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2016年7月21日 (木)

偶像礼拝者

偶像の定義については教会の外でも中でも異論を感じる時があります。祭事の中心の生きたなにがし、私はそんなものは初めから存在しないと考えています。身近な人も皆んなそう思っていると考えています。
亡くなった者は心に思い出として存在します。決して新しい経験を生みません。偲ぶ思いは大切だと考えています。
私は酒の奴隷でした。これが偶像です。幸せを与えてくれると思える現実の存在です。私は酒を拝んだことはないですが、全てを捧げました。

"あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・これが偶像礼拝者です。"(エペソ人への手紙)

私には聖句の偶像礼拝の意味がわかります。アルコール依存症だからです。大切なもの、時間、仕事、友人、家族、自分自身を酒欲しさに捧げました。
まず光の下に現れないように隠れて行います。後ろめたいのです。不品行、自分を汚す行為、むさぼりを止めることができません。特殊な快楽を恋い慕っているからです。その結果、光を嫌うようになります。行為を明るみにさらすからです。光から離れていきます。
光は神様です。神様の正義が心を責めます。光である神様から離れて永遠に暮らす所を地獄と言います。快楽の虜になって離れられなくなった奴隷が、快楽に引かれて進んで行くところです。地獄の鍵は内側から掛かっているそうです。入ってくるなと言っているのですね。

神様が罪をおかした人を見捨てることは絶対にありません。神様は痛み、苦しみ、悲しみを使って働きかけておられます。これをバチと呼ぶ人がいます。それは違います。神様はご自分の元に帰ってきて欲しいのです。神様になぜ自分がこんなに辛いのですかとお聞きになられることをお勧めします。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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