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2009年12月

2009年12月28日 (月)

艱難時代のクリスチャンについて考える。

聖書日課に従うと年末は黙示録になる。残り少なくなったし、読むのを中断できる内容ではないので、最後まで読んだ。
読みながら考えていたのは、クリスチャンは最後の艱難辛苦の時代を生きるのか、それともその前に携挙があるのかだった。

前に「主はクリスチャンが目的のない苦しみに会うのを望まれないので、艱難前に携挙があると考えている。」と聞いたことがあって、わかったような、わからないようなって感じがしてたけど、確かに患難前携挙説って言われるだけあってはっきりとしないんだろうな。

初信者のころ終末論と救いをテーマにしたメッセージが盛んで、「世の終わりが来ます。皆罪人なので滅びることになるんです。イエスを信じることに救いがあります。」みたいな感じだった。中途半端に聞いていたし、そもそもよくわかってなかったから、そんな迫害の時代は嫌だなと思ってたのと、信じたのは良かったけど救いの本当の価値をわかっていなかった。
救いの本当の価値がわかるのはそれから25年後、アルコール依存症からの回復の最初の一歩になったどん底の祈りで、・・・・。

それで今回はそんな迫害の時代は嫌だなの方なんだけど、黙示録を読みながら得た結論は、自分は艱難時代を生きて偶像礼拝を拒否して殺される。命がけの信仰を現わすことになる。何となくそんなことを考えながら読んでた。
「もしそうなってもクリスチャンとして貫き通せる自信がありません。助けてくださいね。」って祈った。
そう、今は受け入れることができていて、それも自分の意志や力が強くなったからではなく、最後まで耐え忍ぶ力は与えられるものだって考えに気が付けば到達してたんだ。
もう少し考えてみるに、与えられるって言うのは少し違ってて、受け入れられるようになるが正しいような気がする。この受け入れ態勢が整うまでこちら都合の色々があって、でも間に合わないことはない。

本題はこれで終わり。

なんだけど、このことを記事にしようと思い再度調べていてわからなくなった。
次の2節は艱難時代のクリスチャンを表している。

地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。(ヨハネの黙示録13章8節)

それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。(ヨハネの黙示録13章15節)

でも次の聖句が実現する時もある。

すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。(テサロニケ人への手紙第一4章16-17節)

つまり、

  1. 携挙があって、その後にイエスを信じたクリスチャンが艱難時代を生きる。
  2. 一部のクリスチャンが艱難時代に殺されて、そんな時に携挙がある。
  3. 艱難時代を生き延びるクリスチャンもいて、艱難時代の後に携挙がある。

どれも考えられるので結局よくわからない。

だけど、たとえ自分が艱難時代を生きても、死に至るまで耐え抜くことができることがわかったので、もはやどうでも良い。

並行して読んでたヨブ記に従うと、この悟りらしきものも神様から来たもの。

知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ記42章3節)

確かに知りえないことを書いてて、ここに書いた悟りらしきものに至った原理や目的はもやもやとしていて説明できない。

2009年12月26日 (土)

Herman MillerのMirra Chairをポチる

Img_0769 試座してこれに決定

イスに10万円。後悔はしてない。

12週間なんて絶対に待てないので、在庫を確保しているお店になるよな。
こうあっさり見つかると本当にデフレかって感じがする。

2009年12月23日 (水)

Cozy PowellのKiller

確か高校生の時にアルバム"Over The Top"を聴いたな。こんなビデオがあるとは驚きだな。

2009年12月21日 (月)

文体が完成しないから、日記を書くのが大変だったりする

他人に語るのではなく、自分に語る調子にしたいんだけど、変にこねくり回したらわけがわからなくなってきた。

文章を整えるのに労するのってバカみたいだな。まあ普通にできない自分がバカなんだな。

主を恐れることと悪を離れることは違うよな

この違いが認識されていない事態が多いような気がする。

そして人に言われた、『見よ、主を恐れることは知恵である、悪を離れることは悟りである』と(ヨブ記28章28節)

一方は知恵、他方は悟りとなっていて、なんとなく知恵って言うとひらめきみたいな感じがするし、悟りって言うと経験って感じがする。だとすると、「主を知り、恐れることが最初の一歩で、それから成長するように悪の奴隷からの解放が実現する」と、何となく自分の信仰にしっくりする解釈に至って、これでいいのかなと思えるのだけど。

自分が罪を犯すのは成長の途中なんだから当たり前って思ってて、でもこれを罪を犯す口実にしてるのではなくて、今抱えている葛藤は自然の様なんだって割り切れることが励みになっている。
辛いことばかりだけど、約束の時は必ず来るのだから。

ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。(ヨハネの黙示録2章25節)

自己憐憫って言葉を使おうとして、辞書で調べてみたけど、自分を憐れむって意味では何が悪いのかなって感じがする。神の目には自分は十分に憐れみの対象で、それが良いのだから普通の感覚だと思うのだけど。何か間違ってるのかな。
これも憐れむってのと何とかしてあげようってのが一緒になっているのだったら、それはおかしいけど、そんなこと考えてるのかね。
「憐れには思う、でも何もしてあげられない。」って普通にありだと思うのだけど。それを自分に向けて、だったらどうしようって思わないと何も始まらないよな。

2009年12月19日 (土)

神が全能なんだったらなんで人は不幸になるんだって疑問をヨブ記で議論してるようだよ

こんな祈りをしたことがある。

彼らは神に言う、『われわれを離れよ、われわれはあなたの道を知ることを好まない。 全能者は何者なので、われわれはこれに仕えねばならないのか。われわれはこれに祈っても、なんの益があるか』と。(ヨブ記21章14節)

教会を離れて、社会に出て、少ない収入で生活してた頃なんだけど、パチンカスだったんだよ。それで負けている時に天を見上げてこんな風に呟いていたんだ。
特に金銭面でうまくいかない時に、神様が「帰ってこい」って引き戻そうとされていると思ってたんだね。「もうかかわらないでください。ついてないのはあなたのせいだ。」なんてまじめに考えてたんだ。
たまに思い出すんだけど、思い出すことに意味があるような気がするから、少し考えてみようかなっと。

一言でいえば、稚拙。これだね。
なんだけど、興味深いのは、こんなくだらない状況に身を置いていても、自分を神様との関係で捉えてることなんだ。これは酒飲んで気持ちいい時なんかにはないんだけど、素面で現実と向き合ってる時はいつもそうだったんだよな。
特に責任が圧し掛かってきて、押しつぶるされそうになった時は、「万軍の主よ、助けてください。勝利を与えてください。」なんて祈ってたんだ。

こんな風に考えてみると今も大して変わらないなと思う。今は酒飲んで現実逃避することがないんで、四六時中、「神様、・・・・」、「神様、・・・・」、って祈り求めてるんだよ。そうしてないとやってられないんだ。
状況はというと、パチンカスより少しばかり世間体が良いだけだね。今より高尚な人生て、それ何って感じだし。

高校生の時に救われて、それ以来あきらかに証の悪いクリスチャンライフなんだけど。恐怖の中で神様に近いから、これで良いんだなとそろそろ結論に達しちゃうのかな。
この結論は、生かされているって前提に立てば、これでいいんだけど、辛いのはやっぱり嫌なんで、できれば生きるの止めたいっていつもの調子になってしまうんだ。
やっぱり次のステップがあるのかな。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。(ヨハネの手紙第一14章18節)

愛には恐れがない。”これは確実に現状を打破するのはわかるんだけど、ここまで愛から遠いと無理気味で、その上にヨハネの手紙は全編を通して、「改める方向に向かえよ」って訴えかけてくるんだ。
生きるの辛いのが解決するだけじゃ、時間が過ぎれば良いんだから、あまり魅力感じなくて、よくわからんなって感じかな。

2009年12月14日 (月)

愛車を洗って、ご飯を食べて、インターネットに繋がってた

こんな一日なわけで、どう考えても時間が過ぎただけで何の価値も見出せない。
礼拝に参加しなかったから?
確かにそうかもしれないね。でもそんな風に割り切れない気分なんだ。
聖書が、そういうもんだとばかりに語りかけてくれるんだよ。

女から生れる人は日が短く、悩みに満ちている。彼は花のように咲き出て枯れ、影のように飛び去って、とどまらない。(ヨブ記14章1-2節)

本当にこの通りなんだ。
こんな風な日々が嫌で、でもどうしようもなくて、あんまりそのことを考えたくないんだけど、どうしても自分のあり方を見つめてしまうんだ。でも考えたところで結論はわかってるんだよ。いつも同じだから。ずっと失敗ばかりで、ただ終わることだけを待ってるんだ。何をしてもそうなんだ。
自分の問題だとか、環境の問題だとか、そういうのじゃなくて、そういうものなんだよ。これってさ経験値は上がるんだろうけど、それがなんなのって感じだから詰まらないんだ。

考え事をしてると思い煩いが増えるだけで、何かに熱中してると時間が早く過ぎるでけで、そのどちらかしか選択肢がなくて、選択しないといけないってのがやるせない気分にさせるんだ。

一人旅が好きなのは、作り上げてしまった自分像から自分を解放させたいからなんだ。
家に帰り着くまでは、あんまり好きになれない自分とどっぷり付き合って、旅そのもが持ってる強制的な感じの中、むき出しの感情で過ごさないといけないから、すごく現実に結びついてる感じなんだ。自分がどういう状態なのか考えるんじゃなくて、素朴な自分が出てくるんから良いんだ。

思いのままに行動するっていうのは、聖書の次の言葉に対する態度を問われるんだ。

自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。(ペテロの手紙第一2章16節)

これって他人には絶対にどちらに立っているのかわからないんだよね。だからさありきたりのわかりやすい、考えや、行動の枠をはめようとするんだよ。
みんなからどんなふうに見えるんだろうって考えたら、せっかくの自由な身分に足枷をかけているような気がしないかい。

素朴な自分て言うのは、どちらに立ってるかを客観的に見つめるんじゃなくて、自分がどうしたいのかをはっきりさせることなんだ。
神様はすべて御存じでさ、もちろん弱くて駄目なのを御存じでさ、ぎりぎりの所で神様と出会えるんだ。そんな瞬間があるんだ。その時にわかるんだ。素朴な自分はいつも自由人なんだって。

見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。(ハバクク書1章4節)

一人旅の寄留者なんだよな。

2009年12月13日 (日)

珈琲

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THERMOS 真空断熱携帯マグ

コーヒーが好きで一日に何杯も飲むんだ。まあこれは特に珍しいことではないと思うんだけど。
飲み方はコーヒータイムを持つような飲み方じゃなくて、少量をパカッて感じで何杯も飲むんだ。家ではポットが魔法瓶になってるコーヒーメーカーで目一杯作って、小さなカップで飲んでるんだ。

喫茶店やコーヒーショップみたいなところでは飲まない。なんか一気に飲むような感じが好きになれないんだ。それにコーヒーを飲むのに時間を費やしてるって感じや暇を持て余してる感じも好きじゃないしね。

外出中、特にツーリング中は困るんだよ。コーヒーを飲みたいときにコーヒーショップはないし、飲めたとしても一度にたくさん飲むことになるので、好きな飲み方じゃない。
高速道路を走ってると、どうしても人が沢山いるサービスエリアで休憩をとることになるんだよね。疲れたら近くのパーキンエリアで休憩したいんだけど、コーヒーショップのあるサービスエリアを目指すことになるんだよ。
それに景色のいいところにはコーヒーショップはない。まあないから良いんだけど。

それでこのマグを買ったんだ。
これすごいんだよ。朝入れたコーヒーがお昼過ぎでも熱いし、夜になっても十分美味しく飲める温かさなんだ。鞄に詰め込んでても絶対にこぼれなさそうなところも良いね。

これで出かけにコーヒーを仕入れてツーリング中も好きなところで飲めるよ。
こないだも朝ホテルを出て、スターバックスでコーヒーを入れてもらって、峠道を走りながら景色の良い処で熱いコーヒーを美味しく飲んだんだ。
すごく気分が良かったし、休憩をまめに取れるから楽だよね。

好きな時に好きなところで休憩をとって珈琲を飲むって良いよ。

2009年12月12日 (土)

ろくつぼや


GeoTagged, [N34.66767, W135.50483]

かす入り天ぷらうどんを食べる。
かすって何だったっけ?

2009年12月 8日 (火)

久しぶりに聖書を読んで自分をみつめてみた

聖書日課に従って久しぶりに聖書を読んだ。

わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
(ヤコブの手紙2章14節)

そしてこの聖句と再会する。

前回この聖句を読んだ時に書いた記事を読み返してみた。この時の延長線上に今の私は居る。聖書を通して直接培われた意識が力強く生きている。まさに信仰が私を救っていることを知る。

全てを神に委ね、神の祝福こそが全てだと一心に求めて、心のおもむくままに行動する。
これは自由である。そして私は完全な自由を知らない。私は完全な自由が完成することを待ち望み、それがいずれ実現することを知っている。
今はその影に与り人としての喜びの片鱗を表している。
これが私の行いを伴った信仰である。

思い煩いは、時期がくれば解決することを知っているが、心の向きを一定に保つようにと常に襲ってくる。
欲望は、一時の心の高揚でしかないことを知っているが、本物を見失わないようにと心を捕える。
これらが今の自由が影たる故である。だから激しい渇望が私をさいなむ。

この件について「自分は正しいのか」という思いは実に虚しく、そこに正さの尺度がないとわかる。そんな私がここにいるだけのこと。ただそれだけなのだ。
そう、私は正しいと主張しているのではない。私は最後の2レプタを投げ込んだ者なので何も持っていない。分け与えるものも、誇るものもない。
世に在っては何の価値もない。

私はこの証のために生きているのかもしれない。

交通違反の記録

昨日 3点

Twitterとブログ

ブログのタイトルをつぶやき調で書いてTwitterに記事を送るってのはありだな。
詳しくはこちらをなんちゃってね。
でも、この方法はPCだと良いんだけど、iPhoneだとちと結構めんどくさいんだよな。3G回線だとそれだけで時間かかるし。
BlogWriterかココログが対応すればいいのに。

2009年12月 7日 (月)

日本海をツーリングするなら西から走るに限る

兵庫県の日本海沿岸を走るのは3回目なんだけど、今回初めて西から走ったんだ。それで気付いたんだ西から走るに限るなって。だってそうだろ、日本は左側通行なんだからさ。

今回は餘部の灯台と駅と鉄橋をじっくり観光するつもりだったんだけど、あいにくの雨なんだよな。でもあの灯台は苦労していく価値あるよ。景色がすごくいいんだ。鉄橋は駅に入場して駅から眺めたかったんだけど、駅への登り坂をえっちら登ってたら「到着します」なんて聞こえてきてさ、これは鉄橋を通過する汽車の写真を撮らなきゃって途中のお墓のところで撮ったんだ。駅まで行ってたら間に合わないって、この脚じゃ。
ちょうどお昼時だったんで、コンビニで巻き寿司を買ったんだ。315円って高いだろと思ったんだけど、どこかのお寿司屋さんで作ったものを販売してるみたいですごくおしかったよ。

で、日本海を眺めながら鳥取、兵庫、京都と走ったんだけど、「オー」とか「チョー」とか「スゲー」の連発だったよ。冬の日本海。Sea of Japan我が国の海は良いね。
ヘッタピだけど写真見てよ。

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今回のコース(Google Earth)→「20091206-07.kmz」をダウンロード

719.4km

丹後松島


GeoTagged, [N35.75494, W135.15568]

きれいな所だな。

と、前回も思った。

餘部駅


GeoTagged, [N35.64979, W134.63994]

たまたま汽車が来たよ。

餘部埼灯台


GeoTagged, [N35.66592, W134.53854]

ここまで来るのは道が険しくて大変なんだけど、それも寄らなきゃって思ってしまうんだ。
この灯台は我が国で一番高い場所にある灯台なんだって。海面から284mだって。凄いね。

ガチャピン岩


GeoTagged, [N35.51938, W134.02738]

どっちがガチャピンかは歌で覚えたんだ。

日本海に出た


GeoTagged, [N35.52027, W133.98634]

超豪快なんですけど。

変な言葉遣いは止めようと思うのだけど

語る感じじゃなくて記録する感じで、である調じゃない表現手法ってないのかな。
確か「ライ麦畑でつかまえて」がそんな感じだったような気がするんだけど、読んだのがかなり昔なので憶えてないな。

2009年12月 6日 (日)

大きい方の家族風呂を貸し切り


GeoTagged, [N35.41076, W133.89284]

食事も終わって、また風呂に入ったよ。今度はこの旅館が誇る大きい方の家族風呂なんだ。なんでも向かいの道路の下に原泉が通ってて、それを引き込んでるんだってさ。すごいね。やっぱり階段を降りてお風呂場に行くんだけど、原泉より低い所に浴槽があるんだ。お風呂場の説明によると裏の川の水面と湯舟の水面の高さが一緒らしくて、・・・原理はよくわかんない。
写真の奥の浴槽が原泉引き込みで熱い。手前が少しぬる目になってるんだ。熱い方はちょっと長居できないね。水を入れながら入るんだけど、これじゃ意味がないかな。
上がって休憩したりしてたけど、独り占めも何なんで部屋に戻ることにしたよ。そもそもカラスだし。
頭がくらくらして立ってられなくなったから、椅子に腰掛けて壁に貼った写真や記事とか置いてある骨董を眺めてたんだ。
明日も早く起きて入ろっと。

小さい方の家族風呂を貸し切り


GeoTagged, [N35.41076, W133.89284]

天井が高くて気持ち良いんだな。浴槽の壁から熱いお湯が出てるんだ。
身体があったか(なぜか(ry)くなって、ホッとした。そしたら今日見た事故を思い出してた。
軽バンがガードレールを跨いでたよ。パトカーが止まってて、中に警官が座ってたから乗ってた人は這い出すなり、助け出されるなりしたんだろうな。
身体があったかくなって、気持ち良くなって、上がって立ったらくらっときたりして。

木屋旅館


GeoTagged, [N35.41076, W133.89284]

着いた。
三朝温泉 藍の宿の木屋旅館
5度って寒いな。風をシャットアウトが防寒の基本だね。
真っ暗になったんで、途中よりみちは止め。冬は日が短い。

やっと岡山


GeoTagged, [N34.89404, W133.81229]

ライダーがいっぱい。

旅でスカ

いきなりzumoトラップに掛かるんだな。
中国道にのるところを近畿道に誘導されて摂津南まで。名神から上手く中国道に行けたためしがない。
旅はまだまだ始まったばかり♬

礼拝について思うこと

何となく礼拝に参加したいと思った。ただそれだけ。こんなスタイルっていいような気がする。習慣的にっていうのはなんか嫌だな。
前回のように息苦しいと思うこともなく。立って賛美を捧げることができた。神様の前にあって唯一、目的を認識できる瞬間だったりするな。
相変わらず礼拝の様式的なところは、なんだかなって感じなんだけど、考えてみれば、人が集まって繰り返し行ってきたら形ができるのは当たり前だなと。だからこんな事にこだわったり、批判したりははやっぱりバカバカしい。
なので自分流。

2009年12月 1日 (火)

Twitter

こないだブログを表示してみたらえらい様変わりしてて驚いた。こんなの読む気にならないよ。
事前連絡はあったんだろうけど、デフォルトを変えるなよな。自分のブログなんて見ないから気がつかないって。

で、一生懸命修復してたら、ブログパーツにTwitterに記事を送るみたいなアイコンがあったから追加してみた。さっき試したけどタイトルとURLがつぶやきに書かれるだけみたいで、なんだかなって感じだね。こんなもんなのかね。

そう、Twitterはかなり前にアカウントを持ってたんだけど、何が面白いのかわからなくて全然使ってなかったんだ。
iPhoneアプリにTweetie 2ってのが出てたので、これはお気軽でよさそうかなと。

kepa_jp とりあえず。

Amazonから2つも荷物が来た。もう一個、別口で品物が届くんだよな。暇だといかんな。いや良いか。

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