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2016年4月18日 (月)

わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない

先日、休みと知らず朝早くに出かけました。お昼に帰宅したのですが自動車専用道を反対方向に入ったら渋滞していて、こんな田舎でなんでだろと思いました。そもそも行きの時点でオートバイが多くて、やるなあと関心してました。
間違いは一つです。

"それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。"(マタイによる福音書)

律法は神様の前に義を示すためのもので良いものでした。ですが誰一人として義人と認められることはありませんでした。ですから救いが必要になったわけです。
殺すな、偽証をするな、両親を敬え、姦淫するな、貪るな、盗むなと規定した律法は、全ての戒めが一つの戒めに基づいていると書いています。ですから嘘はついても殺していないが成り立ちません。当然のことですが、"自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい"を部分的に犯すことはできません。
良いものであったはずの律法が人間を告訴するものになってしまったのは罪のせいだと書いています。罪は貪るなの規定に機会をとらえてあらゆる貪りを引き起こしましたとあります。
問題は皆がこの罪に惹かれ慕って的外れな人生を歩んだことにあります。本来の人生に軌道修正しませんか。

好きな御言葉です。

"『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』"(マタイによる福音書)

"いけにえは好まない"は人間が律法に定められている罪の贖いのいけにえを神様はもはや好まないの意味です。"わたしはあわれみは好む"は、あわれみの心を持ちなさいと言っているのではありません。神様が人間をあわれみたいという意味です。神様は人間をあわれみの対象として作られました。ですから本来の人生とは神様からあわれみを受ける人生です。そうすることで人間は満たされた思いを得ることができます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

Posted from kepaddictus

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