イエス様とサタンの戦いです。
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイの福音書16章22-23節)
実に恐ろしい。
神様の思いは人類の罪を赦し、神様と人類の関係を正常に戻すことです。
そのためには人類の罪の代償が必要なのです。人類が自分の力で自分自身の罪を償うことができないからです。悔い改めと言いますが、悔いることはあっても改めることができません。みな自分自身を振り返るとわかることです。
その代償がイエス様の十字架による死です。イエス様はわれわれが受けるべき神様からの呪いを一身に引き受けられました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23章34節)
十字架上でのイエス様の言葉です。これが自分の命を犠牲にした取り成しです。しかもこの取り成しは自分を苦しめ、殺そうとしている者たちのための取り成しです。この言葉の後、十字架上でイエスさまは亡くなりました。
そして神様が全ての罪からの贖いの代価を受けられたことの証印として三日目にイエス様はよみがえられました。完済したとを表しています。
これが実現したので、このことを信じ受け入れる者は神様と和解できるわけです。後述しますが事実として信じること、この救いに与りたい望むことが重要です。
さてこの神様のご計画を踏まえてイエス様とサタンの戦いを見てみましょう。
ペテロは事の次第を理解していません。実はこの直前に”「あなたは、生ける神の御子キリストです。」”(16章16節)と告白しています。イエス様を自分にとって必要な”キリスト”(救い主)だと信じているわけです。しかし、まさか”神の御子”が、”キリスト”が死ぬのか、しかもご自身がお創りになった人類によって苦しめられ殺されて、と考えているわけです。
ペテロは今まで見てきた奇跡の集大成によって勝利をおさめ王の座に着かれると思っていたようです。
サタンはイエス様が神としての栄光をお捨てになること、神様からの呪いを一身に受けることを躊躇するように誘惑しています。ここなどは心理的に、違う箇所では肉体的に苦痛を持って攻めます。
イエス様はご自分がなさろうとしていることを邪魔する余地があると仰ってます。そうです実際に苦しんで闘っておられるのです。
神様は全能なお方です。何でもできるのです。初めから人類に罪が入らないようにすることもできたのです。しかしあえて愛する者に自由に選択する機会を与えて実現される歴史を良しとされました。なぜでしょうか。
神は愛です。(ヨハネの手紙第一4章16節)
目に見えない、存在を体感できない方をどのようにして知ることができるでしょう。その方は”愛”だとしています。では”愛”とは何でしょうか。
私たちは愛と言う言葉をよく使いますが、そこに神様の存在を認識することがあできるでしょうか。全くありません。では”神は愛”ではないのでしょうか。決してそんなことはありません。私たちの愛がここでの”愛”ではないのです。ではもう一度、”愛”とは何でしょうか。
この私たちの持っていない”愛”を私たちに知らせるために神様はこの歴史を良しとされたのです。
ペテロや全ての人類が理解できない方法、サタンが妨げようとした方法、イエス様が苦しみの末に達成された方法、すなわち”自分を憎む者のためのご自身の命を犠牲にした取り成し”の実現、これこそが”愛”であり神様の本質なのです。
なので、”イエス様の十字架の死は自分のため”とわかった者は、”愛”を知り、すなわち神様を知り、神様の”愛”の対象として自分を差し出す、という仕組みが成り立つのです。
これが信仰の原理です。
つまり最初の一歩は”イエス様の十字架”を歴史上の事実として認めることです。今年は2009年ですが、いつから2009年ですか。
そして”イエス様の十字架”が何のためにあったのかを考え、それが自分の人生の清算のためだと信じ、この救いに与りたいと望めばいいのです。
天国とはこの”愛”で満たされたいと望む者が行く所です。地獄とはこの”愛”を必要ないと望む者が行く所です。各々が自発的にそれぞれが望むところに行くのです。
今の世を生きるのは辛くて苦しいです。しかし、この世で生きるとは、それを終えた時に、”愛”に対してどちらに行くかを選択するだけの一時的なものなのです。
神は愛です。
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