試練は何のためにあるのだろうか
創世記22-23章、詩篇26-28篇、マタイの福音書14章を読む。
―聖書日課(Robert Roberts:Daily reading plan)の活用―
アブラハムのイサクを捧げる信仰の件から読み始めたので、一貫して試練について考えることになった。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
(創世記22章2節)
強烈な試みである。こらはアブラハムに対する試練なのだろうか。だとすると何のためにアブラハムはこの試練にあったのだろうか。
神様は全てご存知である。神様はアブラハムの信仰を見て義と認められた。しかし神様にとって時間軸は関係ない。
試練は何を選択するのかを試されている。そしてそれは困難な状況を乗り越える力を養うためにある。
なぜ人は試練を通して人格を練り上げる必要があるのだろうか。来たるべき新天地に必要なのだろうか。それとも残りの人生において神様のご計画を果たすために必要なのであろうか。
アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。]
(創世記22章8節)
これは救い主イエスの預言である。
アブラハムは何も心配する必要がないことを知っている。アブラハムはイサクを捧げようとし、その信仰を認められる。なんとこれでアブラハムの話は終わる。
つまりこの最後の試みはアブラハムの練り上げられた人格を後世に残すためのものである。
私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。
あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
(ヤコブの手紙2章21-23節)
アブラハムは既に試練によって人格が練り上げられており、救い主イエスの預言を現すための働きをこなすことができたのである。
来たるべき新天地に必要な人格についてはわからない。
人生は神様のご計画を実現するためにあり、それに必要な人格を練り上げるために試練があると言える。
それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。
(詩篇27篇5節)
ダビデの信仰である。ダビデが追い込まれて切なる願いでこの信仰にすがったのか、この信仰があったから何をも恐れなかったのかは分からない。ただ神様により頼めば平安をもって苦難を乗り切れるという信仰を現し、アブラハムと同様にその人格を後世に残している。
やはり人生の一つ一つの出来事はその人にとっては苦難の連続でしかない。しかしそれは信仰すなわち神様への思いを周りの人や後世に表すための人格を形成する。
神様のご計画に人生の意味や方向性が一致しないと辛くて苦しいだけと言うのもうなずける。
ペテロの人格も私を励ましてくれる。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
(マタイの福音書14章30-31節)
私の人生もこの通り。信じて踏み出してはすぐに怯える。
救い主イエスは”信仰の薄い”と言われた”信仰がない”とは言われていない。日々の苦難の中で厚みが増すのだ。
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
(マタイの福音書13章31-32節)
神様のご計画を果たしたとき歴史から消える。この苦難の連続の道のりの先には出口があり、そこに明かりが見える。これこそ希望である。
| 固定リンク



コメント