存在そのものが持っている価値
人の価値は存在そのものにある。
人は影響し合う。この影響する要素であることに価値がある。これがすべてである。
行為には何の価値もない。
あれができても価値を高めないし、これができなくても価値を下げない。
あれをしても価値を高めないし、これをしても価値を下げない。
あれをしなくも価値を高めないし、これをしなくても価値を下げない。
では全ての行為は正当化されるのかと言うとそうではない。
しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。 これらは、人を汚すものです。
残念ながら我らは罪人である。すべての思いと行為は罪からおこり、責任を問われる。
人に影響を与えることに責任を問われると思い存在の終わるのを願っていたが、これは間違いである。行為そのものに責任を問われるであり、影響はあくまでも価値である。
さばきは神のものである
だがこの追いきれない責任は赦される。そして価値だけが生きる。これが愛の原理である。
つまり存在そのものの価値を認め、行為の末路を委ねればよいはずである。これをもって全うしているはずである。
なのになぜか何かを求められているのかのように思える。これがどうにもわからず苦しい。
全うして、何をすればよいかわからず、なぜ行為に方向性を定義しようとするのだろうか。
思い返すに余生について教えられた何をするかは、心の赴くままに、ただこれだけしかない。説明できないのはそれがどう作用するかである。生きることの尊さを見たが説明できない。この尊さは信仰によってとらえるものであるので説明できる必要はない。
楽になれないのは何かが間違っているからのように思われる。それを正したいがわからない。
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