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2016年5月

2016年5月31日 (火)

真理を行なう者は、光のほうに来る

辞書で真理の意味を眺めていて、真理は神様の領域だと認識しました。創造の初めに完成した秩序があり、思想がその秩序と一致しているかが正しさの基準と判断したからです。

"御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。"(ヨハネによる福音書)

悪い者は行いが出ることを恐れて光の方に来ない。この原理に改めて驚かされます。神様はこの原理で人間を二分されます。
ですが、人は態度を変えることができます。イエス様の福音を信じるか信じないかです。これは人の側に選択が委ねられています。
良心と妥協している悪さを捨てることが許容できないでいるか、自分を苦しめる心の内の葛藤や過去にしでかした罪がもたらす重荷から解放されたい一心で一歩を踏み出すか、人はこの選択の前にいつも立たされています。
ですが、この変革は一方通行です。やみから光に変わることはできますが、光からやみに変わることはできません。なぜなら、光にいると真理の中を歩んでいることがわかり、真理という秩序を作り出された方、神様に導かれる喜びを感じるからです。やみにいた時に自由だと感じていたのは偽りで、欲望の奴隷であったことに気付きます。

自分が癒されることを望み、それから根本的な解決をもたらす福音を信じるようになると思います。それで良いのです。重要なのはイエス様を信じる力を持っていることです。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月30日 (月)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された

旧約から新約を通じて聖書全体を要約している聖句です。

"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"(ヨハネによる福音書)"

もちろんひとり子はイエス様です。与えたというのは被造物である人の手によってイエス様が十字架にかかることを許されたことを言います。イエス様が私たちの身代わりとなって十字架上で亡くなられ、三日後によみがえられたことで、私たちの救いは完成しました。
神様には私たちを滅ぼし新たに創造する権威がもちろん有ります。ですがそうはされませんでした。ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つようにしてくださったのです。
神様が私たちをそこまで愛される理由はわかりません。ですが、神様は命を投げ出されるほどに私たちを愛されたのです。こんな愛は他にはありません。

イエス様を信じる者、すなわち神様の救済を望む者は皆永遠の命を得て天国に入ります。
最初のステップは自分に救済が必要なことを認めることです。不安、心のしこり、肩にのしかかる重荷について考えてみませんか。
あっという間に今日が昨日になり、時間の流れが早いなと感じるのは、楽ですが、悲しいことです。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月29日 (日)

私を義の道に導かれます

私たちは過去に犯した誤ちに責め立てられています。過去をやり直すことはできないので自分で自分自身を解放することができません。そしてしでかした誤ちが余りにも多過ぎます。

"主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。"(詩篇)

聖句にある通りイエス様はご自身の義の道に導いてくださいます。過去をやり直すことはできませんが未来を良いものとすることができます。"御名のために"と書いている通り、人間の私欲や欲求不満を引き起こすようなものではありません。完璧に良い未来です。ここに希望があります。
素晴らしい未来を展望することは、生きる者にとって最も大切なことだと思います。ですが罪の重荷があっては後ろ向きか、控えめな未来しか展望できません。そのために罪の問題を解決する必要があります。
イエス様は十字架にかけられ亡くなりました、そして三日後によみがえられました。こうして私たちの贖いの代価としてご自身を捧げられました。この贖いは既に実現しています。私たちがこの贖いを信じ、必要とし、受け入れれば、私たち個人個人に救いが成就します。
私たちは何の痛みもなくイエス様の十字架の死と復活に与ります。これによって生きている間のみ有効な律法の権限から解放されるわけです。罪によって何もできなくなった者が義と認められ生きるのです。これは恵みの原理です。

イエス様は今も生きておられます。悲しむ時に慰めてくださり、落ち込んでいる時に励ましてくださいます。そして喜んでいる時に共に喜んでくださいます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月28日 (土)

世はこの方を知らなかった

この世は神様の作品です。創造の最後に「それは非常によかった。」と書かれています。見回すと廃るものが一切なく、完璧なのだなと感じます。

"この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。"(ヨハネによる福音書)

この聖句にはイエス様がどういう方かと、世に来られた次第が書かれていています。世は創造主であるイエス様を知らないこと、ご自分の国イスラエルに来られたのに民はイエス様を受け入れませんでした。これが悲しい事実です。そしてこの事実は過去のことではなく今もなお続いています。イスラエルの民はイエス様を十字架にかけました。血統による選びの民が拒否したので、福音は異邦人に向けられました。
その結果、私たちは福音に与っています。福音とは、律法によって成しえなかった義認が神様を信じる信仰によって達成することができることを伝える知らせです。
イエス様は律法に基づく全ての違反を、ご自身の命で贖い、同時に神様は私たちを訴える債務証書も十字架にかけて破棄されました。イエス様が律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。信じない我々に新しい契約として表されました。

神様の愛は創造の始めから変わっていません。そして人も変わっていません。行いによる義人は一人もいません。
信仰による義認しか救いの道はありません。全ては神様の恵みによるからです。イエス様についてのみことばを聞くことが信仰の始まりです。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月27日 (金)

猶龍

Photo

創作 25mm×25mm

猶龍:龍に比すべき大人物の意

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私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています

このように手紙を書きながら、自分の悲しみについて考えます。クリスチャンは罪を赦された罪人です。そのことを忘れています。

"私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。" (ローマ人への手紙)

私の今の状態です。肉の思いが私を悲しみに閉じ込めています。まさに数々の罪の欲情が私のからだの中に働いていています。
私はクリスチャンであることの喜びを知っています。そしてそれを伝えようと手紙を書きます。ですが、これはからだの行ないを殺せている時の喜びです。
律法が私に対して権限を持つのは、私が生きている期間だけです。私はイエス様の十字架によって死にました。つまり律法の権限下にいません。私にとって律法が効力を持たない今は、罪もありません。罪に定める債務証書が存在しないからです。
では、クリスチャンになってどう生きれば良いのでしょうか。好き放題で罪を認められず。これは私の肉の性質ですが、別の性質である善をしたいという願いと相入れません。私はこの事で悲しんでいます。
イエス様は「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」と命令されました。今、私はイエス様の御霊によって生かされています。御霊はイエス様の命令を果たすように導かれます。
からだの行ないを殺すなら、私は生きいます。律法の権限下に居た時に自力でできなかったことです。変えられることを心から望みます。

聖書には義を信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたら、つまずくと書いています。死も、義も、愛も、皆が答えを求めて正しい態度でありたいと思う課題です。全て聖書に答えが有ります。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月26日 (木)

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった

信じるだけで良いを信じられない人がいます。神様が何者かわからないのに信じられないという人がいます。教会を信じられない人がいます。教理が理解できないから信じられない人がいます。
信じて欲しいのは聖書です。聖書から今あなたに必要なことを得ることができます。

"私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。"(ローマ人への手紙)

イエス様は私たちの罪の贖いの代価となって十字架上で苦しまれ、お亡くなりになりました。そして墓に葬られました。ですが、神様が三日の後にイエス様をよみがえらせました。私たちが義人ではなく、情け深いものでもなく、弱く、不敬虔でかつ罪人であった時に成し遂げられた神様の救済です。
このことを信じた者は神様から義と認められ、天の御国で永遠に神様と暮らすことができます。
もちろんキリストの死に与ることによって律法から解かれますので、私たちを苦しめる罪の効力から解放されます。この罪の支配からの解放はこの世で生きている今、実現しますので、したくない悪癖や習慣に「NO」と言うことができます。これも神様の救済です。

実現されたことを信じるだけで良い、これを信仰と言います。信仰には何の労苦も必要ありませんので、神様の恵みだけが表されました。恵みだけで救いが完成したことによって、神様の義が表されています。神様はいけにえを受けるより、あわれむことを望まれます。神様の愛が余すことなく示されたのです。
満ち溢れている神様の愛と恵みを豊かに受けて幸いな人生を過ごしてください。お願いします。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月25日 (水)

あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます

"華節"は三月弥生の異称だそうです。蕾が開き始めるので季節を良く表しています。

"そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」"(ルカによる福音書)

イエス様を信じるのは人生の大きな節です。気持ちが一変します。また見えないところ、感じないところで変化が起こり、よい人格が形成され始める様に思います。そして後に時を得て喜びとして現れます。
この様に信じれば人生の意味が一変しますので、若いうちに信じると、有意義な人生を過ごすことができます。
人生の終わりにイエス様を信じる方が少なからずいます。これも素晴らしいことです。意識不明の後に亡くなられる方もいます。過去に聞いた福音を思い返し信じ、天に迎えられる方もいると思っています。

聖句は死の直前での神様に対する態度について書かれています。
イエス様が十字架にかかられた時に二人の罪人が一緒に十字架にかけられました。一人は右に一人は左にです。その内の一人が刑の苦しみの中で自分の犯した罪を悔いて、イエス様を神と認め御国に迎えてくださいと願いました。イエス様の答えは"あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます"です。
今まで何をしたかは関係ありません。願うか、願わないかです。願うものはどなたに頼ればいいのかを知っています。
もう一人は願いませんでした。ですから救いにあずかることはできません。死と同時に機会を失います。願わない者は死に至る苦しみにあっても神様と共に永遠を暮らす事を望まないからです。神様は悲しみながら個人の意思を尊重されます。

痛み、苦しみは神様に帰ることを促す信号です。どうか帰ってください。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月24日 (火)

自分の身のしろ金を神に払うことはできない

今後のために、いくら財産を持っていれば残りの生涯を憂なく暮らせるのか。これを考えるのはやめました。嘘ではないのでしょうが、当てにならない予測に基づく希望を多く聞いてきました。結局、たわいない不測の事態で、この希望は消えてしまします。

"人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身のしろ金を神に払うことはできない。 ・・たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。・・"(詩篇)

この聖句は"罪から来る報酬は死です"が呼応していると思います。永遠に生きることはどうきません。一瞬にして価値を失う蓄えより、たましいの贖いしろの方がはるかに大事なことだと思います。
死後に神様と人生の清算をしないといけないのですが、人は死ぬときに富も栄誉も持っていけません。行いの記録に基づいて裁きを受けます。裁きに耐える義人はいません。
クリスチャンはイエス様の十字架の死と復活によって、高価なたましいの贖いしろが、既に神様に払われています。神であるイエス様の裂かれた肉と、流された血がその代価です。

この詩には次のように記されています。実に滑稽です。

"彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。"(詩篇)

私は初めて福音を聞いたときに、死んだらどうなるかの問いに、無に帰して名を残すと答えた記憶があります。無に帰すとなぜ考えていたのかわかりません。常識的な回答のつもりだったのでしょうか。これも実に滑稽です。

あなたのたましいの贖いしろは、高価です。ですが、あきらめなくてもいいのです。イエス様が既に支払ってくださっています。もはや、そのことを信じる信仰を持つことだけが買い戻しの条件です。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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呉昌碩 老鈍

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滴仙会 上級用 模刻課題

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2016年5月23日 (月)

彼らは、何をしているのか自分でわからないのです

神様の創造されたものは非常に良かったとあります。人は神様の形に造られており被造物の頂点です。ですが、神様の前から迷い出てしまいました。


"そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。"(ルカによる福音書)

これはイエス様が十字架上で祈られた言葉です。彼らとは直接的には処刑人ですが、私もあなたも含めた全ての人です。私の罪が杭となって手足を貫き、死に至る苦しみをもたらしたとしみじみと思います。
私はこの言葉を引用した祈りをします。もちろん赦しの対象は自分です。「父よ。私をお赦しください。私は、自分が何をしているのか自分でわからないのです。」とこの様に祈ります。欲望のおもむくままに快楽を貪っている時です。ダメだと仕方がないが共存しています。悲しいことです。
私の罪がイエス様を十字架にかけました。イエス様は十字架上で亡くなられ墓に葬られました。ですが三日後によみがえられました。これにより私の救いは完成しました。今、罪を引きずり悲しみを持っていますが、唯一私を慰めることができる方に祈りをもって悲しみを捧げることができます。幸いなことです。

あなたも戻ってきてください。待っています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月22日 (日)

招涼 白文

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滴仙会 初級用 模刻課題

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神さま。こんな罪人の私をあわれんでください

ドキュメンタリー映画を見ました。視力を失っていく子供が水野源蔵さんから「他の子と比べないように」と声をかけられた時の表情に見入ってしまいました。自分もこの言葉を欲していると思いました。


"取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。"(ルカによる福音書)

ローマはユダヤ人からの徴税をユダヤ人にさせました。その職に就いた人が取税人です。取税人は決められた以上に徴収し私腹を肥やしてました。ですから嫌われ者ですし罪人と数えられていました。この職の募集は徴税額目標による入札制だったとも聞きました。社会構造上の問題があったのかと思いました。
この人が義と認められましたとあります。深く反省したからでしょうか? その通り、"自分を低くする者は高くされる"と続きに書かれています。
取税人は自分を罪人だと認識していました。そしてあわれみを必要としていました。祈りの言葉に着目してください。神様は自分をあわれんでくださると信じています。この信仰を神様は義としてくださいます。
取税人は取税人のままでこの素晴らしい出来事を経験しました。経験した後も取税人です。この取税人が実際に何を悔いていたのかわかりませんが、何も変わっていません。そのままのあなたで良いのです。

罪人ならゆるしを請いましょう。身体にもしくは心に痛みがあるのなら癒しを求めましょう。悲しみがあるのなら慰めを求めましょう。求める先はあなたと天地を創られた方です。あなたの想像をはるかに超えた解決が与えられます。そしてその信仰をあなたの義としてくださいます。この方を信じてください。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月21日 (土)

招涼 朱文

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滴仙会 初級用 模刻課題

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なくした銀貨

なくし物をして困っています。全ての鞄、服のポケット、部屋中くまなく探しても見当たりません。
探し物が見つかった時に、情けないやら、腹立たしいやら思うことがあります。ですが、紹介する聖句では違います。見つかった喜びが書かれています。


"また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。"(ルカによる福音書)

この例話は羊百匹から一匹無くした持ち主と対になっています。失われた銀貨も、失われた羊も、もちろんあなたのことです。そしてあなたが神様の元に帰ったら天に喜びがわき起こり、地にあって私たちも喜びに与かります。
人間は物やロボットではありません。神様は自由意志を与えてくださいました。罪はその自由意志を使って私たちを神様から引き離そうとしています。神様は同じ自由意志によってご自分の元に帰りたいと望むのを待っておられます。

一日も早くあなたが帰りたいと望まれる時が来ることを待っています。それまでは、あなたを探がす神様のメッセージをあなたの心に届ける遣いを続けたいと願っています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月20日 (金)

罪のない人の血を売った

イエス様を裏切ったイスカリオテのユダについてあまり深く考えたことがありません。ですが最後の晩餐でのユダに関する記述が気になって仕方がありません。ユダの死が目に留まったので少し考えてみました。


"イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。"(マタイによる福音書)

この聖句はイエス様を裏切ったユダの最後の言葉です。神殿に裏切りの代価を投げ入れ、首を吊って自殺しました。
ユダは私たちと同じ罪人で自分のしたことを悔いています。同様にイエス様を売ることによって対価を得ています。私たちはイエス様の血によって、罪の束縛から贖われたのです。
では、私たちとの違いは何なのでしょか。
イエス様の血の対価として、私たちは救いを得、ユダは金を得ました。私たちはイエス様を神だと信じ、ユダは聖人だと信じています。私たちはイエス様のよみがえりの栄光を信じ、ユダはイエス様の死を確信しました。
ユダの終わりは最後まで信じない人の悲しみを象徴していると思います。福音を何の役にも立たないものにすり替えています。聖人の末路も所詮は死であると考え、神様の愛を見失っています。そして滅び以外に道の無い自分の末路に絶望しています。

あなたは、ユダになるのか、目の前の愚かに見えるクリスチャンになるのか、この選択を迫られています。
私たちの家族に仲間入りしてください。心からお願いします。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月19日 (木)

求めなさい。そうすれば与えられます

寒いの止めてと願っている人と、寒さを喜んでいる人がいたとして、この二人が同時に願ったら、どちらかはかなって、どちらかは無視されたとするのだろうかと考えてみました。結果、私にはよくわかりません。そもそも、こういう考えは思い違いをしている様にも思えます。
自分の願いが叶って、誰かが失うのは楽しくないという思いもあり、これでは常に負けになります。


"わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。"(ルカによる福音書)

この聖句の前に友だからと言う理由ではなく、あくまで頼み続けるなら、頼みを聞いてくれるとあります。私も見ず知らずの人に頼み込んで、聞いてもらったことがあります。
別の聖句に神様はあなたが頼む前に何が必要か知っておられますとあります。また、悪人でも自分の子に良い物を与えるのだから神様が下さらないことはないとあります。
ここには二つのことが示されています。一つは、あなたが神様を信じようと信じまいとあなたに必要なものは備えられていること。もう一つは、必要なもの以外も願い続ければ与えられるといことです。
ここで重要なのは、神様を願い求める先として認識し、神様は願いをかなえることができると信じていることです。これを確信できたとき、何ものにも打ち勝つことのできる力を得たことになります。神様は天地万物を創造された方なのですから、なんでもおできになります。この信じる力が信仰です。

事実、神様は私たちの罪の贖いのために一人子であるイエス様をいけにえとして捧げらえました。そこまで私たちを愛しておられます。この愛を信じてください。心からお願いします。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月18日 (水)

わたしの母、わたしの兄弟たち

クリスチャンは実の家族と教会と言う家族を持っています。家族について最近感じた嬉しかったことを書きます。

"イエスは人々にこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。」"(ルカによる福音書)

この聖句も初めて聞いた頃は理解できませんでした。教会では信者同士で、男性を兄弟と、女性を姉妹と呼びます。家内も姉妹ですし、息子達も兄弟です。
神のことばを聞いて行なうとはイエス様を信じて救いを受け入れることです。これは神様の導きによって私の内に成就しました。そして敬称として兄弟、姉妹を付けてクリスチャンの名を呼んでいました。
教会を離れて、実の家族と上手くやっていけず、長く孤立した期間が続きました。寂しかったのは事実です。それでも特に行動を起こすことはありませんでしたが。「孤独を友とする」を考えましたが無理ですね。退廃するだけです。
去年からクリスチャンと接するようになり、心から出る喜びを分けていただきました。喜びは伝染しますね。悲しみもですが。そして教会に戻りました。それでわかったのは、心を開くと居心地の良い人間関係が始まることです。そして自分も喜びを伝染させることができることがわかった時、喜びを分かち合う関係は家族だと認識することができました。
今、私は大きな声で言うことが出来ます。「私の母、私の兄弟達、私の姉妹達」

あなたも家族に加わりませんか。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月17日 (火)

貧しいやもめ

聖書読んでいると目からうろこが落ちる体験をよくします。常識だと思っていたことが誤りだとわり、悩みから解放されることがほとんどです。


"そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」"(マルコによる福音書)

レプタは最小単位の銅貨で2羽の雀の値段の八分の一の価値だそうです。つまり雀一羽を買えないわけです。"どの人よりもたくさん"と書いていますので、やもめが何を投げ入れたかがポイントです。神様はなんでもおできになり、助けてくださると信じ、神様に委ねる信仰を祈りとして捧げたのだと思います。その様な祈りを神様は喜ばれます。神様の前にはこの信仰が最も高価な捧げものなのだと思います。
やもめはここに至るまで胸が詰まる思いで、減っていく手持ちのお金を見ていたのだとおもいます。解決策は無かったのでしょうが、まだ次の食事を取れる間は神様に頼ることもしなかったのでしょう。そしてとうとうレプタ二枚になった時、もう生活できないと諦めたのだと思います。
あるいは、お金を増やして欲しいと言う祈りを続けていたのかもしれません。生きるのに必要なものは余ったお金ではなく、神様に頼って得られる平安だと気付いたのでしょうか。

この信仰を持ってください。心から願います。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月16日 (月)

わたしの契約

聖書には"価なしに"と言う言葉が出てきます。信じるだけで良いも価なしです。福音を受け入れられない一因に価なしがある様に思います。安物に見えるのでしょうか。簡単なことでも強いられると辛くなって挫折することが多いと思うのですが。


"みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。"(マタイによる福音書)

最後の晩餐でぶどう酒の杯を弟子たちに与えた時に、イエス様が言われた言葉です。
ぶどう酒はこの後にイエス様が十字架につけられ流された血を表しています。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。私達の罪のためにイエス様は身を裂かれ、血を流されました。
"わたしの契約"とある通り新しい契約です。律法すなわち行いによる義は誰一人として全うできませんでしたが、イエス様が私たちの罪の贖いの代価となって十字架上で死なれ、墓に葬られ、三日後によみがえられたので、我々は神様の前に罪を認められなくなりました。
そして、この十字架の贖いを信じた全ての者が、イエス様が実現しくださった救済に与ることができます。

イエス様の裂かれた体をあらわすパンと、流された血をあらわすぶどう酒に共に与る様になっていただければ幸いです。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月15日 (日)

礎の石

教会はイエス様の十字架から、しばらくしてから明らかになった神様の奥義でした。

"家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。"(マルコによる福音書)

家はユダヤ教の宮だと思ってください。ここでの礎を持つ建物は教会です。と言っても街にある教会ではなくて全てのクリスチャンの属する教会です。全世界、生きている者、死んだ者の全てです。教会は一つでキリストの花嫁となります。
目に見えている教会は地上での活動の単位としてまとめられた地域毎の集まりになります。なのでカトリック、多くのプロテスタントが教理の違いで分裂しているのは愚かなことです。実に人間的です。
見捨てられた石は十字架につけられたイエス様です。礎であるイエス様を頭に花嫁である教会が完成していきます。キリストと花嫁である教会に美しさを感じます。なぜなら完璧だったアダムとエヴァが雛形としてあるからです。
パウロは教会の誕生が奥義であると解説しています。天地創造の初めから、神様によってイエス様と教会の婚姻は計画されていました。

"すると人(アダム)は言った。「これ(エヴァ)こそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。"(旧約聖書-創世記)

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月14日 (土)

シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ

必要なものと欲しているものの区別が付かず、いつまでも満足できなくなったり、不要な心配で悩んだりするのは、悲しいことだと思います。

"そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。"(新約聖書-マルコによる福音書)

"シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。"(旧約聖書-ゼカリヤ書)

聖句はともに王のエルサレム入場について書いています。
新約聖書の記述は現実に起こったことです。群衆は、病人を癒し、パンを与え、死人をよみがえらせ、ユダヤの指導者の悪を指摘したイエス様を見て王が来たと思いました。ローマからユダヤを解放し強いユダヤ国家の再建を期待していたのでしょう。ですが、一向に革命を起こされないイエス様に失望し十字架につけてしまいます。
旧約聖書の記述は預言者に示されたイエス様のことを書いたものです。"正しい方で、救いを賜わり、柔和"これが神様の最良とされた王の姿です。人々が望んだ王と人々に必要な王が一致していないです。

イエス様が命を代価にして実現してくださった福音。神様が最も必要なものとして与えてくだいました。現実の中で私たち各々が欲しいものと、神様が私たちに必要だと備えてくださっているものは一致していません。どちらの認識が正しいのでしょうか?
大いに喜べ。喜び叫べ。と書いています。共に喜べる日を待っています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月13日 (金)

種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません

地下、水面下、物陰、これらの所で起こっていることはわかりません。また、隠れた所で悪は行われますし、神様は隠れた所を見ておられます。神様のわざは隠されています。目で見えるものよりも、目に見えないものの方が重要なことが多いと思います。


"また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」"(マルコによる福音書)

好きな聖句です。福音が語られ、ある人は神様の救済を得、ある人は霊の糧を得ると私は理解しています。救済の観点で見た時、救済されるまで様々なことがあったと証の中で聞きます。素直に受け入れる人もいます。
種が芽を出して、芽が地に出るまでは神様とその人の課題なので他者の目には見えません。私は今あなたに福音を語っていますが、あなたの心でどの様に変化が起こっているのかはわかりません。
祖母が亡くなる前に、イエス様を知っているかと聞きました。祖母は昔々の若かりし頃にイエス様のことを聞いたよと繰り返し言ってました。祖母が亡くなる直前、意識が薄れている中で、祈り、イエス様を信じれば天国に迎えてくれると語りました。答えはありませんでした。だから信じているのかどうかわからないままです。改めて聖句を読んで、芽が地に出ていればわかったのにと気付きました。祖母が天に迎えられているのかどうかは天に帰らないとわかりません。ひどく残念で寂しく思います。

私は福音を信じたあなたを見て喜びにあずかりたいです。芽が地に出るまではわかりません。芽が地に出た時には教えてください。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月12日 (木)

わたしの心だ。きよくなれ

これは昔に聞いて「へー」っと心に留めていて、最近になって痛いほどよくわかる話です。


"さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。"(マルコによる福音書)

イエス様がらい病人に触れたとあります。感染るかも知れません。
初めて読んだ時は、イエス様には癒す力があるので自分で癒せば良いのではと思っていました。このことについて解説を聞きました。癒す前に触れたことがポイントなんだと教わりました。らい病になったことで他人との接触が絶たれていた人だから、そのままの状態で触れられることで慰めを得るのだと教わりました。私はあまりよくわかりませんでした。
今はよくわかります。私は人間関係で嫌なことがあると直ぐに切り捨ててきたので、その結果孤立してしまいました。寂しと思うこと、辛いと思うことはやはりあります。私が望むのは改善した自分と触れてくれる人間関係ではなく、本来の私との人間関係です。もちろん私の問題は改善すべきだと思っています。でも望んでなったのではない私自身も知って触れて欲しいのです。

聖句は種です。蒔かれて身を結びます。同じ様に心に蒔かれた聖句は時期が来れば身を結びます。どれだけの収穫を得るかは種を蒔いた土地の質によります。私も歳をとって耕され、肥えたのでしょうか。
心に蒔かれた聖句が喜びの身を結ぶことを切に願います。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月11日 (水)

前から言っておられたように、よみがえられた

人から聞いて、調べて、考えて、信じたことはたくさんあります。数学のように定理や理論を積み上げない限り、情報源を鵜呑みにしている部分があります。数学ではペケです。こんな風に考えると、私たちの常識はこの世での日常生活限定の正しさのように思います。

"御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。"(マタイによる福音書)
復活です。御使が言ったようにすでにイエス様の墓は空でした。死者の蘇りですから信じ難いと思います。"納めてあった場所を見てごらんなさい"と言われても、我々は見れないです。"見ずに信じる者は幸いです"と聖書には書いてあります。もちろん私は信じています。私は幸いなのです。聖書には真実が記載されていると信仰によって知っているからです。 また、蘇りは新しい望みをもたらします。新しい望みとは、私の罪の贖いの代価が完済されたこと。私もイエス様の十字架とともに死んだので、ただ苦しみをもたらすだけの律法の管理下にいないこと。天に帰るときに朽ちない新しい身体を得ること。これらの思いもしなかったことです。 さて、イエス様を十字架につけるように扇動したユダヤ民族の指導者は墓の番をしていた兵士に金を渡し、眠っている間に弟子が遺体を盗んでいったと言わせました。ユダヤ民族ではこのように伝わっています。ローマの兵士はこんな証言をしたら死刑だそうです。

ありえないと決断を下すのは簡単です。ですが、クリスチャンなら信じていることです。多数決が正しい結果をもたらすとは限らないことはご存知だと思います。どちらが正しいのだろうかと調べて評価を下してみませんか。心から希望します。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月10日 (火)

暴虐の者から、私を守ってください

人間同士では相手のことがよく分からないので警戒が先行するように思います。一度打ち解けあったり、共通の目的があると解消するのですが、それまでは探り合いになります。誤解や先入観は関係の構築を難しくします。対立は悲しいですが避けなければなりません。
私は早々に煩わしい関係を避けるので、孤立します。解決したいと思っています。

"主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から、私を守ってください。"(詩篇)

この祈りの時点で苦しみにあっています。なぜ苦しみ合わないといけないのかと思います。ここから二つのことを考えます。一つは自分で、もう一つは敵としての相手です。
自分の場合は忍耐が生み出す素晴らしい希望の約束が聖書に書いています。
相手に関しては、暴虐の者は暴虐を続けています。いつまでなのでしょうか。信仰の観点では先の自分の場合で書いた通りですから、別の観点で考えています。
創世記に"そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。"とあります。このように聖書には咎が満ちるまでと言う表現がいくつかあります。この場は"満ちることはない"と書いています。
やはり神様の前に悔改めないことが確定する時があるのだと読み取れます。ヘブル語は全て完了形と聞いたことがあります。こう言う表現の不思議さが少しづつ分かってきたように思います。
神様は人間の自由意志に悔改めの選択を委ねておられます。生きる苦しみは神様の元に帰ることを促す信号だと聖書に書いています。悔改めの時が無いのであれば生きることは辛すぎます。なので、神様はその人に、未来の確定した時に死を与えられるのだろう、その時までは悔改めに心が動いているのだろうと推測します。悔改めの無い死は神様の苦渋に満ちた許しなのは確かです。

今回は推測ばかりです。この領域は推論はできますが答えは全く分かりません。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月 9日 (月)

初孫への記念

初孫に会いに来ました。家内との共同作品をプレゼントするためです。印は私が作って、字は家内が書いています。

「壽郎」は漢字でしたので普通に印にできます。ジョセフは一捻りして「賦譽」と雅号を付けてあげました。創世記のヨセフ物語です。神様はいつもヨセフと共におられ、行く先々でヨセフを成功させました。結果、ヨセフは常に光栄を極めます。

"パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。 あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」"(創世記 41章)

ヨセフは神様からの賜物を活かして一生懸命に生きました。こんな人であって欲しいと願いを込めて「賦譽」印を作りました。

一人の人が誕生したのです。多くの人の内の一人です。生涯に接する人々との相互作用は神様の栄光を示します。子は明るい未来しか見ていません。大人は子から希望を分けていただけます。私たち大人が子を見て、心温まる理由はここにあるのだと思います。

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2016年5月 8日 (日)

わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか

十字架のイエス様を私たちは傍観しています。ある者はあざけり、ある者は胸を打ち、ある者は心に焼き付けようと、それぞれの思いで十字架を見上げています。ですが誰一人としてイエス様に何が起こっているのかは知りません。

"三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。"(マタイによる福音書)

十字架上でのイエス様の苦しみです。痛みの中にあって出る叫びは八つ当たりだなと経験から思います。イエス様の叫びは悲しみから来ているように思いますが、悲しみが痛みを上回ることはあるのだろうかと疑問に思います。十字架の痛みは強烈だと思います。まさに救いが無いことを嘆く悲しみを強く感じる拷問なのかも知れません。
聖句の叫びは杭を打たれ磔にされた痛みからのものではありません。神様から見捨てられる恐怖、悲しみ、痛みです。我々はこの苦しみを知りません。

私の罪のためにイエス様はこの痛みを受けられました。聖餐式と言って十字架を記念する祈りの時があります。私はいつも「イエス様、ごめんなさい。」と祈ります。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月 7日 (土)

不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります

終わりの日が近づいているように思います。ですが、あまり重要では無いように思います。終わりを待つ人はどのように備えをしているのかの方が重要です。その中に複音を信じている人がいます。終わりなど気にしない人にはどうでも良いことです。

"不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。"(マタイによる福音書)

"多くの人たちの愛は冷たくなります。"これは悲しいことばです。実際に周りを見回すと、このことばの通りになっていると思います。隣人として受け入れ助け合うことより、関わらず無視するが普通のように思います。喜びを分かち合うより、憎しみによって自分を正当化する方が簡単なようにも感じます。
過去は変えれませんが、未来を作り上げる努力はできます。喜びに満ちた未来を誰もが望みます。喜びに満ちるためには愛さなければいけません。愛を求めていては喜びを得ることはできません。愛は無償であってこそ継続的に喜びをもたらすのです。他人を変えることはできません。自分を変えることはできます。

心が痛みによって凍ってしまわないように、私たちの魂の根源から始まった福音に耳を傾けてください。2000年かけて私の元に来ました。そしてあなたの元に届いています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月 6日 (金)

その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです

今日はあまり考えたことのない聖句を取り上げています。少し考えを整理するのが難しかったです。でも、どうしても伝えたいことを書いたつもりです。

(種が)道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。"(ルカによる福音書)

聖書には神様の言葉が蒔かれる場所として4つの例が挙げられています。その内の1つです。心から持ち去られた神様の言葉は何の働きもせずに取り去られてしまいます。これは本当に悲しいことです。なぜ、取り去られたのでしょうか。
私は多くの人、いや全ての人が心に痛みを抱えていると思います。未来は思うようにできないので、破滅と欠乏が不安となって襲ってきます。過去は書き換えることができないので、したこととしなかったことが責任を負うように責めてきます。この痛みに対応する術は私たちにはありません。ですから心を閉ざして痛みを封じ込めるのではないでしょうか。結果、神様のことばは心に届いても痛みと結び付かないのかなと思います。
虐められている友人を見かけたことがあります(私は何もできませんでした) 。今でも彼の目が忘れられません。痛みを閉じ込めるために心も閉ざし、虐めを受け入れているように思いました。
痛みを無視するのは自分を否定することではないかと思います。なぜなら痛みは自分の生きている証そのもだからです。これでは神様の言葉は何の働きもしません。とは言え、解決策がないと痛みに向き合うことは困難ですね。ご心配なく信仰は未来の不安に、贖いは過去の責めに打ち勝つ力を与えくれます。

痛みを閉じ込めて心を閉ざし、神様の言葉と結びつかない人になっていませんか。神様の言葉は人を救う力があることを信じてください。心を開いてください。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月 5日 (木)

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です

花がそれぞれの時に咲き誇ります。おかげでいつも楽しむことができます。
私たちは種を植えます。水をやります。発芽する仕組みは知りません。
ブドウからぶどう酒を作ります。ぶどう酒を楽しみます。発酵の原理は知りません。
全ての仕組みは創造の初めから完成しています。創造のみ技を覚えて、神様を賛美します。

"そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」"(ルカによる福音書)

当時のユダヤ人には律法を守らないと天国に行けないと言う考えは無かったそうです。彼らはアブラハムの子孫なので、神様とアブラハムの約束に従って天国に行けるのは当然だと考えていたということです。これは間違った思想でした。アブラハムの子孫だと主張するのであれば、アブラハムのように神様を信じて、その信仰が義と認められることが求められます。
悔い改めて律法を守り天国に行く資格を得る様に教えることが多いのですが、実際には達成できません。"義人はいない"と書いてある通りです。
聖句は天国に行く資格を得る姿勢を教えています。趣旨は、病人を癒すことと罪人を招くためにイエス様が来られたことです。病人と罪人はイエス様を信じてイエス様の元へ行きました。自力で達成することを諦めているのです。
イエス様を信じることが必要なのは一貫しています。"あなたの信仰があなたを直した"、"不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。"と書いて有ります。
イエス様は私たちの全ての罪の贖いの代価として十字架でなくなられました。墓に葬られました。そして三日後によみがえられました。これを信じることが救いの必要条件です。

心にしこり、痛み、重荷があり苦しんでいるのなら重病です。イエス様の招きに応じてください。くれぐれも残り時間を無駄になさいませんように、私たちはそれがどれだけあるのか知りません。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月 4日 (水)

平和が、御心にかなう人々にあるように

あなたが福音を信じる様にメールを送り続けながら、良いことが無く不幸であることを嘆くのは意味がないと思っていました。自分の得た莫大な喜びを過小評価していることを反省します。

"いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。"(ルカによる福音書)

平和がある生活をもう長いこと諦めている様に思います。いつも心配事があって、いつも人間関係の悩みがあって、いつも思い通りにいかない。でも、聖書は上記の様に御心にかなう人々に平和があると約束しています。
御心にかなうはイエス様を信じて神様と和解することです。私は既にイエス様を信じて罪を赦されています。なので私には平和があるはずです。では聖書は嘘か。決してそんなことはないので、私が何か間違いをおかしているはずです。
私はイエス様を信じましたが神様を信じて受け入れていない部分が有ります。その部分で平和がない様に思います。例をあげると、教会に心を開いていませんでした。だから教会に行くのは辛かったのです。半年ぐらい前から喜びに満ちたクリスチャン達と接し、自分もそうなりたいと歩み寄りました。それ以来、楽しくて仕方がありません。確かに本当の家族といる様に実感できます。
手放したくないことがたくさんあると思います。特に自尊心に関わることや、愛する人の思いでなどです。これらを否定する必要ありません。自分の肩にのしかかる重荷や心の内の醜く感じる部分は捨てて楽になれば良いのです。両者が競合するのであれば、よく考えて対処すればいいでしょう。選択し対処できるようになっていることが自由の証なのですから。

最近、サタンに騙されていることをよく感じます。あなたへの福音伝道が本格的になってきたのだと思います。
私はあなたに二つのことを願っています。
1.死と死後の永遠に希望を持てる様になること。
2.この世での残りの時間を憂いから解放されて喜びで満たされること。
1→2のステップです。上記の聖句は2を約束しています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月 3日 (火)

「十字架につけろ。」と叫び続けた

未信者の方と聖書の話をしていて、難しい、訳がわからない、書いていることは素晴らしのですが、などの感想を聞きます。その中には聖書を読まれていない方や聖書の話を聞かれていない方もおられます。聖書の話に触れておられない方はともかく、ある程度の知識を有されている方には、なぜ難しい、わからないとおっしゃるのだろうと思います。私には簡単に思えるのですが。

"ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕えられていた。それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」 (中略) しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。"(マタイによる福音書)

バラバはあなたです。
バラバはイエス様の十字架刑と引き換えに十字架刑を免れました。目に見える形で福音の示す救いが表されています。これは救いの型なので真の意味を知るには考察が必要です。
この時に至るまでユダヤ民族はしるしを求めていましたが、イエス様の言葉やわざ、また事象そのものが応えていました。今回もわかりやすく示されています。
しるしを理解できないのは、自分の思いや知識で神様の本質やご計画を理解しようと考えるからです。甚だ的外れなのですが、この的外れが罪です。神様の全てを理解しようとする試みは神様を自分の知恵と知識のレベルに引き下げる行為です。

信仰によって神様が全知全能な方であることを認め、何よりも神様は愛の本質であることをとらえないと理解できません。なので信仰によってのみ義が認められる原理が成り立つのです。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月 2日 (月)

双鷗

NHK篆刻友の会 創作課題
秦の時代の私印に似せて作りました。

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私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして

正しく生きる努力は素晴らしいことです。多くの点で自分の正しさを認めて、自分の悪い点に対して改善しようとさらなる努力をする人もいます。素晴らしい点と悪い点を相殺し評価する人もいます。この場合の相殺した結果に対する行動も様々ですね。これらは各人の基準によって良し悪しが決まっています。
とんでも無いことをしてしまったと後悔することもあります。取り返しがつきません。このような時にその人のあり方を決める判断が求められます。

"そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。"(マタイによる福音書)

イエス様を裏切ったユダの最後です。後悔したとあります。ユダが救われなかったのは自殺し、最後までイエス様の恵みによる赦しを受けなかったことです。イエス様の所に行って「ごめんなさい。あなたこそ救い主です。」と謝れば良かったのです。
ユダはイエス様が選ばれたのですからイエス様が天に帰られた後の、教会時代の始まりを担う資質は有ったのだと思います。資質がになのかはわかりませんが。ですがイエス様を神の子とは理解せず、義人、約束された王、つまり一人の人間と捉えていたのだと思います。一向に王国を建てようとしないことに失望したと聞いたことがあります。
悔改めとは後悔して行いや考えを改めることです。ですが改めることは人間にはできません。聖書には自分の胸をたたいて『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と言った人が、義と認められたと書いています。
律法の配下では"義人はいない一人もいない"と結果が出ています。イエス様が十字架刑によって全ての人の贖いの代価となられました。墓にほうむられました。三日後によみがえられました。これを信じる人は全員救われます。

ユダは自分で自分の時間を終わらせてしまいました。人は必ず死ぬことが決まっています。神様は最初であり最後である方ですから、その人の一生を見通しておられます。救いを受け入れないと確定した時点で死が来るのではないかと私は思っています。生きる苦しみを味わう必要が無いからです。これは私の想像です。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年5月 1日 (日)

できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください

私が酒を飲んでいた時のことです。朝意識が戻り、頭痛薬を飲んで考えることができる様になるとシャワーを浴びながら、昨晩のことを思い出していました。セクハラはしなかったか、破壊はしなかったか、暴力は、、。そして、もうこんな思いをするのは嫌だと。でも体調が戻る夕刻には飲みたくてたまらなくなりました。実際は飲みたいのではなくて酔いたかったんです。意識がゆったりと沈みながら現実が歪んでいくのを楽しんでいました。そして気がついたら朝です。
快楽と後悔を繰り返すだけの日々を当たり前のように送っていました。これが地獄の痛みの型だと思っています。快楽に惹かれて地獄に行くのでしょう。

"それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」"(マタイによる福音書)

ゲッセマネの祈りです。十字架刑の前日にイエス様が祈られた言葉です。もちろん杯は十字架刑です。イエス様が十字架刑をいかに怖れておられたかがわかります。神様なのだから痛くない様にすればいいのではと思ったこともあります。
イエス様の怖れられたのは十字架刑の痛みと、神様との断絶すなわち地獄の痛みの二つです。
一つ目の痛みは人の味わう頂点の痛みなのでしょう。人の苦しみを自分自身の苦しみとして慰め励ますことのできるお方であることを表されました。
二つ目の痛みは私達の身代わりになって受けられた痛みです。人はここに行ってはいけない。破滅の苦しみです。自責、渇望、後悔、これら魂の渇きが痛みとなって苦しみます。イエス様は全人類分の苦しみを負われました。

"こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。"(マタイによる福音書)

この様に十字架刑を避けることができなかったことが書かれています。十字架刑で表されたのはあなたに対する神様の愛です。あなたのために死をも厭われませんでした。どうかこの愛に応えてイエス様を信じてください。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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