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2009年2月

2009年2月27日 (金)

存在そのものが持っている価値

人の価値は存在そのものにある。
人は影響し合う。この影響する要素であることに価値がある。これがすべてである。
行為には何の価値もない。
あれができても価値を高めないし、これができなくても価値を下げない。
あれをしても価値を高めないし、これをしても価値を下げない。
あれをしなくも価値を高めないし、これをしなくても価値を下げない。
では全ての行為は正当化されるのかと言うとそうではない。

しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。 これらは、人を汚すものです。

残念ながら我らは罪人である。すべての思いと行為は罪からおこり、責任を問われる。
人に影響を与えることに責任を問われると思い存在の終わるのを願っていたが、これは間違いである。行為そのものに責任を問われるであり、影響はあくまでも価値である。

さばきは神のものである

だがこの追いきれない責任は赦される。そして価値だけが生きる。これが愛の原理である。
つまり存在そのものの価値を認め、行為の末路を委ねればよいはずである。これをもって全うしているはずである。

なのになぜか何かを求められているのかのように思える。これがどうにもわからず苦しい。
全うして、何をすればよいかわからず、なぜ行為に方向性を定義しようとするのだろうか。
思い返すに余生について教えられた何をするかは、心の赴くままに、ただこれだけしかない。説明できないのはそれがどう作用するかである。生きることの尊さを見たが説明できない。この尊さは信仰によってとらえるものであるので説明できる必要はない。

楽になれないのは何かが間違っているからのように思われる。それを正したいがわからない。

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2009年2月26日 (木)

貧血

手術跡の写真を撮ったがあまりにグロいので掲載は控えたほうがよさそうである。

Img_0209_0104 Coopdech Balloonjector 300
0.2%アナペイン200cc+Ns100cc

こいつの先っぽの針が腰椎に刺さっていて点滴になっている。
アナペインは鎮痛剤らしい。いかにもと言った名前である。
通常時は少量づつ送られている。痛みの酷い時は右のピストン上の物を押すと大量に流れ込み少しすると痛みが消える。

貧血がひどいようである。たしかに頭がくらくらするし、なんとなくだるい。
輸血をすればすぐに良くなるそうなのだが、輸血は極力しない方針らしい。
輸血のリスクと言えばやはりAIDS、肝炎か。そういえば東南アジアに遊びに行って帰国したばかりの日焼け真っ黒お姉さんが献血しに来て断わられたのを見たことがある。”検査してもらえるんですか?”とか聞いてたな。検査は病院に行けよ。

wikiを眺めてみる。いろいろあるのだな。

まあ寝てて済むんだったら、暇だからそれもいいかな。

2009年2月25日 (水)

真っ白な光景

真っ白な世界だった。
城壁伝いの階段になった道だとわかった。
その道に二人の真白な人が座っていた。
本当に真白で輪郭とおうとつだけしか識別できなかった。
「また行くのか?」とどちらかが言った。
城壁を見て。
この中から送られてきたのを思い返し、「ああ」と答えた。

名前を呼んでる。「深呼吸して」と呼びかけている。
産まれて来た時に同じ経験をしたような気がする。

また生きる。苦しい人生がまた始まる。

あの時「ああ」と答えなければ、あそこに残ったのかも知れない。
選択を委ねられたような気がする。
もう一度こちらの世界に戻ってすべきことを告げられたがそれが何か覚えていない。いや説明できないの方が正確な表現なのかもしれない。

ただ、何か目的があってその道を選んだことだけを知っている。

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2009年2月22日 (日)

手術前日

Img_0207_0103 基地の準備も完了。

入院は熟慮に最適である。

2009年2月21日 (土)

3日分ともなるとさすがに多いな

出エジプト記31-35章、詩篇89-93篇、コリント人への第一の手紙1-5章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

昨日、本日、明日分の3日分を読む。
昨晩、夜更かししたせいもあって頭あさえない。気になる個所を抜き出してみたが、どのようにつながるのだとるか。

学びについて考える。

息子の通っているカナダの教会には学び会など無いようである。福音集会が学びを兼ねているのかというとそうでもないようである。地域にキリスト教が浸透しているとはいえ、魂の獲得が主たるメッセージのテーマのようであり、それを皆で聞く。

集会独自の教えを持って集会の在り方の健全さを保とうとする地域集会はある。基本は聖書の理解の要約であるがこれをクリスチャンとしての生活の支えにする発想はいただけない。

彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。
(出エジプト記31章3節)

必要な知恵と知識は神様の霊によって満たされる。クリスチャンの内には聖霊がお住まいになられている。

それがこうなるといけない。

『私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。』
それで、私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。

(出エジプト記32章23-24節)

クリスチャンはとかく不安を抱える存在である。その不安を神様の前に持っていくのが良い。しかし指導者に求めるとおかしくなる。
学びを通して偶像が作られることになる。
指導者はやはり信者から求められている解決策を神様に求めるべきである。

決して急いではいけない。

また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。
(出エジプト記32章12節)

救い主イエスの命をもって贖われたのである。恐れることなど無い。

私たちの齢は七十年。
健やかであっても八十年。
しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。
それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
だれが御怒りの力を知っているでしょう。
だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。
その恐れにふさわしく。
それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。
そうして私たちに知恵の心を得させてください。

(出エジプト記90章10-12節)

人生は長いか短いか。苦しみから早く抜け出したくて焦りが生じる。時間の長さに対する感覚がおかしくなるものである。

それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
(コリント人への第一の手紙2章5節)

信仰からくる衝動に忠実であることは大切である。信仰を高める努力は無意味である。

2009年2月20日 (金)

八ちゃん燃費12059km

Img_0205_0101 12059km

208.4km÷9.53L=21.87km/L @118 神戸

きれいに洗車して、ガソリン満タンにして、カバーをかけて休眠

林喜特製あなご弁当

明石に行ったのでせっかくだから魚の棚(うおんたな)商店街で昼食を購入。

Img_0203_0099 あなごがびっしり敷き詰められて1,000円

(゚д゚)ウマー

三度目の入院

あまりの脚の痛さとセカンドオピニオンの結果を踏まえて右大腿骨の偽関節に骨移植をする。

Img_0201_0097 角部屋個室
大部屋が満室のようである。残念ながら外泊。手術後落ち着くまで使用できればいいのだが。

Img_0204_0100 タグ
私はバーコードで識別される。

Img_0202_0098 明石の海
ちょうど薬のストックがなくなりそうなので神経内科に赴く。
二か月入院なので8週間分お願いしたが駄目だった。また家内に薬を取りに来てもらうことになるか。
残っている薬もあるのだが入院先の病院に説明するのが面倒なので一式処方していただく。調剤時の説明書を付けて薬一式を出せば良い。あまりに大量なので眠剤だけ没収されて自己管理になる手はずである。

日曜の朝食後に下剤を飲み、便通、昼食、シャワーを済ませてPM3:00に病院に戻る予定。

バイクの洗車にでも行こうかな。

2009年2月19日 (木)

雨に降られても気分は最高

Img_0198_0094Jeff Beck Japan Tour 2009

めちゃめちゃカッコいいじゃないですか!
30年前に聴きまくったLed Bootsを直ぐ目の前で演奏してる。昔のままである。驚いた。

あのJeff Beckがそこに居る。

彼はMilesのようにスタイルをリセットするタイプのアーティストだと思っていたが違う。
彼は客席に向かって音を飛ばし最高の響きを創り上げる。昔も今もそのスタイルを保ち続けている。

Img_0199_0095 こじんまりとしたステージである

ハイハットでリズムを刻みながらスネア交換。スゲー
Tal小さい

People Get Ready、イントロで思わずRod Stewartが、と思ったが、ないよな。

Img_0195_0091三休橋に駐輪
帰りは雨・・・・

Img_0200_0096 本日の走行距離96km

Jeff Beck 大阪公演

さて出発するか

Img_0193_0090

今日は楽しみにしていた日なのに浮かない気分である

出エジプト記30章、詩篇86-88篇、マルコの福音書15章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

福音書は救い主イエスについて叙事的に記述されている。詩篇はイエスの神様に対する叫びの祈りが書かれているのだと思う。

私の祈りがあなたの御前に届きますように。
どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。
私のたましいは、悩みに満ち、私のいのちは、よみに触れていますから。

(詩篇88篇2-3節)

これはゲッセマネの祈りか、十字架での祈りか、はたまた日々の祈りなのかはわからないが、いつも神様の身近にいて心の思いを打ち明けておられたのだと察する。
私も日々の境遇の中で感じ思うことを逐一神様にお伝えするのが良いのだと思う。
神様とこの関係にある時、悲しくても、不安でも、苦しくても、孤独ではないことを認識することができる。これで十分なのかもしれない。

それから、彼らは、イエスを十字架につけた。
(マルコの福音書15章24節)

いつも思うがあっさりと記述されている。映画では生々しい描写が見せ場になるが、福音書の記者は詳しくは触れない。
預言の成就が叙事的に記述されイエスの受けた苦しみは伝わってこない。イエスの視点に立った抒情的な表現はやはり詩篇にある。

詩篇の記者はイエスの苦しみや喜びや感謝の思いの一端を体感し、それを詩として残している。同様に私も日々のなかでイエスの思いの一端を体感しているのではないかと思う。
裏返せば、イエスは全ての人の全ての思いを経験されたのだとはと思う。
だから聖書は万人に共感を与えることができるのだろう。

2009年2月18日 (水)

理屈ではわからない

出エジプト記29章、詩篇85篇、マルコの福音書14章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

救い主イエスは聖書の預言どおりに十字架に架けられ救いを実現される。
救い主イエスを捕え殺そうとする者、裏切る者、等々が自分の意志でかかわっていく。

確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。
(マルコの福音書14章21節)

生まれなかったほうがよかった人々のなした事によって十字架は実現する。その人々に罪がなければ十字架は実現しない。

十字架を実現するために”生まれなかったほうがよかった人”がうまれたのではない。それぞれの人の自由意思による悪事の積み重ねが神様の業によって救いという恵を実現させている。

神様の業がそこにあったことを認めなければならない。

同様に私自身が犯す罪の行いも神様の業によって恵みとなると知る。

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。
(マルコの福音書14章38節)

救い主イエスの命令であり励まし。
また私がダメでも結果は良い。

創り主なる神に感謝。

2009年2月17日 (火)

脚痛い

出エジプト記28章、詩篇83-84篇、マルコの福音書13章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

万軍の【主】よ。
なんと幸いなことでしょう。
あなたに信頼するその人は。

(詩篇84篇12節)

2009年2月16日 (月)

ものは考え様なのは知っているが、なかなかうまくいかない。

出エジプト記27章、詩篇81-82篇、マルコの福音書12章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

自殺未遂者の掲示板を拝読させて頂いた。
多くの人が生きることに意義を見出させず、責任を果たせていない罪責感にさいなまれ、自己の存在そのものに辟易している。
またその方たちをとどまらせようとする方もおられ、話し相手になったり、けなしたり、茶化したり、自殺によって発生する影響を再認識させたりと発言の多様さのそれぞれに意味を見出し敬服した。
私も死を望む一人である。自殺未遂者の心理分析は自分自身を重ね合わせたたものに他ならない。酒を止めた時から人生に価値を見いだせないことに直面し、元気になるにつれ何もできない罪責感にさいなまれ、生きることが苦痛以外の何物でもない。

毎朝、一日が始まることを考えると憂鬱になる。すべきことをなしていない怠惰なな自分、すべきことが何かを探し求めようともしない怠惰な自分との直面が始まる。そしてただ時間を消費するだけの一日を過ごす。
仕事に熱心であった時、酒におぼれていた時、聖書や教会に熱心であった時、これも時間の消費にすぎなかったと考えている。ただ何かに熱心になってこの憂鬱に目を向けようとしていなかっただけだろう。
自分は何をしたいのか。何を満たしたいのか。これがわからないのである。それ故に何のために苦痛を引きずり生きる必要があるのかと考えてしまう。

聖書を含め世の全ての宗教は、次の世の幸福に対する希望と精神の鍛練の配分の上に成り立っている。両者とも今の不幸を起点とし、前者は今の世では達成できないとするし、後者は苦痛を忘れさせる手法でしかなく大量の酒と大差がない。

書き込みしている人たちと私には人生のとらえ方に大きな違いがある。

  • 彼らは自分の意志で生きていると考えている。対して私は神の意志によって生かされていると考えている。
  • 彼らは生きる権利があると考えている。対して私は生きる義務があると考えている。

根底で共通するのは、生きることの苦痛を感じ続けていることと、死を選択する自由持っていると考えていることであるが、この違いの故に私は自殺しない。

これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。
(マルコの福音書12章11節)

解らない状態は死ぬまで続くのだろう。

なぜ先の違いが自殺に至らないのかというと、生かされているのであれば、生きることに責任がないと考えることができるからである。
私の脚は慢性的に痛む。しかしこの痛む脚は責任を果たせない理由になるので私の気持ちを楽にする。
私はもうすぐ入院する。入院は社会との断絶の理由になるので私の気持ちを楽にする。
同様に命を支配される方に自分の生き方をお任せすることは、用が無くなれば命をとられるのであろうし、生きている限りはあの方都合のご用があり、これは重大な使命に違いないと考えることができるのである。

しかるにあの書き込みをされた方々の苦痛は私のそれをはるかに超えるものだと察する。

2009年2月14日 (土)

ひどく疲れてるが二日分読んでみる

出エジプト記24-26章、詩篇78-80篇、マルコの福音書10-11章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「【主】の仰せられたことはみな行い、聞き従います。」
(出エジプト記24章7節)

”無理です。従えません”と言ったらどうなったのだろうか。

しかしまた彼らは、その口で神を欺き、その舌で神に偽りを言った。
(詩篇78篇35節)

結果はこうだ。今の私もそうだ。

イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
(マルコの福音書10章27節)

好きな御言葉である。罪悪感と無力さだけが残るがそれで良いではないか。

だからのんびりと過ごすことができる。

2009年2月13日 (金)

アサフの叫びが心に響く

出エジプト記23章、詩篇77篇、マルコの福音書9章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

律法は罪の意識を起こさせ、その目的は救いを求めさせることにある。

私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。
私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。

(詩篇77篇1節)

この魂の叫びが祈りだ。

律法を破らないように一生懸命努めることは重荷が増すだけでかいがない。

2009年2月12日 (木)

打ち合わせ

仕事の打ち合わせで新阪急ホテルへ行く。

3年以上のブランクがあるのに未だにお役にたてるのが驚きである。

Img_0189_0087 新阪急ホテルロビー
バイク用駐輪場がすんなり見つかったのでしばし待つ。

Img_0191_0088 本日の走行距離93.5km

Img_0192_0089 ダイネーゼ M4 D-DRY
防風効果はバッチリ。
丈が長めで裾を絞ってブーツへの風の進入を防ぐ。ショートブーツでもOK
やはり太もも周りはダブダブである。

姦淫と罪の時代

出エジプト記22章、詩篇75-76篇、マルコの福音書8章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

たくさんの奇跡をされた救い主イエスはなぜ次のようにいったのだろうか。

イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」
(マルコの福音書8章12節)

悟ることを求めておられる。

イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」
(マルコの福音書8章21節)

神様の存在や、神様の愛は十分に現されており、その中にあって悟らぬ者にはしるしなど意味がないと理解する。

しるしを売り物にする宗教は偽物だと判断して良い。

2009年2月11日 (水)

もっと素直になれば

出エジプト記21章、詩篇74篇、マルコの福音書7章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

読者の方から励ましとなぐさめのお手紙をいただいた。集会にご無沙汰している私にはうれしい限りである。神様の恵みに感謝。
そのお手紙の中でコリント人への手紙第一1章18節-31節、テモテへの手紙第二3章15節-17節を勧められたので合わせて読んでみる。

私の中に二つの思いがある。

  • ひとつは”その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。”の通り、常識的に考えてこのままでは悪くなるだろう。
  • もうひとつは”神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる”だから心配ない。

この二つの思いが対立して苦悩を生み出す。

天に帰ればこの苦悩から解放されるのは知っている。では地に在ってどう生きるのかが課題となるのだが、明確な在り様は示されないので信仰に従順であるしかない。

あなたの信じたとおりになるように。”この御言葉にすがる。
私の願いは聖書に記されていないヨブの残りの人生を知ることである。

クリスチャンは言う”満足していますか?”。
私は人生に満足しているクリスチャンがどれだけいるのか疑問である。少なくとも私は満足していない。いつも今の自分の人格が変わることを望んでいる。つまり否定しかない。
これを向上心ととらえ充実感を得ることが”満足”だなどとは到底思えない。

私は自分が特殊だとは思わないことにしているので、視点の違いで満足と不満、充実と空虚が感情として現れるのだと考えている。特定の視点で眺める習慣を持てばよいのかもしれないがそれは単なるまやかしだと思う。やはり本質の変化を望む。
このことも聖書に記載されている。

私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
(コリント人への手紙第二5章2節)

私は罪赦された罪人である。この壁の前にひざまずく。

ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。
(出エジプト記21章13節)

私にとっては殺意があっても逃れる場所は救い主イエスの元である。

あなたの聖所に火を放ち、あなたの御名の住まいを、その地まで汚しました。
(詩篇74篇7節)

詩篇74篇は私の祈りそのものである。聖所である私自身を罪が汚す。
”いつ私をこの苦悩から解放してくれるのですか”
しかし、生きてる限りこの苦悩から解放されることはないことも知っている。

この支離滅裂な話は次の御言葉によって意味を持つのである。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
(コリント人への手紙第一1章27節)

結局のところどんな自分であろうと、神様が愛した対象として自分自身を認めていること、それだけが自由と平安の根拠なのだと思う。

2009年2月10日 (火)

税務な一日

出エジプト記19-20章、詩篇73篇、マルコの福音書6章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。
しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。
あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。
天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。
地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。

(詩篇73篇21-25節)

日々このとおりである。

Jeff Beck

CDが到着

Img_0188_0086 ジャケットも板もやたらかっこいい

Who Else!これ良い

2009年2月 9日 (月)

一日の終わり

出エジプト記17-18章、詩篇72篇、マルコの福音書5章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

夢を見た。
内容は思い出せないが嫌な思いだけが残った。理由のわからない罪責感が攻め立ててくる。
鬱だ。

そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
(マルコの福音書5章34節)

直す信仰がない。

一曲いくらと一枚いくら・・・音楽の値付けがわからん

オーストラリアからエアーメールが来た。

Img_0187_0085_2 Olivia Newton-John
初期のアルバムを集める。今回はTSUTAYA、iTunesで入手できないもの6枚。

1枚あたり送料込みで1,300円である。AMAZON直販の輸入盤は880円だった。
ライナーノーツや歌詞カードに興味がないので昔から安い輸入盤ばかりを買っている。邦盤、洋楽国内盤はなんであんなに高いんだろう。
ちなみに今回購入分の内5枚は同じ値段で、1枚だけ200円ほど高かった。

iTunesに取り込むと板が不要になる。なぜか売る気にはれず、ケースを捨てて、専用袋に入れて、収納BOXと最小限の保管スペース対応としている。
物メディアなんかいらないので音楽購入はダウンロードのみにしたいのだが、まだまだ割高感がある。

昨日Tal Wilkenfeld / TransformationをHMVで¥2,671で購入したが、iTunes Storeで1,050円。

7曲ですか

あったんですか

うかつだったorz

じゃMiles Davis / AghartaはCD2枚組だが2曲で300円かね。

2009年2月 8日 (日)

今日は寒いな

出エジプト記16章、詩篇70-71篇、マルコの福音書4章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

なぜ聖書日課には休みがないのかと思う。

六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。
(出エジプト記16章26節)

なるほど6日目に2日分を読めば良いのか。

それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。
(マルコの福音書4章12節)

人の努力は何の役にも立たない。

2009年2月 7日 (土)

高校生のころを回顧してみる

出エジプト記15章、詩篇69篇、マルコの福音書3章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

この世には数えきれない神々が存在する。私も願いをかなえてくれる何か、自分を罰する何か、善には善を悪には悪を報いる何かが存在すると思っていた。
だが今を楽しむことに精一杯になりだしたころに、そんなもに対する関心は薄れどうでもよくなった。生きてくというのは自分で切り開いて進んでいくのだと思うようになっていた。ただ畏怖の念はおぼろげながらに残った。
神社仏閣で拝む人は石や木や紙を拝んでいるのではない。それに権威を与える得体の知れないものを拝むのである。信じるか信じないかではなく、それに頼るか頼らないかが態度の分かれ目である。感謝やぼやきはそのあらわれである。

祖父の遺体を見た時それを人だとは思わなかった。それは木や石と同じ物だった。”死ぬ瞬間に何かかが変わる。電池が切れたように何かがなくなる。”と思った。その時は木や石と同じ物になることが自分の末路であると思っていた。無くなった何かが自分の本質だなんて思いもしなかった。

だから初めて聖書の話を聞いたころはまったくわからなかった。ただ本当に参った時に誰に祈ればいいのかだけがわかった。

【主】よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。
だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行うことができましょうか。

(出エジプト記15章11節)

まさにこれである。
このことがわかった時から今に至るまでで変わったのは祈る頻度が増えたこれだけである。ようするに苦難に自分で立ち向かうのをどんどん止めてることを表しているのだと思う。

それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。
(詩篇69篇9節)

この聖句はヨハネの福音書2章17節で引用されている。福音書では意味がわからなかったが、詩篇を読んでこれがキリストの、そしてそれに続くクリスチャンの苦悩だとわかった。

それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。
(マルコの福音書3章4節)

安息日に対する熱心さに対する救い主イエスの回答。本質は実に単純である。

2009年2月 6日 (金)

信じた様を表現するのは難しいのだろうな

出エジプト記13-14章、詩篇68篇、マルコの福音書2章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

人が救いを信じるについて考える。

イスラエルは【主】がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は【主】を恐れ、【主】とそのしもべモーセを信じた。
(出エジプト記14章31節)

海が左右に別れてその間をモーセとイスラエルが渡った後の記述である。これまでに多くの神の技があったがイスラエルは人たちは救い出されるのを信じていなかった。

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。 セラ

(詩篇68篇19節)

ダビデはいつも自分の救いとして神様を捉えていたようである。

中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
(マルコの福音書2章9節)

『あなたの罪は赦された』がイエスを救い主と信じていない者の反感を買う。『起きて、寝床をたたんで歩け』を受けてみなの者が神をあがめる。
”病を癒せる=罪を赦せる”、”罪を赦される方が病を癒されるよりも重要”ということを知らしめさせるやりとりなのであろうと思う。
救い主イエスが病気が癒されると信じてやってきた中風の人とその人を連れてきた4人。救い主イエスがこの5人に見られた信仰とは何なのだろうか。

信仰の尺度を持ち出すのは好きではない。それぞれの人に背景があり多様であるのだと思う。
信仰は神様の愛と栄光を現実のものとしてこの世に現す。

神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。
しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。

(詩篇68篇6節)

頑迷(考え方に柔軟性がない)な者は神様に見捨てられるのではない。神様の元に行かないのだ。

2009年2月 5日 (木)

自分に何が起こっているのかわからないけどそれで良い

出エジプト記11-12章、詩篇66-67篇、マルコの福音書1章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

出エジプトは罪の奴隷からの解放、神様の裁きからの免除の預言である。

なるほど神様の権威と力は示され、救われるべき民の立場は変わる。世は打ち負かされるであろうことを知る。

【主】はエジプトが民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた。
(出エジプト記11章3節)

子羊の血によって救われるものと、救われないものが区別される。そしてそのことは言い伝えられる。

あなたがたはこう答えなさい。『それは【主】への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて、礼拝した。
(出エジプト記12章27節)

罪からの救いは苦難を通り抜けることになる。その先に希望がある。

あなたは人々に、  私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。
しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。

(詩篇66篇12節)

過ぎ越しの預言が現実になって現される。

神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
(マルコの福音書1章1節)

自分の身に起こったこと、起こっていることを当てはめて振り返るのが良と思うが、その気力がない。今は待つしかできない。

2009年2月 4日 (水)

何もしたくないのだが

出エジプト記10章、詩篇64-65篇、ローマ人への手紙15-16章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

よく解らなくて、何も得られなくて二度読んだ。

【主】はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行うためであり、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが【主】であることを、あなたがたが知るためである。」
(出エジプト記10章1-2節)

弱いものをかたくなにして徹底的に痛めつける。この繰り返し。

神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。
恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。

(詩篇64篇1節)

なぜ敵の存在や苦難そのものがなくなることを祈らないのだろうか。

こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。
(詩篇64篇9節)

地の果て果てに住む者もあなたの数々のしるしを恐れます。
あなたは、朝と夕べの起こる所を、高らかに歌うようにされます。

(詩篇65篇8節)

やはり神様の力の誇示の繰り返し。
根本の排斥がない。

しかし根本の排斥について突き詰めて考えると、自分自身の存在そのもの煩わしさに到達する。どうもこの壁を越えられない。

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
(ローマ人への手紙15章13節)

この一節を発掘するも、自分のバランス感覚の悪さを痛感する。

2009年2月 3日 (火)

仕事が終わってからというもの

出エジプト記9章、詩篇62-63篇、ローマ人への手紙13-14章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

ここ数日、”何かを怠っている気がするのだが、それが何かわからない”こんな気分で目覚める。
この思いを神様に伝え、願いにもなっていない導きを求めることができるのは本当に良い。

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。
神は、われらの避け所である。 セラ

(詩篇62篇8節)

間違いなく目標に向かっている確信を持ち続けることができる。

今はのんびりと自分の状態を眺めていたいと思う。塗りつぶすようにこの思いを埋めてしまうのはいやだ。

手紙の解釈について神様からの悟りを得たい。
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ”(13章9節)を実践できている人なんているのだろうか。私の場合、自分を愛していないので前提すら満たさないと思っている。
8章の件を踏まえての差し当たりの注意事項なのであれば、今は人との関わりを絶つのがやはり良いのかと思える。

あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
(ローマ人への手紙14章22-23節)

短い時間ではあるが思いめぐらして疑いがないのでこれで良しとする。

2009年2月 2日 (月)

心の奥の愛の声

私の大切な友人であるブログ”芦屋恵キリスト集会の一信者の記録”の主が一冊の本をおくってくれた。
一時期の日記の記述からわたしのことを気づかってくれてのことである。

「ありがとうございます。やっと読み終わりました。」

当時の私は意気消沈していた。この本はそんな私の感情を客観的に解説し、自立を促してくれる良著であった。心の奥底からか細く聞こえる声や衝動に忠実でありたい。そうこの本はそんな私への励ましの手紙になった。

今、実に自由で平安である。失う程に自由になる。追い詰められる程に神様を近くに感じる。常々思っていた”自分には愛が無い”は始まりだったようである。

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他人との関係が希薄なので詩篇や手紙が入ってこない

出エジプト記7-8章、詩篇60-61篇、ローマ人への手紙12章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

生きるとは逆境の連続であるので、そこから目をそらすと人生の価値はなくなる。逆境はそれが逆境である意味を考えさせる。

わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真ん中から連れ出すとき、エジプトはわたしが【主】であることを知るようになる。
(出エジプト記7章5節)

逆境は真の神様を見出す機会となる。ここで二つに道が分かれる。

わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。
(出エジプト記8章23節)

救い主イエスを信じる者が真の神様の民であるから、”区別して、救いを置く。”はおもしろい表現である。こうすることで信じる力に全てがかかっていることがわかる。

宣教をしているのではなく日記を書いていることに気付いて書き直す。

2009年2月 1日 (日)

ヤハウェ

出エジプト記5-6章、詩篇58-59篇、ローマ人への手紙10-11章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―

先日書いたまさにハイヤーパワーでふれた『わたしはある』は時代を超えて、民族を超えて意味を持っているようである。

神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは【主】である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、【主】という名では、わたしを彼らに知らせなかった。
(出エジプト記6章2-3節)

これまた不思議な記述だと思いwikiでヤハウェについて調べてみた。
今も昔も、どこにでも神々がある。
祈願する、呪いをかける、祝福を求める、これは人の本性である。だが、いったいだれに願い求めているのかが曖昧なようである。一人であれば得体の知れない畏怖の念になるが、集団になるとその願いを叶える権威を明確にするために特定の必要が生じてくる。そして偶像が作られる。

『わたしはある』には被造物による定義付は不要とする権威が包含されている。

あなたは万軍の神、【主】。イスラエルの神。
(詩篇59篇5節)

ダビデはこう呼んでいる。【主】はヤハウェ。この【主】がモーセに『わたしはある』と名乗った。

私の信仰の対象は、、、”初めに天と地を創造された方”、”愛なる方”、”その愛とは何かを自由意思を持った人に教えるために救い主イエスの十字架を実現された方”。

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
(ローマ人への手紙11章36節)

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