なぜ生きるのかなんてことはわからない。
創世記3-4章、詩篇3-5篇、マタイの福音書3-4章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
私はいつも悩みの中に居る。私を苦しめるのは乏しい経験に基づく知識と不完全な知性だ。
神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
(創世記3章22節)
永遠を約束されているのに私の本質は永遠を生きるには望ましくない。ただこの世を去る時に変えられることを信じて天に変えるのを待っている。
今生きている。今のままで一瞬たりとも存在していたくないのに生きている。 本来あるべき姿から遠く離れてしまった自分自身を救済する必要がある。初めはいちじくの葉で身を覆った、そして神様から皮の衣を着せていただいた。
そのとき、人々は【主】の御名によって祈ることを始めた。
(創世記4章26節)
神様に祈るのは神様を遠く感じるからだ。自分の選択がいつも恐れを伴うから神様が見守って下さっていることを、神様が招いておられることを身近に感じていたいからだ。
私は身を横たえて、眠る。
私はまた目をさます。
【主】がささえてくださるから。
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
(詩篇3篇5-6節)あなたは私の心に喜びを下さいました。
それは穀物と新しいぶどう酒が
豊かにあるときにもまさっています。
平安のうちに私は身を横たえ、
すぐ、眠りにつきます。
【主】よ。あなただけが、
私を安らかに住まわせてくださいます。
(詩篇4篇7-8節)
詩篇の作者は皆同じく神様を身近に感じていたいことを切望しているように思える。
まるで隣にいる方に聞いていただくように祈る。祈ることによって関係を想像する。妄想だと言われるかもしれない。でも事実平安が祈りにはある。また祈り以外に生きる苦痛から抜け出す方法を知らない。
【主】よ。私を待ち伏せている者がおりますから、
あなたの義によって私を導いてください。
私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。
彼らの口には真実がなく、
その心には破滅があるのです。
彼らののどは、開いた墓で、
彼らはその舌でへつらいを言うのです。
(詩篇5篇8-9節)
今決断の時が来ている。私にはどの道が正しいのか考えても分からない。余計な知識や推測が私の心をおびえさせる。口に真実のない者が上手に私をだます。この口に真実のない者は私自身なのを知っている。
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
(マタイの福音書4章4節)イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
(マタイの福音書4章7節)
神様が必要なものを備えてくださると、神様は必要なものを備えてくださるか試してみよう、が相反して私の中に共存していて困ってしまう。
衝動がある。この衝動が心の奥底の神様が宿っておらるところから聞こえてくるのだと信じている。なぜなら”私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。”と祈ったのだから。
この衝動にしたがっていれば相反すると考えていた思いは両立する。
私は思う。知識と善悪を得たことによって不幸な本質を持った我々は生きていく中で試され衝動に忠実な人格に変えられていくのではないかと。そして神様が最初に良しとされた人となりに近づいて行くのではないかと。これが皮の衣を着せられて生きることの醍醐味なのではないかと。
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