カナダで長男は毎週、近隣の教会に通ってる。息子とのやり取りの中で今の自分を振り返ってみる。結局のところ私のこだわりは分派である。
息子:パン裂きに参加してるのはみんなバプテスマ受けてる人なん?ってきいたんやけどね。
”そのほうが望ましい、程度で別に参加しちゃいけないわけじゃない”って。
バプテスマはあくまでクリスチャンである事を公に宣言するだけのことでバプテスマ受けてようが受けてなかろうがクリスチャンはクリスチャンで家族やって言ってた。
私:信じたら家族はそうやろうな。聖書にはバプテスマを授けなさいって書いてる。
バプテスマによって特権を得る感覚は良く解らん。諸集会は”キリストに従う、重荷を負うことの覚悟ができていますか”にこだわりすぎているような気がする。
息子:それは重荷であると聖書に書いてあるの?いろんな考え方の人が集まって集会なんやから別に他人の考え方どうこうにこだわらんくてもじぶんなりでいいんよね。集会に一貫した主張なんて必要ないんとちゃうか?って思う。
私:パウロの手紙を読むと考え方や生活に対する規律が重視されているように取れるね。それをもって従う、重荷を負うと捉えているみたい。キリストは明確に私の荷は軽くて負いやすいって仰ってるんで、重荷ではないはず。
一貫した主張は指針として必要やね。
息子:父さんは一貫した主張が必要やと考えてるの?
私:あくまでも個人と神様の関係やから一貫したものはありえないと思ってるよ。これは以前から主張してる通り。
息子:>重荷
自由にする為に天から降りてきたのになんで重荷を負わせるようなことするかなってなるよね。
私:人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。(ガラテヤ人への手紙6章5節)って書いてある。聖書は全て正しいからこのみ言葉も受け入れるべき。
一貫したものって意味では新しく信じた人やお年寄りや弱い人にとって必要なのよ。だから共同体としての地域集会は必要で、これが使徒の働きに書かれている教会時代の幕開けなの。
息子:一貫したものってつまり神様の計画とか愛だよね。
私:そこでの一貫したものって言うのは長老の考え方。そこで流派というのが発生する。
それに疑問を感じておかしいと主張したのよ。教派に属した覚えはないって感じで。
一部の人は諸集会と言う教派を解いている人も居るね。聖書を全面的に支持する教派になってる。これじゃプロテスタントの一派と同じやね。分裂との違いがない。
そこにこだわったんだけど。そのこだわりに意味がないことがわかったのよ。神様のお考えは計り知れないし、聖書を完全に理解することは不可能なので、考えのはっきりした人やはっきりしない人の居る中、はっきりしない人のために神様は長老を立てて群れを牧するって解ったのよ。だから今は疑問に思っても神様のご計画に従っていつも良い状態が維持されるって信仰によって解ったのよ。
ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。(コリント人への手紙第一8章9節)このみ言葉が重要なのよ。自由、権利を主張することは、事実奴隷から解放されたのだから良いことなのよ。
結局のところは、みんな”私はどうすればよいのだろう”って悩んでるのよ。
でも”私はどうすれば良いですか”って祈ると”律法を守りなさい”になってしんどくなるみたい。
イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」 (マタイの福音書10章17-19節)
息子:シンプルやね
私:答えはこうだと思ってる。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイマルコの福音書9章13節)
神様は我々をあわれみたいと考えておられるのね。だから、あわれみの対象として在り続ければいい。それがどう実生活に現れるかはみんな違うのよ。
私:バプテスマは受けへんの?
息子:こっちで?今度話してみようかと思う。
私:良いね。そちらの教会の考えを聞いてみたらいい。
新約聖書後半の手紙を読んでて最も強く感じることは、現在の多岐にわたる分派の預言とその教会時代での振る舞いについての指導である。手紙群はさまざまな書き手の状況、さまざまな教会の状況の中で作られた題材から神様が選ばれたもので構成されていると考えている。ある個所はあるクリスチャンには動機や衝動をもたらさない。ある個所はあるクリスチャンに重要な意味を持つ。
群れは特性を持つが、どの群れに属するかを選ぶ羊はいない。故に野獣のごとき羊は存在せざるを得ない。