もっと素直になれば
出エジプト記21章、詩篇74篇、マルコの福音書7章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
読者の方から励ましとなぐさめのお手紙をいただいた。集会にご無沙汰している私にはうれしい限りである。神様の恵みに感謝。
そのお手紙の中でコリント人への手紙第一1章18節-31節、テモテへの手紙第二3章15節-17節を勧められたので合わせて読んでみる。
私の中に二つの思いがある。
- ひとつは”その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。”の通り、常識的に考えてこのままでは悪くなるだろう。
- もうひとつは”神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる”だから心配ない。
この二つの思いが対立して苦悩を生み出す。
天に帰ればこの苦悩から解放されるのは知っている。では地に在ってどう生きるのかが課題となるのだが、明確な在り様は示されないので信仰に従順であるしかない。
”あなたの信じたとおりになるように。”この御言葉にすがる。
私の願いは聖書に記されていないヨブの残りの人生を知ることである。
クリスチャンは言う”満足していますか?”。
私は人生に満足しているクリスチャンがどれだけいるのか疑問である。少なくとも私は満足していない。いつも今の自分の人格が変わることを望んでいる。つまり否定しかない。
これを向上心ととらえ充実感を得ることが”満足”だなどとは到底思えない。
私は自分が特殊だとは思わないことにしているので、視点の違いで満足と不満、充実と空虚が感情として現れるのだと考えている。特定の視点で眺める習慣を持てばよいのかもしれないがそれは単なるまやかしだと思う。やはり本質の変化を望む。
このことも聖書に記載されている。
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
(コリント人への手紙第二5章2節)
私は罪赦された罪人である。この壁の前にひざまずく。
ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。
(出エジプト記21章13節)
私にとっては殺意があっても逃れる場所は救い主イエスの元である。
あなたの聖所に火を放ち、あなたの御名の住まいを、その地まで汚しました。
(詩篇74篇7節)
詩篇74篇は私の祈りそのものである。聖所である私自身を罪が汚す。
”いつ私をこの苦悩から解放してくれるのですか”
しかし、生きてる限りこの苦悩から解放されることはないことも知っている。
この支離滅裂な話は次の御言葉によって意味を持つのである。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
(コリント人への手紙第一1章27節)
結局のところどんな自分であろうと、神様が愛した対象として自分自身を認めていること、それだけが自由と平安の根拠なのだと思う。
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コメント
片岡兄弟が、神さまに愛されている事、自分に正直である事、また神さまの恵みを受けておられるのが文章から見えます。そして真剣に神さまを愛し、従順して生きていこうと云う思いが伝わります。ピリピ3章12節~14節パウロが語っている通りに私も後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み・・私は神さまを信じていると云う兄弟姉妹に言う言葉は、本当に神さまが私たちと共におられるなら死んでも生きても天国だと・・そのためにも日々の罪を悔い改めて、主イエス・キリストの十字架の血潮で洗ってきよめていただきましょう。イエス・キリスト以外に使徒4章12節「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。滅びから命に引き上げられた私たちは感謝しかありません!主に栄光あれ!
投稿: 山本由紀子 | 2009年2月12日 (木) 21時44分