神なれ♪
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だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 (コリント人への手紙第二5章17節)
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ人への手紙6章15節)
かつての創造が6日間の段階を経てなされたようにクリスチャンの新しい創造も段階を経ると考えられる。創造の6日間の段階の必然性は確実にあるはずである。
「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(コリント人への手紙第24章6節)
クリスチャンを光で照らしてくださる。創造の第一日目
大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。(創世記1章7節)
分別の確立。創造の第二日目
神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。
神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。
それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。
こうして夕があり、朝があった。第三日。(創世記1章10-13節)キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(ルカの福音書24章47節)
三日目に本質が現れそこに実を結ぶ木が生じる。
そして神様は第三日目以降をよしとされている。
なるほど!!
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”わがかいぬし”と言う表現にはいささか抵抗がある。それは良い牧者に飼われた羊がいかに幸いかを知らないからだ。さすがに私に飼われた小動物、植物は悲惨だった。飼われる立場に立った関係がなかった。
振り返って見て考えるに、神様が全ての必要を、願望を常に満たしてくださっていると、やはり良い牧者に飼われた羊の幸いを知ることができない。窮地が解決したときに”何が私を救ったのか”を考える機会を得る。困難や身に起こる災いは神様を知るきっかけである。もっと言うと知るきっかけでしかない。
大切なのは神様は私自信が解っていない全ての必要を常に満たしてくださることを知ることである。
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネの福音書10章11節)
良い牧者。”かいぬしなる主よ”は受け入れるに値する真実である。
この方(イエス様)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。(使徒の働き4章12節)
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信仰の不足が問題になる。充足することはないのであろう。
あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。(テサロニケ人への手紙第一3章2-3節)
動揺する者とあるとおり心の状態でしかない。事態は程度問題でしかなくそれそのものは意味を持たない。自分で自分を追い詰め苦しんでいる。
これが試練である。
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙第一10章13節)
意味がある。
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もはや信仰がなくなったら生きていけない。何が起こるかなんてわからない。今がどういう状態なのかわからない。
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 (ローマ人への手紙420-22節)
ただただ、信仰がなくならないように、このことだけを祈る。
天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。 (マタイの福音書13章44-45節)
もはや神様により頼むこと意外、何も持っていない。
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宗教なんてみな同じ。人は神様の知恵と知識の前には塵に等しい。
解釈の統一はよりどころとなる。神様の知恵と知識によって権威付けされたよりどころ意外は形骸化し排他的である。人の知恵によってはけっして成り立たない。誰も何が正しいのかわからない。正しいと信じる以外に術はない。正しい道に導かなければどのようにしてそこにいたることができるのか。
導く人がなければ、どうしてわかりましょう(使徒の働き8章31節)
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。(ヨハネの福音書10章27節)
羊は自分の牧者に従うものであるようだ。イエス様が私の牧者でよかった。
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恐怖に気づかなければならない。救われないといけない。
いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。(創世記19章17節)
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志について、
兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。(テサロニケ人への手紙第一2章14節)
私には当時のクリスチャンのように他人から信仰の妨げを受けることはあまりない。しかし自分自身が他人の目を気にして前に進むことを躊躇することがある。
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ人への手紙2章13節)
この事実が私を前に進ませることを信仰によって捉えることができる。神様が励まし背中を押してくれる。何をすればよいかを知りたい思い聖書から答えを見出そうとすると律法を全うしなさいに帰結する。何をすればよいのかわからず待つ時、自分がとるに足りないものだと思い思い悩むことがある。
時を待つのが良い。
私たちの心はうちに燃えていたではないか。(ルカの福音書24章32節)
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イエス様は休まずに働かれた。
さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。
そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」
イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。(マタイの福音書18章18-24節)
イエス様は寝る間も惜しんで働かれたことがわかる。”人の子には枕する所もありません”、”舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた”とある。
イエス様について行くのはそれなりの労苦を伴うと察する。
イエス様について行こうとした律法学者、別の一人の弟子がこの後どうしたかは書かれていない。さて我々ならどうするだろうか。なぜイエス様はそれぞれの人にこのように言われたのだろうか。弟子になる心構えを試されているようである。
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイの福音書16章24-25節)
十字架は自己犠牲の象徴とのことである。さて、自分にとっての十字架とはなんだろうか。ただ言えるのは、自分の思いを追い求めても何も得ることができない。これが”いのちを救おうと思う者はそれを失い”かも知れない。
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(ヨハネの黙示録2章10節)
クリスチャンはこの世にあって安息を見出せない。これはその通りである。”クリスチャンは”は”人は”と言って良いと思う。
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神様の人に対する取り扱い。
あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。(詩篇8篇3-6節)
唯一、神様との関係の中でのみ自分の価値を見出すことができる。
ここにしか希望はない。
心が罪に行かれていく中で神様に感謝の祈りを捧げることができるか。
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パウロのこの献身的動機はどこから来るのだろうか。
このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。(テサロニケ人への手紙第一2章8節)
私にはない。求める気もない。
私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。(テサロニケ人への手紙第一2章4節)
パウロの動機は神様に認証されたものだとある。
このように神様の意思によってパウロのような人は存在するのだ。きっといろいろなクリスチャンがいて、それぞれの持つ動機によって神様の喜びとなるのだろうと考える。
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”霊とまことによって父を礼拝する”について考える。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネの福音書4章20-24節)そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。(ガラテヤ人への手紙4章6-7節)
私たちが何かしたからではなく、クリスチャンはその立場におかれている。イエス様を信じたときに私たちは聖霊を受けた者となり、いつも神様の前に立つことができる。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。 (テサロニケ人への手紙5章16-18節)
”これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです”とある。場所も時間も立場も関係なく神様を見上げる喜びを持っている。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ人への手紙12章1節)
神様の前にいつでもでれる備えは必要である。我々は神様の目を避けがちである。備えは律法的であることではない。そのままの自分を神様は受けいれて下さることを信じることである。
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賛歌とは喜び。喜びはどこから来るこのか。
ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌
主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。セラ
(詩篇3篇1-2節)
賛歌とそれに似つかわしくない状況。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
(マタイの福音書5章3-6節)
人は苦しみ、悲しみ、痛みの中で神様と出会い、本来の人としてのあり方にもどる。
しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ
私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ
(詩篇3篇3-8節)
神様を見失うことが本当の失望である。
よどみの中で神様に出会うことはない。それは、人が神様を呼び求めないからだ。人が神様により頼まないからだ。
苦難にあって”私のかしらを高く上げてくださる方”が私にはついておられる。だから、私は恐れはするが、逃げはしない。いつも苦難の中に平安を得る。
死んだ魚はただ流される。苦しみも悲しみも痛みもない。しかしこれは平安ではない。
イエス様が去られる前に仰った言葉
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
(ヨハネの福音書12章47節)
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まことにクリスチャンは幸いである。
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。(詩篇1篇1節)
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。(詩篇32篇1-2節)
律法と救いの対比。行いとあわれみの対比。
ただただ神様のあわれみによって幸いにいたる。
”水路のそばに植わった木”(詩篇1篇3節)は自分で水路のそばに植わるのだろうか。自分の意思で養分や水分を得ることを選択するだろうか。
クリスチャンは神様が植えられた”水路のそばに植わった木”である。そして育ち、実を結ぶ能力も神様によって創られている。
まことにクリスチャンは幸いである。
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クリスチャンが喜びに満たされているていなければ福音は伝わらない。神様により頼み、喜び、感謝していればその姿勢は見ているものに伝わる。それだけが伝わる。
あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
(テサロニケ人への手紙第一1章6節)
”信者の模範”とはどういう状態だったのだろうか。当時、パウロは模範をどのように示したのだろうか。実態は隠されていて、これはクリスチャンごとに違うのだろうと思う。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ人への手紙第一5章16-18節)
神様に望みを置く者は皆そうする。”聖霊による喜び”がそこにある。
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Brother SRKの学ばれたこと。
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」(ヨハネの福音書21章15-19節)
イエス様はペテロから何を引き出そうとされたのか。
確かに繰り返し訪れる試練は、イエス様の問い”あなたはわたしを愛しますか。”のようように思えてきた。
”心を痛めて”、そして”あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。”と答えたとき、心の凝りがほぐれて次の道に進むことができる。
最後には自分の望みとは違う道に進み”神の栄光を現わす”をあらわすようになるのか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。(ヘブル人への手紙12章2-4節)
いずれ自分の欲望と自由を放棄し最後の戦いに出るときが来る。
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クリスチャンの日常。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(ヘブル人への手紙12章2節)
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ人への手紙12章1節)
神様に自分を捧げているクリスチャンに対する憧れ。
神様から目を離さないとは、聖書に親しむ、祈る、礼拝する、働きに参加する・・・・。
”人生の全ての時を神様に目を向けていないといけない”この負い目の感覚は面白い。この感覚を持つことによって神様との関係の中に自分自身を構成している。
さてこれはいけないことか。卑下すべきことか。クリスチャンとはこういうものではないだろうか。
まさに神様の前には幼子のようであるのが良い。
しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。(コリント人への手紙第二2章14節)
私たちが勝利の行列に加わったのではない。加えられたのだ。
私たちがキリストのかおりを放っているのではない。放ってくださっているのだ。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3章6節)
このことおり神様が道をまっすぐにされるのだ。
いつも主を認めていることができれば幸いである。全ての良いことは神様が実現してくださる。からし種ほどの信仰があればこの幸いに入ることができる。
サンデークリスチャンなんて表現を初めて聞いた。
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この有名な聖句は誰に対してかたられたのだろうか。
”心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。”
(マタイの福音書5章3-12節)
次のとおりあるとおり、イエス様は明らかに群集を対象とされ、弟子たちが集まってきた。
”この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。”’(マタイの福音書5章1節)
すべての者に向けて語っておられる。
得ることに対する希望と得たことの喜びではないであろうか。
私はこの特権を得たことに満ち足りている。今の自分が良い。
永遠の天の御国とこの世で生きるにあたっての救いである。
私は天に国籍を持っている。
私は慰められ、地を相続し、満ち足りることができ、あわれみをうけ、神を見、神の子と呼ばれ、天の御国を相続し、大きな報いを受ける者なのだ。
すごいことではないか。
そしてこのことに出会ったとき、助かったと思ったことを覚えている。
もう、何も足したくない。もう、何も引かれたくない。
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難しい聖句である。
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ人への手紙8章29-32節)
”あらかじめ知っておられる人々”とある。クリスチャンにとっては本当に感謝な箇所なのだ。
しかし、クリスチャンでなく亡くなられた方々は神様から選ばれなかったとなってしまう。
この区別をどう受け取ればよいのか。
ただ言えるのは、選ばれた者か、違うのかは召されるまで解らない。
このことに表されている神様の愛を私は充分に理解できていない。
ただ、私は”あらかじめ知っておられる人々”の一人であることを知っている。私が何かしたから今の立場を得たのではないことだけが解る。
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。(ヘブル人への手紙12章5-8節)
神様を父とし、自分が選ばれた者と認識することができれば、すべての現状を受け入れることができる。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4章6-7節)
ただただ、まことに幸いなのだ。これで充分なのかも知れない。
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テサロニケへの手紙は紀元50年頃に書かれている。
つまりイエス様が昇天されてからわずか20年後ぐらいにはパウロは活発な伝道旅行をしていたそうである。
信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐(テサロニケ人への手紙第一1-3節)
やはり労苦と忍耐が着目されている。
労苦と忍耐があって、その先に喜びがある。
私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。(テサロニケ人への手紙第一1-5節)
言葉ではなく、経験した喜びだけを伝えることができる。その通りである。
そして喜びを伝えることができないといけない。
たしかに労苦と忍耐はいつもある。
今の労苦と忍耐が喜びに変わることを信仰によって捉えることができれば幸いなことである。
信仰の働き、主イエス・キリストへの望みの忍耐は実感するものがある。
私にとっての愛の労苦とはなんなのだろうか。
やはり愛を知ることは、神様を知ることであり、一生のテーマなのだと思う。
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イエス様の受けられた試練。
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。(マタイの福音書4章1-11節)
なぜ、イエス様は試みられたのだろうか。
キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。(ヨハネの手紙第一3章5節)
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人への手紙第二5章21節)
イエス様は試みによって成長されたのではない。
明らかに勝利の実現の模範である。
悪魔はイエス様を不完全なものだと思っていたようである。
悪魔はいたずらに茶番劇に参加しない。本当に敗北したのである。
イエス様の試練は我々に何を教えるのか。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(ヨハネの手紙第一2章16節)
”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”このことから人は解放されるだろうか。
無理であろう。神様から出たものではないのは確かなのだが。
はたして”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”を否定することが正しい道なのだろうか。
イエス様はパンを食べることも楽しまれた。人としてのあり方も示しておられる。
やはり”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”の奴隷ではなくて自由であるのだと読むべきではないだろうか。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(ヨハネの手紙第一2章17節)
このことを知っておくべきである。すべての世のものはむなしい。世のこと”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”だけに期待、心をおくと"Life sucks"になってしまう。
”神のみこころを行なう者”とはなにか。イエス様を救い主として信じることである。ここに心をおくことに希望がある。
自由すなわち勝利なのだ。
神様から目をそらさず”肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢”を楽しめばよい。
”パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる”とあるとおり神様から出るものが必要なのだと同時にパンもあってよいのである。
この自由こそ救いではないか。
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
わたしが世にいる間、わたしは世の光です。(ヨハネの福音書9章4-5節)
そしてこの救いには期限があることを忘れてはいけない。
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クリスチャンが一堂に会する集いに参加する。
メッセージ+ディスカッションが2セットあった。
他のクリスチャンがどのように人生を捉えているのか、聖書を解釈しているのかを聞くのは好きだ。
違いの中に発見と考察がある。
今日も大いに発見し、考察を得る時を持てた。楽しい集いであった。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(コリント人への手紙第一12章27節)
皆違う。そして、統合されて完成する。
優劣は無い。平等だからではなく、各々が固有の目的を持っているからである。
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救い主が来られた経緯を福音書から見ることができる。
イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。(マタイの福音書2章1-12節)
ユダヤ人は救い主が来られたことを知らない。歓迎もしていないようである。
ただ、神様が歴史を動かされ、救い主が来られる預言を実現された。
学者たちはみな信仰によって、救い主が来られることを現実のこととしいて受け入れている。
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」 (ヨハネの福音書20章29節)
今、我々は学者たちと同様に聖書を通して救い主が来られたことを知っている。
信仰によって知り、信仰によって受け入れることができる。
この信仰はどこから来たのだろうか。なぜ持つことができるのだろうか。
我々は何の努力もしていない。
今、信仰が増し加えられることを望んでいる。平安と自由を得るためである。
しかし、最初の第一歩をなぜ踏み出せたのかは知らない。
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しもべとして生きる。
ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。
かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。
しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。
あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」
(ルカの福音書17章7-10節)
これがクリスチャンのありかただろうか。
誰がこのようなしもべとしての立場を望むだろうか。
神様はしもべを望んでおられるののだろうか。
ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。(コリント人への手紙第二5章14節)
滅私か。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ人への手紙8章32節)
神様がしもべのようにわれわれに備えてくださる。
イエス様は私たちに何を伝えようとしておられるのだろうか。
神様が全ての必要を満たして下さるので、われわれは自発的に何も足していないということか。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ人への手紙2章10節)
このとおり、”なすべきことをしただけです”である。
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愛について考える。
私は愛というものがよくわからない。
主にあって愛する兄弟(コロサイ人への手紙4章7節)
”主にあって”とあるがどういう意味であろうか。
”主にあって”でなければ愛していないとも理解できる。
”主にあって”とはお互いにクリスチャンであるという意味であろうか。
みんな兄弟姉妹をどのように捉えているのだろうか。
コロサイ人への手紙4章には、忠実な奉仕者、同労者、心に励ましを受ける者、激励する者、あなたがたのために祈りに励んでいる者、とある。
素直な気持ちで、自然体でこうなるものだろうか。努力してこうなるのは辛いだけだ。
よく解らない。
自分のうちに力強く働くキリストの力(コロサイ人への手紙1章29節)
この力が内からわいてこないと愛することはできないと思う。
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サマリアの女とイエス様の会話に見る礼拝。
私たちの持つ霊としての形。
私たちのあり方そのものが礼拝者である。
意識の持ち方が礼拝ならしめる。
神様の存在そのものを褒め称えることが礼拝である。
あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、
「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
(ペテロ第一の手紙2章3-9節)
霊のいけにえ。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ人への手紙12章1-2節)
自分を捧げる。
ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。
善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。
(ヘブル人への手紙13章15-16節)
礼拝はいけにえを捧げることである。いけにえとは自分を殺すことである。
長い言葉は必要ない。
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”クリスチャンであることにうらやましいと言われたいではないですか。”
今日の一連の交わりで共感した。
この言葉をはじめて聞いたような気がする。
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ローマ人への手紙に挿入するように記されているクリスチャンへの神様の恵み。
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
(ローマ人への手紙11章33-36節)
このみことばはクリスチャンに以下の3つの資質を与えてくれる。
当たり前のことにように思えるが、あえて必要なことのようである。
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良き生について
”生きているのではない。生かされているのである。”
それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。
(ピリピ人への手紙1章20-22節)
”キリストがいなければ人生はない。”
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
(ピリピ人への手紙2章6-8節)
”このキリストがいなければ人生はない。”
良き生。
私は、罪の赦しだけでは人生を満足しない。
私には何かが欠けている。何かから開放されていない。
”クリスチャンとしての本当の喜びを知らない”
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”イエス様しかない”、この信仰を硬く保つ。
それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。(マタイの福音書15章21-28節)
イエス様にすがりついて行く姿。
イエス様に見放されるが、引き下がらない。
イエス様が見放された意図はよくわからない。言葉通りユダヤ人を救うことだけを良しとされていたのか。
最後まですがりついた女は救いを得た。
ここに学ぶべき姿がある。女は重荷を負っているからすがり求める。助けを求めるべきところはイエス様だと信じているからすがり求める。
途中であきらめたらどうなるのか。確かに去っていった者もいる。
ここに救いに至るか、至らないかの差が現れる。
救いとは信仰である。信仰はすがりつく一途な思いと、最初の第一歩だ。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。 (マタイの福音書12章20節)
イエス様は両手を広げて信じ、すがりに来る者を待っておられる。
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(テモテへの手紙第二1章7節)
神様はからしだねを与えてくださった。
みことばの武器を携えて、神様の愛に迫っていく。
By INGK兄
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クリスチャンの生き方についての学び会
デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、・・・
(テモテ第二の手紙4章10節)イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。
神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。
その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、
知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。
これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。
ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。
(ペテロの手紙第二1章1-10節)
難しい、禁欲的であるか、開放的であるか。
この狭間に陥って苦しむクリスチャンが多くいる。
(私にはこのことに関わる確信がある)
やはり、肉にあって世を楽しむことは、神様がご計画されたことである。
”感謝して”受けるべきである。これがよいと考える。
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
(コリント人への手紙第二1章26-31節)
この通り、やるべきことをするために神様は召してくださる。召しに逆らうことなどできないではないか。
頑張るぞと気負う必要など無い。
頑張ったペテロはたくさんの失敗を福音書に記されている。この事実には意味がある。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
(ヨハネの福音書15症16節)
私たちが何か心がけ修行をしたから聖者になるのではない。イエス様が望まれる実りのために、クリスチャンは召されたのである。
このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。
肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。(ペテロの手紙第一4章1-3節)
クリスチャンは試練を通してイエス様の苦しみの一部を味わい、欲望から開放されるのである。これは禁欲的であることを目指すと言っているのではない。
変わっていくのだ。欲望から開放され自由になるのである。
自然体で平安であれば、実に幸いである。
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奥義についての学びであった。
新改訳聖書には”奥義”が27箇所出てくる。
奥義とはイエス様と救いと教会と昇天のようである。
知れ。神はあなたのために、あなたの罪を忘れてくださることを。(ヨブ記11章6節)
イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。(ローマ人への手紙11章25節)
あなたがたを堅く立たせることができる方(ローマ人への手紙16章25節)
私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。(コリント人への手紙代第一15章51節)
福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。(エペソ人への手紙3章6節)
私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。(コロサイ人への手紙1章25節)
私は目をさましているのだろうか。
目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。(コロサイ人への手紙4章2節)
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神様を賛美するために、神様が音楽を創られた。
私たちの心は音楽に感応するように創られている。
そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。(マタイの福音書26章30節)
このときの賛美は詩篇118篇だった。
家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。 これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。(詩篇118篇22-23)
けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。(詩篇22篇3節)
賛美をすることによって、私たちは「主に出会う」ことを経験する。
詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。(エペソ人への手紙5章19節)
ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。(歴代誌第二5章13節)
賛美は神様に向かってなされる。
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安息日のたとえ
ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。
すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」
そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」 (ルカの福音書6章1-5節)
別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。
そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。
イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」
そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。
すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。(ルカの福音書6章6-11節)
イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。
すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。
イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました」と言って、
手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。
すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」
しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。
この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」
こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。(ルカの福音書13章11-17節)
ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。
そこには、イエスの真っ正面に、水腫をわずらっている人がいた。
イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と言われた。
しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いていやし、帰された。
それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
彼らは答えることができなかった。(ルカの福音書14章1-6節)
祈り
いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために(ルカの福音書18章1節)
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(ペテロの手紙第一2章22-23節)
自由に祈る。かなえられたと信じる。主に委ねる。
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コロサイ人への手紙3章4-14節
皆でコロサイ人への手紙を学ぶ。
不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。(コロサイ人への手紙3章5節)
怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。(コロサイ人への手紙3章8節)
これは全てのクリスチャンに向かってのことばなのだろうか。こういうクリスチャンもいるのかということだろうか。
振り返って自分が変わっていることに気付く。
不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりの中に留まっていたし、怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべきことばを個性だと思っていた。
開放されて自由になっているのだ。
新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ人への手紙3章10節)
”着た”と書かれているのであるから、既に変わっていく資質を得ているのである。
では、どういう人になるのだろうか。自分らしさを失うのだろうか。
いや違う。キリストに近づくのである。
福音書にあるとおり、イエス様は自由な方である。
人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。(マタイの福音書11章19節)
全ての悪から開放されて、神様から与えられた被造物を楽しむ。
これは素晴らしいことである。
本当の自由を私は知らない。
ここに希望がある。
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壇上で語られていることが、自分の信じてることと反することがある。食べる人と食べない人か。
食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。(ローマ人への手紙14章3節)
多様、しかし、神様は一つ。これが真実なのだ。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い(コリント人への手紙第Ⅰ1章25節)
そして、自分に欠けているのは、滅びて行く人が実際に居ることを認識していないことだと知る。
まさに学ぶ時である。
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”罪を持っているせいで神様から用いられない”と”神はあなたに夢中です”が共存する世界を理解できるだろうか。答えは”謙遜”である。
謙遜は正しい選択を求める。そして正しい選択をする。
神様はそんな謙遜な態度の人を助けてくださる。
今日の学びを聞きなおしてみる。
クリスチャンには聖霊が宿っている。
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(使徒の働き2章38節)
だから、自分自身を手放し神様を第一に考えるはずである。
あるいは自分が聖霊を宿していることをわかっていないクリスチャンがいるかもしれない。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(コリント人への手紙第一6章19-20節)
しかしできない。罪が邪魔をするのだ。
聖霊を封じ込めて、自分の思い通り日々、歩むことは残念なことである。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。(ローマ人への手紙7章15-25)
ではどうすれば良いのか。
イエス様にゆだねる。イエス様が救い出してくださる。
神様を侮ってはいけない。神様に望めば全て与えてくださる。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル人への手紙4章12-13節)
素晴らしし学びである。
私は誤解していた。
”自分を振り返って、自分自身を卑下するのは謙遜なのだろうか”、”自分の努力で解決できるのだろうか。”と思っていたが、聞きなおしてそんなことは全く言っていない。
きちんと話を聞いていない。私は不遜だから、正しく聞けない。
今日の学びは聖霊による本当の学びである。
聞くそれぞれの人に必要なことが語られている。最低、メッセンジャと私に対してそうである。
我々クリスチャンは聖霊の宮である。これは事実である。
そのことを知っていることが重要なのである。
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詩篇61編、マタイの福音書18章、ピリピ人への手紙3章9節-21節を読む。
ピリピ人への手紙は学び会で読む。
ピリピ人への手紙のこの個所は文章が難解である。
”目標を目ざして一心に走っているのです。”(ピリピ人への手紙3章14節)の”目標”と、”走っている”があらわす具体的な行為がわからない。
義を持つことも、復活に達することも、捕らえることも、国籍を天におくことも、姿を変えることも、全て神様から与えられた恵である。
それぞれは行いで実現することはできない。
結局のところ神様の恵深さを知ることだけがすべきことであり目標だと理解する。
これはその通りである。
持っていないものがいかにつまらないか、持っているものがいかに素晴らしいかを私は知らない。
だから不幸なのである。
この目標は具体的な行為に結びつかない。行いによらないのだから。
しかし実際には、”すでに達しているところを基準”(ピリピ人への手紙3章16節)とすることは経験しており、新たな目標を生み出している。
”どこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。”(ピリピ人への手紙3章15節)
至れり尽くせりである。
しかし、この目標に対する取り組み姿勢は謎だ。
日々の暮らしぶりに関わることである。
実に悩ましい問題である。
”ただ捕えようとして、追求しているのです。”(ピリピ人への手紙3章12節)
うーん。。。。
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ルカの福音書19章、詩篇20篇を読む。
今日は尼崎キリスト集会で特別伝道集会。
鈴木一志兄弟の学びと伝道メッセージを聞く。
天国に行けることが約束された喜び、神様に愛される喜び、救われて生きる喜びがじんわりと伝わってくるメッセージだった。
尼崎キリスト集会のホームページを修正する。
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ルカの福音書13章、イザヤ書30章、詩篇12篇を読む。
今日は尼崎キリスト集会で特別伝道集会。
ドナルド・ロス・リビングストン宣教師の学び、伝道メッセージ、宣教の報告を聞く。
伝道メッセージは使徒の働き3章11-15節から。
感動してしまった。
尼崎キリスト集会のホームページを修正する。
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礼拝
最後に感動してしまった。
賛美
590”すくいぬしイエスと”
学び
詩篇16篇5節~6節:相続する物。”ゆずりの地所”、”杯”。
ヘブル人への手紙10章10節:”私たちは聖なるものとされている”
ローマ人への手紙8章14節~17節:”神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子供です。”
ローマ人への手紙8章18節:”将来私たちに啓示されようとしている栄光”
ルカの福音書7章28節:”神の国で一番小さい者”
マタイの福音書16章13節~19節:ペテロの信仰告白。”天の御国のかぎ”
我々の相続する物。
現世では義認(義と認められる)、聖化(世俗からの分離)、子とされる(相続を約束される)。
来世では花嫁(神の国で一番小さい者とは救われた者でのの意味)。
賛美
454”まどいのくもきえて”、530”なやむよびとのために”、”シャロンの花”
伝道①
ルカの福音書13章22節~24節:”努力して狭い門から入りなさい”
マタイの福音書11章28節~30節:”わたしがあなたがたを休ませてあげます。”、”わたしのくびきを負って”
昨今の知的人間の受難。何も持たずに一人でへりくだって。永遠のいのちへ。
伝道②
伝道者の書3章1節~3節:”全ての営みには時がある”
伝道者の書3章9節:”働く者は老躯して何の益を得よう”
伝道者の書5章15節~16節:”自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない”
伝道者の書11章9節~12章1節:”あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。”
伝道者の書12章13節~14節:”神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってのすべてである”
終着を見据えた時、目をそらしていた不安に直面する。
死に対する不安、価値を見出せない不安、罪に対する不安
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昨日の祈り会ででた課題を家内に伝える。
日ごろ思っていることや信仰について話し合う時間が持てた。
これからも続けよう。
ハローワークのおかげでこの時間がとれた。無ければツーリングに行ってる。
最近何もしていないことを気にしていたが、吹っ切れたような気がする。
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祈り会@尼崎キリスト集会
賛美
298”世にあるかぎり”、536”ガリラヤこのきしにて”
536はいいな。またバイオリンのCDを探そう。
祈り
課題を出し合う。
祈り続けていることが思ったように解決しない。
何が起こっていて、何が正しくて、どうあるべきかがまったく判らない。
祈りのことばが出てこない。
交わり
祈りのことばが出てこないこと、最近、バイク三昧で何もしていないこと、苦しかった時の方が熱心であったように思えることを兄弟姉妹に相談する。
でも、日々平安である。
結論は”何もしない”ではなく”何もできない”だからじたばたしない。
祈りのことばは”主にゆだねて平安を得る”。
信仰は与えられるものである。
兄弟姉妹のために主を信頼する信仰が与えられるように祈ろう。
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礼拝
3番目が定位置になりつつある。
今日は自分の祈りが終わった後に、祈りの言葉が次々に頭に浮かんできた。
学び
テモテへの手紙第二4章1節~8節:”みことばを宣べ伝えなさい”、”走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。”
テモテへの手紙第二4章17節~18節:”主はわたしを、全ての悪のわざから助け出し、天の御国に入れてくださいます。”
救いとは罪びとが罪を持ったまま自由になること。
神の前に私たちは唯一であり、今の私達を良しとされる。
賛美
”主われを愛す”、”祈ってごらんよわかるから”、”みよわれはたちて”
伝道①
ヨハネの福音書14章6節:”わたしが道であり、真理であり、いのちなのです”
創世記1章1節:”初めに神が天と地を創造した”
ダニエル書9章25節~26節:イエスの来ることの預言
予想外のことが起こる短い人生。神は全てご存知で、わたしたちを愛してくださる。
伝道②
使途の働き17章19節:”知られない神に”
エペソ人への手紙2章1節~6節:”罪過の中に死んでいたこのわたしたちをキリストとともに生かし”
法律的な罪、道徳的な罪、絶対的な罪
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テーマは”復活されたキリストの現われ~His appearance~”
講師はBro. Roy Hill
賛美
520”ただ主を”
学び
ヨハネの福音書20章1節~18節:マグダラのマリヤ
賛美
601”あいする主よわが君よ”
学び
ヨハネの福音書20章19節~30節:弟子たち、トマス
賛美
168”いざひとよ”
学び
ルカの福音書24章13節~36節:クレオパ
賛美
179”おおくのかむり”
学び
ヨハネの福音書21章1節~22節:ペテロ
みんな初めは復活されたイエスを認識できない。
トマスは傷を見ていない。だれかが傷を見たと言う記述はない。
クレオパとその連れは”彼らの目が開かれ、イエスだとわかった”とある。
ペテロはヨハネに教えられて気付いたし、ヨハネは業を見て気付いた。
イエスは見かけで認識できるのではなく、栄光を見て認識できるのである。
つまり、我々も今、イエスを見ることができるのである。
(”見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。”と書いてある。目が開かれると見ることができる。どんなにすばらしいことだろうか。)
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学び会@尼崎キリスト集会
賛美
229”おどろくばかりの”
学び
ヨハネの福音書1章40節~42節:”私たちはメシヤに会った”
ルカの福音書5章1節~11節:”網をおろして魚をとりなさい”、”あなたは人間をとるようになるのです”、”何もかも捨てて、イエスに従った”
ルカの福音書6章12節~16節:”十二人を選び、彼らに使途と言う名をつけられた。”
ルカの福音書22章31節~32節:”あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。”
出会い→従う決心→使途としての召し→主の励まし
”伝道”と”羊の群れを養う”
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今日は和泉集会から3人の兄弟と一人の姉妹をお招きして、聖書特別講演会である。
兄弟の一人は私の高校時代の恩師。
昼食会
兄弟と姉妹と別れて昼食と交わり持つ。
礼拝
一生懸命、御言葉を覚えようとして、最後の賛美を飛ばしてしまった。
賛美
521”キリストにはかえられません”
学び
申命記8章2節~4節:”人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる”
申命記8章11節~14節:”あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。”
申命記8章16節~17節:”あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。”
マタイの福音書28章18節~20節:全世界宣教命令
マタイの福音書16章24節~27節:”だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。”、”おのおのその行ないに応じて報いをします。”
ヨハネの福音書14章12節~14節、15章7節~16節、16章23節~24節:父に求めなさい。
ピリピ人への手紙1章27節~2章3節:”キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。”、”あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。”
信仰の餓えと飢えから来るい祈り、神様から祝福された状態から高慢にならないように。
一般の恵、キリストの恵(救い)、弟子の恵がある。
賛美
”いつくしみ深き”、”きよいふみは教える”
聖書メッセージ1
ヨハネの福音書4章:サマリアの女
イエスの7つの発言。
この世の与えられるもの、この世の与えられないもの。
聖書メッセージ2
ヨハネの黙示録1章5節:”忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト”
ヨハネの黙示録1章17節~18節:”わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。”
アーミッシュの襲撃事件での少女の勇気ある最期の話。死に対する準備。
イエスに対する決断。
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昔、海釣りをしていた時から欲しかった一品である。
当時は真冬の早朝にカレイを狙って投げ釣りをしていた。
本当に寒かった。
このぱっち見かけはごついが、ピチピチのEDWIN503の下に履いても目立たないと言う優れものである。
マルコの福音書13章、詩篇110篇、ヨブ記32章~37章、歴代史第一13章、出エジプト記1章、オバデヤ書
通読、エペソ人への手紙通読、エゼキエル書19章1節~4節(Clay)
今日は祈り会だった。
祈りの課題を出し合う。
人にはどうしようもない問題がたくさんある。祈り求めていくのだ。疑ってはいけない。
我々に御子をお与えになった方は待っておられる。
”人知をはるかに超えたキリストの愛”を今こそ信じるのだ。
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鍵が開いていない。誰もいない。。。。
再臨?これじゃ本”Left Behind”じゃない。
長老に電話をかける。朝一番目の研究会が中止になった、とのこと。連絡もれでした。
礼拝
先週同様に一週間に読んでメモした御言葉をおさらいして、賛美、感謝、願いを祈りにする。
賛美
498”うたいつつあゆまん”
学び
ヨシュア記1章1節~9節:モーセからヨシュアへの代替わり、”強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。”
ヨシュア記24章1節~29節:”わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。”、”あなたがたは、主を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。”
主に仕える。
賛美
584”あたらしき地に”、428”とうとき泉あり”、412”つみのやみじに”
伝道Ⅰ
ヨハネの福音書19章30節:”「完了した。」と言われた。”
レビ記16章11節:アロンの罪に対するいけにえ
レビ記16章34節:”年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。”
ヨハネの手紙第一2章2節:”この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。”
マルコの福音書10章45節:”人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。”
マタイの福音書27章51節:”神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。”
救いを受け入れたものが教授できる、十字架でなされた3つの業。なだめ、贖い、和解
伝道Ⅱ
ピリピ人への手紙1章21節~22節:”私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です”
テモテへの手紙第二4章17節~18節:”すべての国の人々がみことばを聞くようになるため”
ルカによる福音書23章39節~43節:十字架。二人の犯罪人
あなたにとって生きること、死ぬことはなんですか?
家内が聖歌のピアノ練習をしている。
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芦屋恵キリスト集会にてファミリーコンサートとショートメッセージを聞く。
すばらしい歌声に聞きいる。癒されるひと時であった。
演奏者一人なのにピアノとストリングスの音がかぶさって聞こえてくるのが不思議だった。
”足跡”と言う歌の解説は聞いたことがあったが、どこで聞いたのか思い出せない。気になる。
メッセージはルカによる福音書19章のザアカイの話。
見事なメッセージであった。
ストーリに沿って解説しているだけのように聞こえるが、各々の状況が聞き手の心にしみこんでくるように伝わってくる。決して聖書の引用個所を多用しない。
イエス様とザアカイの対話している状況が目に浮かんでくる。イエス様のザアカイに対する思い入れ、我々に対する思い入れが表現されていた。
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判っていたのだが、早く出ても渋滞で到着時間はいつも一緒。
でも、渋滞中は一人、じっくり考える時間を与えてくれる。
アフリカツインかダカールか、お金が足らないなーと思ったら、借金するかぁ、とか自分で何とかしようとしている。
主に悩みを持って行かないことに気づいた。これっておかしい。良くない。
祈って始めたことなのに、終盤で不信仰が爆発する。
学び会@尼崎キリスト集会
聖歌
519”世には良き友も”,473”まずしくあれども”
学び
□ヨハネの黙示録3章14節~19節:”冷たくも熱くもない”、”実は自分が惨めで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることをしらない。”
□エペソ人への手紙1章17節~19節:”心の目がはっきり見えるようになって”、”神の召しによって与えられる望み”、”聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか”
□エペソ人への手紙3章16節~19節:”内なる人を強くしてくださいますように”、”人知をはるかに越えたキリストの愛”
□ローマ人への手紙12章1節~2節:”心の一新によって自分を変えなさい”
□ヨハネの黙示録3章19節~22節:”熱心になって悔い改めなさい”、”私の座に着かせよう”
14節から出てくる教会ラオデキヤは最後の時代の教会を表しているらしい。勝利に対する報酬がほかの教会と違い、特別にすごい。
信仰と確信を見直す。自分は何のために救われたのかを考え直す。聖霊に喜ばれるように、自分を変えていただくように祈る。
イエス様を見ているか。ペテロは主を見ているときは水の上を歩いた。風を見て怖くなって沈んだ。
今日は自分に言い聞かされているような学びだった。
個人レベルの平安と物質的な充足に満足するときは、死んだ魚のように流されてしまう。こんな時代は熱心であることが難しいのだろう。
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相談会
10月29日は聖書特別講演会。
私の恩師がメッセンジャーである。
秋の遠足が11月4日に変更。
当初、予定の11日に音楽会の学校が多く、参加者が少ないのが理由。
昼食
お弁当持参
賛美
590"すくいぬしイエスと"
学び
エペソ人への手紙1章7節:罪の赦し。神の豊かな恵み。
エペソ人への手紙2章5節:私たちをキリストとともに生かし
使徒の働き9章1節~9節、19節~20節:パウロの改心
ローマ人への手紙3章20節:律法によって罪の意識が生じる
テサロニケ人への手紙第一2章1節~4節:神に認められて福音をゆだねられたもの
コリント人への手紙第一1章26節~31節:有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれた
エレミヤ書9章23節~24節:これを誇れ。悟りを得て、主を知っていることを
ローマ人への手紙6章20節~23節:罪の行き着くところは死。聖潔の行き着くところは永遠のいのち。キリストイエスにある永遠のいのち
救いについて。
救い(決心)、生きる、行き着くところ。行き着くところは死か、永遠か。
礼拝
一週間で読んでメモしておいた聖句をおさらいして、賛美、感謝、願いを祈る。
賛美
607”つみとがをにのう”、440”十字架のうえにて”、”主われを愛す”
伝道メッセージ①
ルカによる福音書10章38節:マルタとマリヤ
使途の働き4章10節~12節:イエスキリストの御名以外に救いはありません
箴言19章22節:”人の望むものは、人の変わらぬ愛である。”
イザヤ書54章10節:”わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない”
生きているときと、死ぬときの、大事なことと必要なことについて。
死ぬときに必要なことは永遠のいのちにいたる救い
伝道メッセージ②
ルカによる福音書15章11節~22節:放蕩息子。父の出迎え。
箴言15章33節:”主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ。”
箴言28章13節:”自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。”
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尼崎高原ロッジにて、一泊二日の2日目。
よい天気で、すがすがしい日である。
賛美
”今こそキリストの愛に応えて”、536”ガリラヤ湖のきしにて”、516”よびとはてきに”
学び
ヨハネの福音書9章1節~3節:盲人
ヨハネの福音書9章35節~41節:”目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる”
エペソ人への手紙1章17節~19節:”恵みがますます多くの人々に及んで”
ルカの福音書5章18節~20節:”友よ”中風をわずらっている人
ヨハネ8章31節~34節:罪の奴隷
マタイの福音書26章48節~50節:”友よ”イスカリオテのユダ
コロサイ人への手紙1章21節~22節:”神を離れ、心において敵となって”
ヨハネの福音書11章11節~14節:”友よ”死者ラザロ
エペソ人への手紙2章1節~6節:”自分の罪過と罪との中に死んでいた者”
コリント人への手紙第一15章42節~49節;”御霊に属するからだによみがえらされる”
コリント人への手紙第二4章6節~7節、15節~18節:”恵みがますます多くの人々に及んで”
テサロニケ人への手紙第一5章16節~18節:”いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。”
盲人の姉妹の生涯。
福音書にイェス様が”友よ”と言われた個所が3箇所ある。
我々クリスチャンは罪の奴隷であり、神に敵対するものであり、罪の中に死んだものであったが、神様の恵みにより召された。喜び、祈り、感謝するものであることを望まれている。
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昼食
セブンイレブンのお弁当を食べる。
キムチチャーハンとサラダ
賛美
581"したいまつる主の"
学び
ヨシュア記14章6節~12節:カレブ85才で壮健
使徒の働き7章6、22~23、30、36節:40という数字
ヨシュア記1章6節:強くあれ。雄々しくあれ。
ヨシュア記23章14節:神様の約束が全て実現したことを、心を尽くして、精神を尽くして、知らなければならない。
詩篇121篇:私の助けは、天地を造られた主から来る。
ヨシュア記13章1節:まだ占領すべき地がたくさん残っている。
ヘブル人への手紙10章36節:必要なのは忍耐
岡田兄弟が40年の松山伝道を振り返って、信仰生活について語ってくださった。
24歳で単身、開拓伝道として行かれたと言う。
すごい話だ。
礼拝
少し解ってきたぞ。
心に浮かんだことから感謝の言葉が出た。
賛美
”罪ふかきこの身を”、”心にもだえあらば”
聖書メッセージのつどい
創世記1章1節:”初めに、神が天と地を創造した。”
創世記1章27節:”神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。”
コリント人への手紙第一1章18節~25節:”十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。”
使徒の働き5章27節~40節:”人に従うより、神に従うべきです。”、”人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。”
ローマ人への手紙1章2節~4節:”前から約束された”、”ダビデの子孫として生まれ”、”死者の中からの復活”
ヨハネによる福音書14章6節~9節:”わたしを見た者は、父を見たのです”
ピリピ人への手紙2章6節~8節:”キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。”
コリント人への手紙第一14節~15節:”キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです”
マルコによる福音書11章27節~33節:”天から来たのですか、人から出たのですか”
マルコによる福音書1章1節~8節:”見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。”
テモテへの手紙第一1章15節:”まことであり、そのまま受け入れるに値するものです”
福音は天から来たのもの、そのまま受け入れるに値するもの。
賛美
”この身をとりこにせし”
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今日は特別伝道集会。
初めての方が来られていたらしい。神様のお導きがその方の上にありますように。
賛美
”世にはよき友よ”、”流したまいし”
聖書メッセージ「心の中に泉が」
ヨハネの福音書4章3節~26節:”サマリヤの女が水をくみに来た”
マタイによる福音書4章23節:イエスの宣べ伝え
マルコによる福音書1章15節:悔い改めて福音を信じなさい
ヨハネの福音書7章37節~39節:”だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。”
ヘブル人への手紙9章27節:死とさばき
ヨハネの福音書3章16節:”神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。”
賛美
”神なく望みなく”
学び
コリント人への手紙第二4章18節:”見えないものにこそ目を留めます”
ヘブル人への手紙11章1節~3節:”目に見えないものを確信させるもの”
ヘブル人への手紙11章1節6節:神を信じる
ヘブル人への手紙11章17節~19節:アブラハムの信仰
ローマ人への手紙4章18節~21節:アブラハムの信仰
マルコの福音書5章25節~34節:十二年の間長血をわずらっている女の癒し
ダニエル書3章16節~18節:”もしそうでなくても”
ヨハネの福音書11章3節:”あなたが愛しておられる者”
コリント人への手紙第一13章8節:”愛は決して絶えることがありません。”
ローマ人への手紙8章24節:”私たちは、この望みによって救われているのです。”
信仰の3つの要素。どれも目に見えない。
・神様がこの世界を創造されたこと
・救い主イエス
・神様に対する希望(約束された希望、約束されていない希望)
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10月7日、8日と岡田義隆氏(松山キリスト集会 長老)による特別聖書講演会がある。
14:30から尼崎キリスト集会にて。
学び会@尼崎キリスト集会
聖歌
471”神のたもうやすけさは”,521”キリストにはかえられません”
学び
□使徒の働き7章58節:パウロの青年時代(24歳~40歳)
□ピレモンへの手紙9節:パウロの老年時代(50歳~)
□使徒の働き22章3節:パウロはガマリエルの弟子
□使徒の働き5章34節:ガマリエルは尊敬されている律法学者
□使徒の働き5章38節~40節:ガマリエル”あの人たち(キリスト者)から手を引きなさい”
□申命記13章1節~3節、6節~10節:”ほかの神々に従い、使えよう”と言うものに従ってはいけない。
□申命記17章6節~7節:死刑について
□使徒の働き9章1節~5節:”サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。”、”わたしは、あなたが迫害しているイエスである。”
□ルカの福音書8章38節~39節:悪霊を追い出された人
パウロも悪霊を追い出された人もイエスと出会い、選びの器として話して、言い広めるものとなった。我々もそうありたい。
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ベランダから見える風景。
マンションがどんどん立って風景が切り取られていく。
尼崎集会での一日
礼拝
うまくできたような、できていないような、途中で頭の中が真っ白になった。
心のチューニングがあっていないのがよくわかる。
賛美
聖歌400”きみもそこにいたのか”
学び
ヨハネの福音書6章35節、51節~58節:イエスの肉と血
マタイの福音書26章26節~29節:最後の晩餐。パンとぶどう酒。
コリント人への手紙第一11章23節~28節:”主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。”
ヨハネの黙示録19章9節:”小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ”
聖餐式を通して週の初めに神様の前、新たに救い主イエスを覚える。
”わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日”主の再開の約束。
賛美
聖歌525”きみもそこにいたのか”、521”キリストにはかえられません”、404”イェスはなれをよびたもう”
伝道メッセージ1 占いと預言
マルコの福音書5章1節~18節:悪霊につかれた男の癒し
レビ記20章27節:冷媒、口寄せの排斥
イザヤ書53章1節~12節:イエスに関する預言
詩篇22篇:十字架に関する預言
詩篇23編:”主は私の羊飼い”
未来に対する関心と占い。聖書に見る悪霊。
旧約聖書の預言の驚異。
伝道メッセージ2
ヨハネの福音書9章1節~12節:生まれつきの盲人の癒し
ヨハネの福音書9章13節~34節:癒やされた盲人とパリサイ人
ヨハネの福音書9章35節~38節:癒やされた盲人の信仰
箴言3章5節~6節:”心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。”
”泥”、”シロアムの池”は盲人にとっては癒やしの方法として意味はない。しかし彼は信じて実行した。
事実を認めないパリサイ人。癒やされた盲人は追放され全てを失った。
何を基盤にして生きるのか。
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尼崎キリスト集会の講壇である。
一般的な教会のイメージとはずいぶん違う。
狭いながらも我が家である。
マイクが新しくなっていた。
最近、和室にプロジェクターが付いたりと近代化が進んでいる。
祈り会@尼崎キリスト集会
聖歌
398”いくるかいもなしと”,256”いのれものごと”
祈り会
兄弟姉妹で祈りの課題を出し合う。
仕事のこと、病気のこと、家族のこと、兄弟姉妹のこと、集会の働き、救い、その他身の回りのこと。
私はどうもうまくできない。
何を祈ろうかと考え、心を合わせていなかったりする。
いざ、祈ろうとすると頭が真っ白になったりする。
ひとりで祈っているときは頭の中に、祈りの言葉がどんどん浮かんでくるのに、、、
きっと、神様の前で身を低くしていないからだ、平素から祈りの課題を整理していないからだ、とつくづく思う。
”あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。”ヤコブの手紙5章13節
砕かれた心と神様の声を聞き分けるよい耳にしていただけますように。
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今日の午後はバイク のことばかり考えていた。
かなりオーバーヒートしてる。
集会に行く前にバイクショップを覗いてみようよと思い、早めに家を出たが17Kmの渋滞orz。
約1時間半、車でクールダウン。神様が整える時間を与えてくれた。
学び会@尼崎キリスト集会
聖歌
456”さかえの王にます主の”,590”すくいぬしイェスと”
学び
□マタイの福音書8章5節~13節:百人隊長のしもべのいやし
□マタイの福音書15章21節~28節:カナン人の娘のいやし
”あなたの信じたとおりになるように”、”その願い通りになるように”。
願った本人に対する奇跡が起こったのではない。
信仰によって愛する人が救われる。
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家内が”気持ちい雨が降っている”と言った。私もバイクで帰宅した時、雨に濡れて気持ちが良いと思った。じめじめしていない。
学び会@尼崎キリスト集会
聖歌
480”輝く日を仰ぐとき”,460”わが胸にひびく歌あり”,521”キリストにはかえられません”
学び
□創世記5章21節~24節:エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
□創世記5章29節:ノアの誕生
□創世記6章5節:悪が増大
□テモテへの手紙第二2章15節:自分を神にささげる
□ヘブル人への手紙12章4節~7節:訓練と思って耐え忍びなさい
□テモテへの手紙第二3章12節、15節~17節:十分に整えられた者となるため
□ユダの手紙14節~15節:エノクの預言
□ヘブル人への手紙11章5節~6節:信仰によって
エノクはアダムが622歳~930歳の時に生きている。直接、アダムから話を聞いたことだろう。
大洪水前の悪い時代であったが、神とともに歩んだ。
エノクの名前は言語的に”献げられた”、”訓練された”、”整えられた”と派生する意味があるらしい。それが、神とともに歩んだ、を表すのではないか。
我々もエノクのように信仰によって歩みたい。神は報いてくださる。
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