3日分ともなるとさすがに多いな
出エジプト記31-35章、詩篇89-93篇、コリント人への第一の手紙1-5章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
昨日、本日、明日分の3日分を読む。
昨晩、夜更かししたせいもあって頭あさえない。気になる個所を抜き出してみたが、どのようにつながるのだとるか。
学びについて考える。
息子の通っているカナダの教会には学び会など無いようである。福音集会が学びを兼ねているのかというとそうでもないようである。地域にキリスト教が浸透しているとはいえ、魂の獲得が主たるメッセージのテーマのようであり、それを皆で聞く。
集会独自の教えを持って集会の在り方の健全さを保とうとする地域集会はある。基本は聖書の理解の要約であるがこれをクリスチャンとしての生活の支えにする発想はいただけない。
彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。
(出エジプト記31章3節)
必要な知恵と知識は神様の霊によって満たされる。クリスチャンの内には聖霊がお住まいになられている。
それがこうなるといけない。
『私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。』
それで、私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。
(出エジプト記32章23-24節)
クリスチャンはとかく不安を抱える存在である。その不安を神様の前に持っていくのが良い。しかし指導者に求めるとおかしくなる。
学びを通して偶像が作られることになる。
指導者はやはり信者から求められている解決策を神様に求めるべきである。
決して急いではいけない。
また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。
(出エジプト記32章12節)
救い主イエスの命をもって贖われたのである。恐れることなど無い。
私たちの齢は七十年。
健やかであっても八十年。
しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。
それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
だれが御怒りの力を知っているでしょう。
だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。
その恐れにふさわしく。
それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。
そうして私たちに知恵の心を得させてください。
(出エジプト記90章10-12節)
人生は長いか短いか。苦しみから早く抜け出したくて焦りが生じる。時間の長さに対する感覚がおかしくなるものである。
それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
(コリント人への第一の手紙2章5節)
信仰からくる衝動に忠実であることは大切である。信仰を高める努力は無意味である。
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コメント
一応Bible Studiesというのはあるけどね。決まった箇所の解釈をみんなでディスカッションしましょうみたいな会(参加自由)。
投稿: 息子 | 2009年2月21日 (土) 13時42分