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2009年2月 6日 (金)

信じた様を表現するのは難しいのだろうな

出エジプト記13-14章、詩篇68篇、マルコの福音書2章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

人が救いを信じるについて考える。

イスラエルは【主】がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は【主】を恐れ、【主】とそのしもべモーセを信じた。
(出エジプト記14章31節)

海が左右に別れてその間をモーセとイスラエルが渡った後の記述である。これまでに多くの神の技があったがイスラエルは人たちは救い出されるのを信じていなかった。

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。 セラ

(詩篇68篇19節)

ダビデはいつも自分の救いとして神様を捉えていたようである。

中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
(マルコの福音書2章9節)

『あなたの罪は赦された』がイエスを救い主と信じていない者の反感を買う。『起きて、寝床をたたんで歩け』を受けてみなの者が神をあがめる。
”病を癒せる=罪を赦せる”、”罪を赦される方が病を癒されるよりも重要”ということを知らしめさせるやりとりなのであろうと思う。
救い主イエスが病気が癒されると信じてやってきた中風の人とその人を連れてきた4人。救い主イエスがこの5人に見られた信仰とは何なのだろうか。

信仰の尺度を持ち出すのは好きではない。それぞれの人に背景があり多様であるのだと思う。
信仰は神様の愛と栄光を現実のものとしてこの世に現す。

神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。
しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。

(詩篇68篇6節)

頑迷(考え方に柔軟性がない)な者は神様に見捨てられるのではない。神様の元に行かないのだ。

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コメント

中国宣教は兎に角大変みたいですねぇ......(ρ_;)sweat02でも,そんな㊥で頑張っている日本人宣教師sが居ます♪c(*゚ー^)ノ*・'゚☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'゚:*:・'゚☆其の姉妹はカンボジアで奉仕されていますが,中国人&カンボジア人の子供達を信仰に導いていますsnowsun

投稿: 仲野 碧 | 2009年2月 6日 (金) 17時55分

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