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2007年10月

2007年10月31日 (水)

給油

タンクの取り付けが済んだので給油に行く。

071031_18300001 8.8L

カード出てきました。おつりがストックされるそうです。
1万円札を入れてしまったのですが、、、、、

無事、8,777円返金していただきました。

071031_18340001 8,358kmでの出来事でした。

タンク塗装

タンク裏の錆を取るべく、磨く、塗る。

071030_20440001befor→071031_17170001_2after
サビサビタンク裏がこんなにきれいになりました。

071031_09270001 マスキング
見えてるところはセロハンテープを貼っている。

071031_12120001 真っ白け

コンパウンドで磨いて

071031_17160001 ピカピカでーす

071031_18090001 できあがり。

タンク内部はきれい。入り口付近に小さな錆があったなー。

悪習

創世記38章、列王記第二17章、詩篇141篇、ダニエル書5章、使徒の働き11章、ペテロの手紙第二2章、ダニエル書12章13節(Clay)を読む。

滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。
主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。
”(ペテロの手紙第二2章19-20節)

罪びとである者は滅びの奴隷である。
自由奔放に生きているつもりだが、”あれをしなくちゃ、これをしなくちゃ”と奴隷のようになってしまい、滅びに向かっている。

イエス様を信じることは、その奴隷の身分から解放してくれる。

初めの状態よりももっと悪いものとなります。”は福音書のイエス様のことばを解説している。
汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。
そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。
そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。
”(マタイの福音書12章43-45節)の意味が解らなかった。
一度、罪から開放されて、また征服される状態を言っているようである。

確かに私は一度タバコの悪習から解放されたが、再度、喫煙したらアルコール依存症になるまで、いろいろな悪習の奴隷になってしまった。

2007年10月30日 (火)

ガス欠

ガス欠のため400mバイクを押す。

071030_17490001 1.18L給油

タンク裏の錆取り塗装のため、タンクを空にしたいのだ。

忘れてはいけないこと

創世記37章、列王記第二16章、詩篇140篇、ダニエル書4章、使徒の働き10章、ペテロの手紙第二1章、ダニエル書12章8-12節(Clay)を読む。

それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。”(ペテロの手紙第二1章4節)
イエスキリストの救いを信じることとはこういうことだとペテロは述べている。
私たちを苦しめている滅びに至る世の欲から開放しれくれる。欲は私たちを苦しめるものだ。だまされてはいけない。
神様の性質にあずかることによって永遠の宝を相続する。ここに希望がある。

本来の人のあり方に戻していただくのである。

このことを心に留めておくこと、これが重要であり、唯一必要なことである。

よくこのことを忘れて悲しみに会うことがある。
自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。”(ペテロの手紙第二1章9節)と”あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。”ペテロの手紙第二1章10節)を忘れてはいけない。

悲しみ、苦しみ、絶望から解放されたのだ。
選ばれて召されたのだ。

2007年10月29日 (月)

再発

XLR125R調子確認とヘルメットスピーカーのインプレのために東条湖まで走行する。

突発性心臓停止が再発。orz
帰りにHONDA Dreamに持っていくが、原因追求のあても無さそうなので、もう少し様子を見ることにして、乗車したまま帰宅。

とっととタンク裏の錆落しをしたいというのもある。後、50km程度でガス欠。これを待つ。

急にトップで登りに差し掛かると時々パワーダウンするのだが、病気なのかスペックなのかわからない。3速まで落とさないと吹き上がらない。

高回転でシフトチェンジしないとスピードがのらないようなので、その辺りの感覚がまだつかめていない。ローで引っぱるとDQNだと思われそうでやだし、トルクにムラがある。この辺がいまいち。
慣れてくるとスムーズにシフトチェンジがつながり最高の気分になれる。でも、発進で原スクといい勝負になるのが悲しい。

ヘルメットスピーカーは蚊の鳴くような声で、何を言ってるのか解らない。
画面を見るきっかけ程度である。

しかし、ZUMOの交差点450m手前で一時案内、直前で再度の案内に慣れてくると解りやすくて快適である。

衣替え

右サイドパネルのデカールがひび割れしてはげてきていたので衣替えをした。
071029_13390001 071029_13390002 ちょっと寂しいのでもう少し手を入れよう。

それから、工具バッグを取り付ける。
バッグはDakachanについったタンクポーチである。
留め金を加工して頭が輪になったボルトにつなげられるように工夫してみた。
一通りの車載工具とパンク修理剤を積載している。
空気入れがなくなっていてパンク修理セットが意味ない。

071029_13370001 テールバッグである

071029_13380001 防水用にカバーをかける
mont-bellランバーパックレインカバーS945円 あつらえたようにぴったりである。

何があるのか

創世記36章、列王記第二15章、詩篇139篇、ダニエル書3章、使徒の働き9章、ペテロの手紙第一5章、ダニエル書12章5-7節(Clay)を読む。

脚が痛い。昨年に骨折した個所がまだ痛む。
あの事故に関連した私の人生での出来事がまだあるのだろうか。

神様は意味無く痛みを与えられる方ではない。
私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。”(詩篇139篇14節)
何かあるのだ。私を幸せに導く何かが。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。”(詩篇139篇16節)
私のこれらの出来事は私が生まれる前に計画されているのである。

神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。”(ペテロの手紙第一5章6節)のようになるのである。
あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。”(ペテロの手紙第一5章10節)ともある。私は人生とはこのことの繰り返しだと思っている。

不自由な足は単に不自由なだけである。その不自由さがもたらすもの、すなわち神様が与えてくださる機会を私は待ち望むことができる。
幸いなことである。

2007年10月28日 (日)

死んだ人々

創世記35章、列王記第二14章、詩篇138篇、ダニエル書2章、使徒の働き8章、ペテロの手紙第一4章、ダニエル書12章4節(Clay)を読む。

というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。”(ペテロの手紙第一4章6節)

どういう意味だろうか。

2007年10月27日 (土)

弁明

創世記34章、列王記第二13章、詩篇137篇、ダニエル書1章、使徒の働き7章、ペテロの手紙第一3章、箴言22章7-8節(Clay)を読む。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。
”(ペテロの手紙第一3章15-16節)
別にののしられるわけではないが、”私はクリスチャンです。こんな希望をもっているのです。”と日常で弁明することはない。

散髪屋さんで”なぜ長髪をバッサリ切ったのですか”と聞かれたとき、”聖書に書いてあたるから”と答えたが、そこからあかしを続けなかった。正直なところ続けたくないと思った。
機会を十分に生かして用いなさい”(コロサイ人への手紙4章5節)、もったいないことをした。

キリストにあるあなたがたの正しい生き方”、魅力的である。
やりたいことと衝突するとは思わない。

大きな声で”私はクリスチャンです”と言う自分になりたい。
今は何か引っかかるものがあることに恥ずかしいと思う。
”口に出すには恥ずかしい感謝のことば”とテレビから聞こえてきた。
そんな感じである。

退院

突発性心臓停止で入院中だったXLR125Rが退院してきた。

071027_18020001 キャブレターを中心に整備
とりあえずテスト走行で症状はでなかったとのことである。
原因はわからない。要修正個所に手を入れて様子見となった。

部品の劣化個所(今回はOリング6個、ガスケット、プラグ)の交換は解る。
しかし、以下の2点はびっくりした。

  • ジェットニードル付属のパーツが自作されているので交換
  • エアークリーナーエレメントが交換式なのにママレモンで洗浄したようなので交換

結局、キャブレターのオーバーホールとなった。まぁ年代物の中古購入だから仕方が無いか。いずれはすることになるし。
そもそもキャブレター要調整とは条件に書いてあった。

ディーラーでのメンテナンスははじめてである。
工賃を心配していたが、キャブレターのオーバーホールが8,500円は安い。
自分でオーバーホールすることも考えたがタコメータがない。メンテ用に購入するだけで1万円を超えてしまうからあきらめた。
エアークリーナーエレメント交換1,890円は自分でできるので、ちょっと悔しい。

代車も貸してくれるし、プラグとプラグレンチをサービスしてくれたし、家から近いし、なんといっても親切だし、これからはここに任せようと思う。

部品代6,680円と工賃10,395円でした。

タンクをはずしてあったので裏側を見た。薄い錆がひろがっている。
やすりでさびを落として、ペイントはいつかしないといけない。
フレームは結構きれいだった。
スプロケットがまだ交換は必要ないが、とがってると指摘される。

車両本体は安かったが、メンテナンスはそれなりにかかる。
新品になっているだけ良しとしよう。

071028_18240001 8,186kmでした。

2007年10月26日 (金)

信頼

創世記33章、列王記第二12章、詩篇136篇、エゼキエル書48章、使徒の働き6章、ペテロの手紙第一2章、ダニエル書12章2-3節(Clay)を読む。

不安である。
何をするにも不安である。
継続的に良好な状態がある根拠なんてない。
意味無く心配し、不安に陥る。

信頼するものが無いからである。
何でも可能な方を信頼すればこの不安から開放される。

聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」”(ペテロの手紙第一2章6節)、はイエス様のことである。

失望することがないとはなんと素晴らしいことであろうか。

神様を受け入れること、神様が私を愛して下さっていることを信じることは生きていくうえで重要な判断基準である。

聖書は開放してくれる。

2007年10月25日 (木)

ヘルメットスピーカー

先日のツーリングでイヤホンが断線したので、ヘルメットに仕込むスピーカーを購入する。
そもそもイヤホンはヘルメットの脱ぎかぶりで耳が痛いのでいやだった。
071025_19250001 MOTO Fizzのヘルメット用スピーカーセット

buletoothは高いし、携帯通話はかかってこないからマイクはいらない。

今日はXLR125RはホンダDreamに入院中である。
突発性心臓停止が直ればよいのだが。

だから、インプレできない。今日は工作のみ。
071025_19550001 ヘルメットの耳の辺りのくぼみにベルクロではるだけ。

こんな小さな音で聞こえるんかいな。

NAVI

こんな道NAVIがないとわからん。

071025_17560001 ZUMOは便利

後ろで赤くポッとしてるのはFuelランプ。
ZUMOが邪魔で燃料ゲージが見えない。危険である。

血の責任

創世記32章、列王記第二11章、詩篇135篇、エゼキエル書47章、使徒の働き5章、ペテロの手紙第一1章、ダニエル書12章1節(Clay)を読む。

あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。”(使徒の働き5章28節)
大祭司のことばである。イエス様の十字架の責任についてである。

十字架刑の裁判で、”民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」”(マタイの福音書27章24節)とある。
大祭司はイエス様を十字架に架けようとした首謀者である。

大祭司が血の責任の重さに対してとやかく言うならともかく、有無について発言するのはおかしい。
イエス様を信じる民衆が増えたことに、責任の重さを感じだしたのだろうか。
それとも責任なんて意識は無いのだろうか。

しかし、イエス様は存命中に仰っている。
アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。”(ルカの福音書11章50節)

大祭司や議会だけの問題ではない。
この時代”は続いている。私たちは神様の子であるイエス様を十字架に架けた人類の”子どもたち”である。

重い責任を負っている。
神様に赦しを乞わなくてはならない。

2007年10月24日 (水)

貴重な実り

創世記31章、列王記第二10章、詩篇134篇、エゼキエル書46章、使徒の働き4章、ヤコブの手紙5章、ダニエル書11章40-45節(Clay)を読む。

見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。”(ヤコブの手紙5章7節)
祖母の心には福音の種が蒔かれている。

水をやるのは農夫の仕事である。
また、キリストの話をしに行かなければ。

燃費20071024

071024_14460001 181km÷5.8L=31.2km/L
今回はレギュラーにしてみる。

ツーリングのみなのに燃費伸びんなー。
低速パワーがあるところを見ると、スプロケットを交換しているような気がする。

淡路島一周の旅

今日はXLR125Rにまたがり淡路島を一周してみる。

google earth → 「20041024.kmz」をダウンロード

南部でうろちょろしてるのは潮崎灯台を探してました。
途中、ゲロ道にあたり躊躇する。
今日はタイヤがON用だし、服装もだめだし、、、、

見つからん。最南端へ行けなかった。

イヤホン調子よかったのに、ヘルメットの脱ぎかぶりで切れちゃった。

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2007年10月23日 (火)

手抜き

ダニエル書11章36-39節(Clay)を読む。

これから起こることらしい。

初回燃費

071023_14370001 27km/L

整備や自分で満タンにしてなかったので、今回は少しいい加減かな。

石黒ダム

XLR125Rにまたがり颯爽とプチツーリングに出かける。

MapSourceでルート設定も準備万端。

071023_11410001 丸亀製麺 西神戸店
腹ごしらえしてスタート。
おろし醤油うどん熱さくらえび掻揚げトッピング+のりわさびおにぎりを喰らう。

071023_13000001 北はりまエコミュージアム

071023_13370001 石黒ダム

071023_13580001 東条湖についてびっくりする。
なぜここを通る。

071023_13100001 まったり
走行中に原因不明のエンストが起こる。
ガソリンが流れてないか、発火してないか。

071023_13390001 zumo便利すぎ
イヤホンで案内を聞く。
ヘルメットをかぶる時にイヤホンがずれると聞き取れないが、NAVIは聞くものだと納得する。

本日のルート「20071023.kmz」をダウンロード

2007年10月22日 (月)

悪い動機

創世記30章、列王記第二9章、詩篇133篇、エゼキエル書45章、使徒の働き3章、ヤコブの手紙4章、ダニエル書11章29-35節(Clay)を読む。

あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
”(ヤコブの手紙4章2-3節)

思うようにならない?
祈らないから?いや違う。では”悪い動機”?

悪い動機”とはなんだろうか。
世を愛すること”(ヤコブの手紙4章4節)のようである。

神様の前に無意味に見える思いはたくさんある。
これは”世を愛すること”とは違うと思う。

私が長い間、道をそれていたとき、私は世を愛した。虜になった。
そして今もやりたいことがたくさんある。
以前と今とは違うような気がする。
世を愛すること”は無意味に破壊的であった。
今は”若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。”(伝道者の書11章9節)である。
これは”世を愛すること”ではない。
この今、生きることを楽しみたいのだ。

主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。”(ヤコブの手紙4章15節)である。

XLR125R整備完了

先日手に入れたXLR125Rの整備がとりあえず完了する。

Cimg3397結構さまになったでしょ 。

明細を作成し掛かった費用を計算してみる。

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2007年10月21日 (日)

聖霊に満たされて

創世記29章、列王記第二8章、詩篇132篇、エゼキエル書44章、使徒の働き2章、ヤコブの手紙3章、ダニエル書11章21-28節(Clay)を読む。

使徒の働きはペンテコステの聖霊降臨である。
ここで起こる聖霊に満たされた変化は大きい。
炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
”(使徒の働き2章3-4節)

私にも、こんな大きくは無かったが、確かに神様を信じ、救いを受け入れた後、自分の中に変化はあった。
なんか心のそこから第三者が助言をしてくれるようになった。
こんなことを書いたら、病的な話に聞こえるが、事実である。
幻聴や幻覚ではない、静かに支えられている感じである。

今日、学び会で”第三の波”と言うテーマで福音からそれていく話を聞いた。
聖霊に満たされ異言や預言を語ることを目指したり、カリスマ的な人格を目指したりと、やりすぎておかしくなっていく話である。
”第三の波”そのものの内容はよく解らなかった。

ペンテコステでの聖霊に満たされた変化は目指して得たようではない。
気がついたらそうなっていたようである。

神様が必要に応じて与えてくれるものだと考える。

2007年10月20日 (土)

ゾロ目

071020_18150001 フィーバー・フィーバー

去年もこのぐらいの時期に遭遇したような気がする。

寒うー。。。。。

創世記28章、列王記第二7章、詩篇131篇、エゼキエル書43章、使徒の働き1章、ヤコブの手紙2章、箴言22章5-6節(Clay)を読む。

人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。”(ヤコブの手紙2章24節)
これは”律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる”(ピリピ人への手紙3章9節)と相反するものではない。

ヤコブは持っている信仰を言動で表す必要があると言っているのである。
ヤコブの手紙では文脈から”行いによって”が律法に従って、良い行いに従事することによってと誤解してしまうのだと思う。

信仰を言動によって表すことは重要である。
あなたの信仰を、私に見せてください”(ヤコブの手紙2章18節)にかかっている。
これは周りの人にであって、何よりも神様にである。
神様は”人はうわべを見るが、主は心を見る”(サムエル記第一16章7節)方だし、”人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。”(ローマ人への手紙10章10節)と書かれている通りである。
しかし、目で見て、耳で聞いて営む我々の生においては、言動で表すために身体があるのだと考える。
神様は言動で良いことを表すことを望んでおられる。

神がすべてのことを働かせて益としてくださる”(ローマ人への手紙8章28節)、この信仰を持ちながら、心配ばかりしているのは良くない。

イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」 ”(マルコの福音書4章40節)とイエス様は励ましてくださる。

2007年10月19日 (金)

目を開いて

創世記27章、列王記第二6章、詩篇130篇、エゼキエル書42章、ヨハネの福音書21章、ヤコブの手紙1章、ダニエル書11章5-20節(Clay)を読む。

エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。”(列王記第二6章17節)
エリシャの町がエリシャを捕らえにきた大軍に包囲された朝、若い者がそれを見て、恐れて、”どうしたらよいのでしょう”と言った時のことである。

神様が送られた軍勢がエリシャを守っている。
しかし、若者には見えない。だから、若者は恐れた。
見えることそのものがすごいことだが、当然のごとくエリシャは平然としている。

神様が守ってくれていても、そのことが解らなかったら不安な時を送ることになる。
損な事態に陥る。

しかし、眼に見えることは重要ではない。
目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。”(コリント人への手紙第一2章9節)
信仰で捉えることができれば平安に過ごすことができる。

この信仰こそがクリスチャンの特権である。
何も恐れるものはない。

神様がおられること、神様が全能な方であること、神様は愛なる方であることを信じれば、その信仰が”地に蒔かれる種の中で、一番小さい”からし種となる。そしてそのからし種が成長し大きくなるように、信仰はどんどん大きくなって、自分を平安と自由と希望で満たしてくれる。

2007年10月18日 (木)

神殿

創世記26章、列王記第二5章、詩篇129篇、エゼキエル書41章、ヨハネの福音書20章、ヘブル人への手紙13章、ダニエル書11章3-4節(Clay)を読む。

エゼキエル書は神殿に関する記述が続く。各所の寸法取りが続くのだ。
頭の中に形をイメージできないので、読み進めるのが非常に辛い。

そもそも天幕、神殿に関して、なぜあのように作り方の指定が繰り返されるのかよくわからない。
しかも、金や宝石がふんだんに使われ、日本の神社仏閣と何が違うんだと思う。
神様は本当にあんなものに名をおかれ、祈りの場所とすることを望まれたのだろうか。

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。”(使徒の働き17章24節)とある。
また、”真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。”(ヨハネの福音書4章23節)ともある。
ここから私たちクリスチャンの集まりこそが神殿であると読み取れる。

確かにイエス様が十字架に架かられ、亡くなられた時、”神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。”(マタイの福音書27章1節)とあるとおり、十字架による罪の贖いが完成したとき、神様と私たちの間にあった隔たりは取り除かれた。
以降、罪赦されたクリスチャンたちは神様の前に自由に出て、祈り、礼拝を捧げることができる。

金や宝石、指定された寸法取りの意味はわからないが、目に見える神殿は旧約時代の神様と人間の居場所を分けるものであったように思える。
神社、仏閣はそれを模した物なのであろう。

本来の神様と人間のあり方の通り、そこに隔たりはあるべきではない。
罪が認められなくなったからこそ実現したものこそ本質である。

2007年10月17日 (水)

エリシャ

創世記25章、列王記第二4章、詩篇128篇、エゼキエル書40章、ヨハネの福音書19章、ヘブル人への手紙12章、ダニエル書11章2節(Clay)を読む。

ある人がバアル・シャリシャから来て、神の人に初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋の新穀とを持って来た。神の人は、「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。
彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう仰せられる。『彼らは食べて残すだろう。』」
そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べた。主のことばのとおり、それはあり余った。
”(列王記第二4章42-44節)
エリシャの行った奇跡である。
イエス様の5千人の給食を思い出す。

2007年10月16日 (火)

寄留者

創世記24章、列王記第二3章、詩篇127篇、エゼキエル書38-39章、ヨハネの福音書18章、ヘブル人への手紙11章、ダニエル書10章20-11章1節(Clay)を読む。

信仰を持つ。これはクリスチャンの特権である。

信仰は自由にしてくれる、平安にとどまらせてくれる、希望を与えてくれる。
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。”(ヘブル人への手紙11章1節)

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。”(ヘブル人への手紙11章6節)
私はこのことで悩んだことが無い。聖書に書かれているいろいろな事を受け入れていく中で、自然と神様を見上げることができる。
見上げて、慕って、より頼んで後悔することはもとより、心配することが全くない。

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。”(ヘブル人への手紙11章13節)のこれらの人々とは旧約聖書の信仰の勇者である。
約束のものを手に入れなかったのには理由がある。
神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。”(ヘブル人への手紙11章40節)
さらにすぐれたものをあらかじめ用意されているからである。
次の世界で全て与えられる。

死んで、正しくは変えられて入る世界に希望はある。
私たちもまた生きている間は全うされることは無い。

地上では旅人であり寄留者となったのだ。

2007年10月15日 (月)

XLR125R

かっこいい。が第一印象である。これが新車販売当時は不人気車ですか。
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外装は年相応に樹脂部やシートはヤレている。
しかし、ホイール、チェーン周りはえらいきれいである。交換したばかりか。
車体番号からすると1993年製(なんと発売初年度の14歳馬)。

試乗車ナンバーを借りて給油がてら走行してみる。
いい感じ。125ccで十分!
車の流れにのれるし、ストレスなし。
MTとしての面白さも味わえる。パワーが無いから回せるのだ。
登り坂で速度低下は無いが、こののびの無さ感からするとツーリングでは物足りないのかもしれない。
自分の腕にはあってるかな。
街乗りだと不満なし。

国産ではもうこのクラスの生産はしないのだろうか。残念である。

走行中ハンドルが取られるような気がした。調べてもらうにホイールベアリングの不具合らしい。要交換orz

071015_10540002 裂けてる
シートは張り替える。
黒にしよっと思ったが、社長から強行に反対される。
”オフ車に黒は似合わん”とな。
じゃ、赤。

071015_10540001 エンジンきれい。けどエキパイカバーが無い?

071015_10550001 7741.6kmでget(107741.6kmじゃないよなー)

071015_10530003 いたるところにダビデの星が
前の所有者はユダヤ教徒かクリスチャンだろうか。

大いに満足。

世が信じるため

創世記23章、列王記第二2章、詩篇126篇、エゼキエル書37章、ヨハネの福音書17章、ヘブル人への手紙10章、ダニエル書10章10-14節(Clay)を読む。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。”(ヨハネの福音書17章20節)
このイエス様から神様へのお願いによって、今の私がいる。また、これからイエス様を信じる人が起こされ、守られる。
人類が存続する限りこのお願いは有効なのである。

このお願いは、最後の晩餐後の祈りの中ででてくる。
世を去っていくイエス様は残されるクリスチャンとこれから起こされるクリスチャンのために祈られた。

浮かび上がってくるのは”この世は神様を知らないが、神様に属するものが越されていく”ことである。
世が信じるため、世が知るため。
私たちクリスチャンが魂の贖いを受けてこの世に残るのはこのために尽きる。

父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。”(ヨハネの福音書17章21節)
私たちは一つとなって、神様に遣わされていることをあらわす。

あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。”(ヨハネの福音書17章23節)
私たちが神様に愛されていることをあらわす。

私自身は何もできないが、イエス様がこれを実現するように祈ってくださったので、そのようになるのである。

2007年10月14日 (日)

いけにえ

創世記22章、列王記第二1章、詩篇125篇、エゼキエル書36章、ヨハネの福音書16章、ヘブル人への手紙9章、ダニエル書10章15-19節(Clay)を読む。

私たちは罪人である。私は確実に罪びとである。罪は赦されているが。

胸に手を当てて思い返すとよく解る。
良いこともするが、圧倒的に自己中心的であり、思うことは貪欲に満ちている。
悪い言動も隙をついては現れ、自分を律することは到底できない。
何よりも創造主である神様に背を向けている。これが罪の本質である。
言動はこの罪の本質の表れである。

心に刻まれた規律と良心がこのことを教えてくれる。

創造主である神様に罪を赦されるように和解しなくてはいけない。
これが命の問題である。このことさえ達成すれば生きる意味を全うする。
本来はこうではなかったが、罪びとの子孫として生まれた我々は、我々の意思とは関係なく”一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている”(ヘブル人への手紙9章27節)

エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。”(創世記5章24節)とあるとおり、生きる勤めを果たしたエノクは神様と歩んだので、神様の所に神様が連れていかれた。死んだのかどうかは解らない。死ななかったと言われている。

神様と共に歩まない私たちは罪の赦しを受けなくてはならない。
さばきを受けないためである。
血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。”(ヘブル人への手紙9章22節)と書かれている。
修行や善行によって罪の赦しを受けることは無い。
旧約聖書の時代には動物の血をいけにえとして捧げていた。

イエスキリストの血が私たちを赦しに導いてくれる。
キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。”(ヘブル人への手紙9章26節)

創世記に記述されているアブラハムの言葉、”神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ”(創世記22章8節)
この通り、神様が救いを与えてくださる。人間が自ら罪を拭い去れないからである。
神様は人間が罪と共に滅びることを望まれない。

イエスキリストが我々の罪のあがないのいけにえとなって十字架にかかられた。悔いて、このことを信じれば良い。

2007年10月13日 (土)

安全セット

071013_23330001 肘、膝を守る。

ZUMO

071013_21530001 ZUMO 550モーターサイクルナビゲーション

CycleWorld神戸本店(親切なお店)で購入。
93,660 円 高すぎー

MapSourceの使い方が解らん。
ルートの検索オプションは無いのか?

イヤホンで音楽が聴けない。orz

新しい契約

創世記21章、列王記第一22章、詩篇124篇、エゼキエル書35章、ヨハネの福音書15章、ヘブル人への手紙8章、箴言22章3-4節(Clay)を読む。

神様と人間との古い契約について、”彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。”(ヘブル人への手紙8章9節)と書かれている。

そして新しい契約について、”わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さない”(ヘブル人への手紙8章12節)と書かれている。

古い契約とは律法と行いに基づく契約である。新しい契約とは信仰に基づく契約である。

神様が人間の罪を気にするのをやめたのではない。
神様は確実に罪を処罰される方である。罪と共に存在することができないのだ。
とはいえ、古い契約には”彼らがわたしの契約を守り通さないので”とあるとおり、人間は自分自身で罪を治めることができない。
筋を通すために、神様はご自分で全人類の罪の処分をなされたのである。

キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました”(ヘブル人への手紙9章24節)
このとおり、イエス様が身代わりになられて罪は処罰されたのである。
だから、”もはや、彼らの罪を思い出さない”ことが成立するのだ。

自分の心を省みて、罪について考えてみるのが良い。
なぜ、罪の意識を感じ入るのか。それはどこから来たのか。
偶然にそんな思いは発生するだろうか。

神様が我々をそのように創られたのである。

2007年10月12日 (金)

魅力的

創世記20章、列王記第一21章、詩篇123篇、エゼキエル書34章、ヨハネの福音書14章、ヘブル人への手紙7章、ダニエル書10章4-9節(Clay)を読む。

アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。”(創世記20章2節)
この状況でサラが召し入れたのは、エジプトでのパロに続いて2度目である。

サラは90歳を超えているはずなのだが、話の順序が入れ替わっているのか、そんなに魅力的な女性だったのか。

しかし、旧約聖書の歴史を読んでいると、人間男性の女性に対する取り扱いに疑問を感じる。
これがあるべき姿とは思えない。
草の根のようなフェミニズム運動の成果で現在に至っているのか。

人はアダムとエバの持っていた夫婦のあり方を一瞬で失っている。

2007年10月11日 (木)

すき家

071011_12280001_2 マグロユッケ丼 580円

バイク(XLR125R)をオークションで購入してしまった。と、しれっと書いておく。
(お父さん、お母さん、原付です。2種ですが、、、、)

ロト

創世記19章、列王記第一20章、詩篇122篇、エゼキエル書33章、ヨハネの福音書13章、ヘブル人への手紙6章、ダニエル書10章1-3節(Clay)を読む。

創世記19章はソドムの崩壊についてである。

ロトと妻と二人の娘だけがソドムから逃げる。
二人の娘の婿たちは崩壊の話を冗談だと思い、逃げなかった。

このソドムの崩壊からの脱出は、罪からの救いを意味しているように思える。
ソドムの悪が神様の前に大きくなり滅ぼされる。
しかし、崩壊することと脱出の道があることを信じた者は救われる。

しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。――主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。”(創世記19章16節)、ロトはためらった。
滅びに至ることを知っていながらも、ソドムに未練があるのだ。
このことも見事に現実を象徴している。
神様の憐れみによる導きが必要なのである。

いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。”(創世記19章17節)
このぐらい必死で抜け出さないといけない。
ロトの妻は振り返ったために塩の柱になってしまう。
救いのときが来たら、罪の誘惑を思い返して振り返ってはいけない。必死で逃げないといけない。

しかし、ロトは指定されたところに逃げることを望まず、別の所に逃げるのを求め、許される。
まずは逃げ出すことが重要なのだ。

わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。”(エゼキエル書33章11節)
これが神様の思いである。神様は誰もが滅びることを望んでおられない。

2007年10月10日 (水)

いつもいっしょ

創世記18章、列王記第一19章、詩篇121篇、エゼキエル書32章、ヨハネの福音書12章、ヘブル人への手紙5章、使徒の働き26章30-32節(Clay)を読む。

あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。”(ヨハネの福音書12章8節)
これはどう言う意味だろうか。
マリヤがイエス様の足に香油を塗り、髪の毛で足をぬぐった場面である。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。”(マタイの福音書28章20節)とあるので、イエス様が復活されるまでの期間に限っての表現なのだろうか。
逆に言うと十字架の死と三日後の復活によって、イエス様は我々といつもいてくださることができるようになったと取れる。

香油は”葬りの日のため”の物だとある。
文字通り一緒に居れる間にできること、の意味か。

全然、別のことを考えていた。

2007年10月 9日 (火)

群衆のために

創世記17章、列王記第一18章、詩篇120篇、エゼキエル書31章、ヨハネの福音書11章、ヘブル人への手紙4章、使徒の働き26章24-29節(Clay)を読む。

この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。”(第一列王記18章37節)
預言者エリヤが祭壇で神様の技を求めたときの祈りである。
神様の栄光を求めている。

私たちは自分の栄光を求めるために神様のお力を求める祈りをすることがある。
でも、これは本当に虚しい。

偉い方が栄光と賞賛に富んでおられる。それでよい。

わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。”(ヨハネの福音書11章42節)”
これはイエス様がラザロをよみがえらせた時の祈りである。
回りにいる群衆のために”とある。

目的は群集が神様の存在と技を信じることである。
エリヤの祈りもイエス様の祈りもこの目的の上に根付いている。

この目的以外の言動は全て過ぎ去っていく。
楽しめばよいが、ただそれだけのことである。

私のようになってくださることです。”(使徒の働き26章29節)
これはパウロの願いである。パウロの弁明に登場する。
きょう私の話を聞いている人”全員に対する願いである。
神様の存在と技を信じるものになることを望んでいる。

これが良い。

2007年10月 8日 (月)

MaxFritz KOBE

先日、レザートリートメントをしていた時に、ステッチの糸抜けを発見。
約5cm程度だけど、修理を依頼しにいった。

丁寧に応対いただき、新品と交換していただくことになった。
在庫入荷しだい宅急便で送付くださるとのこと。

本日到着。

071008_11510001 新品

親切で良いお店である。
今度は革ジャン買いに行こうかな。

約束

創世記16章、列王記第一17章、詩篇119篇、エゼキエル書30章、ヨハネの福音書10章、ヘブル人への手紙3章、使徒の働き26章12-23節(Clay)を読む。

「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 ”(創世記15章5節)、子供のいないアブラム(後にアブラハムに改名)に対する神様の約束である。

アブラハムが86歳の時、子供を欲しくて、女奴隷の子供をもうける。
アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。
アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。
彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。
”(創世記16章1-4節)

しかし、この子供は約束の子孫ではない。
後にサライ(サラに改名)から生まれる子供が約束の子孫となる。
この女奴隷から生まれた子孫も繁栄する。

神様がご計画されていることは人間にはわからない。
人間は自分の手で実現しようとするが、神様がそれを採用されなかった例である。

私たちも日々、いろいろな事を営むが、それが神様の前にどのような意味を持っているのかわからない。
私にはつまらないことの繰り返しに思えてならない。
いったいこのまま進むとどうなるのだろうか。

しかし、”それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた”(ヘブル人への手紙4章3節)とあるとおり、子のいないアブラハムが神様の約束を信じたことを神様は義と認められ、アブラハムのように神様を信じるものが義と認められることを示されたのである。
修行や良い行いによって義と認められるのではない。神様を信じることによって義と認められるのである。神様はこのことを望んでおられる。

クリスチャンは神様が何でもおできになる方だと信じた者である。
忍耐して願いがかなう事、信仰によって得た確信がかなう事をひたすら待つことができる。
だから、”私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と言っています。”(詩篇119編82節)のように祈る。

クリスチャンはある意味、自立できない弱虫である。
声を大にして、”もしあなた(神様)のみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。”(詩篇119編92節)と言う。

2007年10月 7日 (日)

あなたに

昨日に引き続き秋の特別伝道集会
ゴスペルとメッセージの集い

071007_16430001 パンフレット

ゴスペルとメッセージを集会のblogにアップ。

今日はこの後、宿泊で学び交わり会だが、今日は家内に出番を譲る。

韓国家庭料理の店 宋

近所の韓国料理屋さんで夕食を食らう。with息子×2

071007_19200001 宋というお店 器は全部店主のお手製だとな

071007_19210001 前菜 韓流~

071007_19220001 サラダ 梨入りにびっくり

071007_19280001チャプチェ うまー

071007_19290001 海鮮チヂミ ウマー

071007_19330001 豚足 ぶたー 癖になりそう

071007_19390001キムチ盛り合わせ 辛さ控えめ

071007_19410001 トッポギ good

071007_19440001 参鶏湯 本日のメインイベント この味この味キター(ry

071007_20050001 ピン うまいが一個でOKって感じ

071007_20100001 ライス+のり 三男が完食

071007_20130001 キンパ 激ウマ

071007_20180001 御楊枝

3人満腹 7750円でした。

2007年10月 6日 (土)

特別伝道集会

今日は秋の特別伝道集会であった。

071006_12420001 開演直前

ゴスペルと聖書メッセージのコラボレーションが良い。

メッセージを集会のblogにアップ。

明日もあります。
是非お越しください。

2007年10月 5日 (金)

ふむ

創世記15章、列王記第一15-16章、詩篇118篇、エゼキエル書29章、ヨハネの福音書9章、ヘブル人への手紙2章、使徒の働き26章9-11節(Clay)を読む。

ふむ。困った。書くことがない。

まくど

071005_13090001_2 焙煎ごまえびフィレオセット 580円

2007年10月 4日 (木)

なぜわたしを信じないのですか

創世記14章、列王記第一14章、詩篇117篇、エゼキエル書28章、ヨハネの福音書8章、ヘブル人への手紙1章、使徒の働き26章1-8節(Clay)を読む。

ヨハネの福音書8章は難解である。
”イエスは神の子である”、この信仰があれば理解できるのだが、信仰のない人が読むことを想像すると、この章でのユダヤ人の反応に至ることは容易に理解できる。

どうも記述の時間的な順序、連続性は無いようである。このことも読み方を困難にしているように思える。

イエス様は次のことを語っている。(これがすべてかどうかすら自信ががない)

  • わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(12節)
  • わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。(18節)
  • もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。(24節)
  • わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。(26節)
  • 罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。(34節)
  • あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。(44節)
  • だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。(51節)
  • 私は世の初め(アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(58節)

ユダヤ人は受け入れない。人間の姿(人格)を持って神様が現れたことを理解できないのである。
彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。”(25節)がこれを象徴している。

たしかに理解できないことが信じられない理由としてはもっともそうである。
また、そのことは現在の人々にも当てはまる。
しかし、次の質問には必ず答えなければいけない。
あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。”(46節)
自分自信と照らし合わせて、イエス様の言動を吟味してみると良い。
理解できなくても信じることができる。

”イエスは神の子である”これを受け入れた人は沢山いる。

王将

071004_13260001 サービスセット680円(ドリンクバー付き)

オークションに行くが取れない。
プレミアが付くようなものじゃなと思うのだが高い。
1ランクアップすると値段が下がるが、それはそれで余計な付帯価値が発生する。
それ相応の価値で手に入れたいのに。。。

王手か詰めろか必死か。。。。

2007年10月 3日 (水)

Negative Outlook

創世記13章、列王記第一13章、詩篇116篇、エゼキエル書27章、ヨハネの福音書7章、ピレモンへの手紙、使徒の働き25章23-27節(Clay)を読む。

今日はひどく調子が悪い。
Negative Outlookで心がいっぱいである。

私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」”(詩篇116篇4節)

主はわきまえのない者を守られる。”(詩篇116篇6節)
幸いである。
この拠り所がなければ酒におぼれるだろうと思われる。

ラナパー

071003_09360001 Renapur

レザートリートメントである。

ビーズワックス(蜜ロウ)とホホバ油を主成分とした100%天然物らしい。

7足ほど靴を磨いた。
ピカピカになった物やそれなりにきれいになった物など、革の質によって効果は異なるようである。
臭いがないのがよろしい。

3150円(税込、送料込) from FZONE SHOP

2007年10月 2日 (火)

いのちのパン

創世記12章、列王記第一12章、詩篇115篇、エゼキエル書16章、ヨハネの福音書6章、テトスへの手紙3章、使徒の働き25章13-22節(Clay)を読む。

あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。”(創世記12章3節)
これは神様からアブラハムへの約束である。
この前の章でアブラハムの生い立ちが紹介され、いきなりこの約束が登場する。
アブラハムが何かをしたからこのような約束を与えられたのではない。

聖書に書かれていない背景があるのかもしれないが、神様は未来を見通されアブラハムを選び、このように約束を与えられたように思える。
イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。”(ヨハネの福音書6章6節)と同じである。
ここでの弟子たち同様に先見性と信仰のない私たちには何が起こっているのか皆目検討が付かない。

ヨハネの福音書6章27節から58節までいのちのパンについてイエス様が述べられている。
わたしはいのちのパンです。”(48節)と仰る。
人の子(イエス様)の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。”(52節)とも仰る。

「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」 ”(ヨハネの福音書6章60節)と言って多くの弟子が去っていく。意味が解らないのだ。
そのまま読むと確かに意味が解らない。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。”(ヨハネの福音書6章63節)とイエス様が解説する。
しかし、これから後に起こる十字架による罪のあがないを知らなければ、このことは理解できないと思う。
十字架の救いを信じるものは御霊によって生きることを信じることを教えておられるのである。

パウロはローマ人への手紙の中で次のように述べている。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。”(ローマ人への手紙8章11節)
また、イエス様を信じたものには御霊が与えられると述べている。
神は、その保証として御霊を下さいました。”(コリント人への手紙第二5章5節)とある。

私たちはこの地上にあって肉によって生きていえる。”肉は何の益ももたら”さないので地上のパンすなわち食物が必要なのである。
しかし、十字架の救いを信じるものは神様から御霊を受け、”御霊によって、・・・死ぬべきからだをも生かしてくださる”ので地上のパンは必要ない。
このことを”わたしはいのちのパンです。”と言っておられるのだと考える。
十字架の救いを信じるとはまさに”人の子(イエス様)の肉を食べ、またその血を飲まなければ”を意味している。

断食は辛かったが。。。

2007年10月 1日 (月)

はてしない欲望

創世記11章、列王記第一11章、詩篇114篇、エゼキエル書25章、ヨハネの福音書5章、テトスへの手紙2章、使徒の働き25章1-12節(Clay)を読む。

すべての人を救う神の恵みが現われ、 私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。”(テトスへの手紙2章11-13)と書いてある。
であるからしてこうなのであろう。

しかし、自分を見てはほど遠いことを知る。
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。”(ローマ人への手紙7章18節)のとおりである。

救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望”んでいる。
不敬虔とこの世の欲とを捨て”たいと少し思っている。
これが今の身の丈にあったクリスチャンとしての状態なのであろう。

自己を惨めだとは嘆いたりはしない。
神様が今の自分を愛してくださり、今の自分に整えてくださっているからである。

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