八ちゃん燃費11,851km
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雨に濡れながら雨具を買いに行く。
お散歩用の雨具はバタつくは、ズボンの裾が丸出しで冷えるはで全然役に立たないorz
ゴアテックスのライディングパンツがあるのだが、ずぶ濡れになったら脱ぐわけにもいかずどこにも入れない。
デザインもいまいちだし、やはりバイクから降りた時のことを考えると普段着で乗りたいのだが、温度、雨、風、プロテクションが課題になる。
mont-bellのメリノウールが薄くて暖かく、いい仕事してる。高機能薄手インナーの重ね着で調整すれば温度面は対応できる。真夏はファンから噴き出してくる火傷するかと思う熱気にやられるので乗らない。
雨と風。これはやはり雨具、レインウエアに投資するしかない。薄い、蒸れない、バタつかない、デザインもそれなりで吟味しないといけない。薄い、蒸れないはビニール素材じゃなければどれも大差ないようである。それ以外はダイネーゼがその他と一線を画しているように思う。
ということで再びダイネーゼに赴く。そして実験を兼ねて冒頭の件となったわけである。
膝と足首だけが冷たい。
デビルマーク
試着して正解。通販用のサイズチャートより1サイズ小さくしても少し大きかった。
M4 D-Dryを購入。
フィルムって感じじゃなく思ったよりもしっかりした生地。足首周りがしっかり密閉できてよさそうである。不思議なことにゆったりしている割にスリムに見える。
上半身は愛用のKUSHITANIシングルジャケットが撥水特性を持っているので全然問題なく雨と風に対応できる。大雨で使用したことはないが、小雨だと濡れた気配もない。
革ジャンのシーズンが終わったらメッシュジャケットに移行する。少し寒くなったり雨が降ったりした時はメッシュジャケットの下に薄手・小型のウインドブレーカーのコンビネーションでOK。
帰りにKUSHITANIによってシングルジャケット用のプロテクタを購入。プロテクタの入ったジャケパンを来て街を歩くのは抵抗があるが、どうも外付けプロテクタがしっくりこない。
HPプロテクターセット
スリムに着こなそうと1サイズ小さいのを着ているので窮屈だがなんとか入った。ちょっとマッチョに見えていいかもしれない。プロテクタ入りのジャケットはおとなしめのデザインなら許容範囲だな。
あとはニーシンガードか。薄くて頑丈なパンツの下につけても目立たないものがないか物色中である。
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出エジプト記3-4章、詩篇56-57篇、ローマ人への手紙9章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
普通のだと思うが、私は論旨を練って日記を付けていない。思いつくままに御言葉を引用し書き連ねている。
このブログに移って記事の数が1,000になった。よく続くもんである。
【主】は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、【主】ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
(出エジプト記4章11-12節)
日記を書くこともこの一環であれば幸いだと思う。
陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
(ローマ人への手紙9章21節)
つまらないことに用いる器であっても 自分の存在価値を見出せるのは幸いなことである。
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出エジプト記1-2章、詩篇53-55篇、ローマ人への手紙7-8章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
神様に覚えられた者は幸いだ。
助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。
(出エジプト記1章21節)神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。
(出エジプト記2章24-25節)
神様を恐れる者と、約束によって覚えられた者が幸いに至る。
詩篇53篇と14篇は同じであることに気づく。1節だけが違うのだがそのことに深い意味があるのか考えてみる。
見よ。彼らが恐れのないところで、いかに恐れたかを。
それは神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らされたからだ。
あなたは彼らをはずかしめた。
それは神が彼らを捨てられたからだ。
(詩篇53篇5節)見よ。彼らが、いかに恐れたかを。
神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。
おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。
しかし、【主】が彼の避け所である。
(詩篇14篇5-6節)
この二つが同じことに対する言及なら、それはクリスチャンではないかと思う。
ローマ人への手紙は好きな箇所である。
それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
(ローマ人への手紙7章7-8節)
罪が主体を持って人を陥れていると書いている。憎むべきは罪である。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
(ローマ人への手紙7章15節)
陥れられた者の嘆きが書かれている。人は罪に打ち勝つことができない。
クリスチャンは肉と御霊の二つの思いを持っている。肉の思いは神様に反抗する。御霊の思いは神の律法の要求を全うしようとする。
どちらの思いに従うかについて責任を問われるかのように見受けられる状況を目にするがはたしてそれは妥当なののだろうか。
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
(ローマ人への手紙8章12節)
”負ってはいけません”と書いているのではない。”負ってはいません”と書いている。この違いが現実の中で交錯しているように思う。
重要なのは肉の思いに従う奴隷の身分ではなくなったという事実だけなのではないだろうか。神様の御心がなされる限りにおいては肉の思いを無にすることができる。しかし自由意思の領域においては努力が必要になる。肉の思いに対して従わない自由を主張するのは困難な戦いである。
この戦う意思は神様に対する恐れの現れである。神様は見ておられる。でもその一つの戦いに勝つことが御心とは限らない。常勝し続けるような錯覚を起こすことがある。
負けるまで戦った人に対して”あなたは闘っていない”と評価するのはあきらかに軽率である。もっと言えば闘っていないクリスチャンなんていないのではと思う。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
(ローマ人への手紙8章33-34節)
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」を思う。
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創世記48-50章、詩篇51-52篇、ローマ人への手紙5-6章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
創世記ヨセフの物語は救い主イエスの預言である。
あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。
(創世記50章20-21節)
またこれは身近なことにも当てはまると思う。私の目には悪いことでも、神はそれを、良いことのための計らいとなさる。
実に気楽なことだが、あれこれ思い悩んでも何が良いのかなんてわからない。私の視点には全てが悪く見えてくる。もう頑張るのはやめて身をゆだねていたい。
神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇51篇17節)
この御言葉は慰めになる。自分の持てる唯一のものを神様は受け入れてくださる。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
(ローマ人への手紙5章8節)
私が何かしたから愛されたのではない。
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創世記46-47章、詩篇50篇、ローマ人への手紙3-4章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
さばきの前に聖徒たちは集められる。
「わたしの聖徒たちをわたしのところに集めよ。いけにえにより、わたしの契約を結んだ者たちを。」
(詩篇50篇5節)
聖徒たちとはクリスチャンである。
いけにえとは救い主イエスであり、わたしの契約とは救い主イエスを信じることである。
しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
(ローマ人への手紙3章21-24節)
ところで「善を現すために、悪をしようではないか」(ローマ人への手紙3章8節)とはどういう状態なのだろうか。
善が定義されたので対して悪が生じ、神様に従えない性質すなわち罪によって悪にあるのだと考えている。この手紙も以降の章でこのことを解き明かしていると思っている。
私は悪から離れられないと考えることはこれに該当するのだろうか。単にユダヤ教徒がキリスト教徒に改宗して、律法による義への道を全うすることはできないと説くことを言っているのだろうか。
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当時働き盛りだった私はこんな番組があったのを今日まで知らなかった。
本物の日本公演をテレビにかじりついて見ていたというのに。
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創世記44-45章、詩篇49篇、ローマ人への手紙1-2章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
今までの経験が聖書の解釈に反映される。意味の解らないことや、なぜこうなるのだろうと思うところが多くある。
彼らすべてにめいめい晴れ着を与えたが、ベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五枚とを与えた。
(創世記45章22節)
人が思い入れに従って恵を施すように、神様も多く恵みたいと思う対象には多く恵まれるということだろうか。これを第三者的な視点で依怙贔屓だと見るのは間違いで、ベニヤミン以外も十分に受けており神様の恵には必要をはるかに超える懐の深さがあると読み取るべきなのだろうか。それとも単純にヨセフの場合こうだったと読むのだろうか。
解釈の選択を許されているのかもしれない。
しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。
神が私を受け入れてくださるからだ。 セラ
(詩篇49篇15節)
ローマ人への手紙の書き出しは一見するとクリスチャンもその行いによってさばかれるので、行いを正す努力をしないさいと読みとれる。しかしこれは間違いのような気がしてならない。実際にこのことに関する解説がここから展開されていくと思っている。
先の詩篇で表された神様の愛を踏まえて、ローマ人への手紙の一部を見てみる。
ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。(2章1節)
まことにその通りです。私には他人をさばく時点でそのさばきの基準、すなわち律法を持っています。その基準に従って、私は誰とも変わらない罪人です。どの点をとってもすぐれたところなどありません。
私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。(2章2節)
まことにその通りです。
そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。(2章3節)
免れるはずはないでしょう。だからただ救い主イエスの贖いによってさばきを免れる特権を得たという意識が根強くあるのです。
それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。(2章4節)
いいえそんな風には考えていません。
以下この繰り返し。これで良いのだろうか。
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創世記42-43章、詩篇46-48篇、マタイの福音書28章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
約束の期日が近づいてるのに完了の目処が立たなかったり、手に負えない問題が起こると途方に暮れてテンパってしまう。
物心ついてからずっとこの苦悶にさいなまれ続けていた。薬と酒に溺れて信用や責任を失ってからのここ数年はこのことから解放されていたが、断酒から回復に合わせてこの怪物は蘇ってきては社会復帰を躊躇させる。
神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
(詩篇46篇1節)
神様に助けを求め、大丈夫たと知らされる。時が来れば全て良い結果となることを信じて待つ力を養っているようである。
この方こそまさしく神。
世々限りなくわれらの神であられる。
神は私たちをとこしえに導かれる。
(詩篇48篇14節)
この信じて待つという基礎体力は永遠を生きるのに必要なのかもしれない。
神経質な私にとって何を信じているのかは非常に重要だ。やみくもに信じるなんてできない。
私は”神”という訳が嫌いだ。”創造主”の方が良いがこれも自分の信じている方の一面でしかない。
神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」
(出エジプト記3章14節)
まさにこんな感じがする。被造物と違い思考も言動も存在すらも一切の根拠を必要としない力強さを従えておられる方。
イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
(ヨハネの福音書8章58節:新共同訳)
救い主イエスもご自身について『わたしはある』と使われている。
そして十字架の死から復活された救い主イエスの約束はこうである。
いつも、あなたがたとともにいます。
(マタイの福音書28章20節)
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創世記41章、詩篇45篇、マタイの福音書27章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
ユダは自分の罪を悔いて自殺した。
そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言った。
それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
(マタイの福音書27章3-5節)
ユダは天国に行かなかったと使徒の働きに明確に書いてある。
ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。
(使徒の働き1章25節)
注目すべきは自発的に行ったことである。報いを受けたのではない。
ユダが天国に行けないのは自殺したからではない。救い主イエスを売ったからではない。救い主イエスと共にいた時に不正を働いたからではない。
イエスを救い主として信じていなかったからだ。
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」を祭司長、長老たちにではなく、神様に言いイエスを救い主として受け入れる選択肢があった。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
(ヨハネの福音書3章18-20節)
”悪いこと”に”真理”が対比されている。”正しいこと”ではない。
神様はご自身のあわれみ、すなわち救い主イエスによる贖いによって罪人を赦された。これが”真理”だ。
イエスはご自身を救い主だと信じるすべての者の全ての罪の贖いの代価としてご自分を捧げられた。
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
(マタイの福音書27章46節)
”罪のない人”が身代わりとなって見捨てられた。
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創世記39-40章、詩篇41-44篇、マタイの福音書26章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
神様の御心によって人は繁栄する。人の思いや行いが繁栄をもたらすのではない。
主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで【主】の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。(創世記39章5節)
しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。
(創世記39章21節)彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。
ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。
あなたが彼らを愛されたからです。
(詩篇44篇3節)
本当は皆十分に足りている。だから繁栄はその人にとっては意味がない。
満たされないのは本当に必要なひとつのものを得ないからである。その本当に必要なひとつのものは救い主イエスの死によってもたらされる。
この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
(マタイの福音書26章12節)
自分の埋葬の用意に言及するなんて普通はありえない。ご自分の人生の目的をまっすぐに目指される救い主イエスだからこそであろう。
そしてこう仰る。
これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(マタイの福音書26章28節)
神様から罪を赦されることこれが本当に必要なひとつのものだ。私の罪を赦すために救い主イエスは十字架で血を流された。この方の人生はこの救いを実現することがすべてであった、私の人生はこの救いを受けることが全てであった。
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創世記38章、詩篇41篇、マタイの福音書25章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
(この日記は昨日書き始めたが、疲れて眠くなったので今日に持ち越している)
性について二つの事が書かれている。一つ目は自慰行為について、二つ目は遊女について。
しかしオナンは、その生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないために、兄嫁のところに入ると、地に流していた。
(創世記38章9節)ユダは、彼女を見たとき、彼女が顔をおおっていたので遊女だと思い、道ばたの彼女のところに行き、「さあ、あなたのところに入ろう」と言った。彼はその女が自分の嫁だとは知らなかったからである。
(創世記38章15-16節)
オナンの問題は地に流したことではないような気がする。よくわからない背景があるように思う。ユダは遊女のもとに行ったがオナンのように殺されない。
そもそも人間に罪が入る前からある性欲に問題があるとは思えない。性欲を無くすことなんてできない。対して”生めよ。ふえよ。地を満たせ。”はいつのまにか制限がかかっている。
性欲と姦淫の境界が何なのか正直なところよくわからない。自慰行為は虚しさを伴い、セックスは子孫繁栄とは無関係になった時点で羞恥の対象である。このように本能を当初の在り方どおりに機能させることができないことに起因して性の世界は歪んでいる。
私も自慰行為の虚しさとハラスメントを避けて性欲を満たすために遊女のもとに行ったことがある。今も機会があれば行きたいと思っている。
あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
(コリント人への手紙第一6章15節)
あるときこの御言葉を発見して自分のしたことを悔いた。
私はキリストの権威を損なう行為としてこのことを悔いた。性欲を満たすことやハラスメントとしては悔いていない。だから改まるとは思えない。私は”本能が罪となる”この現実に辟易している。今遊女のもとに通わないのはただただ守られているから以外の何物でもない。
あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。
あなたは私の耳を開いてくださいました。
あなたは、 全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。
(詩篇40篇6節)
その時の、また今の、私が捉えている神様のあわれみである。
数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。
それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。
【主】よ。どうかみこころによって私を救い出してください。
【主】よ。急いで、私を助けてください。
(詩篇40篇12-13節)
ずっと持っている私の気持ちである。
姦淫とハラスメントという事実を隠していた。これは”偽りの証言”だ。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
(マタイの福音書25章26節)
今回これを書くことを躊躇する私の背中を押してくれた御言葉である。
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久しぶりに八ちゃんに乗る。
エンジン始動。一発OK。積もった埃を拭き取る。
明るい所に出て走行前点検
クーラントが無い。補充してもらいに行こう。
今日の行先は、薬の補充に心療内科、町着できるライディングパンツを物色しにダイネーゼ大阪。
乗り始め運転がぎこちないので教習所運転に徹しながら、ブレーキ操作と腕の力を抜いてバイクに体を預ける練習をする。人間暖気だな。
明石の心療内科ではいつも同じ車専用駐車場に八ちゃんを預ける。覚えてもらってるので違和感なく入れてくれるし、薬局の提携駐車場なのでサービス券をもらってタダ。
クーラントを補充してもらいにディーラーに寄る。
F800GSの試乗車
この色はGSと書いてるがタイガースカラーにはGSと書いてないのか。
ダカちゃんを初めて見たときのような衝撃は感じないな。
しばし高速を快走する。
ダイネーゼ大阪
ダイネーゼはWEBのカタログが魅力的なのだが実物を見たことがない。やっと来たぜ。
P.Clint D-Dryがジャストフィットで思わず買いそうになるが、ブーツとの違和感が気になり保留。
エルボープロテクタの装着感が良い。ニープロテクタは残念ながら欠品。ごつくないプロテクタなので普段着に忍ばせるのもありか。
ヒートテックのパッチとGOREのライディングパンツじゃ寒いのでウールのパッチを買いにmont-bellへ。
革ジャン+シャツ+メリノウールの肌着は保温、見かけともに完璧。こんな感じにボトムもコーディネートしたいのだが、革パンは厳ついし、何とかならんか。
日が落ちるとかなり寒い
本日のコース→google earth
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創世記37章、詩篇39-40篇、マタイの福音書24章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
なぜか今日は調子が悪い。聖書読むも上の空である。
【主】よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。
私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。
(詩篇39篇4節)
生きることは辛くて苦しい。
目的や欲しているものが何なのかまったくわからないからだ。がむしゃらに何かに没頭しても、何か意味を見出そうとしても、そんなこは何の役にもたたない。
自分に影響力がないことはさみしいことだが、人に影響を及ぼすのは非常に恐ろしい。関係に対するこんな態度に煮え切らない自我の惨めさを痛感する。
自分が”はかない”ことを知るのは慰めになる。だがそれさえ叶わぬ願いである。
”生きるというのは権利ではなく義務です”とはよく言ったものである。
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創世記36章、詩篇38篇、マタイの福音書23章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
長い歴史を伝えていく中で温泉の発見が特筆されるとは驚きである。
ツィブオンの子は次のとおり。アヤ、アナ。このアナは父ツィブオンのろばを飼っていたとき荒野で温泉を発見したアナである。
(創世記46章4節)
温泉がいかに素晴らしいか。久しぶりにゆっくり浸かりたいものである。
詩篇38篇はキリストの苦しみの預言。
【主】よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。
あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。
(詩篇38篇1節)・・・
私を見捨てないでください。【主】よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。
急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。
(詩篇38篇21-22節)
神であり、人としてお生まれになった救い主の苦しみ。これはわれわれの身代わりの苦しみである。
この身代わりのおかげで罪ある者が正しい者とみなされるようになった。
聖書を信じる者も、信じない者も聖書の伝えることを現実世界に投影する時に矛盾を見出し自分の行動指針に(かなり大きく)参考にするようである。
前者は単なる言葉遊びだ。空想することはいくらでもできる。
論理的に存在しえない事象を発生させることなんてできない。全能とは論理のすべてを取り扱うことができることである。論理を完成させた方こそ全能者であり、論理的に破綻し得ないからこそ完成と言えるのである。
後者に関しては私も悩んでいる。
律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
(マタイの福音書23章2-3節)
救い主イエスはこのように仰る。
そもそも神様がおられることを信じた私は、神様の義の前に自力では一点の義も全うできない、これはいけないと思い、救い主イエスを信じて仰いだのである。だからと言ってその場で人格が変わったわけではない。
だから”行い、守りなさい”だけが重くのしかかってくる。特に”互いに愛し合いなさい”は強烈な重荷である。
この悩みの前にクリスチャンの多様性が発生するようである。
だがこれは矛盾ではない。できるからこそ救い主イエスはあのように仰られたのである。そもそも聖書の伝えていることを正しく理解していないのに、なぜできない、できていないと決めつけるのかと思う。
もしかしたら全ての事はその機会がないだけであって既にできるのではないだろうか。
ペテロは次のように書いている。
あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。(第一ペテロの手紙1章7節 新共同訳)
パウロは次のように書きいている。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
(ローマ人への手紙5章3-4節)
前述のキリストの苦しみによって既に獲得した本質に、我らの神の御前に負い目なく立てる人格を徐々に伴わせて下さっているのではないかと思う。
なぜ徐々になのかは分からない。人の成長とはそういうものだで片づけても良いが、一つ言えるのは、そのおかげで日々獲得する喜びがある。
皆変わっていく。心配なんていらない。
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創世記34-35章、詩篇37篇、マタイの福音書22章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
私は自分の目には正しくない。私は自分を律することができない。
私は神様の目には正しい。救いを信じたから。選ばれたから。
聖書に従うことなんてできない。聖書は私を罪人にする。
聖書に自分の在り方を求める。聖書は私を憐みの対象としてくれる。
心の奥底から声が聞こえる。無意味で悪いと思っていることを魅力的に見せる。
誰かが呼んでいるようであり、自分自身の声のようである。
何が正しいのかはわからない。どうしたらいいのかもわからない。
そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。
(創世記35章3節)
ベテルは私の心の中にある。心の声が賛美する。
あなたの道を【主】にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
(詩篇37篇5節)
私は行き先を知らない。地図も持っていない。心の赴くままに道を選ぶ。
何かが成し遂げられるのを信じて。稚拙な解釈だが最初の第一歩を踏み出すことができる。
正しい者の救いは、【主】から来る。
苦難のときの彼らのとりでは主である。
【主】は彼らを助け、彼らを解き放たれる。
主は、悪者どもから彼らを解き放ち、
彼らを救われる。
彼らが主に身を避けるからだ。
(詩篇37篇39-40節)
正しくあろうとするのではなく、ただ神様が一方的に私は正しいと認めてくださったのだと信じる。
でないと聖書の記述に現実感がない。稚拙な解釈だが平安があるのは事実である。
彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
(マタイの福音書22章21節)
正しさの基準はその人の心にあるようだ。救い主イエスは私がどう思い、どういう態度を取るかを問われる。
そして”あなたの信仰が”、”あなたの信じたとおりに”と仰られる。
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創世記32-33章、詩篇36篇、マタイの福音書21章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
創世記はヤコブがエサウを恐れる件で物語として読み流してしまった。和解に至る背景や”イスラエル”に改名があるが気に止まるところはなかった。
対して詩篇の冒頭2節は意味がよくわからず読み飛ばそうと思ったが、無性に気になり訴えて来ていることを知りたくなった。
罪は悪者の心の中に語りかける。
彼の目の前には、神に対する恐れがない。(1節)
彼はおのれの目で自分にへつらっている。
おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。(2節)
(詩篇36篇1-2節)
2節がわからない。
リビングバイブルでは次のように訳している。
罪は悪者どもの心に巣くい、いつも悪事へとけしかけます。
彼らには、神様を恐れて悪事から遠ざかろうとする気持ちなどありません。
それどころか、知らぬ存ぜぬで押し通せば、どんな不正行為も隠しおおせ、逮捕にまでは至らないと、自分に言い聞かせています。
これはわかりやすい。
口語訳は”おもねる”を使っている。”おもねる”は”へつらう”と類語のようで、”人の気に入るように振る舞う”と意味を当てれば3訳は同じになる。”自分の罪を憎み、自分が悪いことを罪の責任にすることで、悪事から遠ざかろうとせず、人の目を気にして振る舞う”と自分流に訳を組み立ててみる。
悪い自分を神様の前に持っていくか、人の前に持っていくかの違いによって取る態度は変わることを訴えているようである。
”罪を憎んで人を憎まず”は自分に対して使う言葉ではない。
救い主イエスはこのことを実例を持って対比している。
・・・(有名な兄弟のたとえを割愛)・・・イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。
というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。
(マタイの福音書21章28-32節)
バプテスマのヨハネを信じたの人たちは、神様の前に自分自身を恥じ、変わりたいけど自分の力では変われないから助けて欲しいと望んだでのである。
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創世記31章、詩篇35篇、マタイの福音書20章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
私に必要な物を与え養ってくださるのは神様である。そのことを知っているのに追い求めている自分がいる。
さてヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と言っているのを聞いた。
(創世記31章1節)
盗みや謀は富を得させるかもしれない。しかしそれは富を得るだけのことでしかない。名声も、権力も同じである。
これらは欲しいと願っているものではない。私は自分が何を欲しているのかを知らない。
私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。
彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる【主】は、大いなるかな」と。
(詩篇35篇27節)
これはダビデの祈りであるが、救い主イエスの取りなしの祈りの預言だ。私もこの取りなしに与りたい。
”義を喜びとする者”でありたい。義に対して熱心であった時、胸の奥に熱いものを感じる。これが自分の本当に欲するものであり、喜び、楽しみなのかもしてない。
不自由なことを克服することを目指す熱意は充実感を与えてくれるが、所詮は時を埋める生き方でしかなく依存に溺れるのと同じである。対してなに不自由なく在るのは虚しさの極みでる。
どちらかでしかないことが憂鬱を引き起こす。
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
(マタイの福音書20章28節)
救い主イエスの生き方ははっきりとしている。
必要を満たす熱意などなく、願うだけである。時間を埋めるのではなく時間を使用している。目的に価値が伴っているので迷いがない。
こんな生き方を望み、同時に躊躇する。
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4枚の谷山浩子さんのアルバムがiTunesに入っている。
妹が所有していたのを失敬したこの4枚、初めて聞いたのは20年以上前で久しく間をけては新鮮な感動を与えてくれる。疲れた頭を癒してくれる魔力を持っている。
実を言うと洋楽一辺倒だった私はこの4枚が好きなことが恥ずかしかった。歌詞がこれまた秀逸なのだが大の男が”好きです”なんて言える内容ではない。
一度、同期の女子にカミングアウトしたことがあるのだが、”オイ、カワイスギダゾ”らしき反応だったので、それ以来この件について他人と話したことがない。googleなんてなかったしラジオも聞かなかったので谷山浩子さんのことはまったく知らなかった。
手持ちの4枚を聞いてはひとり悦に入ってたこと、だれからもどこからも話題に上がることがないので消えたんだろうとなと思ってたことから、今も谷山浩子さんのことは何も知らない。
先日も訳ありでCDを整理している時に見かけて、こんなCD持ってるのは私ぐらいだろうなと勝手に思っていた。
今日、何年ぶりかでこの4枚を聴いた。
やっぱり良いな。
なんで有名にならなかったんだろうとググってびっくりした。
ずっと活動してる。
レギュラーアルバム36枚。
これは失礼しました。
私の所有している4枚
左から3枚”たんぽぽサラダ”、”もうひとりのアリス”、”ねこの森には帰れない”が良い。(”ここは春の国”は申し訳ないが他に及ばず)
どれも歌詞を聴く曲である。演奏そのものはいい声だなって程度だが、独特の世界を持った歌詞とそれを活かす曲作り、アルバム作りの完成度はかなりのレベルにあると思う。
詩に色を付けた感じ。つまり聴く絵本であるな。
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創世記30章、詩篇34篇、マタイの福音書19章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
自分が欲望の赴くままに行動する以外に何もできないことを認め神様にすべてゆだねて暮らすのは本当に良い。自分自身が変わり分相応な生活に収まっている感じである。欠乏ばかりもたらす欲望からは解放されるに限る。これが自由というものなのだろう。
ヤコブと4人の女性の子作り合戦はどういう意図で聖書に記載されたのかは分からない。ただこの手の物語を批判するのはよくないのであろう。なぜなら今の自分と人としての本質は変わらず、言動としての表れが違うだけだからだ。
ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。」
ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。「私が神に代わることができようか。おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ。」
(創世記30章1-2節)
これとおなじことが起こった。生活資金の不足を心配する家内と必要なものは必要な時に満たされると思う私の温度差である。正直この温度差にいらだちを感じる。なぜ何も持っていない私に求めるのかと思う。
神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。
(創世記30章22節)
結果はこの通りである。うちの家計においても何の問題もなかった。いらだちを感じたぶんバカみたいである。
【主】を恐れよ。その聖徒たちよ。
彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
若い獅子も乏しくなって飢える。
しかし、【主】を尋ね求める者は、
良いものに何一つ欠けることはない。
(詩篇34篇9-10節)
私は富んではいないが貧しくもない。以前より格段良い生活をしているがたくわえなど無い。持っているのは心配しない信仰だけだ。
イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
(マタイの福音書19章21節)
いずれ天に帰る。今のところ天での生活を心配する必要があるとは思えない。既に天に宝を積む生活をしているような気がする。
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創世記28-29章、詩篇33篇、マタイの福音書18章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
男女の愛を久しく感じた事がない。若かったころの思い出もハッキリしなのでヤコブとラケルの馴れ初めについてよくわからない。
ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。
(創世記29章20節)
7年が数日とは恐れ入る。こんな思いはしたことがあっただろうか。そもそもこの件は一目ぼれから始まる。インスピレーションがここまで衝動を駆り立て持続させるとは。それとも当時のこの民族の婚姻に関する風習は私のそれとは大きく違うのだろうか。
レアはみごもって、男の子を産み、その子をルベンと名づけた。それは彼女が、「【主】が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう」と言ったからである。
(創世記29章32節)
レアの一途な思いも切なるものである。ヤコブの態度は、当たり前ながら、かなり露骨である。ここまで思いつめる理由は何なのだろう。
一夫多妻、村が狭くて巡り合いがないからがこの物語の背景なら、さらっと読み飛ばして終わりである。何か意味があるのだろうけど必至だなとしか思えない。
彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は【主】をほめたたえよう」と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた。それから彼女は子を産まなくなった。
(創世記29章35節)
ユダの系図に救い主イエスが登場することと合わせると意味深いものがある。
やっと満足して神様への賛美に至っている。イエスの系図は救い主が登場するとは思えないほど負の要素が多いが、それぞれの負の要素と合わせて神様の祝福がある。
主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。
(詩篇33篇15節)【主】よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。
私たちがあなたを待ち望んだときに。
(詩篇33篇22節)
神様は人それぞれに個性をお創りになり、負の要素の中でその個性が助けを求めるのをよしとされる。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。
(マタイの福音書9章13節)
私の好きな救い主イエスの言葉である。”神様は我々をあわれみたい”と考えておられる。
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
(マタイの福音書18章19-20節)
食事の時に家族とお祈りをする。そこに救い主がおられて、神様はそこでの願いをなんでも聞いて下さる。
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創世記27章、詩篇32篇、マタイの福音書17章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
妻が夫の邪魔をする。
リベカはその子ヤコブにこう言った。「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。
『獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、【主】の前でおまえを祝福したいのだ。』
それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。
さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。
あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」
(創世記27章6-10節)
あまり存在感のないイサクだけに物語として感じることがある。この一連の件の大きな意味はヤコブの系図が選ばれていたことである。
とはいえ妻と息子が結託して意思を邪魔したイサクはたまらないだろうなと思う。まんまとイサクは騙される。私には赦せないことである。
母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」
(創世記27章13節)
リベカはのろいを受ける覚悟ではあったがイサクにとってはそんなことどうでもいいだろう。
同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。
(ペテロの第一の手紙3章7節)
この聖句に通じると思う。”細君に悩まされるのは男子一生の恥”と何かで聞いたことがあるが、細君との阿吽の呼吸は喜ばしいことである。これはキリストと教会の関係にも当てはまると思う。クリスチャンである我々は救い主イエスの花嫁にふさわしく変えられていくものだろうと思う。
もちろん救い主イエスは”自分よりも弱い器”として我々を守られる。
幸いなことよ。
そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。
【主】が、咎をお認めにならない人、
その霊に欺きのない人は。
(詩篇32篇1-2節)私は、自分の罪を、あなたに知らせ、
私の咎を隠しませんでした。
私は申しました。
「私のそむきの罪を【主】に告白しよう。」
すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。
セラ
(詩篇32篇5節)悪者には心の痛みが多い。
しかし、【主】に信頼する者には、
恵みが、その人を取り囲む。
正しい者たち。【主】にあって、喜び、楽しめ。
すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。
(詩篇32篇10-11節)
救い主イエスは神様に取り成してくださり、幸いな立場を守って下さる。
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創世記25-26章、詩篇31篇、マタイの福音書16章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
短絡的に重要な物事を破棄することがある。
エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言った。
(創世記25章32節)
欲望は待ってくれない。欲望は容赦しない。果てしない欲望はあらゆるものを放棄させる。
私は全ての物を放棄して酒代にした。時間、生きる楽しみ、愛、自分自身、それらを切り売りして酒代を得た。酒を止めた今もあの時に失ったものは心の欠けのままである。なので聖書を読んでいても、人と話をしていても、ドラマを見ていてもわからないことがたくさんある。失うことを悲しむ描写にはまったく共感を持てない。喜びを得るために行為を継続するなんて理解できない。
私はただ空白を埋めるために何かを追い求めるだけで、いつもうまくいかないし達成の喜びもない。
窮地に陥った時、神様は私を助けてくださる。
あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。
あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。
あなたは私を敵の手に渡さず、私の足を広い所に立たせてくださいました。
(詩篇31編7-8節)
これも束の間の思いとなって消えていく。
まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
(マタイの福音書16章9-10節)
結局のところ何も残っていない。
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創世記24章、詩篇29-30篇、マタイの福音書15章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
クリスチャンの集いには”学び”と言うのがある。”学び会”などとも言う。
大体の場合は”学ばしていただきます”とか”ともに学びたいと思います”から始まるのだが、どうもこれに違和感を感じる。教えたいのか経験を共有したいのかがよくわからない。
運営は人数が多いせいもあるが質問もできないし感想を述べることもない。経験の共有であればこれで良いとお思う。聞き手の意思に任されているし、”言いぱなし、聞きっぱなし”は、依存症の自助グループの経験上、大変有益であると思っている。だが教えたいのであれば、質問をしたり、フリーディスカッションの場がないと、理解できていないこともあるので本当に困る。
「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
(マタイの福音書15章2-3節)
私が嫌なのがこれだ態度や行いを強要するように導くことである。初信者のための拠り所という解釈もあるが、ここに戒律や行動指針を持ってくるとそれは長老、教師。ガイドライン等を偶像として仰いでいるのと同じである。
クリスチャンは必ず”こんな私でいいのでしょうか”という思いに苛まれる。これは解放された自己が発する正しい感覚である。
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
(マタイの福音書5章13-16節)
クリスチャンは世の模範である。しかしこれは努力してなるものではない。そもそも自分の生き方がおかしい、自分では正せないから救い主イエスを信じたのである。
救い主イエスを信じた時点で人は変わっていく。聖霊を受けているのだから。
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創世記22-23章、詩篇26-28篇、マタイの福音書14章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
アブラハムのイサクを捧げる信仰の件から読み始めたので、一貫して試練について考えることになった。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
(創世記22章2節)
強烈な試みである。こらはアブラハムに対する試練なのだろうか。だとすると何のためにアブラハムはこの試練にあったのだろうか。
神様は全てご存知である。神様はアブラハムの信仰を見て義と認められた。しかし神様にとって時間軸は関係ない。
試練は何を選択するのかを試されている。そしてそれは困難な状況を乗り越える力を養うためにある。
なぜ人は試練を通して人格を練り上げる必要があるのだろうか。来たるべき新天地に必要なのだろうか。それとも残りの人生において神様のご計画を果たすために必要なのであろうか。
アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。]
(創世記22章8節)
これは救い主イエスの預言である。
アブラハムは何も心配する必要がないことを知っている。アブラハムはイサクを捧げようとし、その信仰を認められる。なんとこれでアブラハムの話は終わる。
つまりこの最後の試みはアブラハムの練り上げられた人格を後世に残すためのものである。
私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。
あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
(ヤコブの手紙2章21-23節)
アブラハムは既に試練によって人格が練り上げられており、救い主イエスの預言を現すための働きをこなすことができたのである。
来たるべき新天地に必要な人格についてはわからない。
人生は神様のご計画を実現するためにあり、それに必要な人格を練り上げるために試練があると言える。
それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。
(詩篇27篇5節)
ダビデの信仰である。ダビデが追い込まれて切なる願いでこの信仰にすがったのか、この信仰があったから何をも恐れなかったのかは分からない。ただ神様により頼めば平安をもって苦難を乗り切れるという信仰を現し、アブラハムと同様にその人格を後世に残している。
やはり人生の一つ一つの出来事はその人にとっては苦難の連続でしかない。しかしそれは信仰すなわち神様への思いを周りの人や後世に表すための人格を形成する。
神様のご計画に人生の意味や方向性が一致しないと辛くて苦しいだけと言うのもうなずける。
ペテロの人格も私を励ましてくれる。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
(マタイの福音書14章30-31節)
私の人生もこの通り。信じて踏み出してはすぐに怯える。
救い主イエスは”信仰の薄い”と言われた”信仰がない”とは言われていない。日々の苦難の中で厚みが増すのだ。
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
(マタイの福音書13章31-32節)
神様のご計画を果たしたとき歴史から消える。この苦難の連続の道のりの先には出口があり、そこに明かりが見える。これこそ希望である。
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先ほどの記事でマウスをぶっ壊したのにはわけがある。あのマウスはホイール部分がきちんと動作しなかった。使い始めは快適なのだが1週間もするとスクロールがギクシャクし始める。同事象でクレーム交換していただいているのでハード的に弱いか欠陥があるかである。その上Buletooth接続のせいかポインターが動かないことがしばしばあった。
これらがなかなかいらいらさせてくれるので、コイツイラネと思っていたところであった。
表題はAlly McBealでクッキーが言ったセリフ。撮り貯めした番組を一気に見ていた時に心に残ったものである。ちなみにマウスをぶっ壊す前に聞いて感銘を受けたのである。決して言い訳のために記事を書いているわけではないことを付け加えておく。
これは名言だと思った。たしかに存在そのもが耐えがたいものがある。
手に入らないものは手に入らないことに意味を感じるので許容できる。そもそも何でもかんでも手に入るなどとは考えていない。
しかし耐えがたき存在は違う。すべての関係は自分の意志で破棄できるのだから。
なので関係を破棄する煩わしさは超えうる努力目標となってのしかかってくる。
この話の本質は、何が欲しくて何がいらないのかがわかっていない、衝動は継続しない、というところにある。手に入ったら確実にそれはいらないものになる。維持したり、存在価値を活かしてやったりと手がかかり関係が煩わしくなる。じわじわと破棄への気力が煩わしさを増していく。要するに一生辛い思いをするか、その時の気分で手に入れたり捨てたりを繰り返すことに悩まないか、のどちらかしかない。
そもそも望んでいるものはこの世には実在しないので代用品で妥協することしかできないことに起因しているのではと思う。
”notorious dictator”がduo(英語教材)にあって、言葉の響きが英語も日本語もいい感じなので自分の看板にしよかと考えてたこともある。何が欲しいかわからないとなるとまさに”notorious dictator”だ。当時は少しばかりの権力もあったので後者らしくなろうとしたが、結局のところは支配関係の中で喘ぐ前者選択肢なしだった。
今はヒッキーの身分、好きな時に起きて、好きな時に働き、好きな時にモニタ兼テレビを眺めて、好きな時に寝る。身の回りの整理を好き放題にする。捨てて、捨てて、捨てて、買って、買って、買って、まるで後者である。
考えてみれば面白いものである。”井の中の蛙”とはよく言ったもので極小世界の”notorious dictator”は開放的で、気を使わずなかなかのものである。
つまり持たないことが人を幸いにする。
”Notorious”(Duran Duran)でGeniusにプレイリストを作らせて曲を流す。
2曲目は”Spirits In The Material World”(The Police)、3曲目は”New Song”(Howard Jones)、”We'll Be Together”(Sting)、”Rosanna”(Toto)・・・いい流れである。
にゃにゃにゃ、にゃにゃ~”I Know What Boys Like”(Waitresses)
マウスに手をやろうとサイドテーブルに手を伸ばし、、、マウスを壊したことを後悔はしていない。タブレットを買おうかと思っている。
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創世記20-21章、詩篇23-25篇、マタイの福音書13章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
おもしろかった。
書いてる途中に下書き保存しようとしたら、ログインパネルが出て記事が消えたので記録はなし。
チョームカついてマウスに八つ当たりしたら、マウスが吹っ飛んだ。
ちょっとしたことで最低な気分になるし、ちょっとしたことで喜びを得る。やっぱり喜怒哀楽は煩わしい。
書こうとしたこともこんなことである。信仰の人もちょっとしたことで萎える。神様はいつも見守り励ましていてくれるようであるが、こちらが気づくのは困ったときだけである。”困った時の神頼み”は人の性だ。
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイの福音書13章23節)
実を結ぶとは成長することだ。成長の過程では苦しみと、背信が入り乱れているものだ。
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創世記19章、詩篇21-22篇、マタイの福音書12章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
神様は悪を見逃すようなことはされない。神様は聖であり義である方だからだ。一点の悪のシミを見逃すことをできない方である。
また神様は愛である。罪に支配された悪である人を愛しておられる。永遠に人と共にすごしたいと望んでおられる。
ここにジレンマがある。このジレンマを解決するために救い主イエスの十字架を代価とする私の罪からの贖いを実現されたのだ。
神様はご自身の愛からご自身を犠牲にされたのだ。しかも聖と義の尊厳を保たれたままで。ご自身を贖いの代価として私の罪を認めないとされたのである。
そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。
(創世記19章1節)
神様の聖と義の本質は権威を伴っており。誰が一目見てもあの方だとわかるようである。神様を求める目を開くだけで見ることができる。
ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。
わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが【主】の前で大きくなったので、【主】はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」
(創世記19章12-13節)
神様は悪を滅ぼされる。そして救おうとされる者とその者が愛する者が共に滅びることを望まれない。人の不完全な愛も尊重されるのである。愛する者を失うことの悲しみを知っておられるからである。
しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。──【主】の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
(創世記19章16節)
人は滅びるとわかっていてもその場を立ち去ろうとしない。しかし神様はあわれみにより連れ出される。
ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」
その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。
急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこに入るまでは、わたしは何もできないから。」
(創世記19章20-22節)
連れ出されても指示された逃げ場に行くこともできない。神様の求めておられる聖と義には到達できない。しかし神様は私のできるだけのことで滅びから救ってくださる。
この通り神様は徹底して罪の支配にいる私を救ってくださる。
なぜか。救い主イエスがすでに私の身代わりとなって滅びにあわれたからだ。
だから神様の目には私は愛の対象であるだけでなく、聖であり、義であるように映るのである。
救い主の滅びの苦しみに身を置かれた時の叫びが詩篇に書かれている。
わが神、わが神。
どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠く離れて私をお救いにならないのですか。
私のうめきのことばにも。
(詩篇22編1節)
これは預言である。救い主イエスは十字架上でこの言葉を発せられる。(マタイの福音書27章48節、マルこの福音書15章34節)
救い主イエスは滅びの束縛から解放されて復活される。全ての罪の贖いの代価を支払われたのである。それ故に私も滅びと復活を遂げたことになるのである。
滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
(ローマ人への手紙8章21節)
救い主イエスは神様の人としての現れである。神様は救い主イエスを次のように紹介されている。
「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。
わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。
異邦人は彼の名に望みをかける。」
(マタイの福音書12章18-21節)
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創世記17-18章、詩篇19-20篇、マタイの福音書11章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
アブラハムと神様(ここでは【主】、たぶん救い主イエス)のやり取りは圧巻である。神様がアブラハムの言葉に耳を傾けられる。アブラハムは謙虚さを持って、かつ大胆に神様に嘆願する。そして聞き入れられる。アブラハムは信じている神様が自分の願いを聞いて下さることを。
彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
(創世記18章32節)
神様の正義である。神様は滅ぼすことは望まれない。神様は願われ、憐れむことを望まれる。”五十人の正しい者のために”から”十人のため”まで願われるままに赦す条件を引き下げられたのは、赦しを願い求める姿勢を受け入れられるからである。
”こんな私でも赦して下さい”と願えばいいのだ。
わたしは罪人だ。聖書にこう書いてある。
義人はいない。ひとりもいない。
(ローマ人の手紙3章10節)
これは確認することではない。
だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。
どうか、隠れている私の罪をお赦しください。
あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。
それらが私を支配しませんように。
そうすれば、私は全き者となり、
大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
(詩篇19篇12-13節)
認めることが重要なのだ。なぜなら自分のことについてただしく知らないのだから。
神様に自分の罪を赦してもらい。罪が引き起こすうんざりする状態から救い出していただけるように願えばよい。
そのために神様にとりなしをしてて下さる救い主を探し求めなければいけない。
「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
(マタイの福音書11章3節)
必ず見つかる。
彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。
(創世記18章2節)
救い主がどなたなのかは必ずわかる。
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創世記15-16章、詩篇18篇、マタイの福音書10章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
昨晩は色々な事で頭の中がいっぱいになってしまって眠れなった。だから今日はひどく疲れている。気力があまりない。
こんな時に聖書が手短に活力を与えてくれる。
そうだ、これしかない。これだけが私の心の支えだ。これさえあればそれでいい。
彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
(創世記15章6節)
私は神様を救い主イエスを信じている。
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙8章28節)
こんな風に信じている。
私は罪の前に弱い。依存症のおかで何かしらで心を満たしていないと耐えられない。
私は取り巻くさまざまな脅威に弱い。何が起こるかなんてわからないのに心配ばかりしている。
私は弱い。クリスチャンらしくなんて全然ない。でもそれで良い。そんな私をよく知っておられ助け出してくださる方を信じているのだから。
主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。
彼らは私より強かったから。
(詩篇18篇17節)
私は義であるための葛藤と戦わない。私は勝てないのだから。
信仰のあかしのために義人であろうと努めたりはしない。神様が義と認めてくださったのだから。
胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。
旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。
(マタイの福音書10章9-10節)
私はもう心配したくない。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイの福音書10章38節)
これが私の十字架なのだろうと思う。
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創世記13-14章、詩篇17篇、マタイの福音書9章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
私は以前のように働いていない。でも生活水準は変わっていない。会社を辞めようと決断したときに与えられた信仰がずっと生きている。
糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。
(創世記14章23節)
私は神様以外には頼らない。「神様この信仰を最後まで守ってください。」
私はある行為を習慣的に行っている。自然な様なのか依存の新たな現れなのかの区別もつかなくなっている。嫌悪を感じるのだがそれは人の目が気になるからである。神様の目にはこれも愛されている自分自身なのだと感じる。ただ自由にそれを避けることができないのが悲しい。
私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。
私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。
(詩篇17篇8-9節)
自由でありたい。ただただ助けてほしい。
これは罪なのだ。私自身がこれは罪だと思っているので罪なのだ。
しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
(ローマ人への手紙14章23節)
なのに決着をつける熱意もない。この繰り返しに疲れてしまっている。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
(マタイの福音書9章12-13節)
救い主イエスに招かれたこと。これだけでいい。
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創世記11-12章、詩篇14-16篇、マタイの福音書8章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
バベルの話が登場する。聖書を信じる者には多種の言語が存在する起点だとされている。
そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
そのとき【主】は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
(創世記11章4-7節)
神様は塔の建設に何を見られたのだろうか。映画「天地創造」では天に弓を放つことが神様の怒りをまねいたかのように脚色されていた(と思う)。たしかに”名をあげよう”とある。その理由が”われわれが全地に散らされるといけないから。”である。
「プロジェクトを立ち上げた時に最初にすることは、シンボルマークを作ること」と習ったことがあるが、その通りのことが当時行われていたようである。「テーマを設けてコミュニティを作りましょう」もその類か。共同体を持とうとすることが悪いこととは思えない。地域集会もコミュニティである。
神様は今後二度と”一つの民、一つのことば”となることを許されなかった。人の作る共同体の持つ可能性に制限をかけられた。
なぜ神様は”一つの民、一つのことば”となることを許されなかったのだろうか。偶像も王もこの後に登場するので、容易に想像することができない踏み入れてはいけない未知の驚異があるのだと思う。神様は人を単独ではなく共同体として大きな力を実現するものとして創られたことをこのバベルの話は示唆している。
インターネットは世界を小さくした。聖書を読んで感じたことを不特定の人に発信できるし、カナダの息子や韓国のクリスチャンとテレビ電話で話したりできる。通販で買い物をしてと体の不自由も補ってくれる。素晴らしいメディアである。もしかしたら、、、、
しかし”一つの民、一つのことば”を超えることは許されていない。決してバベルは形成されない。となると現実世界から仮想世界に抱く幻想の限界が形成するのは、大切な物を失ってしまったことに起因する孤立である。
さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると
(マタイの福音書8章18節)
私もまたイエスの周りに集う群衆の一人で在りたい。
神様の霊のメディアの上で信仰を共通言語にした神様を見上げる共同体である。決して崩壊しない。
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創世記9-10章、詩篇11-14篇、マタイの福音書7章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
ソフトウエアトラブルの記事を書いたり、通販クレームをしている奴に言われたくないだろうなと思う。
私は与えられた物の不満を爆発させるといつも後悔する。いずれ自分のした失敗も追及されるのだろうと不安になる。
さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
(マタイの福音書1-2節)
この不安は大切に取扱はないといけない。
引用箇所の索引がついた聖書を読んでないので、今日は大発見をした気分である。
それは、次のように書いてあるとおりです。
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」
(ローマ人への手紙3章9-11節)
この箇所はどこの引用なのか知りたかった。PC検索では言葉が完全一致しないと見つからない。何度も通読しないと発見できないことになるが、それもまた楽しい。
【主】は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。
善を行う者はいない。ひとりもいない。
(詩篇14篇2-3節)
今日読んだこの箇所を引用している。
ここで言い切られている内容は社会的にそうとう反感を買うだろうと思う。”皆自分なりに努力しているんだから良いじゃないか”という感じである。
でも慰めが欲しいのではない。もう少し欲を出してここで指摘されたことを解決したいのだ。
私は意味を持った存在でありたい。善をおこなう者でありたい。
そのために聖書から悟りを得て、神様を尋ね求めたい。
指摘に解決策がなかったら無意味ではないか。
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ThinkpadX61とSANWA SUPPLY SKB-BT09BKの仲が悪い。
ブログを書いてるとき時や仕事をしている時、ネット検索している時にいきなり文字入力できなくなる。これは非常にムカつく(・`ω´・+)
Bluetooth接続が時々切れるのだ。Bluetooth画面にデバイスは表示されているので、ペアリングが切れているようである。
待ってると事態が解消する時もある。そんな時は削除キーを連発なんかしてると入力した内容がサクサクっと消えたりして青くなる。
だめな時はそ新しいデバイスの追加や無効化やXPのリスタートや電池交換などと試みる。ペアリングでセキュリティコードが表示されないと失敗で、いろいろ組み合わせて試行錯誤することになる。
ペアリングが解決すると作業が再開できるが一度中断した作業の再開には、こちらの精神状態の回復がそれなりに必要になる。
今日も朝からコーディング中にネットで調べてる最中になった(・`ω´・+)(・`ω´・+)
SANWA SUPPLYのサポセンへ電話する。”Thinkpadで新しいBluetoothソフトウエアーが出てないか確認してください”と言われ、レノボサポセンからは”Thinkpad同梱のIBM製BluetoothソフトウエアーからMicrosoft製Bluetoothソフトウエアーに変更してみてください”と言われる。
下記を使って様子をみることに。インストールもすんなり。
トントン拍子に話が進んだところをみr(ry
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創世記7-9章、詩篇9-10篇、マタイの福音書6章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
やはり私が救い主イエスを信じて救われれば、それに伴って家族も救いに迎えられる。
【主】はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。
(創世記7章1節)
これはパウロが言った次の言葉と同じである。
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます
(使徒の働き16章31節)
”ノアは救い主イエスの預言として解釈するべきであり、家族への救に対して努力は行うべきである”という見方もあるとは思う。でもそれは個人が聖書をどう解釈して何を信じたかにかかっているはずである。
するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
(マタイの福音書19章26節)
私は家族が救われることに何の疑いも持っていない。
その範囲を妻と子供たちとその子供たちの妻、つまり子孫になると思っている。この範囲の限定が何に基づくのかは分からない。たぶん私の愛の広さに基づくのだと思う。これは自分の努力ではどうにもならない。愛する者を失う悲しみ、これを神様の思いの継承として持てば救いは広がっていくのだと思う。
ただ自分の愛が豊かになることを信じている。それに伴い範囲はいずれ広がり両親や兄弟、親戚、友人と救いが広がっていくのだと思う。
鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。
(創世記8章11節)
感動の瞬間である。
新天地に辿り着く希望と、この世での心配がなくなることが救われた者の特権である。
私は心を尽くして【主】に感謝します。
あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。
(詩篇9-10篇1節)
奇しいわざ、まさにこれの連続である。産まれてからこのかたの道のりが全て意味を持っているように感じる。人生での出来事はすべて偶然ではない。
御名を知る者はあなたに拠り頼みます。
【主】よ。あなたはあなたを尋ね求める者を
お見捨てになりませんでした。
(詩篇9-篇10節)
この賛美を信じて、救い主イエスの言葉を信じて、決断しよう。
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
(マタイの福音書6章19節)だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
(マタイの福音書6章25節)
妻と話そう。
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あれから一週間になる。
Sennheiser HD650はgorgeousな気分に浸れる。
”Goodbye Porkpie Hat”
透けるような響きのJoniの声と圧力釜パスタ風アルデンテなJacoのBassがハッキリと見える。
Joni Mitchell:Mingus
この曲は高校生の時にJeff Beckで初めて聴いた。Jeff Beckって良い曲を作るんだなと当時は思っていた。
Jeff Beck:Wired
後にCharles Mingusの曲だとわかる。 Lester Youngへの追悼曲でPorkpie HatはLesterのトレードマークと合わせて知る。
Charles Mingus:Mingus Ah Um
この3枚は曲調は同じでいかにも死を悲しんでる様子がある。Joni MitchellはMingusへの追悼をかけているのかと思ったら、Mingus死の直前なんだ(これは失礼しました)。
Joni MitchellはJacoをフィーチャーしたライブでもこの曲を取り上げている。Jacoのハーモニックスが妖艶さを醸し出す。
Joni Mitchell:Shadows and Light
これはDVDもあるが”完全版”って二曲ふえてるのか。Jacoファンにはフラスト盤だが、Pat Methenyのソロがかっこいい。
変わったところではStanley Clarkeも取り上げてるが、これはかなり趣が違う。
Stanley Clarke:If This Bass Could Only Talk
Stanley Clarkeだったら
School Days が好きだな。これも高校生の時に聴いて衝撃を覚えたアルバム。
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創世記5-6章、詩篇6-8篇、マタイの福音書5章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
クリスチャンの望み。それは天に帰ることである。人は地の塵から創られたが救い主イエスの死と復活にならい、死と再度の誕生をもって天に帰る者となった。
エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
(創世記5章24節)
クリスチャンはみなこの救いを待っている。この世で幸せに生き続けることを第一とはしていない。天に帰りたいのだ。
人は悪い。でも人には神様の霊がとどまっている。これはすごいことである。神様と人は繋がっているのだ。
そこで、【主】は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。
(創世記6章3節)
ノアの時代、人は本当に悪かった。今と比べてなんてわからないが神様が滅ぼそうとされるぐらい悪かった。残念なことにノアの家族以外の人は大洪水によって滅びる。
そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
(創世記6章7節)
神様は根絶やしにされない。神様は人が悪かったことで悔やまれたが無に帰するようなことはされなかった。
さてノアの家族から始まって人は増え続けたがやはり人はやはり悪い。
あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
(詩篇6-8篇3-4節)
神様はあくまでも人を特別なものとして扱われる。
そして救い主イエスが来られた。救い主イエスは人の悪の負債を肩代わりされた。十字架の上で神様から見捨てられたのだ。
救い主イエスを十字架につけたのは私の罪のせいだ。
まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。
(マタイの福音書5章26節)
救い主イエスがよみがえられたのは全ての負債を返済されたからである。だから救い主イエスを信じる者に神様は全く罪を認められない。
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創世記3-4章、詩篇3-5篇、マタイの福音書3-4章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
私はいつも悩みの中に居る。私を苦しめるのは乏しい経験に基づく知識と不完全な知性だ。
神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
(創世記3章22節)
永遠を約束されているのに私の本質は永遠を生きるには望ましくない。ただこの世を去る時に変えられることを信じて天に変えるのを待っている。
今生きている。今のままで一瞬たりとも存在していたくないのに生きている。 本来あるべき姿から遠く離れてしまった自分自身を救済する必要がある。初めはいちじくの葉で身を覆った、そして神様から皮の衣を着せていただいた。
そのとき、人々は【主】の御名によって祈ることを始めた。
(創世記4章26節)
神様に祈るのは神様を遠く感じるからだ。自分の選択がいつも恐れを伴うから神様が見守って下さっていることを、神様が招いておられることを身近に感じていたいからだ。
私は身を横たえて、眠る。
私はまた目をさます。
【主】がささえてくださるから。
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
(詩篇3篇5-6節)あなたは私の心に喜びを下さいました。
それは穀物と新しいぶどう酒が
豊かにあるときにもまさっています。
平安のうちに私は身を横たえ、
すぐ、眠りにつきます。
【主】よ。あなただけが、
私を安らかに住まわせてくださいます。
(詩篇4篇7-8節)
詩篇の作者は皆同じく神様を身近に感じていたいことを切望しているように思える。
まるで隣にいる方に聞いていただくように祈る。祈ることによって関係を想像する。妄想だと言われるかもしれない。でも事実平安が祈りにはある。また祈り以外に生きる苦痛から抜け出す方法を知らない。
【主】よ。私を待ち伏せている者がおりますから、
あなたの義によって私を導いてください。
私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。
彼らの口には真実がなく、
その心には破滅があるのです。
彼らののどは、開いた墓で、
彼らはその舌でへつらいを言うのです。
(詩篇5篇8-9節)
今決断の時が来ている。私にはどの道が正しいのか考えても分からない。余計な知識や推測が私の心をおびえさせる。口に真実のない者が上手に私をだます。この口に真実のない者は私自身なのを知っている。
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
(マタイの福音書4章4節)イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
(マタイの福音書4章7節)
神様が必要なものを備えてくださると、神様は必要なものを備えてくださるか試してみよう、が相反して私の中に共存していて困ってしまう。
衝動がある。この衝動が心の奥底の神様が宿っておらるところから聞こえてくるのだと信じている。なぜなら”私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。”と祈ったのだから。
この衝動にしたがっていれば相反すると考えていた思いは両立する。
私は思う。知識と善悪を得たことによって不幸な本質を持った我々は生きていく中で試され衝動に忠実な人格に変えられていくのではないかと。そして神様が最初に良しとされた人となりに近づいて行くのではないかと。これが皮の衣を着せられて生きることの醍醐味なのではないかと。
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おまいかわいいやつだな~
James Brown ウッホッホッホ James Brown~ James Brown~ッホ James Brown
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ヨブ記42章、マラキ書4章、ヨハネの黙示録22章、創世記1-2章、詩篇1-2篇、マタイの福音書1-2章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
iPhoneの聖書日課がリセットされていると思ったが改善されていた。おかげで今日は大量に読むことになった。ヨハネの黙示録22章が飛んでいたようだが・・・・。
ヨブは【主】に答えて言った。
あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。
(ヨブ記42章)
神様のご計画は必ず成し遂げられる。人が邪魔をすることはありえない。すべてのことには意味がある。これを踏まえて聖書を読むのが良い。
しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。
(マラキ書4章2節)
神様を恐れることこれが人の道である。何も恐れることはない。
不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
(ヨハネの黙示録22章11節)
神様は人の自由意思を尊重される。神様は不正な者の意思も尊重される。そして不正な者がその追い求めることを永遠に続けるところ、そこが地獄である。人は自分から望んで地獄に行くのだ。地獄が辛いのは今生きることが辛いのと同じである。満たされない思いを永遠に抱き存在し続けるのだから。
神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
(創世記1章26-28節)
創世、神様は失敗することができない方である。私たちの本質は目的を持っている。この目的から離れて自己の確立はできない。
神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
(創世記2章15-16節)
労働と日毎の糧を得ることに因果関係はない。人は神様に養われながら労働の尊さに喜びを得るものなのである。
幸いなことよ。
すべて主に身を避ける人は。
(詩篇2篇12節)
信じて神様のもとに帰り留まろう。
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
(マタイの福音書1章23節)
神様は救い主イエスとなられて私たちを迎えておられる。神様はいつも私たちとともにおられる。私たちがそのことを受け入れればよいのである。
かたくなになってしまった心。この心を迎えておられる。
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