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2016年5月 2日 (月)

私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして

正しく生きる努力は素晴らしいことです。多くの点で自分の正しさを認めて、自分の悪い点に対して改善しようとさらなる努力をする人もいます。素晴らしい点と悪い点を相殺し評価する人もいます。この場合の相殺した結果に対する行動も様々ですね。これらは各人の基準によって良し悪しが決まっています。
とんでも無いことをしてしまったと後悔することもあります。取り返しがつきません。このような時にその人のあり方を決める判断が求められます。

"そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。"(マタイによる福音書)

イエス様を裏切ったユダの最後です。後悔したとあります。ユダが救われなかったのは自殺し、最後までイエス様の恵みによる赦しを受けなかったことです。イエス様の所に行って「ごめんなさい。あなたこそ救い主です。」と謝れば良かったのです。
ユダはイエス様が選ばれたのですからイエス様が天に帰られた後の、教会時代の始まりを担う資質は有ったのだと思います。資質がになのかはわかりませんが。ですがイエス様を神の子とは理解せず、義人、約束された王、つまり一人の人間と捉えていたのだと思います。一向に王国を建てようとしないことに失望したと聞いたことがあります。
悔改めとは後悔して行いや考えを改めることです。ですが改めることは人間にはできません。聖書には自分の胸をたたいて『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と言った人が、義と認められたと書いています。
律法の配下では"義人はいない一人もいない"と結果が出ています。イエス様が十字架刑によって全ての人の贖いの代価となられました。墓にほうむられました。三日後によみがえられました。これを信じる人は全員救われます。

ユダは自分で自分の時間を終わらせてしまいました。人は必ず死ぬことが決まっています。神様は最初であり最後である方ですから、その人の一生を見通しておられます。救いを受け入れないと確定した時点で死が来るのではないかと私は思っています。生きる苦しみを味わう必要が無いからです。これは私の想像です。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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