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2008年8月

2008年8月31日 (日)

教え

宗教なんてみな同じ。人は神様の知恵と知識の前には塵に等しい。

解釈の統一はよりどころとなる。神様の知恵と知識によって権威付けされたよりどころ意外は形骸化し排他的である。人の知恵によってはけっして成り立たない。誰も何が正しいのかわからない。正しいと信じる以外に術はない。正しい道に導かなければどのようにしてそこにいたることができるのか。

導く人がなければ、どうしてわかりましょう(使徒の働き8章31節)

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。(ヨハネの福音書10章27節)

羊は自分の牧者に従うものであるようだ。イエス様が私の牧者でよかった。

2008年8月30日 (土)

JACASSE

JACASSE
フェリーを眺めながら昼食に与る。曇天が程良く風景に和みを添えている。

2008年8月27日 (水)

心が凝ったら獣は野獣

心の凝りをほぐしてくれる本であった。たぶん絶妙のタイミングで読んだのだと思う。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)

クリスチャンとしてまた人として自信をなくすことがある。原因は、しでかしてしまったことの重さに負けてしまったり、一歩先に不安や恐怖を感じたり、予想外のことに困惑してしまったり、とにかく居心地悪く感じたりといろいろなことが混じりあっている。少しのずれが積み重なって行って大きく拗れた状態になっている。最終的にはいつも人間関係の煩わしさにほとほと嫌気がさしている。

解っている。結局のところは自分自信の問題なのだ。信仰上の欠陥、性格的な欠陥、人となりの欠陥、その通りなのだが自分自身の力で何とかなる問題じゃない。何とかしようとしたら、どんどんと深みにはまっていく。また、誰も慰めてくれない。誰も解決へは導いてくれない。なぜならみんな同じ悩みを抱えている。みんなそれぞれに心のよりどころを求めている。

自分を愛してくれる方がいる。その方は全能のお方である。その方は私の意志を尊重してくださり、願いさえすれば何でもかなえてくださる。この事実が今のままの自分で良いと思える平安と自由の中に私をとどめてくれる。そこに留まっていたいのだがいつの間にか迷いでてしまう。

たいせつなきみに励まされて以来、大好きなマックス・ルケードの著作である。

八ちゃん燃費10,786km

080827_14530001 10,786km
295.7km÷13.29L=22.45km/L @187円 神戸。

リヤホイールのスプリングプリロードを最も高く、ショックアブソーバーを最もハードに調整する。なぜか腕にかかる負荷が軽減されて、膝の位置が高くなって具合が良いのだが、不思議である。

2008年8月25日 (月)

I hope that someone gets my message in a bottle, yeah

アクセス解析を見てたら”聖書 行きなさい あなたの信じたとおりになるように”でYahoo検索してこられた方がいた。

マタイの福音書8章13節である。検索結果を見てみるとたくさんのWEBページがヒットしている。

この御言葉にこめられた思いが噴出しているような気がした。

1億人、本当に居るのかも。

刈り入れの希望を見たような気分になって泣けてきた。

重荷を負う

”重荷”を負うと言う表現は好きでない。重荷を感じたら積極的に下ろしたい。それはイエス様が次のように約束してくださったからである。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11章28-30節)

荷は軽いはずである。

ちなみに福音書には”重荷”という単語はここ一箇所しかない。使途の働きから黙示録までは9箇所あり、実際のところは皆が重荷を負っていることを示唆している。

人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。(ガラテヤ人への手紙6章5節)

ここまで言い切られるともう悲しくなってくる。トホホ・・・・と思いきや続きがある。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ人への手紙6章7-9節)

重くはない。確かに荷は軽い。

パウロが解き明かしてくれている。

あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。(コリント人への手紙第二6章14節)

なるほど私は混乱してる。

働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。(ルカの福音書10章7節)

解った。志を保とう。

2008年8月24日 (日)

逃げろ

恐怖に気づかなければならない。救われないといけない。

いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。(創世記19章17節)

志について、

兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。(テサロニケ人への手紙第一2章14節)

私には当時のクリスチャンのように他人から信仰の妨げを受けることはあまりない。しかし自分自身が他人の目を気にして前に進むことを躊躇することがある。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ人への手紙2章13節)

この事実が私を前に進ませることを信仰によって捉えることができる。神様が励まし背中を押してくれる。何をすればよいかを知りたい思い聖書から答えを見出そうとすると律法を全うしなさいに帰結する。何をすればよいのかわからず待つ時、自分がとるに足りないものだと思い思い悩むことがある。

時を待つのが良い。

私たちの心はうちに燃えていたではないか。(ルカの福音書24章32節)

2008年8月23日 (土)

かくして野獣は巣に帰る

イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」 ”(マタイの福音書19章26節)

アーメン

2008年8月 9日 (土)

野獣

とりあえず野に出るか。

(´・ω・)ノシ

2008年8月 8日 (金)

八ちゃん燃費10,490km

080808_17060001 10,490km
305.0km÷13.00L=23.46km/L @192円 垂水

街乗り、渋滞ばっかりだった。

ナンシー

思わぬところでナンシーと会う。ひさしぶりである。
相変わらずお茶目で可愛いやつだ。(*´д`*)

超音波

脚が痛むのだが気圧のせいか。

080808_05300001

寝起きから鬱

2008年8月 7日 (木)

人は知りません

マルコの福音書1-5章を読む。

また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
(マルコの福音書4章26-29節)

自分の今の状態はわからないもののようである。しかし確実に成長している。

2008年8月 6日 (水)

灼熱

080806_15530001 熱風

火傷しそうである。

2008年8月 3日 (日)

ついて行く

イエス様は休まずに働かれた。

さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。
そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」
イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
(マタイの福音書18章18-24節)

イエス様は寝る間も惜しんで働かれたことがわかる。”人の子には枕する所もありません”、”舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた”とある。

イエス様について行くのはそれなりの労苦を伴うと察する。

イエス様について行こうとした律法学者、別の一人の弟子がこの後どうしたかは書かれていない。さて我々ならどうするだろうか。なぜイエス様はそれぞれの人にこのように言われたのだろうか。弟子になる心構えを試されているようである。

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
(マタイの福音書16章24-25節)

十字架は自己犠牲の象徴とのことである。さて、自分にとっての十字架とはなんだろうか。ただ言えるのは、自分の思いを追い求めても何も得ることができない。これが”いのちを救おうと思う者はそれを失い”かも知れない。

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(ヨハネの黙示録2章10節)

クリスチャンはこの世にあって安息を見出せない。これはその通りである。”クリスチャンは”は”人は”と言って良いと思う。

2008年8月 2日 (土)

これから

マタイの福音書1-14章を読む。

何も望むものが無くただ生きる。時間だけが過ぎていく。今を良しとする。これは自由である。自由は良い。ここに留まることを模索するがこれは上手くいかない。

我は劣る者である。

イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。家に入られると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか」と言われると、彼らは「そうです。主よ」と言った。(マタイの福音書9章27-28節)

盲人の望みは目が見えることではなく目が見えることによって得られるであろう何かである。目が開くことで到達はしない。
ただただイエスと自己との関係が形成されていることが意味を持っている。

盲人は目が開いて生きる。目の開いた人生が始まる。

満足を見出す術を持って不満を抱えて生きる。

XLR125Rオイル交換

次男とXLR125Rのオイル交換をする。
XLR125Rは実質上、次男のものになっている。よって整備を引き継ぐ。

オイル交換とチェーンの清掃、注油を実演。

080802_11460001 14,019.3km
次回は17,000km

右のバーエンドが無くなってたりする。本人は気づいていない。

(;´д`)ゞ アチィー!!

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