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2016年8月

2016年8月31日 (水)

平恕 白文

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滴仙 初級用 課題 模刻

平恕

24mm×24mm

Posted from kepaddictus

2016年8月30日 (火)

平恕 朱文

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滴仙 初級用 課題 模刻

平恕

24mm×24mm

Posted from kepaddictus

2016年8月29日 (月)

わたしがあなたがたを愛したように

愛し合うことを奨励することは素晴らしいことです。実際に伝えていることは、誠実でありましょう、いたわり合いましょう、礼を尽くしましょう、などです。どれも愛の部分的実践です。と言うのは、愛には恋愛、友愛、慈愛、母性愛、見返りを求めない愛(アガパオ:日本語や英語には有りません)と言った様々な愛がありますので、愛を定義もしくは実践していないと愛しあいましょうとは言えなくなってしまいます。

"あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。"(ヨハネの福音書)

どの宗教にも"あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ"と言う戒律が有ります。黄金律と言われるものです。イエス様はこれを第二の戒めとされています。そして"心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ"を第一の戒めとされ、律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっていると明言されました。
さて、"あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ"について見てみると自分を愛せないものは隣人を愛せません。「まず自分を愛しなさい」は聞いたことが有りません。甚だ自己中心的に聞こえます。そもそもよく考えると、自分を愛さないものは愛がわっていないので、解決しようがないからです。
聖句は上記のように自分を愛せない人を導いておられます。聖書を読んで、イエス様の人間像を観察し、真似れば良いのです。神様の愛を見ることができます。
イエス様の愛の頂点が福音です。イエス様は我々の身代わりになって十字架にかかられました。そして亡くなれました。全人類の全ての罪の贖いの代価としてご自身の命を投げ出されたのです。三日後によみがえられ贖いが完了しました。愛する我々が亡ばず、ご自身と天国で永遠に暮らすために救済を完成されました。

イエス様は復活の後に時が来れば迎えに来られる約束を残して天に帰られました。聖句は十字架にかかられる前日の夜に語られたものです。残された我々が福音を信じた後に必要になる備えとして送られた言葉です。この聖句は念を押すように3度語られました。
聖書にはこのような言葉がたくさん記載されています。何も心配要りませんので福音を信じてください。お願いします。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年8月25日 (木)

神は、罪人の言うことはお聞きになりません

いろいろなことを想像しますが、その様にはなりません。つまらないものです。いつも思い通りになるか、神様の意図された通りに生きる様に変えられ、この悩みから解放されたいと思います。

"神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。"(ヨハネによる福音書)

聖句はイエス様に目が見える様にしていただいた盲人の言葉です。盲人は神様がイエス様の願いをかなえられたので、イエス様はキリスト(救い主)だと信じました。

聖句を読んで、罪を犯さない様にし、神様を敬い、思い通りの人生を歩もうと考えるのは、どうかなと思います。
罪を犯さないのは無理です。神様を敬うも、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、と別の箇所で書いています。そもそも、みこころを行なうと思い通りの人生を歩もうは両立するのだろうかと思います。
実はイエス様をキリストと信じた者には、どれだけ聖句と自分がかけ離れていても、自分は聖句の様に変われるのではないだろうかという希望が有ります。
そうなりたくない思いも同時に有り、両者の葛藤が自分を苦しめます。なりたくない思いを捨てればすべて解決するのはわかっていますが、そうなりません。今の自分は神様の目には最高の状態で、時が来れば、計画に従って最高の状態が保たれる様に変えられるのだと思っています。

私たちはイエス様の名によって神様に祈ります。私たちには神様に願いをかなえていただく資格は有りませんが、イエス様がとりなしてくださっています。イエス様は罪人を救いに来られた方です。だから大丈夫です。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年8月22日 (月)

その人

私は悲しみと憂の中にいます。絶望はしません。聖句に関して黙想する時、私は全く不幸でないことを聖句から教えられます。
希望していることが実現するまで時間を要することが多いです。その間に現実の問題に対して思いが一杯になると希望と現実の問題の関係を見失うようです。

"その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。"(詩篇)

素晴らしい人だと思います。このような人になることを望まない人はいないのではないでしょうか。
この聖句の前に"その人"がどのような人かを下記の通り説明しています。

"幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。"(詩篇)

もちろん、私はこの様な人ではありません。この様な義人のあるべき姿にはなれないです。
ですが、何故か私は水路のそばに植えられていて、実(どんな実かはわかりません)がなるのを待っています。不思議なものです。神様から賜った義のもたらす幸いなのでしょう。

二つのことが当たり前になっています。聖書の記す良いことを、その通りに認識できる。その良いことを自分のものにすることが確信できる。
先日、神様に祈ったことがすぐにかないました。御心と一致していたのだと嬉しく思いました。
聖書と福音の魅力です。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

Posted from keppadictus

2016年8月18日 (木)

あなたがたの信仰のとおりになれ

残念な知らせが有っても、自分の道が定まっていれば、その道を歩めます。しっかりと道を歩めることと心に平安があることを祈りました。これを書きながら祈りがかなえられました。

"そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。"(マタイによる福音書)

「あなたがたの信仰のとおりになれ。」いつもこの様に言葉をかけられている気がします。
私に与えられている目的と日々の目標。ここから生まれる願いがあります。同様に悲しみ、心配、苦しみ、恐怖、痛みから生まれる願いもあります。いずれの場合も解決してくださるのは神様です。そしてイエス様がとりなしてくださいます。
さて、本当に解決するのですか?神様にしかおできにならないのですか?これらの質問には、そう確信していますとしか答えられません。証明できますか?には、できませんとしか答えられません。
私はこれで良いと思っています。なぜなら論理的に解明できると信仰の価値がないからです。神様は人間を少し劣るものとしてお創りになりました。そして人間が神様を全面的に信頼して生きる様にされました。
信仰を持たずに生きると道に迷います。滅びの道です。
信仰を持って生きると神様のご計画された道を進みます。義人の道です。

世に希望を求めず、神様に希望を求めてください。義人の道は驚くべき恵みに満ちています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年8月16日 (火)

迷った一匹

失った時の悲しみは皆んな同じだと思います。揃っているべきものが欠けている。必要な時に無い。こんな時は腹立たしさや悔しさが溢れてきます。
この悲しみは私の思いに対する悲しみです。羊のことを思いやっているわけではありません。私は揃っていないのなら全部捨ててしまえと平気で考えます。

"あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。"(マタイによる福音書)

九十九匹を山に残すと、無防備なまま狼に襲われるかもしれません。しかし羊の所有者は迷った一匹を心配する思いでいっぱいになります。襲われていないか、不安で悲しんでいないだろうかと。そして、迷った一匹を捜しに出かけます。案ずる思いが勝つわけです。
羊の所有者はイエス様です。イエス様は迷った一匹の羊が心配で、気がかりでたまらないのです。イエス様は自分に属する羊が一匹もかけることが許せな方なのです。
そして私たちは皆んな迷い出た羊です。イエス様は一匹一匹、探し出して群れに戻します。こんな方が私の主であられることを幸いに思います。

イエス様はあなたを探しておられます。迷った羊は鳴き声で自分を知らせます。私たちの場合は祈りによって自分を知らせれば良いのです。イエス様はあなたを愛しておられます。一刻も早くイエス様とお会いになってください。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

Posted from keppadictus

2016年8月12日 (金)

姦淫を犯す者

"律法の目的は、私たちが愛の人になること"
これは今読んでいる聖書注解書からの引用です。素晴らしい言葉だと思います。このように注解される律法は旧約聖書だけです。他の律法や戒律は自治と、責任の境界を便宜的に定めるために作られていると思うのです。目的のハッキリしない訓戒もあるようですが。
愛の人にはなれないかもしれません。愛の人になりたいと思うか思わないかが、天国に行きたいか行きたくないかと一致しているのが、旧約聖書の律法の原理だと思います。なぜなら神は愛だからです。

"だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。"(ルカの福音書)

"人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、"と旧約聖書の戒律にあります。これを理由に夫は様々な理由で妻を去らせていたようです。
しかし、同じ律法は"それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。"とも書いています。イエス様は「本来は一体だが、あなた方が頑なだからモーセは離婚を許したのだ。」と教えられます。
"遊女と交われば、一つからだになる"とパウロは説明しました。
夫婦一体、離婚、遊女と一体、律法は強制しません。現実は自由意志で選べない結果もあります。

アダムの助け手としてエバが作られました。エバが作られた時、アダムは昏睡状態だったので、気がついたらエバがいました。アダムは"これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。"と表現します。まさに一体だなと感じます。アダムが喜んでいる様子は書かれていませんが、神様が与えてくださったのだから、エバは最良の伴侶なのです。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年8月10日 (水)

あるサマリヤ人

聖書には、質問に質問で答えたり、質問に直接的な回答をせず例話で答えたりする箇所があり、優しくないなと思うことがあります。

"「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」"(ルカの福音書)

長いですが、有名な「良きサマリヤ人」と言う例えです。
「私の隣人とは、だれのことですか?」に対する、イエス様の答えです。祭司とレビ人は律法に関わる役割を持った人たちです。サマリヤ人とユダヤ人は嫌い嫌われる関係でした。
「私の隣人とは、だれのことですか?」の答えは、「だれが隣人になったと思いますか?」でした。質問と応答がちぐはぐにとれます。あなたに今は隣人はいない、あなたは誰かを隣人にすることができるということの様です。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』これが最初の質問のきっかけとなった聖句です。
愛は意志を持って行動で表すもの。愛した相手こそ隣人。惜しみなく隣人を愛せよ。

先日、この「良きサマリヤ人」に付いて学びました。「the good Samaritan」とtheが付きますが、誰でも成れますと教えておられました。英文法のことです。なんとなくわかります。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年8月 7日 (日)

ヨナのしるし

私たちは祈ります。祈る対象が無いのに祈っているとすると頭がどうかしていることになります。私たちは、祈りを捧げる方を認識できます。だから熱心に、願い、思いを告げ、喜びを言い表し、褒めたたえ、感謝することができます。聖書を信じているので、聖書の語る真の神様を信仰によってとらえることができるのです。

"悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。"(マタイの福音書)

これはユダヤ民族指導者がイエス様に天からのしるしを求めた時に答えられた言葉です。ヨナのしるしとは、旧約聖書の登場人物であるヨナが大魚の腹の中で三日間暮らしたこととを指しています。このヨナの話はイエス様の十字架の預言になっています。イエス様は十字架で亡くなられ、墓に葬られ、三日目によみがえられました。墓は空でした。天のしるしはイエス様の死と復活としてしか与えられないという意味です。
実際には盲人が見えるようになり、足なえが歩き、重い皮膚病人がきよめられ、耳の不自由な人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。多くの人が技を見て信じていました。信じない人は何を見ても、何を聞いても信じないようです。信じない人ではなく、信じる人になってください。死と永遠の問題がかかっています。
私たちはイエス様を見ることができません。もちろん技を見ることもできません。聖書のみが唯一与えらえています。聖書の中でイエス様にお会いすることができます。全てのことは聖書を通して知ることができます。つまり、「聖書は正しい」とする信仰が最初にあることになります。そしてからし種が大きな木になるように信仰は成長します。

是非とも聖書を読んでいただきますようにお願いします。最初は取っ付きにくいでしょうが、気になった聖句をよく考えていると、語りかけられるように聖書の世界に導かれます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年8月 5日 (金)

そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます

聖書には逆転劇がよく出てきます。考えてみれば当たり前です。人間が神様から遠のいて行く原因が常識に据えられているので、神様の定められたことは常に逆転劇の結果になります。

"そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。"(ルカの福音書)

聖句はマリヤの賛歌からの抜粋です。聖書にはこの表現に類する祈りが本当に多いです。権力ある者、低い者、飢えた者、富む者、皆が神様からその立場をいただき世での生活を送ります。聖句の通りになるので、世で良い生活をすると良い結果を得られないように神様はされたと思えて、なんとなく面白くないです。
聖句の事態を引き起こす原理は以下の通りです。


  • 良い生活をしていると、良い生活に一生懸命になり神様の方を向かない。結果、恵みを求めない。

  • 良い生活をしていると、自分がその生活を築いたと傲慢になり、神様に恵みを求めない。

  • 辛い生活をしていると助けが必要なので、神様に恵みを求める。


よく見ると境遇はきっかけでしかないことがわかります。必要なのは神様を信じて恵みを求めるかどうかです。

私は絶対に満足しないので、あれ欲しい、これ欲しいと祈ります。とんでもない内容もありますが、私はこの姿勢が好きです。
「御心だろうが、なかろうが、叶えてください」と祈ったこともあります。謙虚な願いなんて意味がわかりません。
掲題の通り神様を恐れ、神様を慕っています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年8月 3日 (水)

五つのパンと二匹の魚

聖書の奇跡は、そこで天地万物の創造と同じことが起こっていると聞いたことがあります。その通りだと思います。ですが私にはある奇跡に対して違った疑問があります。

"そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。"(マタイの福音書)

五千人の給食です。イエス様は五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人を満腹させました。なおかつ、最初より多く余っています。
私は奇跡は天地万物を創造された神様の技なので特に不思議には感じません。この記述を読んでいて疑問に思うのは、なぜ誰もパンが増える様子を書かないのだろうです。ちなみにこの記事はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四人が書いています。誰も書いていません。
パンが増える様子は、私には一番の関心事だと思うのですが。例えば長いパンをちぎると反対側が伸びたとか、イエス様はカゴの中から、ちぎったパンを出されたので増える様子は分からなかったとかです。手品師はタネを駆使してトリックを作り出すところを見せません。こんな風にパンが増える様子が隠されています。この奇跡は目に見える変化が最大の関心事のなはずです。
もうみんな奇跡を当たり前のように目の当たりにしていて、その様子に驚くこともなかったのでしょうか。ユダヤ民族にとって来るべき王はこのぐらいできて当たり前なのでしょうか。そんなバカなと私には思えます。男だけで五千人もいたんですから。
私は神様のされることは完璧なので、それが起こっても、誰も気付かないのかと考えました。山に向かって、『動いて、海に入れ』と祈ると実際に山は動いているのですが、全てが調和しているので見ている人間には、以前から変わらないように見えるのだろうかと考えました。パンもそんな風に増える様子は調和の中に隠されていて気付かなかったのかもしれません。
新約聖書が完成している今は奇跡は起こらないですが、祈りの答えはこのように全て気付かないうちに実現しているのだと考えています。聖書の通りに神様を信じる信仰が義とされるという意味です。信仰の領域は隠されています。

結局、パンがどのように増えたのか、なぜ聖書に記載されていないのかわかりません。天に帰って全てが明らかにされるのを楽しみにしています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年8月 2日 (火)

季芝□(継の偏が木)庵

Photo

滴仙会 上級用 模刻課題

呉昌碩 藪石亭

20mm×20mm

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神のこの救いは、異邦人に送られました

福音を伝えていると何もかもを否定している様に聞こえるのでしょうか。そうだとすると私の伝え方に問題があります。福音を邪魔するものは否定しますが、基本的には話し相手に福音に対する信仰を加えてくださいと伝えているつもりです。
福音を得るのに対価は入りません。神様は今のままのあなたを愛しておられます。

"『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。"(使徒の働き)

教会時代の始まりを記録した使徒の働きという書での、パウロの最後の言葉です。福音は民(ユダヤ人)から異邦人(我々)に送られと書いています。福音は良い知らせです。その知らせとはイエス様が旧約聖書の予言通りに私たちの罪のために死なれたこと、墓に葬られたこと、また三日ののちによみがえられたことです。そして、福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神様の力なのです。
神様の救いは本当に素晴らしいです。永遠の天国に国籍を持ち、時が来たら帰ることができます。永遠を思い煩うことなく暮らすことができるように、罪から解放された身体をいただくことができます。そして、今の世にあっても、あなたを苦境に閉じ込めている真の原因から解放してくださいます。

福音の前に、心が鈍く、耳が遠く、目はつぶっている状態にならないでください。天地万物をお造りになり、あなたを愛して止まない神様からの贈り物を受け取ってください。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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