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2016年4月

2016年4月30日 (土)

酸いぶどう

伝道集会でのメッセージ(抜粋)です。今日、聖書で読んだのは出エジプト記というところなのですが、クリスチャン生活の型が中心で信じておられない方にどう適用したらいいのかよくわかりません。

"その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。"(エレミヤ書)

この聖句は旧約聖書の記述です。紀元前600年ぐらいの事が記されています。
彼ら、ユダヤ民族が言っているのはことわざの様です。父が子の、子が父の罪を引き継ぎ死ぬと言っています。それに対して、神様は罪人は自身の罪を負い死ぬのだとされました。

"イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。"(ヨハネによる福音書)

こちらの聖句は紀元後50年ぐらいのイエス様が十字架刑に処せられた時の記述です。
酸いぶどう酒を受けられたとありますが、先の聖句の"酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ"を受けています。では"人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ"はどうなったのでしょうか。イエス様の罪、決してそれはありません。"罪は犯されませんでした"と聖書に書いてあります。何度も書いてきましたが全人類の身代わりとなって罪を負われたのです。我々の罪のために死なれたのです。

私は十字架刑での酸いぶどう酒の意味がわからなかったので、このメッセージを聞いて聖書の奥深さに感動しました。メッセージのテーマは正義と愛でした。確かに正義のないところに愛は実現されませんね。
伝道集会に参加されませんか。正義と愛について新たな発見をすることは、声高らかに言っても恥じることがないくらい、素晴らしいことですよ。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月29日 (金)

私たちの弱さに同情できない方ではありません

メッセージで引用している聖句は聖書日課から今日読んだ聖句です。伝道集会のある日はそこで語られたメッセージから引用することもあります。

"あなた(神様)が贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。"(出エジプト記)

ユダヤ民族はエジプトから脱出しました。奴隷の身分から贖われました。この後、約束の地に向かいますが、その間40年間さまよいます。その道のりではまさにこの聖句の通り恵み、導き、力強い守りがありました。
人は世の奴隷です。私の場合は酒の奴隷でした。酒のもたらす快楽と痛みの世界に当たり前のように生きていました。苦しみから病院に伺いましたが、医者に断酒するしか回復の道は無いと言われた時には、そんなことできるわけないだろと怒って病院を去りました。奴隷はその自覚が無く離れることを拒みます。これが奴隷の特徴だと知ってましたか?
ですが神様はそこにいることの苦痛を教え、助けられたい思いを起こされます。ここで何に頼るかがポイントです。忍耐、もっと強い快楽、誤った導き手、正しい導き手。正しい導き手は神様から来ます。
神様に従えば聖句の通りにゴールへ到着することができます。長い奴隷生活での疲弊と歪んだ精神を無理のないようにゆっくりと回復させてくれます。私は何年もかけて飲酒欲求が消えました。
ユダヤ民族のエジプトからの脱出は世から神様の元へ向かうクリスチャンの道のりの型です。

"私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。"(ヘブル人への手紙)

そしてゴールに私達を導き、ゴールで私達と共にいてくださる方が大祭司であるイエス様です。イエス様は神である身分を捨てて人となられました。そして聖句の通りに人生を歩まれました。肉親や友人で自分の痛みをわかってくれる人を探してもいません。そして理解されることを諦めます。ですがイエス様に痛みと望みを訴えると最適な解決が得られます。また解決することを確信でき希望が来ます。

私の体験を例えに使いましたが適用していただければ幸いです。
お願いです。信じてください。待っています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月28日 (木)

過越のいけにえ

私は罪を犯していないから関係ないと言う人がいます。本当でしょうか。私は地獄へ行くと簡単に言う人がいます。そこがどんなところか知っているのでしょうか。人生は長いようですが、気がつけば年を重ねています。永遠はどれほど長いと思われますか。今の自分のままで永遠を過ごすことを考えてみてください。そこではあなた一人かもしれません。

"あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。 主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。"(出エジプト記)

過越です。ユダヤ民族にとって最も重要な出来事で、この時以来、祭りとして受け継がれています。
パロがユダヤ民族をエジプトから去らせようとしないので、エジプト中の全ての初子を殺すと神様は示されました。ただし上記の聖句の通り羊をいけにえとして、その血で印をした家は助かりました。
これはイエス様の形です。後の過越の祭りの日にイエス様は十字架刑に処され、肉を裂かれ血を流されました。過越の羊の肉を食べるようにイエス様の肉に与り、イエス様の血を纏う者は神様の裁きから免れます。
物語の殺された初子について神様がどのように取り扱われたかはわかりません。ただ一つ言えるのは、神様自ら初子であり、ひとり子であるイエス様を私たちの罪を贖うための代価のいけにえとして捧げられました。

神様とイエス様のあなたに対する犠牲は大きなものです。是非、無駄にせず受け入れてください。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月27日 (水)

主のことばを恐れた者

私は一階に住んでいます。専用庭があって雑草除去の責任を負わされている感じです。面倒臭いので庭一面に何かの種を蒔いてやろうかと思っています。ヤマアジサイとヒメシャガ、年がら年中何かが咲くと期待している寄せ植えは作ってみました。登山道の入り口が近いだけあって珍しい鳥が姿を見せます。どこかで餌付けされた野良猫も我が物顔で通り過ぎます。奴らは目が合っても気にしませんね。

"(略)今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。それゆえ、今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。』」 パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。"(出エジプト記)

ヘブル民族を奴隷にしてるエジプトの王パロにヘブル人を解放するようモーセは挑みます。神様に示された不思議な業でエジプトに災害を起こしパロに改心するよう試み続けました。
この話のポイントは災害の預言に対してどういう態度をとるかです。"主のことばを恐れた者"、"主のことばを心に留めなかった者"の二者に分かれます。数々の災害が起こった後なので、後者は明らかに愚かです。
人間は理由を探して仕方がなかったかのように愚かな決断をします。これは止めるべきです。私が福音を送るのは、みなさんが破滅の道を進むのを思いとどまらせるためです。理由を探さないで福音を受け入れてください。

神様はあなたを愛しておられます。だから何も心配しないでください。天国であなたに会えなかったら本当に悲しいです。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月26日 (火)

だれが人に口をつけたのか

私は精神を患っていて、自分のしていることが分からなくなることがあります。突然、自分のしたことの結果を突きつけられ真っ青になることがあります。その自分の行為は、普通の日常の営みの範疇だと思っているので、忘れてしまっています。恐ろしくてたまりません。

"主(神様)は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主(神様)ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」"(出エジプト記)

誰もが直面する憤りに「なぜ、私はこんな境遇なのか?」 があります。これに対して、日頃の行いのせい?、あの悪いことをした罰?前世での行い?神様の虐め? 等々を考えますよね。上の聖句の通りです。神様のせいにしてください。それが神様のご計画ですから。「神様、なぜですか?」と問いただしてください。
私は神様の弁護などできません。私はあなたに何も答えられないです。
クリスチャンはその集まりです。自分の体験談を他のクリスチャンの前に立って語ります。結構、積極的です。体験を分かち合いたいと思う情熱でいっぱいです。これを証しと言います。
その時の境遇、イエス様との出会い、神様が何をしてくれたのか、そしてどうなったのか、等々を語ります。
たくさんの証しを聞いてきましたが、内容は色々です。それぞれの方に固有の人生があるのがよくわかります。基本は逆転劇で本人の想像をはるかに超えた物語が展開しています。
上の聖句はヘブル民族がエジプトで虐げられ、約束の地に向けて脱出する話の導入部です。モーセという人がリーダーの使命を与えられて、「私は無理です」と答えたシーンです。以降どうなるかは聖書に書かれています。

あなたの人生も唯一のものとして設計されています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月25日 (月)

婚礼の礼服を着ていない者

薬が切れたので病院に行かないといけないのに、気力が無くて寝込んでしまう時があります。理不尽だと思う状況です。空っぽのピルケースを眺めて「まずいなー」と思い。意を決して出かけます。道中色々とありますがやればできます。本当に病気なのかと思って落ち込みます。

"王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。"(マタイによる福音書)

王子のために結婚の披露宴を設けた王の話で天国に相応しい人間の例えです。招いていた人々はユダヤ人を指しています。大通りから集められた人々はクリスチャン(異邦人とユダヤ人)です。礼服を着ているはイエス様の救いを信じたかどうかです。披露宴の来客として相応しいのは良い人か悪い人かではなくて、イエス様の救いを信じているかどうかです。
「披露宴なんか出たくない」なんて言わないでくださいね。これは例えですから。追い出された人は、クリスチャンですがイエス様の救いを信じてない人になってしまいます。残念ながら教会員だけれど信じてない方がいるようです。この話は機会があれば改めてします。

"ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。"(マタイによる福音書)

好きな聖句です。聖地エルサレム、反逆のエルサレム、尽きることのない神様の救済ですから心に重くのしかかるものがあります。救いの手を差し伸べても去っていこうとする頑なな人々に対するイエス様の嘆き悲しみです。
お願いです。翼の下に身を隠してください。居心地が悪く感じたら、何が正しくて、何が間違っているのかをよく考えてください。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月24日 (日)

アルコール依存性からの回復

私はプロジェクトマネジャーをしていました。当時は天職だと思っていました。かなり仕事熱心だったと思います。
飲酒量はそもそも多かったのですが、ある時から酒を楽しむのではなく、酔ってその場を楽しむように飲み方が変わりました。この経緯は判りません。
私のプロジェクトから2名のうつ病患者が出ました。短期間で他社から取った開発案件だったので、かなり無理をしてプロジェクトを推進したことが背景にあります。そのプロジェクトが成功した時に、私が得たのは達成感はなく目的の喪失でした。それから突発的に無気力に襲われるようになり、私も神経内科を訪れました。抗鬱剤と精神安定剤を処方されるようになります。
最悪の事態を招いたのは、酒と薬の両方を同時に摂取したことです。その作り出す世界は心地よく、飲酒量は増える一方でした。ある頃から職場を出たら飲み屋に飛び込み、とにかく酔った状態に持って行き、潰れない覚めないを繰り返し、気を失って朝、頭痛薬と抗鬱剤を飲んで、シャワーで昨晩のことを思い出すを繰り返していました。セクハラをしなかったか、破壊をしなかったか、暴力を振るわなかったか、等々を思い返していました。怖かったのを覚えています。仕事がまともにできない恐怖が起こった時、私は逃げました。
この頃、小さかった三男が私を怖いと泣きました。私は遊んでやっているつもりだったので腹立たしさを覚えました。場違いな発言が多く、旅行先で酔っ払ってキャバクラ発言をし家内を泣かしました。
酒を減らそうとクリニックに伺い、「節酒はできません。断酒でしか回復できません。」と言われ、怒って帰りました。その一ヶ月後に敗北感と共に再診に伺いました。その日が断酒の始まりです。
離脱の苦しみの中で、神様に「もう私は十分苦しみました。取って(殺して)ください。」と祈りました。その答えは高校生の時に通った教会の記憶でした。次の日曜日に教会に伺うと高校生の頃、福音を語ってくださった、先輩のクリスチャンが昔のように迎えてくれました。「イエス様、あなたに依存させてくださいと祈れば良い」とアドバイスされました。帰るところがある喜びを感じました。
実はこの話の前、まだ酒を健常者のように飲んでた頃、単身赴任中です、パチンコに負け続けて大金を失いました。その時、「もう私に構わないでください。」と天を見上げて祈ったことがありました。この二つの祈りは呼応していると認識しています。
飲酒欲求は徐々に間隔が長くなって今はありません。治ったのではなく依存対象を置換しています。連日のメッセージ作成もそうです。頭痛薬にも依存しています。趣味、散財、その他、言えないことも含めて対象はたくさんあります。
私はイエス様に依存して問題を起こす依存対象を減らすのは素晴らしいことではないかと考えています。
最後に、依存対象を置換するために聖書と福音を利用することは可能です。私自身が証人です。聖書と福音が真実として実在するから依存対象にすることができるのです。

これが私の証です。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月23日 (土)

家を建てる者たちの見捨てた石

昨晩見た映画からの引用です。"あなたは監獄に住んでいる。そこは居心地の良い独房である。今は扉は開いている。でも、あなたはそこから出てこようとしない。いずれ扉が閉まる時がくる。"
私は少し違った理解をしています。いずれ扉が閉まるのは、あなたが閉めるのです。神様からの一切の干渉を避けるためです。独房の鍵は内から掛けられています。

"家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主(神様)のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。"(マタイによる福音書)

これは世、即ち時の権力者と群衆、に見捨てられ十字架刑に処せられたイエス様が救いと教会を確立したことを例えで表現したものです。
イエス様のおられた当時のユダヤ人は王が登場して統治国を倒し、彼らの王国を再建すると信じていました。イエス様は自分たちの想像する王とはかけ離れた存在としたのでしょう。
教会時代があるとは誰も信じておらず、教会時代は隠された奥義と表現されています。この奥義にはものすごい意味があります。
"家を建てる者たちの見捨てた石"とありますから、世は自分たちの計画にイエス様はそぐわないと判断したわけです。計画を立てて実行されるのは神様です。人もその計画の中で役割を持っています。その役割を捨てて自分の計画を進めるのは主体と客体が逆転しています。今の世の中もそうですね。

あなたも、私も神様の計画に役割を持っています。難しいことではないと思っています。神様は愛ですから。神様の計画は私たちが神様を知り、一緒に居ることで幸せになれることを知ることです。そうでないと永遠に、不毛な自己中心の世界に不幸に暮らすことになるからです。私は、この神様を避けて暮らす永遠の過ごし方を、天国に対して地獄と呼ぶのだと考えています。
"私たちの目には、不思議なことである。"とわかったのなら軌道修正しましょうよ。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月22日 (金)

神はいのちを救うために

皆んなが早く来ないこないかと心待ちにしています。心配しています。

"今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。"(創世記)

イスラエルの十二人の息子の話です。この十二人の子孫がそれぞれイスラエルの十二部族になります。
息子の一人のヨセフを兄弟が行商に売り、ヨセフはエジプトに連れて行かれました。ヨセフは神様に祝福されエジプトの統治者の地位まで登りました。

全地に7年間の飢饉がありエジプトはヨセフの助言で備えをし飢えをしのぎます。他の国は何の備えもない状態で困窮に陥りました。他の国の民は食糧を求めてエジプトへ来ました。イスラエルの十一人の息子も食糧を求めてエジプトへ下りました。
そしてヨセフと再会します。長く会っていなかったので、謁見している高官がヨセフだとわかりません。ヨセフと兄弟とのやりとりがありますが深い意味は知りません。ヨセフも自分が売られた痛みを抱えていたのでしょうか。よくわかりません。
ヨセフは懐かしさのあまり涙を流し、自分の正体を明かします。故郷の父と残してきた家族を皆連れてエジプトに来るようにと兄弟たちに勧めます。それが冒頭の聖句です。そして一族全員がエジプトに下ります。

この創世記最後の物語は、聖書中ではイエス様が死に売り渡され、よみがえりの初穂となり、信じる私たちを迎えることの型になっているそうです。実生活では痛みを持った者が教会に訪れクリスチャンとなり、身近な者および旧知の者を教会に迎える勤めを担うことの型になっていると思います。
私がこの様に手紙を送ることができるのは、神様があなたを救うために先に私を教会に迎えてくださったのでしょう。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)


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2016年4月21日 (木)

信仰は生きる力

"イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。"(マタイによる福音書)
ユダヤ人指導者はイエス様がキリストである事の目に見える証拠を示してくださいと言っています。
"イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。"(マタイによる福音書)
別の個所でシモン・ペテロは目に見えるしるしなしにイエス様をキリストと告白しています。また、イエス様はそれをペテロのに示されたのは天にいますわたしの父(神様)と教えられました。 ペテロの告白は信仰に基づいていると考えます。信仰は盲信ではなく確信です。 私しも信仰によって安心を得ることができます。未来については死ぬこと以外に何一つわからないものです。ですから不安が襲ってきますが信仰が心を支えてくれます。その大本は聖書に書かれていることは全て正しいという基準に対する信仰です。この基準はあらゆる不安に打ち勝つ力を与えてくれます。あらゆる不安と表現したのは。実際に困ったことは無い様に思えるからです。

"信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。"(ヘブル人への手紙)
好きな聖句です。こんな素晴らしい力を欲しくありませんか。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月20日 (水)

依存症について

罪と病について考えていました。結果、罪は持って生まれた治療不能な病です。罪は思考の結果として作り出されるものではなく思考の一部を構成する病因だと認識しました。この病因が悪い思いや行為を症状として引き起こし苦しみをもたらしています。そしてこの病因が遺伝性であることをもって原罪とするのでしょう。
罪という病であっても患いながら正しく生きる責任を我々は持っています。他の病と同様です。
聖書は罪について行為としての実態と性質としての実態を定義し説明しています。

私は依存症を病として捉えることにしました。罪だとは考えません。酒を止めている今も抱えている代替行為に対する依存は同じ病因による病でしょう。
では、罪を病因とする症状とはなんなのでしょうか。依存症に関して言えば、罪の症状は絶望です。依存症だからという理由で絶望を受け入れてしまう合併症なのだと思います。
AA(アルコホールスアノニマス)の回復のためのステップ3は希望を持つことです。私が罪の解決と依存症の解決を同じに考える理由です。

ステップ3"私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。"

足が不自由なこと、目が見えないこと、依存症であること、これらは病です。そしてこれらを理由に絶望しているなら罪に侵されているのです。
わかったのは、依存症で解決しないといけないのは依存症という病気ではなく絶望です。依存症はそもそも生涯かけて付き合っていく病です。離脱症状はともかく、依存症で最も苦しいのは二度と酒を飲めない人生、こんな時に酒を飲めない人生を想像できないことではないでしょうか。

"人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。"(マタイの福音書)
私はイエス様がなぜ「あなたの罪は赦された」と言ったのかわかりませんでした。依存症という病について再考し、上記の結論を導いた結果わかりました。中風の人は絶望に打ち勝ってイエス様に癒されると信じた信仰を義とされたのです。

私は乏しく、弱く、嗜癖に関わる問題行動から人を傷つけ、恥じ入り、孤立しています。ですが絶望しないので私なりに充実した日々を送れます。イエス様に対する希望が私を救うからです。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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預言者が尊敬されない

気候が良い日が続くので気分が良いですね。

"これらのたとえを話し終えると、イエスはそこを去られた。それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」"(マタイによる福音書)

少し長い引用ですが、イエス様が身近な存在なので信じられなかった話です。
私はもちろんイエス様や預言者ではありません。私はいろいろな人を通して神様の語ってくださった言葉を聞き、あなたに取り次いでいるだけです。
この聖句と同様にあのアホの言ってることと思わず内容を吟味していただけたらと思います。

信じてくれる日を心待ちにしています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月19日 (火)

たましいに安らぎ

最近、よく寝ます。以前に医者にそう言ったら、私の体質なのでしょうと言われました。仕事で狂ってた頃は1日3時間睡眠で日中眠くなることもなかったのですが。

"すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。"(マタイによる福音書)

私は自分のたましいに安らぎがあるのかないのかよくわかりません。聖書の言葉は正しいので、私に何かが欠けていることになるのかもしれませんとなります。疲れてないから、重荷を負っていないから、イエス様のもとに行っていないから、くびきすなわちイエス様と共に仕事をしていないから、イエス様から学んでいないから、これらが揃ってないかもしれないということです。よくわかりません。

社会的に充実していた頃は周りの人間に苦痛を招いたと、貧困に陥ったこと、呵責から逃避をしたこと、自分がその様な人間であることから安らぎなどありませんでした。今は生まれつきの自分自身は何ら変わっていませんが気分が楽です。
メッセージを作成するのは楽しいです。最近はやりがいのある仕事に就いている気分がします。何もしていない負い目から心が楽になる気がします。これが安らぎが来るなのかもしれません。

イエス様に祈って、イエス様から言葉を頂いてメッセージを作っている感じがします。本来、私はこんなに言葉が豊富ではないです。
イエス様の言葉を載せた声があなたの心に届けば幸いです。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月18日 (月)

呉昌碩 野隺老人

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滴仙会上級用 模刻課題

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わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない

先日、休みと知らず朝早くに出かけました。お昼に帰宅したのですが自動車専用道を反対方向に入ったら渋滞していて、こんな田舎でなんでだろと思いました。そもそも行きの時点でオートバイが多くて、やるなあと関心してました。
間違いは一つです。

"それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。"(マタイによる福音書)

律法は神様の前に義を示すためのもので良いものでした。ですが誰一人として義人と認められることはありませんでした。ですから救いが必要になったわけです。
殺すな、偽証をするな、両親を敬え、姦淫するな、貪るな、盗むなと規定した律法は、全ての戒めが一つの戒めに基づいていると書いています。ですから嘘はついても殺していないが成り立ちません。当然のことですが、"自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい"を部分的に犯すことはできません。
良いものであったはずの律法が人間を告訴するものになってしまったのは罪のせいだと書いています。罪は貪るなの規定に機会をとらえてあらゆる貪りを引き起こしましたとあります。
問題は皆がこの罪に惹かれ慕って的外れな人生を歩んだことにあります。本来の人生に軌道修正しませんか。

好きな御言葉です。

"『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』"(マタイによる福音書)

"いけにえは好まない"は人間が律法に定められている罪の贖いのいけにえを神様はもはや好まないの意味です。"わたしはあわれみは好む"は、あわれみの心を持ちなさいと言っているのではありません。神様が人間をあわれみたいという意味です。神様は人間をあわれみの対象として作られました。ですから本来の人生とは神様からあわれみを受ける人生です。そうすることで人間は満たされた思いを得ることができます。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月17日 (日)

自分の宝

朝起きたら強い雨。こんな日は嫌いです。頭がスッキリしない、頭痛が酷い、無気力、よってベッドから出れない。

"自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。"(マタイによる福音書)

私はここで言う宝は愛ではないかと思っています。
自分は愛せないと長く悩んだ結果、その意味がわかりました。試しにいつもしている些細な事に想いを添えてみたところ、心の奥底から暖かい何かが生まれてきました。これは私の心の出来事なので相手や周囲の反応は阻害する事は出来ません。そして誰も暖かい何かを私から取る事は出来ません。
クリスチャンの心は天につながっているのかもしれませんね。

聖書は何度も繰り返して読むので同じ内容について書いてしまいそうです。もう自分で書いてきたことがわかりません。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月16日 (土)

ご自分の民をその罪から救ってくださる

断続的に犯す罪に怒りと悲しみを覚えます。恥ずかしいことなので内容は書けません。衝動が収まった時に解放されたと思うのですが、忘れた頃によみがえります。

"マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。"(マタイによる福音書)

罪には二つの種類があるそうです。行為を称した罪。殺人、嘘、盗み、姦淫などですね。もう一つは性質として実態を持つ罪です。私たちに罪を犯す思いを起こさせる性質です。世の終わりの裁きで滅ぼされるのは後者の方です。
若い頃は罪に惹かれるままにやりたい放題でした。大いに楽しんでいました。当時を悔いることはありませんが、1日の終わりの後味の悪さや、エスカレーションする悪癖を止めたいと思っていたことは覚えています。
今も性質は変わっていません。ただ、罪に対して「NO」と言う権利を有していることを強く認識する様になりました。これが罪から救われたなのでしょう。そのことに気付くのに長くかかりました。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月15日 (金)

死は勝利にのまれた

祈る対象が無いのに祈るのは愚かなことです。クリスチャンはよく祈ります。見えない、感じ取れない方を祈りを捧げる対象として認識できているからです。同様に事実に基づかない希望は虚しいものです。聖書に書かれていることは事実と知った時、哀れな者ではなくなりました。

"もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。"(コリント人への第一の手紙)
キリストの復活が無かったなら、私は空想事に希望を置いているだけの哀れな者と言っています。十字架の話を信じない人には私は愚か者でしょう。 ですが次の様に証言されています。これが新約聖書として現在まで伝えられています。
"(旧約)聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。"(コリント人への第一の手紙)
当時はイエス様を十字架にかけたユダヤ教派閥が絶対だったので、この証人たちは命懸けで証言していました。

最後に復活の勝利についてのみ言葉です。この復活に預かることがイエス様の救いです。

"朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」"(コリント人への第一の手紙)

どうか信じてください。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月14日 (木)

神には人を死者の中からよみがえらせることもできる

今日は少し寒いですか。布団から出した手が冷えて、骨折したところが痛みます。

"神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」"(旧約聖書-創世記)
これは神様がアブラハムに一人子をいけにえとして捧げろと命令した言葉です。この言葉には神様が一人子のイエス様を全人類のために捧げられたことが重なっています。 そしてアブラハムは一人子を捧げようとしました。刀を振り下ろそうとした直前で声がかかります。
"御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」"(創世記)
アブラハムが一人子を殺そうとしたことは事実ですが、その時のアブラハムの心理が新約聖書で解説されています。
"信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。"(新約聖書-ヘブル人への手紙)
最後のみ言葉には幾つかの意味がありますが。ここでは"神には人を死者の中からよみがえらせることもできる"に着目してください。神様が用意しイエス様が完成させた救いの要素の一つです。イエス様は十字架で亡くなられ、墓に葬られ、そして復活しました。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月13日 (水)

昨日はアウトレットショッピングモールに行ってきました。

私はMikiHouse派でファミリア派の家内と意見が一致しないことが判明しました。
息子夫婦はヘビメタフリークスなので私の勝ちと宣言しておきましょう。

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主の彼に対するあわれみによる

暖かかったり、寒かったりですね。うっかり薄着で参ったなどもあります。体調はいかがですか。

"しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。"(創世記)
ソドムが滅ぼされる時の話です。ロト、ロトの妻、ロトの二人の娘、二人の娘それぞれの婿、ソドムの住人がいます。ソドムの住人は'若い者から年寄りまで、すべての人が'悪かった様です。十人の正しい者はいなかたのですね。二人の婿は滅ぼされることを冗談だと思い逃げませんでした。そしてロト、ロトの妻、ロトの二人の娘もためらってました。街の繁栄や何がしを手放すことを憂いていたのだと思います。つまり街が滅ぼされることを知りながら一目散に逃げた者はいなかった様です。 これは現代も同じです。世は悪く明るい未来は想像できません。聖書が語る通り滅びに向かっています。世に属し滅びに向かう者、救いを聞いて受け入れない者、救われることを知っていてためらう者がいます。 この後、ロト、ロトの妻、ロトの二人の娘の四人は逃げました。'うしろを振り返ってはいけない'と戒められましたが、ロトの妻は振り返り塩の柱になりました。この意味するところは残念ながらわかりません。イエス様の救いを当てはめて考えて、世に対する未練や悪い嗜癖がきっぱり無くなることはないからです。

悪いことと自分ではどうすこともできないことの自覚、助けて欲しいと思う意思、助けることができる方を認め委ねることが必要です。それだけで良いのです。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月12日 (火)

正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか

今の行き方を維持できれば後に滅んでもかまわないと思っている人はいると思います。滅びの実態がわかっていないから。未来のことなので考察に至らないから。根拠無く何も起こらないと信じているから。色々と理由はあるかもしれません。聖書はこのまま生きると滅ぶと書いています。そしてそれはひどいことです。もし本当だったらと意識を変えてみてはいかがでしょうか。

"あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。"(創世記)

これは神様がソドムを滅ぼそうとした時にアブラハムが取成して言った言葉です。ソドムは悪い街でした。ソドムには甥のロトが住んでいました。
これに対して"わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。"と取成しに成功します。その後、アブラハムは四十五人のため、四十人のため、三十人のため、二十人のため、十人のためと交渉を続け認められます。

アブラハムがなぜ甥のロトだけでなくソドムのために取成したのか、なぜ十人で止めたのかはわかりません。ただ言えるのは神様は悪人が滅びることを望まれないことです。どんなに悪くても取成しに応じられます。神様は悪人が悔い改めることを望んでおられます。
ソドムは大きな街だった様ですが、わずか十人の正しい者もいませんでした。多分、一人も居なかったのだと思います。同様に私のうちにも正しさは全く無いでしょう。
キリストの救いは「イエス様の十字架は私を贖うことができる」と信じるかどうかだけを問われています。助かりたいと望んで前に立たないと救われません。

世に流されず、習慣に流されず、向かっている滅びについて考えてみてください。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月11日 (月)

信仰による義

人は必ず死にます。これははっきりしています。死後の世界について宗教的、哲学的、生物学的に知識を持っている人は少ないので多くの人が無視していると思っています。何故、必ず迎えることに対して無関心でいられるのでしょう。「私は地獄に行く」という人がいますが、地獄について知らないのに何故簡単に言えるのでしょう。
多くの人がこれらの重要な問題に無関心で軽く考えていることから、世の中がどれだけ悪いかが伺い取れます。見ざる、言わざる、聞かざるですね。世と一緒に流されていると自分が流されていることに気付かないようです。

"わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。"(創世記)

これは聖書の最初の書である創世記で神様がアブラハムを祝福して約束された言葉です。アブラハムの子孫がユダヤ人になります。正確には2代下のヤコブ(イスラエル)以降です。唐突にアブラハムが選ばれたように見えますが、後にある"彼(アブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。"が選びの理由です。時間の順序が逆転しています。
ここで重要なのは"主を信じた"です。我々クリスチャンは目に見えないもの、未来のことを信じることを大切にします。これを信仰と呼びます。信仰は力です。信仰によって聖書の正しさを認め、信仰によって記載されていることを事実として受け入れます。
"人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている"(ローマ人への手紙)

これは皆さんご存知の事実です。
"私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。"(ローマ人への手紙)

先の信仰の原理により我々は死の問題を解決したと大きな声で言います。
無視するのではなく、事実を受け入れて解決策を探しましょう。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月10日 (日)

少し前にお爺さんになってたりします

孫を披露しますね。

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可愛いんですよ‼︎
目が水色、鼻高い、二重まぶた

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ヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ

こうして記事を書いていると昔のことをよく考えます。記憶が曖昧になってわからないことが多いです。ああしていたら、こうしていたらと思います。あまりに推論と仮定が多いので、いつも結論は「無意味か」です。
先日本を読んでいて、「人生において人は、過去しか見えず未来に進まないといけない。」と思いました。未来については、不安と間違いから逃れることができないのが辛いです。過去については悔やみを変えることができない、何も変えることができないことを受け入れるのは辛いです。

"主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。(中略)主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。(中略)この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。"(ヨブ記)

ヨブ記の最後です。うーんって感じで終わります。苦難の中で自分の義を守り通した人の余生は、所有物を増やされ長寿を全うして死んだでした。これが最高の終わりなのか?と思います。
私もアルコールで死ぬ思いをして、交通事故で死ぬ思いをして、これはヨブと同じように溢れかえる所有物の中で、面白おかしく長生きするのも有りだろうと祈りました。その後世で何を思うのだろうかと興味があったからです。ですがその後世が死んで天に帰るより幸せだとは思えません。過去しか見えず未来に進まないといけないからです。

もちろん幸せを感じる感性や力が無い人は幸せになることができないことを知っています。
未来については信頼できる導き手がいれば安心です。ですからイエス様とお会いになって欲しいのです。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月 9日 (土)

神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず

教会へ行き、神様に感謝と賛美を捧げることで神様を拝みます。パンを割きぶどう酒(ジュース)を分けていただきイエス様の十字架を記念する聖餐式を行います。神様もイエス様も見えませんしそれを象徴する何物も有りませんが、一緒におられ祈りを聞いてくださっていると信じる力をみんな持っています。祈りを捧げる対象を認識していなければ、愚かな行為になってしまいます。

"彼は人々を見つめて言う。「私は罪を犯し、正しい事を曲げた。しかし、神は私のようではなかった。神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、私のいのちは光を見る。」と。"(ヨブ記)
これは神様を人間のレベルに引き下げないでくださいと言っています。私はこう言う神様を人間のレベルに下げる感覚が横行していると思います。 「神様が『言うことを聞かないから地獄に落とす』なんて言うんだったら、僕は神様を信じない。」これは長男が小学生の時に言った言葉です。私は上手く応答できませんでした。彼の発言は大人にはない感覚ですね。実は後に同じ発言を C.S.ルイスの"痛みの問題"で目にすることになりました。 地獄に行く者は自分から行くんです。もはや人間ではありません。人間から本来の人間らしさを取り除いた残りカスが行くんです。本来の人間らしさはこの世で売り飛ばしたのでしょう。 イエス様が自らの命をもって買い戻してくださるのですが、それすら応じない。 神様は人一人が滅びることを望みません。
"あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。"(マタイの福音書)
神様はあなたが帰ってくるのを待っておられます。イエス様が既に帰る道を準備されています。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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2016年4月 8日 (金)

主を恐れること、これが知恵である

雨がしとしと降ったり降りそうだったりします。大抵は気が滅入るのですが今の薬を飲み始めた時、雨音が美しいと感じました。自分にその様な機能があることを嬉しく思いました。

"神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」"(ヨブ記)
歳を重ねて愚かでありたく無いと思う様になりました。経験の積み重ねで狡猾に振る舞うことは良くないと考える様になり、それらのものは無益だと判断する様になりました。 畏怖を感じる何かと善悪の基準。この二つの根元が一致するときそれを宗教と呼ぶそうです。私の場合は引用した御言葉の通り根元は聖書が説く神様です。全てを創造された方です。

あなたにはその様な存在が有りますか?私が望むのは私と同じ神様を信じてくださることです。
世が見せる自分にとって都合の良い面と悪い面に振り回されて、流れにのまれないよう気をつけてください。見て分かる通り世は悪いです。
妥協せずに知恵を求めてください。

Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)

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つめたい部屋の世界地図 再考

以前、つめたい部屋の世界地図なる記事を書きました。そもそもよく考えずに書いたのか、今はこの記事の様に考えられないのか、いずれにしても意味不明な記事です。

やさしさがこわれた海の色はたとえようもなくて悲しい(井上陽水 つめたい部屋の世界地図)

この曲は美しいです。歌詞が良く、上記引用は最も美しいと思う一節です。私が美しいと感じるのは言葉の使い方です。
当時は荒れた海を前に出航できない悲しさを思っていました。しかしこれでは歌詞全体と意味が合いません。
今朝、散歩中に閃きました。"海の色は"を"私の心の色は"に置き換えるとこの一節の意味もわかりますし、歌詞全体と意味が合います。また切ないメロディにも合います。
他者を排斥した孤独を歌った曲だったのですね。

私も優しさに代表される愛のある意思が壊れていました。昨年、キリスト教関係の集いで圧倒的な喜びを受けて心に変化が起こりました。そして少しずつ回復している様です。
だから今、この歌詞の意味がわかったのだと思います。

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2016年4月 7日 (木)

私たちから離れよ

車の修理が終わったので納車される予定です。ドライブするのを楽しみにしてたのですが、雨だとか・・。長かったと思うのですが、修理で待ったのはほんの数日です。方や車を得るまで何カ月もかかりました。時間の感覚はいい加減ですね。

"しかし、彼らは神に向かって言う。「私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。
全能者が何者なので、私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが彼に祈って、どんな利益があるのか。」と"(ヨブ記)

私はこの祈りを空を見上げて投げかけたことがあります。上手くいかないことが続いて腹を立ててました。神様が全てを支配されていることを知っていたので、支配下から解放されたいと真面目に思いました。その様に理解していたことからわかる通り、クリスチャンになってからです。
この後、面白おかしく過ごしてました。奴隷の親分みたいな仕事も楽しかったですし、どんどんと度を超す遊びも常軌を逸した面白さを楽しんでいました。

"見よ。彼らの繁栄はその手の中にない。"(ヨブ記)

先の言葉の続きです。この様に何の繁栄も残りませんでした。喜びが消え負の感情だけが残りました。アルコール依存性の破綻した惨めな日々が続くだけでした。
回復の光を見て何年か経ち、回想する中で思うのは、最初の祈りに対して神様がなされたことは、ただ苦しめることではなく神様と共にいないと幸せになれないことを学ぶためのもだったということです。自分は間違っているので神様に私の人生の主権を渡そうと思いました。

福音を伝えていて反応が無くて寂しく思うことがありますが、それはほんの数ヶ月ほどのことです。イエス様はあなたをあなたの年齢だけ待っておられるのかと思い情けなくなります。
Image神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)
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2016年4月 6日 (水)

神の網で私を取り囲まれた

ヨブ記からの引用です。ヨブ記は義人が災いに遭う話しです。主題は因果応報と神様の計画のどちらが起こっているかです。この2点について人間の主張としての対立が描かれています。

"あなたがたがほんとうに私に向かって高ぶり、私の受けたそしりのことで、私を責めるのなら、いま知れ。「神が私を迷わせ、神の網で私を取り囲まれた」ことを。" (ヨブ記)

ヨブは罪に関して身に覚えが無いので、神様が計画されたことだと主張しています。

私もオートバイで事故を起こした時に、お見舞いに来てくださった方々から因果応報とばちについて語られ悲しんだ記憶があります。
オートバイを与えられたこと、旅することを与えられたことに感謝していたからです。病院のベッドで事故につて考えていた時も、「与えられ、取られた」と神様の何らかの目的の中にいると受け入れていたと記憶します。

神様(創造主)がおられること、その方が聖書に書かれている方であることを信じた人の幸は、ご利益があることではなくて、自分に起こったことや起こっていることが計画通りであることを認識できることだと思います。そのご計画が愛に基づいて創られているのですからなおさらですね。
人生の中心に自分ではなく、神様を据えてみませんか。
Image

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家からすぐ近くの所です

静かにて 行き交う人が皆隣人の様
景色を切り取り 座しては眺める
山腹に 孤高を持する見事な姿
長きにわたり 地を這う造形の枝
薄暗がりに 道を急ぐも 灯を楽しむ
老いても 元気に登りたい この桜を愛でに


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2016年4月 5日 (火)

煩わしい慰め手だ

目に見えない畏怖の念を覚える存在があると思います。私の場合は入り込めない草木の茂る暗がりや、扉で閉ざされた建物の中に、何かあるぞみたいな感じでした。草木をはらって、扉を開けると何もなく、何だと思うのですが、実はそこにあったのではなく心にあったのではと思います。聖書はそれが何かを解き明かしてくれます。

"そのようなことを、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ。" ヨブ記

ヨブと言う正しい人が死を望むほどの苦難に遭い、友人がヨブに言葉をかける物語からの引用です。ヨブが苦難に遭うのはヨブが罪を犯したからだと言っています。
引用している言葉はヨブのもので、ヨブの思い「私も知者の一人だ、そのような事は知っている。あなた方は何が起こっているのか分かっていない」を表しています。
私もあなたに人間の持つ唯一の希望について語りたいと思いメッセージを書いていますが、ヨブの友人の様になっていたら嫌だなと思います。
痛みは他人には決してわからないものだと思います。私も私のアルコール依存症に対する痛みに触れられたくないです。
今日読んだ箇所の終わりに次の様にあります。
"今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。" ヨブ記

この書はイエス様が登場するずっと以前に書かれたものです。ヨブは救い主が自分に必要な事と自分のためにおられる事を信じてました。そしてその方はイエス様です。

イエス様があなたのためにも神様にとりなしをしてくださる事を信じて頂ければと心から願います。
Image


2016年4月 4日 (月)

立信

Photo滴仙会 初級用 模刻課題

すべての人の終わり

人は必ず死にます。なのに、死ぬとどうなるのか、生きている間に何を備えないといけないのかを知らないのはおかしいと思っています。

祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。(伝道者の書)

私は祖母の葬式で遺体を見て、泣き悲しむ母と母の姉妹の中で「祖母は物になった」と思いました。高校2年生の時です。電池が切れた。魂というのでしょうか人と物の違いとなる物質として識別できない何かが無くなったと思いました。どこかにいったのでしょうね。
"神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。"(伝道者の書)

永遠への思いがありませんか?
自分が死んで無に帰すのではなく、永遠に存続すると思いませんか?

Dearfriends


2016年4月 3日 (日)

心の痛んだ者

私はケパです。アルコール依存症です。
これは私がアルコホーリックスアノニマス(酒を止めたい人々が励まし合う集まり)でしていた挨拶です。映画などで見られたことがあるかと思います。

"なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。" (ヨブ記)

アルコール依存性の痛みの中で、この事に向き合います。酒を我慢し続けている今も変わりません。
私は一度苦しみの中で「もう十分苦しみました。天に帰してくださいと。」と願いました。願いは叶いませんでした。ですがその時に以前通っていて、イエス様の元に導いて頂いた教会に行く事を思いつき。次の日曜日に行きました。そこでは皆さんが25年前と全く同様に迎えてくれました。行くところが有ることの喜びはかけがえの無いことだと知りました。
寄留の地でやっていけると思いました。

私たちは苦しみの中で直接的な希望を抱き、それが叶わず悲しみます。的外れな願いなのでしょうね。私のことを全てご存知なイエス様に聞いていただく様に願い求めれば、本当に必要なことを教えていただき神様が私のために設計してくださった素晴らしい明日を思うことができるのにと思います。
これが祈りなのでしょう。

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2016年4月 2日 (土)

来て、そして、見なさい

今日の神戸聖書フォーラムで学んだこと。

"彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」"(ヨハネによる福音書)

ピリポの対応は正しい。

福音を伝えるのは難しい。私が難しくしてる。

聖句を引用して、自分なりの解釈をし、相手に伝えたい内容に適用し、語るのだけれど、出しゃばってはいけない、私的解釈をしてはいけない。これが結構怖い。神様が愛する人の永遠がかかっているのだから。
その上、そもそも相手が知りたいことを私は知っているのかと疑問に感じてしまった。

仲介せずに相手をイエス様に合わせる。このピリポメソッドが福音伝道の基本ではないかと気付かされた。いかにして相手をイエス様に向かせるか。そして後はイエス様にお任せする。
まだ頭が働く。今のうちに考察し実践しよう。

Image_2と桜の満開の下で黙想する。

飽きることもできぬもののために労するのか

Imageもちろん死ねば天国に行くことはわかっています。そして天国は今と比べものにならない素晴らしい所だと確信しています。と言うか、聖書には「(天国にふさわしい身体に)一瞬で変えられる」と書いてあります。ですが今はこの現実に生きなくてはいけない。時が未だ来ないのです。いつ来るのかわかりません。なぜ今じゃないのかわかりません。

"なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。"(イザヤ書‬)

常に飽き足りたい。常に楽しんでいたい。思い煩いたくない。そんな風に考えるのですが、何をしたいのか、何をすれば良いのか、わかりません。何かをして時間を埋める様なありきたりの充実感はうんざりです。

見渡すと実際には良い物を食べ、良い物で満たされ、思いのままに欲しい物を手に入れてる様にも思います。楽しむためのお作法をわかっていないだけで。「わたしによく聞き従え。」がお作法ならば未だに受け入れていない何かがあるのでしょう。

2016年4月 1日 (金)

御史大夫

Photo

NHK学園 書 篆刻友の会 2016年春に作品が写真掲載されました。
これは封泥と言い封緘に泥を置いて印を押したものです。四角の石に印影を模して彫り印を作ります。
封泥は泥が乾いて線が割れます。その趣に取り憑かれました。幾つか彫った内の一つです。

恐怖から遠ざかる、それはあなたに近づくことがないからである

Image人間は未来を人質に取られているようなものだ、と友人と話したことがあります。

"あなたは義をもって堅く立ち、しえたげから遠ざかって恐れることはない。また恐怖から遠ざかる、それはあなたに近づくことがないからである。"(イザヤ書‬)

この聖句は信じるに値します。

私も色々とありましたが、神様が全てを働かせて益としてくださると信じた時から、実際に起こっていることに対しは強く立つことができるようになりました。どうも現実の問題が持つ恐怖はまやかしの様です。

厄介なのは未来に対する恐怖です。自分で自分の弱みを責めている様に思います。先の聖句を信じればこの恐怖から解放されるのですが、なかなかそうはなりません。

"さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。"(ヘブル人への手紙‬ ‬)

私はあなたが私と同じ様にイエス様をキリスト(救い主)として受け入れることを確信しまた確認しています。

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