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2016年7月

2016年7月30日 (土)

祈って求めるもの

"祈って求めるもの"、とにかくイエス様の救いを信じて神様から義と認めていただくことです。それからの生涯は、ご自分でイエス様のガイドをいただいて人生を全うしてください。

"祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。"(マルコによる福音書)

イエス様は聖句の通り仰いました。だから信じれば良いのです。何でもと書いています。躊躇なく祈りたいものです。
ですが疑います。信じたいという思いと、こんなの無理だと思う気持ちが競合します。
結果、祈りが聞かれない理由を他の聖句から探します。そんな自分を本当に哀れに思います。聖書を何度も読むのは知識と力を蓄えたかったはずだからです。

この聖句の前に"だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。"と書いています。
私は本当に山は海に入っているのだと思います。神様のされることは完全に調和が取られているので、我々には気づかないのでしょう。
"疑わずに"は難しいです。それが実現する原理を考えるからです。私たちが疑わずに信じられるのは、神様は何でもおできになる。これだけです。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月29日 (金)

子どものように神の国を受け入れる者

好奇心がわかないので知らずに無視し関わりを持とうとしないものがあります。もし何か人生に欠けているものがあると思うなら。覗いてみても良いと思います。

"まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。"(マルコによる福音書)

神の国に入るとは、神様と永遠を過ごすことを意味しています。そのままの自分では二つの課題があります。
一つめは、神の国ですから主権は神様にあります。永遠に続きますが耐えられますか?
二つめは、神の国には罪を持って入れません。罪を捨てたいという思いがありますか?
聖句は子供にはこの二つは課題でも何でもないことを示しています。子供は弱く、素直です。神の国に取って代わるものなどありません。
私たち大人は謙りを身につけることから始める必要があります。これが難関です。自分が被造物であり目的を持って作られたことを受け入れないといけません。

損をするかの様に騙されてはだめです。神様は私たちを愛し、最も素晴らしい世界を準備してくださっています。神の国に入るために謙るのも、被造物であることを認めるのも、その先にあるのは神様に対する正しい理解です。確認されてはいかがでしょうか。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月28日 (木)

義人も悪人も必ず復活する

あなたが何某の律法を違反したから罪人とされているのではありません。神様を避けているから罪人に数えられるのです。
救いを信じた全ての者が罪を犯さなくなるのでもありません。ましてや罪を犯さないことを宣言することが救いの前提条件ではありません。これが条件なら誰も救われません。

"義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。"(使徒の働き)

これはパウロの弁明です。この人たちとはユダヤ人のことです。
"義人も悪人も"だと全ての人になります。この通りなのです。義人はその人の行いによって当然復活します。しかし義人はいません。一人もいません。
悪人は神様からの救いがあります。それが福音です。
イエス様が私たちの罪の贖いの代価となって、ご自身をいけにえとして捧げられました。十字架の死です。そして全ての贖いを果たされて三日後によみがえられました。もはや私たちの罪は全て赦されました。後は各々がそのことを信じるかどうかです。
信じた後は、何も心配せずにそれぞれの思いに従って好きなことをして生きれば良いのです。信じる前に自分を苦しめてきた、遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活は、信じた後も自分を苦しめます。ですが、神様は私たちがそれらを憎み遠ざかる様に私たちを変えてくださいます。

律法は義の基準として役目を終わっています。ですが道徳として有用です。"あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。"は身につけたい人格です。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月27日 (水)

望雲 白文

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滴仙 初級用 課題 模刻

望雲

24mm×24mm

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あからさまに責める

私はプロジェクトマネジャでした。プロジェクトと言う仕事の単位で一番の権威を持っていました。また仕事上の適正として強かったと思います。ですから気安く話しかけてくれる人はいませんでした。
プロジェクトマネジャの友人が「孤独だ」と言ったのを覚えています。彼の言う通り孤独でした。

"あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。"(箴言)

箴言はソロモン王が書きました。ソロモン王は神様から知恵の心と判断する心とを与えられました。後にも先にもソロモン王の様な賢者はないと書いています。
聖句は読んだ通りなのですが、人は責められるのを好みませんから、頑な人を責める者はなおさらいません。それでも責める人がいれば、それはその人を思ってのことか影響を憂いてのことだなと思います。どちらでも良いのです。行為を伴わないひそかな愛など何の役にも立ちません。
責められる相手が権威ある立場であれば、自分が去ること覚悟しての行為になるように思えます。実際は、責めは喜んで受け入れられるものです。
生きた組織では責める人はいるものなのです。もし、いなかったらその組織は死んでいます。組織の目的や個々人の役割が不明瞭なのです。リーダーの暴走、混乱に誰も困らないということです。

箴言は知恵の言葉で満ちています。私は聖書を読み始めた時に、大きな聖書を持ち歩きたくなかったので、箴言だけの冊子を持ち歩き電車で読んでいました。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月26日 (火)

望雲 朱文

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滴仙 初級用 課題 模刻

望雲

24mm×24mm

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種を蒔く人が種蒔きに出かけた

昔、この例えを聞いた時に自分はどの土地なのだろうと考えたように思います。よく考えたら土地を耕して土壌改良すれば良い地になります。心を開いて神様とお会いする準備ができれば良いので、望むか望まないを問われているわけです。

"「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」"(マルコによる福音書)

種は福音です。種が落ちた土地は人を表します。四種類の人がたとえられています。
一人目の人は種に関心がなかったので鳥が取ってしまいました。ほとんどの人はここに分類されるのではないでしょうか。種を取っていく鳥はサタンだとこの後に書いてあります。
二人目の人は種を育てる準備ができていないので、程なく枯れてしまいました。喜んで福音を受けますが人間関係や習慣上の困難が来ると躓いてしまいます。
三人目の人は種が囲まれて成長しません。世の思い煩いや快楽に囲まれた時に聖書の言葉を適用し乗り切ることができない人です。
四人目の人は多くの実を結びます。福音を伝えていき多くの魂を救う働きに就き成果を挙げます。

私は全ての土地を順に経験しました。いま、少しづつ成長していることを喜んでいます。
サタンに種を取られては何も生まれません。とにかく蒔かれた種を守ってください。よろしくお願いします。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月25日 (月)

神の国は近くなった

義をたてる必要を感じていない。裁きと永遠を軽視している。これらは改めないといけません。以前、幼い頃はキリスト教の話と別にしても、人間として大切なことだったように思います。

"時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。"(マルコによる福音書)

イエス様が伝道を開始された最初のメッセージです。
この当時は律法の時代でした。律法を全うする義人はいませんから"神の国は近くなった"には特別な意味が有ります。それは神様の憐れみによる義すなわち福音の完成が近づき、そのことが広く伝えられるようになったと言うことです。
イエス様は十字架刑に向かって真っ直ぐ歩まれます。イエス様は私たちの罪の贖いの代価となられて十字架にかかられ亡くなられました。よみがえりにより私たちの罪は神様から全て赦されました。これが福音です。
律法を守って自分の義を立てることができないのですから、悔いて、福音を信じて神様の義をたてるように改めなさい。これがメッセージの意味です。

イエス様が準備してくださった救済は簡単なことなのです。問題は受ける側にあります。世の楽しみに心奪われている。世のしがらみを優先している。少し考えてみませんか。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月23日 (土)

見よ。わたしは、すべてを新しくする

私はいつもやり直したいと思います。ですが、うまくいかないことはわかっています。やり直したいと思う理由は気に入らないところが有るからなのですが、全ての気に入らないことを知らないからです。

"そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」"(ヨハネの黙示録)

聖句は天国のことを言ってます。"神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。"が好きです。待ち遠しいです。
新しくするのは、今が失敗しているからではありません。神様は失敗されない方だからです。創造主と被造物の関係を完成させるのに最適な世が今であり、永遠を共にする関係が完成された暁に、すべてを新しくされるのだと思います。全ては計画通りなわけです。

「今、なぜ悪いことばかり起こるのか?」これに対する答えは、今が天国ではないからです。
「今、なぜ天国ではないのか?」これに対する答えは、人間が永遠に耐えられないからです。
「今、なぜ永遠に耐えられないのか?」これに対する答えは人間の自由意志が神様に逆らうことを試みるからです。
なんと、これは創世記の最初の三章までに書かれています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月22日 (金)

受けるよりも与えるほうが幸いである

私は神様の存在を証明できません。聖書に"賢い者や知恵のある者には隠して"と書いてあります。同様にあなたは神様の不在証明はできないと思います。ちなみに神様がおられないのであれば、あなた自身の存在目的が無くなるので、あなたは虚無に帰すことになります。それに打ち勝つことは強さではなく、現実逃避だと考えます。
私が一連のメールで伝えたいのは、もし私が述べていることが正しいとすれば、あなたの人生がどんな風に変わるか考えていただきたいのです。
ご都合主義で神様を担いでいるのではありません。神様の存在、あなたの存在、痛みの存在と聖書の言葉を組み合わせて考え、希望を見出して欲しいのです。

"主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われた"(使徒の働き)

『受けるよりも与えるほうが幸いである。』はこの通りです。以前は、できれば少しでも多く得たいと一生懸命でした。(今は厳密にこの言葉の通り実践しているのではなく、わずかな体験をもって感じたことを伝えています。ですから心に負い目があります。)
必要は神様が供えてくれると考えているので、与えないと人間関係が不要になってしまいます。ですが私には愛する人に、家族に、知人に、隣人に分け与えるものがありません。なので私をいつも満たしてくれ、導いてくれる聖書の言葉を分かちあいたいと願っています。
もう何年も聖書を読んできましたので、心にとまった聖句が幾つかあります。悲しい時や、嬉しい時、心が萎えた時、困った時、腹が立った時、その時々に蓄えられた聖句が心に浮かび、また聖書から聖句を調べることで、意味を持って私の心に働きかけてきます。
上記の聖句もそうです。例えば、相手の見積もりミスがあった時には、最初に言った料金でとなるより、不足分を支払う方が気分が良いです。多額になると対応できないので偽善と言えば、そうかもしれません。でもできる範囲ででも、幸いな事実は変わりません。

悲しい時(傷ついている時)には
"悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。"

苦しい時には
" 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。"

嬉しい時には
"いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。"
いつも喜ぶことができるのです。

心が萎えた時には、
"勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。"

困った時には、
"あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。"

腹が立った時には、
"さばきは神のものである"

寂しい時には
"心の貧しい(満たされない)者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。"

満たされず、悲しんでいるのなら、イエス様にそれをお伝えすれば良いのですよ。あなたのために十字架で命を捧げられた方ですから。天国の場所が確保されていることを示してくださり、あなたを全て知った上で慰めてくださいます。その慰めは何もわかっていない人間のそれとは違います。心に暖かい灯がともります。そのままのあなたを受け入れてくださいます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月21日 (木)

偶像礼拝者

偶像の定義については教会の外でも中でも異論を感じる時があります。祭事の中心の生きたなにがし、私はそんなものは初めから存在しないと考えています。身近な人も皆んなそう思っていると考えています。
亡くなった者は心に思い出として存在します。決して新しい経験を生みません。偲ぶ思いは大切だと考えています。
私は酒の奴隷でした。これが偶像です。幸せを与えてくれると思える現実の存在です。私は酒を拝んだことはないですが、全てを捧げました。

"あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・これが偶像礼拝者です。"(エペソ人への手紙)

私には聖句の偶像礼拝の意味がわかります。アルコール依存症だからです。大切なもの、時間、仕事、友人、家族、自分自身を酒欲しさに捧げました。
まず光の下に現れないように隠れて行います。後ろめたいのです。不品行、自分を汚す行為、むさぼりを止めることができません。特殊な快楽を恋い慕っているからです。その結果、光を嫌うようになります。行為を明るみにさらすからです。光から離れていきます。
光は神様です。神様の正義が心を責めます。光である神様から離れて永遠に暮らす所を地獄と言います。快楽の虜になって離れられなくなった奴隷が、快楽に引かれて進んで行くところです。地獄の鍵は内側から掛かっているそうです。入ってくるなと言っているのですね。

神様が罪をおかした人を見捨てることは絶対にありません。神様は痛み、苦しみ、悲しみを使って働きかけておられます。これをバチと呼ぶ人がいます。それは違います。神様はご自分の元に帰ってきて欲しいのです。神様になぜ自分がこんなに辛いのですかとお聞きになられることをお勧めします。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月20日 (水)

天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません

目に見えない、耳で聞くことができない、手で触れることができない、これらが存在に不安を感じさせる原因です。ですから人は何か似せて形を作ります。畏怖を感じることができるのであれば、存在すると信じれば良いのです。科学で証明できる必要など有りません。

"この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。"(使徒の働き)

神社仏閣にあって、拝む対象とされている神々は何もできません。それらは人の作った神々です。時とともに朽ちるので、宮を作ってやらないといけないのですし、補修をしてやらないといけない。また、埃がたまったら掃除してやらないといけないですし、地震で転けたら起こしてやらないといけない。イタズラして汚す人が現れると、その者を戒めるのも人です。
自分より劣るものを神々とすることに意味があるのでしょうか。困った時に本当に助けてくれるのでしょうか。
天地万物をお造りになられた方は、我々のようにお困りになることはありません。神とされる方を我々の理解の範囲で測るのはやめようではないですか。これは非常に不遜なことです。
神様の存在を証明することはできません。なぜなら神様はご自身を賢い者や知恵のある者には隠されたからです。人間が誇ることができないようにと設けられた知恵の限界なのです。幼子のように信じる力を持てば知ることができます。ここに神様の恵みが表されています。

今、我々は恵みの中にいます。求めれば神様にお会いできます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月19日 (火)

負いきれなかったくびき

話の主題がクリスチャン生活なので、少々ややこしいです。長く疑問に思っていたことが解決しました。

"(人の心の中を知っておられる神は、)私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。"(使徒の働き)

イエス様の十字架による罪の贖いのための死と、贖いが完了したことを示す復活の後に、異邦人信者が多く起こされました。聖句は、その異邦人信者にもモーセの律法を守らせるべきだとするユダヤ人信者に対してペテロが言った言葉です。
罪は心に働きかけてあらゆる律法に反する行いを引き起こします。この原理によって私たちは律法を守ることができみません。「むさぼってはならない」とあればむさぼり、「嘘をついてはいけない」とあれば嘘をつきます。これが"負いきれなかったくびき"です。
このくびきはもはや負う必要はありません。律法は素晴らしかったのですが、誰一人義とすることができず廃止されました。イエス様の十字架によって全うされたのです。
そして、"彼らの心を信仰によってきよめてくださった"とある様に、信じた者は律法に対して守る自由と守らない自由を持つために、この自由を行使するための選択能力を神様からいただいています。
イエス様の救いを受け入れておられない方は神様に義とされる方法が有りませんし、選択能力も有りません。イエス様が完成された救いを自分のためだと信じることで神様の前に義と認められます。受け入れてください。

救いは恵ですから、それぞれの人にそれぞれの形で成就します。まず何をしても義と認めらるようになります。そして実際の行いを正しくしていただけます。
神様は回心(心が変えられる)と良い行いを備えてくださいます。損をしても、悲しんでも、正しい行いができるのは幸いだと思います。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月18日 (月)

仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです

日本には百八の神々がいて、天照大神が隠れたらみんなで悩む。こんな神様は面白おかしく身近に感じても、人生を委ねるのは嫌です。そもそも漫画みたいな話です。
目には見えなくても怖れを抱く存在、人間の知性をはるかに超えた、全ての根源としてあられる方、この方を私は神様と呼びます。

"キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。"(ピリピ人への手紙)

"キリストは、神の御姿"とあります。神様は見えませんから、神様に見える人間ではありません。続く"神のあり方を捨てる"にある通り神様そのものです。キリストは「父なる神、子なる神」の子なる神です。この方は人間となられて、人間に使えるためにこの世に来られました。2,000年前の出来事です。目で見、手で触れることができるようになられたのは、死ぬためです。そして、私たちの罪の贖いの代価となって十字架にかけられました。また三日後によみがえられることによって私たちの救いを完成されました。
旧約時代の預言者はこのキリストの受肉と苦難、十字架の死を"私たちの聞いたことを、だれが信じたか。"と預言しました。

神様は天地万物をお造りになられた畏れ多い方です。「だれが信じたか」、これは当然の疑問です。
自分の力で苦境を乗り切るのを諦めた人が、すがる思いで頼り、気付いて、信じることが多いようです。このぐらい人間は神様を嫌い、神様から遠ざかっています。
疲れて、重荷を負っているのであれば、心を開いてイエス様の助けを求めてみませんか。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月16日 (土)

神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない

十年ぶりに依存症の仲間と話をしました。お互いに痛みと弱みがわかるので指摘は私の心をえぐります。もし明日があるなら、心に響く言葉を糧にしたいと心から思います。

"天から声がして、『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』というお答えがありました。"(使徒の働き)

ユダヤ人は律法で汚れていると決められ食べてはいけない食物があります。ペテロに汚れているとされる食物を食べなさいという声があり、ペテロができませんと応じなかったときの答えです。

私自身は酒に溺れていた頃と何ら変わっていません。依存症という人間性が変わらないからです。散財、逸脱、破壊、偏執、これらが隙をうかがって攻めてきます。これは私の罪からくる問題なので私がおさめないといけません。実際には問題を起こしていることすら気付かないので、おさめることはできませんが。
依存症は病気と分類されますが、問題行動を引き起こすので、目が見えない、歩けない、口がきけないとは区別して見られます。罪の性質を依存症が助長しているのは確かです。目も当てれないぐらい罪の行為が飛び出します。
イエス様が十字架で私の贖いの代価になってくださったので、聖句の通り私は神様の目にきよい者へと変えて頂きました。実質が変わっていなくても、自分自身をきよくないといってはいけないのです。
私は悲しみながら喜ぶ者になったわけです。今、この状態を受け入れて適合していこうと考えています。
酒をやめて、酒を飲みたいとも思わない生活を送っています。これは回心したのだとわかりました。そして聖霊の守りを受けて続けています。後は神様が備えてくださった人生を喜んで耐え、喜んで受け入れ、楽しめれば良いと思っています。私の人生はこのことの証で充分ではないかと思っています。神様の大いなる介入を経験しているのですから。

回心するという言葉を使いましたが、これは実質的に受動態です。神様に心を変えていただくが、その意味です。恵です。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月15日 (金)

知られない神に

私は知人が拝んだら、何故拝むのかと聞きます。『知られない神に。』であれば良いのにと期待します。人間が知り尽くせるものは拝でほしくないのです。

"『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。"(使徒の働き)

子供の頃、うちではいろいろなものを拝んだり、祭りなどの行事をしていました。神社仏閣に行っては、手を合わせていました。クリスマスが済んだら百八の鐘を聞いて、正月です。法要もあります。私は全部、意味がわからずに楽しんでいました。休みだったり、親戚が集まったりするからです。これでは宗教ですら無いです。何をしているのか正しい目的を理解していた人がいたのかは知りません。
これとは違い深く敬う様に手を合わせるのを見ます。例えば日の出です。これは何か畏れ多いものがあるように拝んでいる様に思います。きっと刻まれた祭壇のあったところには、「太陽」と書いた祭壇もあっただろうと思います。どれだけ森羅万象を祀っても、知られない神は必ず残ります。なんなのでしょうか。知っている存在でなく、科学の発達によって知られる存在でもなく、人知をはるかに超えた存在に我々は畏れを感じます。この方こそ聖書が教える神です。"初めに、神が天と地を創造した。"この様に自己紹介されています。そしてこの方は"なぜなら神は愛だからです。"と説明されているのです。
私は天地創造と愛の関係に興味が尽きません。この事が聖書に解説されています。

早く聖書の神様にお会いになってください。神様は待っておられます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月14日 (木)

わたしはあわれみは好む

私は酒に酔うことで苦しみました。愚からなことをしているのに止める力がないことが怖かったのです。私の心には大きな空洞があり、そこに酒を流し込みました。これは罪です。今も空洞が開いたままですが、ようやく埋めるべきものがわかったような気がします。

"イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」"(マタイによる福音書)

罪についてです。もし地獄に行ってもいいと思っているなら問題です。なぜなら、地獄、神の恵みのないところを知らないからです。自分の罪からくる行為を憎んでいないのなら、感覚が麻痺しています。このような方にはキリストの言葉は愚かで意味が有りません。
"『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』"の主語は神様です。人間からの罪の贖のいけにえは要らないと仰っているのです。悔い改めが伴わない単なる儀式になってしまっているからです。神様は人間をあわれみによって、赦したいとおっしゃっているのです。
自分を罪の病にかかっていないと思っているなら、地獄に至る罪の性質を持っていないというなら、やはりキリストの言葉は愚かで意味が有りません。
イエス様は、自分が罪人であることを知り、その罪からくる憂い、痛み、悲しみ、恐怖、不安を持っている人を、救いに招くために来たとおっしゃっています。罪の贖いの代価として十字架で死なれました。そして全ての代価を完済し三日後によみがえられました。
これが神様の"わたしはあわれみは好む"の実現です。神様は愛です。

キリストの言葉を意味あるものとして、喜んで受け入れてください。心からお願いします。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月13日 (水)

あなたの信じたとおりになるように

信じてしばらくした頃に、信仰によって病気を癒すことができると考え、失敗したことがあります。よく考えて、病気であることが苦しみ、悲しみの原因ではなく、失望していることが苦しみ、悲しみの原因だと気付きました。解決しないといけないことが違うと気付きました。今はそのことから逃げています。心に暗い影が残ったままです。

"イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。"(マタイによる福音書)

これは百人隊長がしもべの病を癒してほしいとお願いした時の言葉です。やりとりの中で、百人隊長は自分も権威の配下にいて、部下に行けといえば行く。ですから、あなたも言葉をください、それで充分ですと言いました。このようにイエス様の神としての権威を認め、言葉さえ頂ければその通りになりますと信仰を示しました。イエス様はこの信仰を見て驚かれたと書いています。
"あなたの信じたとうりになるように"と仰りました。私はよく、求めているものとあなたの必要なものは違うと言って、願いがかなえられない可能性を踏まえて話をしています。この聖句に反するので私の理解は未熟です。特に病が癒えることについて必ず祈りは聞かれますと伝えるのは怖いです。
百人隊長の人間の権威ですら徹底されるのだから、神様の権威は絶対であると疑わない姿勢を自分も持ちたいです。
からし種ほどの信仰があったら山が動くと、聖書に書いています。私は実際に動くと信じています。神様のなさることは完璧で全てにおいて調和しているので気づかないのではないかと考えています。

信じる者になってください。過ぎ去った年月が速かったことからわかるように、残された時は多くありません。天国に行けることと残りの人生を充実させることができます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月12日 (火)

あなたが横たわるとき、あなたに恐れはない

ニュースや雑談を聞いていると、ほとんどが未来の生活を脅かす事の予言の様な内容です。仮にそれが起こっても乗り切れる知識があれば良いのですが、そのようなものは知らされません。

"あなたが横たわるとき、あなたに恐れはない。休むとき、眠りは、ここちよい。"(箴言)

1日の終わりがこのようであれば、本当に幸いだと思います。昔はこのような眠りを楽しんでいました。
今の私はいつも明日に対する不安があります。そのため、薬を使っています。すぐに深い眠りに入りますので、心地よい眠りに縁がありません。
この聖句には"にわかに起こる恐怖におびえるな。悪者どもが襲いかかってもおびえるな。"と"主(神様)があなたのわきにおられ、あなたの足がわなにかからないように、守ってくださるからだ。"と続きます。私はにわかに起こる恐怖をいつも恐れています。
神様がそばにおられて守って下るから、恐れず安心して、眠りにつきなさいと、この箴言では3節で書いています。でも、それを知らない人、理解できない人は多いです。
箴言には神様である知恵から聞き、知恵が語る知識を蓄えて楽しみとしなさいと書いています。冒頭の聖句からの3節が事実と気付けば、我々が世に騙されていることと、神様の隠れた守りに気付きます。

嘘の知恵、嘘の知識が溢れています。 でも、神様の知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげていると書いていますので、探し求めれば真理を見つけることができます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月10日 (日)

呉昌碩 藪石亭

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滴仙会 上級用 模刻課題

呉昌碩 藪石亭

20mm×20mm

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2016年7月 8日 (金)

父のみこころを行なう者

天国は有ります。人は死んで終わりではありません。霊が永遠に生きるからです。神様とともに過ごします。地獄もあります。神様に背を向けて過ごす永遠です。
天国と地獄を行き来することはできません。私たちは短い人生でどちらに行くか決めなくてはなりません。

"わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。"(マタイによる福音書)

前半の"わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく"の部分は私にはよくわかりません。隠されているのかもしれませんし、単に私が鈍いだけなのかもしれないです。ただ、何らかの理由で天国に入れない者が居て欲しく無いです。切なる思いです。
そのために後半部分の"天におられるわたしの父のみこころを行なう者"であることが必要です。これは私にもわかります。創造の初めから神様がご計画されていたことです。自分は罪人であることを認め、イエス様が自分の罪の贖いの代価になって十字架刑で亡くなられたことを認め、墓に葬られれ、三日後に神様がイエス様をよみがえらされたことを認めることです。これを信じて神様の恵みによる赦しを受け取ることがみこころを行うことです。
最初は誰一人として神様と歩みません。そこで天国と地獄の歪んだイメージが定着します。ですが、真理に気付いた者は神様を無視した人生から神様と歩む人生に方向転換します。その先に天の御国があります。

信じない者でなく、信じる者になってください。この選択が人生の意義です。神様はあなたが信じるために、痛みや悲しみが起こることを許されます。考えてみてください。平和であれば決して信じません。平和は続かないことを憂いながらも、平和にとどまり、平和を楽しむ、この様に没頭するからです。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月 7日 (木)

自分にしてもらいたいこと

私が愛を語るのはおこがましいのは重々承知しています。そのようなものですから。
自分に愛がないことを悩み、愛について考えました。実践できずに悲しい思いをすることが多いですが、一端に触れた時は心に温かいものを感じます。

"何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。"(マタイによる福音書)

ユダヤ人が聖書としている旧約聖書にモーセ律法が書かれています。そこには613の戒めがあるそうです。戒めは神様と人間の間の戒め(偶像の禁止や祭事)と人間同士間の戒めに分かれます。上記の聖句は人間同士間の戒めです。黄金律と言うものでどの宗教にもあります。
別の箇所では"あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ"とも表現されています。この二つの聖句は愛を使っているかどうかの違いがありますが同じ内容です。両聖句ともにこの戒めによって律法全体が全うされると書かれているからです。愛を使った戒めを定義できることが聖書の最大の特長です。
愛には大きな意味があります。他の宗教は愛を定義できません。なぜなら愛の根源を信仰していないからです。愛は自分の利益を求めませんから、目的を見出せなくなります。これが他の宗教との違いです。

"愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。"(コリント人への手紙第一)

新渡戸稲造は武士道で礼について愛の部分的実践だと、上記の聖句から導ているようように思います。我々が実践したいと思っている愛、渇望している愛はこれです。この愛は神様の本質です。
イエス様は愛を全うされました。十字架の死にご自身を捧げるまで私たちへの愛を実践されたました。イエス様が神である証拠です。人間にはできません。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月 6日 (水)

求めなさい

欲しいものと必要なもの、これらは往々にして一致しません。必要だからと言って欲しくもないものをいただいても嬉しくないです。必要なものが欠乏するのも困ります。だから欲しいものと必要なもの両方を与えてくださいと願います。

"求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。"(マタイによる福音書)

有名な聖句です。本当に求めた通り与えられるのかが心に引っかかります。なぜならその人が望んでいることが、その人にとって本当に良いことかわからないことと、万事を働かせて益とされる神様のみ技が計り知れないからです。でも、これは私が唯一基準として信じている聖書に書かれている言葉なので胸を張ってお伝えします。
この後に子がパンを求めているのに石は与えない、魚をくださいと言っているのに蛇を与えないと書いています。人間の親でも子が求める通り良いものを与えるのだから、神様はもっと良いものを与えるに決まっているでしょうと続きます。
親とて人間なので子に必要なものを知るのに限界があります。残念ながら的外れなものもあるでしょう。私は父としては反面教師で、放任主義だったので、子供達に寂しい思いをさせたと思っています。
神様はあなたを創られた方でですから、完璧にあなたの必要なものをご存知です。また、願う前から既に用意してくださっています。ではなぜ願うのでしょうか。別のところで、しつこく願いなさい、そうすれば方針を変えて叶えてくださると書いています。どう展開しても良い結果に至ります。これが万事を働かせて益とされるだと思います。
神様のなさることは完璧に調和していると思います。神様が山が動いても人は気付かないのでしょう。

この求めるはクリスチャンの特権ではありません。イエス様は万人に語られました。諦めずにあなたの欲しいものを求めてください。あなたの求めるものよりもっと素晴らしいものを神様は備えてくださっています。これで良いのにと考えるのは間違いです。あなたはあなたの望むものに決して満足しません。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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呉昌碩 藪石亭

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滴仙会 上級用 模刻課題

呉昌碩 藪石亭

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2016年7月 5日 (火)

散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた

キリスト教は最初、ユダヤ民族の間で起こりました。その後にローマが国教としました。元はアジアの宗教だったのですが、西洋のものになりました。
歴史を見ると、迫害の中で聖書に立ち返り、平和になると聖書から外れ、真理がわからず様式的になって本質を見失う傾向があります。これは私も同じです。
キリスト教の歴史や形式だけのキリスト教を見ると、納得できないことが多くあると思います。人間の思いが聖書の真理をないがしろにするからです。
私が信じて欲しいのは聖書と聖書が伝える福音です。

"サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。"(使徒の働き)

これはエルサレムに居たクリスチャンが世界に向かって旅立った時の記述です。サウロはギリシャ語名パウロです。パウロが、神に熱心に使えているつもりで、エルサレムのクリスチャンを迫害したのでエルサレムのクリスチャンは散っていきました。その道中、福音を伝え信じる者が起こされていきました。迫害にあっては散って広がっていき福音を伝え、信じる者が起こされるを繰り返しました。
歴史でご存知の通り、後に大宣教時代があり未開の地にもクリスチャンは赴き福音を伝えていきます。
パウロはダマスコのクリスチャンを捕まえに行く道中でイエス様と会います。彼はわからず、「主よ。あなたはどなたですか。」と問いました。そして「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と答をいただきます。パウロは自分の使える主がイエス様だと知って回心し、異邦人への宣教を開始します。

冒頭の聖句から始まり福音は私のところに伝えられました。そして今、私はあなたに伝えています。
パウロは自身の聖書知識と見識からクリスチャンへ沢山の手紙を残しました。私はその手紙から学び、あなたに福音を伝えるために知識と知恵を得ています。
あなたも仲間になりませんか。2000年の歴史に1ページあるいは1節を残しましょう。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月 4日 (月)

イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました

ヘブル人への手紙から引用します。難しいです。だからいつもの論旨に適用することしかできません。私はそれで良いと思っています。

"イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。"(ヘブル人への手紙)

重要なので何度も書いていますが、イエス様は罪人である私たちのために、贖いの代価となられて、十字架で苦しみ、死に、そして三日後によみがえられました。そのおかげで私たちは神様の恵によって栄光に迎え入れられることができるようになりました。
後半、その理由が難しい表現で書かれています。イエス様は我々の存在目的であり存在の原因であること。それ故に十字架の苦難はイエス様にとってふさわしい事だったと伝えています。存在目的であり存在の原因、この部分は神様の視点ですから、想像することはできても知ることはできません。私は愛なる方が私たちに愛の対象と言う存在目的と存在の原因を付与されたと理解しています。愛は相手の自由意思があって成り立つので、愛を育む過程が必要なのだと想像します。この過程の始まりは無垢の状態から神様への反逆でした。そして十字架の犠牲があり、婚姻、永遠の愛に至ります。幸いなことです。

イエス様の愛を信じてください。私たちのために十字架でイエス様は命を投げ出されました。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月 2日 (土)

私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに

神様との関係の中にしか生きる充足感はないと思っています。私はクリスチャンだから幸せ一杯かと言うとそうではありません。人生のほとんどの時間を無意味に過ごしているからです。充足感を得る術を知っているだけです。
そして、幸せではありません。同様に幸せになれない理由を知っています。
一生懸命に駆け抜けると同じです。走っている時はしんどいです。走り抜けると充足感があります。幸せはとどまることになるので、駆け抜けませんから充足感はありません。

"あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。"(詩篇)

この聖句の前の箇所で作者は神様の神秘的な介入に感謝しています。そして、この聖句の後の箇所に自分が日々神様と共にいると記しています。
聖句によると私が産まれる前に、私自身、私の人生、私と全てのものの関係が事細かく設計されているようです。
人生は何も持たずにどこからか来て、何も持たずにどこかしらへ帰ります。世で得たものは物しろ、関係にしろ、全て捨ててしまいます。世での労苦は虚しいものです。
神様との関係は永遠に続きます。ですから人生の目的は一つです。神様と出会うことです。唯一、意味と価値を持つからです。
聖句の通り、神様は私たちが神様と出会い、私たちの欠けた部分を埋めるように人生を設計されています。しかも毎日、私たちのそばにおられ神秘的な介入をもって迎えてくださっています。

神様の神秘的な介入は大風や地震や火のようではなく、かすかな細い声のようだそうです。耳をすませば聞こえます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年7月 1日 (金)

あすのための心配は無用です

私はノルマの無い仕事をしていましたが、明日やっていい仕事でも今日中に終わらさないと気が済みませんでした。残っている仕事は全部終わらさないと気が済まないが正しいです。能力が低かったわけでは無かったと思います。

"あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。"(マタイによる福音書)

この聖句は良いですね。ああ疲れたで仕事をやめたら、その日の労苦を十分こなしたことになるのですから。なんとなくこじつけの様ですが。いつ仕事ができなくなるかわからないのだから良いのではないでしょうか。働けなくなる日はいずれきます。
それにこの聖句は次の聖句から続いています。

"自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。"(マタイによる福音書)

聖書の言葉は心のゆとりを作ってくれます。あなたを苦しめる間違いから解放してくれます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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