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2016年6月

2016年6月29日 (水)

空の鳥を見なさい

アルコール依存症の苦しみの中、懐かしい教会に出向きそこで個人的に語っていただいた言葉です。その時には、今、なぜ、この聖句なのだろうと思いました。

"空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。"(マタイによる福音書)

意味は読んだとおりですが、神様が必要な物は全て備えてくれています。心配するのはやめなさいです。
社会的な死が見えていたので、経済的な心配をしないようにが話の趣旨でったのでしょう。この聖句の後にに"何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。"と書かれています。「"心配するのはやめなさい"は命令形で書かれているので、守らないといけないんですよ。」と言われました。その当時は主体的に何かをするのは無理だったのでイエス様の命令ならと受け入れました。以降、疑ってオロオロすることもありましたが、基本的に金銭面での心配はやめています。
この聖句を信じるか信じないかで、随分と生き方が変わると思います。世知辛い夜なのは、我々の未来を人質に取られて脅しにあっているからでは無いでしょうか。この脅しは悪魔が神様の備えを隠して、欠乏した状態を見せているのだと思います。不正をする、他人のものを欲しがる、殺人、これらの目的が明日の生活のためなんて悲しいことです。これはあくまでも世が悪いのです。

信仰は腹の足しにならないと思われていませんか? 聖書には生活保証を約束する聖句がきちんとあります。聖書は神様からのラブレターと言います。神様の約束が書かれています。どうか聖書を信じてください。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月28日 (火)

幸いです

心に空いている穴は曲者でそれを埋めようと際限の無い衝動が生まれて制御不能になってしまいます。私はその穴に酒を流し込みました。そして今も満たされないと知りながらあらゆるむさぼりが私を捕らえます。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。"(マタイによる福音書)"

"心の貧しい者"とはどの様な人だろうと改めて考えてみました。実はよくわかっていませんでした。さもしい者かと思っていたのですが、その後に続く、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇いている者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されている者、わたし(イエス様)のために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、とあまりしっくりしません。
英語ではpoorが当てられています。貧しいとか気の毒なみたいな感じですか。心の気の毒な者もしっくりきません。
貧しいをそのままの意味で使うと、欠乏している様子になります。心ですから欲望が満ち足りない、つまり欲しいものが手に入らなかったり、失望している、つまり望みが絶たれているような思いの状態と考えると、続く悲しむ者につながり全体としてしっくりきます。
確かに権威、名声、快楽、生活、仕事、勉学、交友、良いものだろうが悪いものだろうが、それで心が満たされる、すなわち心が富んでいると神様に助けを求めることはないので、イエス様に心が向かず天の御国にからは遠いですね。
クリスチャンが試練で心の貧しさを感じ苦しむのは、神様に助けを求める本来の人としてのあり方を維持するための様な感じがします。貧しさを埋めて頂くことを願うのではなく、ただ貧しいことを知っていただき神様にゆだねます。
確かに心の貧しい者は幸いです。

心が貧しく、悲しんでいるのなら、イエス様にそれをお伝えすれば良いのですよ。あなたのために十字架で命を捧げられた方ですから、天国の場所が確保されていることを示してくださり、慰めてくださいます。その慰めは何もわかっていない人間のそれとは違います。心に暖かい灯がともります。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月27日 (月)

これを全部あなたに差し上げましょう

複数の言語を話せる人、楽器を演奏できる人、人をねぎらえる人、考えて高等な結論を導ける人、こつこつと継続して積み重ねることができる人、リーダーシップを発揮できる人。人それぞれ光り輝く能力を持っています。単独では効果を得ず、組み合わさると素晴らしい成果を生みます。

"今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」"(マタイによる福音書)

悪魔、サタンの申し入れは馬鹿げている様に見えますが、全ての人が何らかの形でこの取引に応じているのではないかと思っています。私の場合は、「残りの人生を悪魔に捧げるのなら、一生、酒の快楽を味あわせてあげましょう。」みたいな取引に応じてしまったのでしょう。そうして私は神様と歩む人生の素晴らしさを失ってしまうわけです。
この様に全ての人が自分自身と、神様に備えていただいた素晴らしい能力を悪魔に捧げてしまい。悪魔は常に空中の支配者として地上のすべてのものの所有者になるのでしょう。また、神様が与えてくれた能力も悪魔の思う通りに機能してしまっているように思います。結果、世は悪魔にとって理想的なものになり、神様の理想からどんどんと悪くなる仕組みになっているのでしょう。
ですが、イエス様がご自分の命を代価にして取引で失った私をこの世から贖い出してくれました。私は酒から解放されています。悪魔に捧げてしまった神様が備えてくださった宝である能力がどうなったのかはわかりません。この手紙を書き続けていることが宝かもしれませんし、代わりにいただいた宝かもしれません。生きがいであることは確かです。

みんながこの話に該当するのかどうかはわかりません。経験からですが、止めたいのに止められないことがあるのなら、自分を不幸に追い込む習性があるのなら、該当すると思いますので、ご一考いただくのが良いと、お勧めします。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月25日 (土)

木につるされた者

良いことがありました。新しい小さな教会がスタートしました。悲しみもあり、どうなることかと思う事もありましたが、喜びの場所が一つできました。福音が近隣地域に広まれば幸いです。

"もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。"(申命記)

この聖句はユダヤ民族の律法ですがイエス様の預言になっています。イエス様は十字架刑になることで木に吊るされた者となりました。律法によると神に呪われた者となります。ですが、イエス様は、"「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」"とある通り神様から愛されていました。もちろん、十字架刑まで罪は犯されず、神様の御心をなされました。呪われてなどいません。
対して私たちは罪のゆえに呪われる者です。イエス様は私たちが受けるべき呪いを全て一身に引き受けて呪われる者となられたのです。ですから私たちは最早呪われた者ではありません。
天地を創られた神様が罪の虜になってしまった被造物を愛して、命を代価に買い戻された話です。宗教の宣伝活動に見えるかもしれませんが、もし本当だったらの視点で考えて欲しいのです。

イエス様は救いのために人の形になって来られた神様です。最もあなたに身近な方、あなたの全てを知っておられる方、あなたを愛してやまない方が待っておられます。是非、お会いになってください。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月24日 (金)

信じない者にならないで、信じる者になりなさい

自分の罪に対する思がわき起こったり、明日への不安で潰されそうになったり、死後に対する思いがいつも心の片隅に有ったり、そんな生きるのに邪魔でしかない機能が淘汰されないのは、人間がそのように造られている証拠としか思えてなりません。

"トマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネによる福音書)"

イエス様が復活された後に弟子たちの集まる所に姿を現された時のことです。一度目に姿を現された時にトマスは居なかったので、聖句の通りにしないと、イエス様の復活を信じないと仲間に言いました。
イエス様の手には杭を打たれた穴、脇には槍で突き抜かれた穴があります。トマスはこの言葉の後、信じたことを言い表します。
二度目に姿を現された時の記述はこれしかないのでトマスが信じるために来られたことになります。イエス様は私たちが信じるためなら何でもしてくださいます。なぜなら信じないことであなたを失うことは、あまりにも大きな悲しみからです。その最も大事なことが死後に神様の恵みの無い世界で永遠に暮らす痛みです。私たちはそれを認識していません。この神様との温度差を問題だと思わない自分中心な判断は罪の性質からきています。
この聖句の後、イエス様は見ずに信じる者は幸いですとおしゃいました。私たちはイエス様を見ることはできません。それでも信じることができることを意味しています。もし信じるための条件があるのならイエス様に願ってください。

どうか信じない者にならないで、信じる者になってください。人間の弱さに対処する秘訣を得ることができます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月23日 (木)

だれかが墓から主を取って行きました

イエス様の墓が空だったことで弟子たちは不思議に思いました。ユダヤ人指導者は隠蔽工作をしました。女達は誰かが死体を持って行ったと思いました。だれも復活を信じず、理解せず、喜びませんでした。

"さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」"(ヨハネによる福音書)

イエス様の復活です。預言通り十字架上で亡くなられ、金曜日の夕方から日曜日の朝までの三日間墓に葬られていました。マリヤは"だれかが墓から主(イエス様)を取って行きました。"と言っています。この先を読んでいくと弟子達全員がイエス様が仰ってた復活を理解しておらず信じていません。ですからイエス様を信じていた者の皆が死体が無くなったと思っています。
弟子達以外にイエス様の復活で利益を得る者はいません。これはあくまでも復活による贖いの達成が必要だからです。イエス様の死体を隠して復活騒動を起こしても、神様に相反することになりますし、イエス様がメシアと信じた方でなかったことの方が切実な問題なので、そんなことはしません。
イエス様を敵視していたユダヤの指導者達はイエス様が、私は死んで三日後によみがえる、とおっしゃてたのを知っていますから、死体が無くなっていると困るので盗みません。
ローマ兵が厳重に警備してましたから、いたずらはありえません。
ですから、あきらかにイエス様は復活されたのです。ここに喜びが有ります。私たちの罪のあがないの代価が完済されました。神様の前に私たちは聖いのです。ですから、望むなら神様に義と認められ、神様と共に永遠の御国で暮らす特権を得ることができます。

平安な日々、明日を生きる力、喜ばしい展望、これらは良いものです。欲し、そのために努力することも良いことです。ですが、いずれ意味を持たなくなります。最後まで残るのは永遠に対する思いです。
復活したイエス様は信じない弟子達にお会いになりました。あなたも望めばお会いできます。ぜひお会いして信じてください。心から願います。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月21日 (火)

あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにする

最近、心理学の本を読みました。人間の行動は原因があって起こるのか、目的があって起こるのかを対比していました。その本は後者に基づいて書いています。例を挙げると、腹が立って怒鳴った(前者)と怒鳴るために腹を立てた(後者)になります。まだよくわからないので考察するつもりです。

"主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。"(申命記)

上記の聖句はイスラエル民族がエジプトの地を出て約束の地に行ったときの様子を書いています。一度、約束の地に近付きましたが、その地の先住民と土地の様子を悪く言う噂が流れ民は神様に呟きました。その結果、エジプトの地を出た成人は滅びて、その子供達が約束の地に入るように40年間荒野をさまよう結果になりました。その旅でイスラエル民族は強い民族になりました。
試練に会うとき、辛くて、怖いです。力量に応じた負荷であることと脱出口があるのはわかっているのですが、やはり憂と嘆きがあります。私の場合は試練を超えたとき柔和さを身に纏うよう成長している感じがします。頑なな心が砕かれるのでしょう。私はそれを喜んでいます。

神様による幸せ計画を信じなければ、日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろうとなってしまうと思います。自分で自分に意味づけをすることはできません。あなたの身の回りの物はあなたが意味と価値を付けます。同様にあなたの意味と価値は神様がお付けになります。そしてそれは高価で尊いと聖書に書いています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月20日 (月)

偶像礼拝者

私にはあらゆる悪癖があります。私は完成あるいは達成しないと気が済まないので、その対象がいかがわしいことであれば不品行になってしまいます。その対象が仕事、研究であれば勤勉になります。どちらも性質は同じです。

"あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・これが偶像礼拝者です。"(エペソ人への手紙)

この聖句は偶像礼拝者を定義しています。
遺体は土に帰り、棺は木の箱、墓は印、仏壇は物入れと認識していれば、拝んでも偶像礼拝者にはなりません。死者への思いは、その人の心にあります。死者を偲び、懐かしむことは先祖という特別な存在に敬意を表することで、誰にでもある大切なことです。目の前にある物は意識を合わせ儀式を円滑に進めるための道具にすぎません。
神社で祭りの儀式に参加する時は何を拝んでいるのか調べるのが良いと思います。あなたを救ってくれますか。そうでないと、全ての神体が気休めになってしまい、本物に出会えません。ですが、天地万物をお造りになられた方は神体などにおさまりません。
私には聖句の偶像礼拝の意味がわかります。アルコール依存症だからです。
まず光の下に現れないように隠れて行います。後ろめたいのです。ですが、不品行、自分を汚す行為、むさぼりを止めることができません。特殊な快楽を恋い慕っているからです。その結果、行為を明るみにさらし、後ろめたさを引き起こす光を嫌うようになります。そして、光から離れていきます。
光は神様です。神様の正義が心を責めます。光である神様から離れて永遠に暮らす所を地獄と言います。快楽の虜になって離れられなくなった、まさに奴隷が進んでいきます。地獄の鍵は内側から掛かっているそうです。入ってくるなと言っているのですね。

神様が罪をおかした人を見捨てることは絶対にありません。痛み、苦しみ、悲しみを使ってでも帰ってくるようにと働きかけておられます。これをバチと呼ぶ人がいますが、それは違います。神様に、なぜ自分がこんなに辛いのですかとお聞きになられることをお勧めします。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月19日 (日)

真理とは何ですか

数学の好奇心は正しさが自明な公理を原点に、論理的に考え出された新たな正しさである定理を組み上げていきます。人間の好奇心は数学よりもっと難しい自分自身の存在や世界の存在、また認知できない領域の存在に関わる正しい答えを求めます。

"ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」"(ヨハネによる福音書)

イエス様がピラトに"わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。"と言った言葉への返答です。
人間の考えていることはばらばらなので、普遍かつ妥当な共通認識を欲すると思っています。皆なそれを真理と称して尋ね求めているのではないでしょうか。結局のところ誰一人として自分が正しいとは思っていないことになります。「真理とは何ですか。」はこれらを象徴していると思います。
正しい答えは根元を探らなければ見つからないものです。善悪の根源、感じることでしか認識できない畏怖を抱くべき根源、これが一致して宗教として成立します。私たちはその根源が万物の根源でもあると信じ、根源なるこの方を礼拝します。真理を解明したのではなく、ただ3つの根源が一致すると信じました。真理のあかしとはこの方を知らせることです。

手で作った神は見ることも、聞くことも、嗅ぐこともできず、人が世話を焼かなければ動くこともできません。いずれ朽ちます。このような物を拝むのは愚かなことです。人が木を切って、薪木にして暖まり、飯を焚き、神を作って拝む。こう考えてみてください。滑稽と思いませんか。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月17日 (金)

人がその友のためにいのちを捨てる

目の前のの禿山の尾根沿いを登山客が一列で登ってました。えー、ここを登るのですかと思ってしまいました。近隣の夜景スポットを調べていて、少し登ったところに眺めの良いところがあるそうです。写真で見るより、少々苦労して実際に見たいですね。

"人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。"(ヨハネによる福音書)

神様が創造主として被造物である人に自由意志を与えて成し遂げたいと願われたことは何なのだろうかとよく考えます。この聖句から、ご自身について理解させることだったのではないかと思うようになりました。知識として人に埋め込むことは容易におできになったでしょう。ですが、それは経験を通して実感するのとは違います。自転車に乗ることについて書いた本を読むのと実際に乗るのとが違うような感じです。実際に乗って初めて発見する喜びがあります。
"神は愛"と聖書に書かれています。愛のわからない者にどのようにしてご自身の本質を表すことができるでしょうか。
愛する者を友と呼び、その友のために命を捨てる。つまり神様が人としてこられたイエス様が我々の身代わりになって十字架で命を捧げられたことで、神様の人に対する愛が示されました。このような愛を見たことがありますか。私はありません。そもそも他人を愛したことがあるのかと恥じ入ってしまいます。
クリスチャンの集まりに楽しさを感じる様になり、留まりたいと思う様になりました。そして広めたいと思う様になりました。これが神様の愛を経験することを通して実感する喜かもしれません。

今は恵みの時です。神様の愛は一方的に注がれています。どうか降り注ぐ愛の根元に近づいてください。神様は待っておられます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月16日 (木)

迎風 朱文

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滴仙 初級用 課題

迎風

25mm×25mm

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迎風 白文

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滴仙 初級用 課題

迎風

25mm×25mm

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2016年6月14日 (火)

神のみこころに添った悲しみ

神様が、心に劇的な変化を生じさせて、新たな自我が生まれる体験をさせることを回心と言うそうです。回心は今までのことを反省し、自分で心を改め正す改心とは違います。

"神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。"(コリント人への手紙)

いろいろな悲しみがあります。敗北、傷付き、孤独、後悔、失望、痛みなどでしょうか。いずれの場合でも、その悲しみに意味や価値が無ければ、絶望してしまいます。
ですから悲しみにあった時には、逆転劇や教訓を得る事に多くのことを考えます。絶望は死をもたらすので、意味が欲しいのです。
実際は自分を変えることで、ほとんどの場合は解決します。ですが自分を変えることは、過去の否定になるので難しい様です。結果、勇気を奮うほどの意味を見出せないか、自分に言い訳をし、心にしこりを残します。
聖書は想像を超える良い結果に至る希望を与えてくれます。ですから悲しんでいても今の自分を受け入れることができます。
問題は罪です。罪からくる悪癖は悔いることはあっても改めることは困難です。悔い改めは継続的な努力を要するからです。悔いる悲しみと、それでも望む思いを祈りとして神様に捧げて良いと思います。神様が許されるのであれば続ければ良いし、回心が起こればそこで終わります。
悲しみにあっても自己を変えられる救済が生じるのなら、それは回心ですから喜びに至ります。神様のみこころに沿った悲しみです。

私は何度も回心を経験しています。クリスチャンになったこと、酒をやめたこと、良い交わりに加わるようになったこと、などなど。
悔い改めることができない悩みを捨てようと思います。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月13日 (月)

わたしは、あなたがたに平安を残します

人間は一瞬にして凶暴になります。私利私欲にかられた人間は何をするかわかりません。私は目が覚めたら世界中から嫌われているのでと妄想することがあります。平和であり安心な未来など信じられません。ですから弱い私には打ち勝つ力が必要です。幸いなことに聖書には平安の約束があります。

"わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。"(ヨハネによる福音書)

イエス様の残される平安と世が与える平安と書いてあります。両者は違うものだとも書いてあります。
この時、弟子達はイエス様と居り強く堂々としていたと思います。ですがイエス様がご自分がいなくなることを告げられた時、恐れたと思います。ユダヤ人指導者による迫害が予想されていたからです。実際にイエス様が捕らえられた時、弟子達全員が逃げました。
この後、使徒の働きという書簡を読むとイエス様の復活を見て、教えを悟った弟子達は堂々と宮で福音を語りました。捕らえられることなど恐れていません。真理と希望が彼らの力の源でした。
この聖句の直前で、イエス様が去った後に聖霊が各人に遣わされることが約束されています。聖霊は私たちに教え、聖書の言葉を思い起こさせてくださいます。弱い人間がどの様にして強くなるか、その仕組みがきちんと説明されています。信じることができれば恐れなどありません。
対して、世の平安は何ものにも根拠が無く、常に裏切りを恐れないといけないものです。

私は世の平安を憎みます。偽りだからです。悲しみばかりをもたらすからです。虚偽に満ちていて本当の平安であるイエス様の平安への目を背けさせます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月12日 (日)

あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです

もうすぐイエス様が迎えに来てくださり天に帰ると、私が言ったら皆んな私がおかしくなったと思うでしょう。でも聖書の約束なので、私はその日を待っています。2,000年前からクリスチャンは待っています。長く待っているのは場所を備えるのが追いつかないのかなと思ったりします。

"わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。"(ヨハネによる福音書)

全てのクリスチャンはこの日を待っています。イエス様は場所の準備ができたら以外の条件は付けておられません。
これはユダヤの婚姻の風習です。花婿が場所を備え花嫁を迎えに行きます。つまりこの聖句はイエス様から教会すなわちクリスチャンの集合への婚約の言葉になります。
以降、クリスチャンは今か今かとこの日を待ってます。新約聖書の手紙には、自分たちが天でイエス様とお会いする時、眠った者もよみがえって一緒に天に行く、と書いています。ですがこの日が来ると神様の救済に終わりが来ます。私は救済の時間切れとは思いません。救済を拒む人はどこまで行っても神様と共にいることを望まないのだろうと思います。悲しいことです。

イエス様がご自分の命をもって贖われた教会はイエス様の花嫁だったのです。イエス様がどれだけ教会を愛しておられるかがわかります。また信じる力がどれだけ尊いかがわかります。信じてくださることを心から希望します。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月11日 (土)

わたしがあなたがたを愛したよう

私には愛に関する課題が多いです。解決したいです。大きな声でこれを言える様になったのは進歩だと思っています。

"あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。"(ヨハネによる福音書)

これはイエス様が十字架刑の前日に語られた言葉です。新しい戒めですから残念ながら我々にはイエス様の愛は無いことを示唆しています。
この言葉の前にイエス様は弟子たちの足を洗われました。師が弟子の足を洗われたのです。神様が人間の足を洗われたのです。
感情的に愛を示めすことは多くあると思います。ですが感情の移ろいによって愛は冷め行動は変わります。感情によらない愛もあるでしょう。限定的であろうと、条件付きであろうと、何らかの不純さを持っていようと、意思と行動をもって示す愛は尊いものだと思います。
聖句には"わたしがあなたがたを愛したように"とあります。聖書に見るイエス様の愛はあたえること、仕えることに徹底しています。イエス様は十字架で命を捧げるに至るまで愛を貫かれました。

私は愛することができません。心の何かが邪魔をしているのがわかります。それが何なのかわからないのか、何かを受け入れないのか、とにかく前に進めないことが惨めでなりません。しかし聖句は戒めですからできることが前提になっているとわかります。つまり希望があります。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月10日 (金)

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ

蕾をこじるように開いた花が凛として咲いていました。木の花は個として美しく、群としても美しい。神様がその様に創られたのだと思いました。

"まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。"(ヨハネによる福音書)

これはイエス様がご自身の十字架の時が来たことを宣言された時の言葉です。一粒の麦はイエス様です。イエス様がご自身の命を身代わりの代価として十字架上で捧げれば、救いを求める多くの人の罪を贖うことができると伝えています。
イエス様は公生涯に入られてから十字架に向かって真っ直ぐに歩まれました。その原動力は私たちへの愛です。死に至るまで愛を示されたことで、神様の本質が愛であることと、私たちをいかに愛しておられるかがわかります。

私たちにはこのような愛はありません。ですから聖書を理解できないのかもしれません。あなたの身近にあなたのために命を捨てられた方がおられますか。もしおられたらどうするでしょうか。その人について深く知ろうとしないでしょうか。聖書はイエス様について書かれています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月 9日 (木)

もしあなたが信じるなら

信仰は一つのことを信じることができれば、ぽんぽんと花が咲く様に色々なことが信じられるようになります。木が一つであるように信仰も一つです。

"イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」"(ヨハネによる福音書)

これはイエス様が死人をよみがえらせる直前に死人の姉妹に言った言葉です。死人のよみがえりについては別の機会にお伝えできたらと願っています。
重要なのは"もしあなたが信じるなら"です。信じる力が無ければ神様が何をされてもあなたには意味がありません。「神の栄光」と言葉では軽く流してしまいがちですが、神様は天地万物を創造された方であることを覚えるべきだと思います。
旧約、新約の両聖書とも神様が人間に対してたてられた契約が書かれた書物です。幾つかの契約が有りますが、一貫しているのは神様への信仰、すなわち、何でもおできになる神様が私のために全てを働かせて益としてくださることを信じる力が義とされます。

信じれば良いとは簡単すぎて納得できない、と聞きます。難しいことであればやるのに、簡単なことはやらないは理にかなっているのでしょうか。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月 7日 (火)

良い牧者は羊のためにいのちを捨てます

今日、心のゴミを捨てました。何も変わりませんが、持っていることを意識しなくて良くなりました。ただそれだけのことです。これは私事です。ですが、こういうことがよくあります。無駄なものをたくさん抱えているわけです。

"わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。"(ヨハネによる福音書)

イエス様の言葉です。実際にイエス様は十字架刑で命をお捨てになりました。羊はクリスチャンすなわち私たちです。ここから、イエス様は私たちがクリスチャンになる前に命を捨てられたことがわかります。つまり罪人のために死なれたと言うことです。この様な犠牲の話を聞いたことがありますか。
神様は無償の救済をまず完成させてくださいました。この救済は信じるだけで受けることができます。旧約聖書時代には律法がありました。ですが誰一人として行ないによって義人と認められませんでした。イエス様の十字架を信じることは、何もしなくて救済を得るわけですから、これは恵みです。

イエス様は良い牧者です。絶対に一匹の羊を見捨てません。狼や熊が襲ってくれば命をかけて守ります。そうして憩いの牧場に連れて行ってくれます。その道のりが険しくても恐れず安心してついて行くことができます。

十字架の死から復活されたイエス様は今も生きて側におられます。悲しんでいる時に慰めてくださり、弱っている時に励ましてくださり、喜んでいる時に共に喜んでくださいます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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呉昌碩 破荷亭

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滴仙会 上級用 模刻課題

呉昌碩 破荷亭

20mm×20mm

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2016年6月 6日 (月)

安眞 白文

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滴仙 初級用 課題

安眞

24mm×24mm

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羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます

これでいいのかと悩むのは疲れます。これでいいのだと悩むのも疲れます。未来のことがわからない、周りで何が起こっているのかわからない、が原因です。
狭い視野では何らかの結論を見いだせますが、正確性を欠いていることは否めません。これが論争を引き起こしているのだと思います。
では、どうしましょう。

"彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。"(ヨハネによる福音書)

彼は羊飼いでイエス様のことです。羊はイエス様を信じるクリスチャンです。イエス様を信じるものはイエス様の声を知っています。ですから誤った導き手についていくことはしません。また羊は羊飼いの行き先は知りませんが、何の疑いもなく良い草原に連れて行かれます。つまりイエス様を信じる者は何の疑いもなく良い未来に連れて行かれます。
私は良い羊飼いの群れで暮らし、彼に導かれるままに歩んで行きたいと思っています。ですが迷い出ることが度々あります。見えない目でよそ見して立ち止まってる間に置いて行かれるのでしょうか。鳴きながら待っていると羊飼いが群れを置いて探しに来てくれます。

私は自分の考えに固執するのをやめました。と言うのは必ず間違うからです。固執の大半は正当化になってしまいます。そんなことに一生懸命になっても現実は何も変わりませんし、一向に居心地が良くなりません。それに多くのものを失いました。
今では、脳は意外と柔軟なんだと考えています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月 5日 (日)

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい

庭の引出し鉢に植えた山アジサイが咲き誇っています。アジサイは水呑で水やりが大変です。今まで何度も水切れで枯らしてしまいました。良い管理者に育てられるアジサイは幸いです。聖書にイエス様は良い牧者と書いています。イエス様の元に居れば幸いだと思いませんか。

"イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」"(ヨハネによる福音書)

私の原動力をこの聖句は語っています。私の心には過去にしでかした失敗からくる後悔と、未来が全く明るく見えない不安で満ちています。ですが、その奥底に衝動があることに気づいた時、死んでいた心身が生気を取り戻すのを感じます。そして一歩を踏み出すと夢中になります。この衝動は希望を伴っているので暖かく、喜びに満ちています。
このメールがその証です。
まず、イエス様の元に行って渇きを癒していただきましょう。そして本物だとわかったならイエス様を救い主として受け入れれば良いのです。心にイエス様を救い主として受け入れれば、希望を伴った衝動が起こります。前へ進めます。

イエス様の元に一歩を踏み出してください。自分で解決することを諦めて、「助けてください」とイエス様に一言祈ることがその一歩です。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月 4日 (土)

それが神のわざです

何を書こうかと考えていましたが、、、、

"イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」"(ヨハネによる福音書)

神様の言葉を取り継ぐ勤めをきちんと果たすことができるように祈って書くのですが、間違いや、おかしな表現を使って伝わりにくくしてしまうことがあります。では私のしているこの勤めは神様からのものではないのかと言うと、そうではありません。私の愚かな文章を通してあなたの心に福音が届けば、それは完全に神様の恵みによってなされたことになります。私は神様の恵みが表されることを望みます。神様の愛を見ることができるからです。
聖句はイエス様を信じるとは人の力によってできないと言っています。文学や哲学の領域ではありません。聖人による代弁もできません。では、どうやって信じるのでしょうか。計り知れない神様の技が全てを働かせて成し遂げてくれます。つまり説明できません。ですが、いろいろな生い立ちのクリスチャンがいるのは事実です。

神様は天地をお創りになられたわざをもってあなたが福音を信じるように招いておられます。これは罪の支配力の強さに打ち勝つことを表しています。ですが、神様は万軍の主です。あなたが望むのであれば罪に力などありません。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月 3日 (金)

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者

あるクリスチャンの集まりに参加していた時に、心から喜び、分かち合う人たちを見ていて私もそうなりたいと思いました。その集まりの特徴は神様の偉大さに触れること、イエス様の直接的な愛に触れることを心から喜んでいたことです。そして私は変わり、クリスチャンの集まりで喜ぶ者と成りました。

"まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。"(ヨハネによる福音書)

今は聖書からしかイエス様のことばに触れることができません。当時に比べると限定的なのかと言うと、逆に聖書が包括的に書かれているので我々の方が恵まれていると言えます。イエス様の言葉を聖書から聞き、その一つにでも信じ身を委ねることができれば、イエス様を遣わされた方すなわち神様を信じたことになります。
聖書は物理的には人間が書いたものですが、"聖書はすべて神の霊感による"と、その聖書に書かれています。この世で神様にお会いできるところは聖書しかありません。聖書は神様からの愛のメッセージ集です。
聖書は"教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。"とあります。ここで言う聖書は旧約聖書なので、律法に対する言及です。律法は良いものでしたが全ての人を罪に閉じ込めてしまいました。人が行いによる義を立てようとしたからです。イエス様の十字架による贖いが信じる者を罪からから解放しました。信仰による義です。その結果、律法は道徳的な意味合いでしか役割を持たなくなりました。
信じるだけで良いのですから神様の恵みに他なりません。神様の義が立てられました。
神様の恵みによって、イエス様の言葉を聞いて神様を信じる者は永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。

イエス様の言葉を吟味して自分のものとされることをお勧めします。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年6月 1日 (水)

安眞 朱文

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滴仙 初級用 課題 24mm×24mm

安眞

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湖のほとりにすわっておられた。

海で朝日や夕日を眺めたり、山で緑を眺めたりと、私たちは自然を楽しみます。全てこの世界を維持していくための役割を持っており無くてはならないものです。同時に存在そのものが人間を楽しませています。

"その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。"(マタイによる福音書)

天地万物を創造された神様がこの世に来られました。それがイエス様です。三位一体という言葉がありますが、そこで言う子であり人格です。
この聖句には大勢の群衆が集まってきたので教えられたと続きます。
ちょうど1年前に聖書というアプリからFacebookに「被造物の素晴らしさを楽しんでおられた様に思うのです。」と感想をシェアしていました。今日、Facebookに思い起こさせられました。
神様としてお造りになられた世界が、最愛の被造物である人間の視点で、どれだけ素晴らしいかを味わっておられたと思いました。イエス様としてこられたからおできになったことです。そして、設計通りの完全な世界をご覧になって楽しまれたのだと思いました。
"湖のほとりにすわっておられた"と、いつもの忙しくされているのとは随分と印象の違う記述なので、そこから想像を膨らませた解釈です。何の根拠もありません。この頃はイエス様が人間としてこの世を生きておられたことを思いながら聖書を読んでいましたので、「被造物の素晴らしさを楽しんでおられた様に思うのです。」と気付いて心が温かくなったのを覚えておます。今も解釈は変わりません。

当時はWEBテスト用に作ったFacebookアカウントだったので友達もいませんでした。誰も読んでいなかったはずです。つまり1年後の自分とシェアするために投稿したことになります。備忘録といえばそれまでです。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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