« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »

2007年9月

2007年9月30日 (日)

バイカーズブーツ

バイカーズブーツを購入。
(そう言えば、去年、エンジニアブーツを購入した翌日に事故ったなー)

070930_19070002 MFA-1401 メダリオンジップアップブーツ

¥34,650 @ MaxFritz KOBE

サイズは27.5cm(max)。ビジネスシューズ28cmの足で甲が少しきつい程度。革ブーツとしてはあつらえたようにぴったり。

メンテナンスはラナパーと言うレザートリートメントを使用するらしい。

以下は商品説明の引用

  • トラディショナルな雰囲気漂うメダリオンを施したブーツ
  • 着脱が容易なサイドのジップはバイクを傷つけないように外側に付いています。
    (革紐でポジションを一度決めてしまえばジップのみで着脱できます)

2007年9月29日 (土)

創世記10章、列王記第一10章、詩篇113篇、エゼキエル書24章、ヨハネの福音書4章、テトスへの手紙1章、箴言21章29-31節(Clay)を読む。

馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。”(箴言21章31節)
そうなのだ。
私の願いがかなうことは直接的に私に影響する。
しかし、すべては神様の摂理によるのだ。

運動会

070929_09100001_2 開会式である。

スローガンは”努力した結果に悔いはなし!”

2007年9月28日 (金)

創世記9章、列王記第一9章、詩篇112篇、エゼキエル書23章、ヨハネの福音書3章、テモテへの手紙第二4章、使徒の働き24章22-27節(Clay)を読む。

いつかは書きたいと思っていたテーマである。
神秘的とでも言おうか、壮大な秘密が隠されているようである。

少し長いが、”「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。
わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。
わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。
わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。
虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」
”(創世記9章12-16節)
この時、初めて虹がかかったと書かれている。

ノアの箱舟の大洪水の後、水が引き、陸地に箱舟に乗っていた生き物が降りた。
水にすむ生き物はともかく、地に生きる生き物は箱舟に乗っていた物だけである。それ以外は大水でおぼれて死んだ。
その生き残った生き物と神様の契約の証しが”虹”である。

契約の内容は二度と大水によって生き物を滅ぼさないである。
”大水以外で滅ぼす”ことを踏まえていることは余談としてあるが。

私は科学に強くはないが、虹のできる原理は読んだことがある。
初めて虹がかかったとあるが、ノアの箱舟以前と以降で科学原理が変わったのだろうか。
それはないと考える。なぜなら、創造の終わりに”神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。”(創世記1章31節)と書かれえているとおり完成しているからである。

初めて雨が降ったと言う説を聞いたことがある。
聖書に書かれているとおり天の水と地の水が分かれていたが、天の水が一気に降ったのではと言う説も聞いたことがある。
人類、生き物はエデンの園で作られたので、そこから移動でいる範囲だけが大水で埋まったと言う説や、地球規模で山々が消えるほど大水で埋まったと言う説。
はてはこの地球規模の大水説は、この大水のせいで地熱が下がりマントルの移動、大陸移動が起こったと言う説や化石ができた説にまで発展しているようである。

今まで聞いていた地球の歴史をノアの箱舟の大洪水に関連させて説いているようである。私の小さな頭では”ほー、すごいな”と謎解きをしていただいたような気分になる。

しかし、この章での私にとっての最大の関心事は、神様が契約のしるしに””を立てられたと言うところである。
神様の技にロマンを感じるのである。

2007年9月27日 (木)

ノアの箱舟

創世記6-8章、列王記第一8章、詩篇111篇、エゼキエル書22章、ヨハネの福音書2章、テモテへの手紙第二3章、使徒の働き24章10-21節(Clay)を読む。

聖書を読み始めて7章ですべての肉なるものの終わりが来る。
7章である。たった7章なのだ。
神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。”(創世記1章31節)に”非常に良かった”と褒め称えられていたのに。

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
”(創世記6章5-7節)
このように書かれている。

神様に先見性がなかったのか。決してそんなことはない。
ただ、なぜ神様がこのような道を選ばれたのかは解らない。

そして有名なノアの箱舟の話になる。
ノアの家族とすべての生き物の一つがいずつが生き残る。

ノアの箱舟はイエス・キリストの救いを表している。
それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。”(創世記7章16節)とあるとおり、神様のお考えのときに救いの戸は閉ざされる。
間に合わないといけない。

NEXT DOOR

070927_14290001_2 秋冬ジャケ+パンツを確保。

お気に入りのTakeo Kikuti。

本当はモンベルのツーリングジャケットを見に行ったのだが、思わず衝動。

神戸ライス

070927_13440001_2 チーズライス 900円

レギュラーでちょうど良い。

2007年9月26日 (水)

鴨だし

最近お気に入りの定食である。

070926_11340001 【麺の達人】鴨だし+焼さけハラミ

特にこのラーメンがあっさり系でウマス。

しもべ

創世記5章、列王記第一7章、詩篇110篇、エゼキエル書21章、ヨハネの福音書1章、テモテへの手紙第二2章、使徒の働き24章1-9節(Clay)を読む。

あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。”(テモテへの手紙第二2章15節)
働きを避けて自分を恥じることがある。
自分ではどうしようもない。

自分を神にささげるよう、努め励みなさい。”とは能動的に行動を起こすことだろうか。
目の前、見えないを問わず、相手が神様だと考えて仕えることだろうか。
主人としもべの関係を考えると、しもべは自分を第二において仕えるべきである。

私は神様を自分の主として置いた者である。
自己の変革が必要なようである。私はいつも自分のことばかり考えている。

神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。”(エペソ人への手紙2章10節)
携わるべき行いは準備していただいている。

必要なのは良い人格の形成を願い求めることのようである。
そうすれば人生に満足を得られるようになるように思える。

2007年9月25日 (火)

殺人

創世記4章、列王記第一6章、詩篇109篇、エゼキエル書20章、ルカの福音書24章、テモテへの手紙第二1章、使徒の働き23章25-35節(Clay)を読む。

創世記では4章にして人類最初の殺人が起こる。
このとき、人は神様に嘘をつく。

主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。”(創世記4章9節)
神様はすべてご存知である。カインに何を求められたのであろうか。
大いに興味深い。

丸亀製麺

070925_12530001_2

釜揚げうどん大と高菜のおにぎり 500円

070925_13030001 97384杯めの一品らしい。

2007年9月24日 (月)

すしろ

晩御飯は息子たちの提案で寿司。

070924_20100001 我が家は全員が大喰らいなので回ってるやつ。

あぶりハラスが最高にうまかった。

罪人

創世記3章、列王記第一5章、詩篇108篇、エゼキエル書19章、ルカの福音書22-23章、テモテへの手紙第一6章、使徒の働き23章11-15節(Clay)を読む。

それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。”(創世記3章6節)
食べてはいけないと神様が仰られた実を食べたのだ。
人に罪が入った瞬間である。
罪とは神様に逆らうことである。

以降、すべての人は罪に支配され、死が全人類にひろがったと聖書は教えている。
ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった”(ローマ人への手紙5章12節)

我々は物心などまったくついていない時に、何の相談もなく、このようなものとして生きることが決められていたことになる。
そんな理不尽なと考えてはいけない。
我々は被造物である。被造物が創造者の決めたしきたりに逆らうことなどできない。

しきたりとはこうである。
一人の人によってすべての人が罪に定められたように、一人の方、イエス様の義によってすべての人が義と認められ命を与えられる。

このしきたりに逆らうことはできない。
我々は被造物である。主権者ではない。

鍋パーティ

今日は私とkygさんのバプテスマ(洗礼)のお祝いパーティである。

私のパーティは昨年に予定されていたのだが、あの事故で延期になっていた。

クリスチャン生活で学んだことについてメッセージする。
信仰について話した。

070924_13020001 餃子と鍋。おなかいっぱい。

2007年9月23日 (日)

悔い改めて、生きよ

創世記2章、列王記第一4章、詩篇107篇、エゼキエル書18章、ルカの福音書21章、テモテへの手紙第一5章、使徒の働き23章11-15節(Clay)を読む。

以前、息子かから”悪いことをして罰を与える神様は信じない”と言われたことがある。
天国と地獄を考え、答えに窮したのだが、”そらそうだな”と思う。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。”(エゼキエル書18章23節)
わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ――だから、悔い改めて、生きよ。”(エゼキエル書18章32節)
これが神様からのメッセージである。
神様は人類を愛しておられる。

神様は聖なる方だから、罪と共におられることはできない。だから、天国と地獄という行き場所の2択がある。

イエス様は我々の犠牲になって十字架に架かられた。
自分の罪を認め、イエス様の実現された救いを信じる。
イエス様を救い主として受け入れる。
これこそ”その態度を悔い改めて”である。
そして生きる。

神様を信じる、そこには希望だけがある。

2007年9月22日 (土)

初めに

創世記1章、列王記第一3章、詩篇106篇、エゼキエル書17章、ルカの福音書20章、テモテへの手紙第一4章、震源21章27-28節(Clay)を読む。

初めに、神が天と地を創造した。”(創世記1章1節)
この瞬間を想像することはできない。
初めに”とあるようにここより以前はない。

自分という存在がある。
大地に立っている。
目の前には海が広がり、大空が高く広がっている。

私は何も知らない。
自分のことすらわからない。

創世の初めから今に至るまで、作者のいないものなどない。

2007年9月21日 (金)

旅の終わり

申命記34章、列王記第一2章、詩篇105篇、エゼキエル書16章、ルカの福音書19章、テモテへの手紙第一3章、使徒の働き23章6-10節(Clay)を読む。

申命記の今日読んだ個所は最後の章になる。
イスラエル民族のエジプトから約束の地への旅が終わる。

モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。”(申命記34章7節)
モーセの一生の終わり。
主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。”(創世記6章3節)とあるとおり、神様は人は百二十年しか生きれないと決めておられる。
モーセはその年齢まで生きた。
しかも”彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった”、神様から与えられた使命を果たすための必要は、その使命を全うするまで十分に満たされていた。

民が起こり、エジプトへ移住し、エジプトで民族として大成長し、民族としてエジプトで奴隷の待遇を受け、エジプトを旅立ち、約束の地への旅する。
その背景に神様の約束がある。
これは人の一生になぞらえることができる。

神様とイエス様を信じ、世の中に放蕩生活へ出、良いことや悪いことがある中に青春を謳歌し、酒の奴隷となって苦しみ、断酒し生きることを取り戻し、神様のご計画された人生を生きる。
救いの約束がその背景にある。
これは私の場合である。
現実や時期の違いこそあるが、人はみな同じように人生をおくるのではないだろうかと思う。

生きるとは神様の御国に到着することと、人格が鍛えられ整えられることである。
創世記から申命記までの五書を読んで、明確にこのことを知る。

神様はいつも民を見て導かれた。モーセという取次ぎ手がいた。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。”(マタイの福音書28章)
イエス様の約束である。

1世紀

このお二人の歳の差、約一世紀。

2007

驚くべきことである。

成長

姪の青空チャンである。
著しい成長に関心してしまう。もう歩行器で遊んでいる。

Photo_2 金塊かーって。

世間で起こっていることに興味があるらしい。

2007年9月20日 (木)

ルカの福音書18章

申命記33章、列王記第一1章、詩篇104篇、エゼキエル書15章、ルカの福音書18章、テモテへの手紙第一2章、使徒の働き22章30-23章5節(Clay)を読む。

いつでも祈るべきであり、失望してはならない”(ルカの福音書18章1節)
これはイエス様の教えである。
ルカの福音書18章は6つの話で構成されている。
全体を通して祈りについて学ぶことができた。
”はい”。ひたすら祈ろう。
同じことを毎日、毎日、祈り続けよう。祈りがかなうまで。
内容は吟味しない。私は生きていくうえにおいて何が本当に必要なのかは解らないから。

しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。”(8節)とおっしゃられる。

信仰が必要である。
見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです”(42節)
信仰が願いをかなえてくれる。
人にはできないことが、神にはできるのです”(27節)、この信仰である。
子どものように神の国を受け入れる者でなければ決してそこに、入ることはできません”(16節)とある通り、信仰は”子どものように”何の迷いもなく信じ求めることである。

人の子が来たとき”とは”人の子は三日目によみがえります”(33節)以降のご臨在のことだろうか。あらゆる時代の人々をさしているのだろうか。ここは良く解らない。

わたしに何をしてほしいのか”(41節)とイエス様は問われる。
すべてをご存知の方が問われる。
私たちが何を望んでいるのかかをお聞きになりたいのだ。

目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 ”(13節)、最も重要な祈りである。
この祈りをした人は”義と認められて家に帰りました。”(14節)とある。
その場でかなえられている。

2007年9月19日 (水)

野の花

申命記32章、サムエル記第Ⅱ24章、詩篇103篇、エゼキエル書14章、ルカの福音書17章、テモテへの手紙第一1章、使徒の働き22章22-29節(Clay)を読む。

人の日は、草のよう。野の花のように咲く。
風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。
”(詩篇103篇15-16節)
人生とはこのようなものである。
沢山の人が、この”野の花のように咲く”ことに人生の価値を見出そうとしている。

そして人は”風がそこを過ぎる”ごとく死ぬ。

死んで終わらない。二つの行き場のどちらかに行く。

さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。”(ルカの福音書16章22節)
アブラハムのふところ”は平安の場所を、”死んで葬られた”は苦しみの場所をあらわしている。
このそれぞれの場所で永遠を過ごすことになる。
人は生きている間にどちらに行くかを選択するのである。

一瞬の華やかさを見て、自分の好きなように生きるか。
永遠に対する希望を見て、神様のお考えに従って生きるか。
どちらが重要かは明確である。
一瞬の華やかさがさを夢見てはいけない。それはまやかしだ。
アルコール依存症者が酒を求めるのと同じだ。

はかない人生は永遠の行き場を決めるだけのためにある。
神様のお考えに従って生きることは難しくはない。
神様は”私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。”(詩篇103篇14節)方である。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。”(詩篇103篇10節)
イエス様が私たちの身代わりになって、私たちの”死んで葬られた”に至る宿命を取り去ってくださった。これがあの十字架の救いである。
これを信じるだけでよい。

ClimaLite

070919_17250001 adidasのClimaLite

この素材でできたウェアが好きだ。
本当に汗をかいてもサラサラ感がある。爽やか~

トレーニングウェア一式を購入する。(セット価格で12800円)

セット内容が店によって違ってた。価格は同じ。
SUPER SPORTS XEBIOではジャージ(jersey:島の名前だそうな)の上下+短パン
SPORTS DEPOではジャージの上下+多機能シャツ

多機能シャツがお気に入りなのでDEPOで購入。
この多機能シャツ、最強の肌着のような気がする。

2007年9月18日 (火)

悩む者の祈り

申命記31章、サムエル記第Ⅱ23章、詩篇102篇、エゼキエル書13章、ルカの福音書16章、テサロニケ人への手紙第二3章、使徒の働き22章17-21節(Clay)を読む。

悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの ”(詩篇102篇)

苦しい理由が欲望を満たされないことなのだが、悩みのやり場として”主の前に注ぎ出”すことに躊躇しない。
これでよいのだと思う。

欲望が解消しない。
解消するする方法も知らないし、その力もない、そもそも解消する気もない。

忍耐なのだろうか、望むべきものを間違っているのだろうか、ただ、待っている。

本当に苦しい。

2007年9月17日 (月)

みことば

申命記30章、サムエル記第Ⅱ22章、詩篇101篇、エゼキエル書12章、ルカの福音書15章、テサロニケ人への手紙第二2章、使徒の働き22章6-16節(Clay)を読む。

まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。”(申命記30章14節)
まさにみことばによって生きる。

2007年9月16日 (日)

彦根キリスト集会

070916_10520001 彦根キリスト集会に行く。

あかしをする。
30分の時間枠で45分も使ってしまった。
15分経過時に時計を見て、未だ5分しかたっていないと勘違いし、一気に緊張する。
話を膨らまさなければと苦心し、時間超過してしまった。
開始時間を確認する習慣をつけなければならないと反省。

ワーカーホーリクスとうつ病の話題で、ある求道者の方から共感を得る。
歓談でも話が弾む。

みんなと良い交わりを持つ事ができ、祝福された伝道旅行であった。

2007年9月15日 (土)

ローマ人への手紙8章

070913_20280001 Clay10月号が送られてくる。

楽しみにしていた記事を読む。
待望のクリスチャンの生き方の変遷、ローマ人への手紙7章から8章への移行についてである。
いかにして悩めるクリスチャンから脱出するかの期待をこめて読む。
あわせてローマ人への手紙7-8章を熟読する。

結論から言うとこうだ。
7章の、8章の、と言うような性格の違いは存在しない。
自己認識の相違が唯一ある。それだけなのだ。

イエス・キリストの十字架の救いを受け入れたとき、神様から義と認められる。(義認
この瞬間からクリスチャンとなり、ひとつの性格が与えられて、一人の人に二つの性格が存在するようになる。
ひとつは生まれもっての性格(肉の性格)、もうひとつは新しい性格(御霊に導かれる性格)である。

肉の性格は神様に対して反抗する。
御霊に導かれる性格は神様の御心に従う。
この二つの性格が内在し、相反する。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。”(7章15節)が起こる。

肉の性格はクリスチャンを罪の奴隷のように導く。
しかし、実際は義認より肉が死に、御霊によって死ぬべき身体が生きているので、肉の性格は持っているが、”肉に従って歩む責任を、肉に対しておってはい”(8章12節)ない。
確かに責任を負ってはいないが、実際には自由を行使することができないのだ。
だから惨めなのである。

私の場合はむさぼりの罪が私を奴隷のように扱うので、いつも満ち足りない。惨めである。

ではクリスチャンは生きて望みない、苦しみだけの存在なのだろうか。
いやちがう、新しく御霊に導かれる性格が宿っているのである。
この御霊によって仕えている”(7章6節)、”善をしたいという願いがいつもある”(7章18節)、”罪に定めらられることがない”(8章1節)、”御霊に属することをひたすら考える”(8章5節)、”義のゆえに生き”(8章10節)る、”神の子ども”(8章14節)であり”キリストとの共同相続人”(8章17節)である。
クリスチャンとはこんなに素晴らしい人間で希望に満ちているのだ。
自己としての立派な性格と立場をクリスチャンは持っている。

ではこの二つの性格の働きに関して重みの配分を変えることができるのだろうか。
人にはできない。
これをやろうとすると、”私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。”(7章15節)の憂いに陥り、苦しいのだ。
これに執着するのは明らかに誤った自己認識である。
これは受け入れるべき実情である。

では何も変わらないのか。素晴らしい罪から開放された自由があるのに。
決してそんなことはない。
クリスチャンはキリストに似たものと変えられていく。(聖化
強制的な人格強制を受けるのではない、私たちの持つ自由選択によって良いものを選択していくのだ。
神様は全能なる方である。だから、私たちにはできないが神様にはできるのである。
御霊が”弱い私たちを助けて”(8章26節)くださり、”神がすべてのことを働かせて益としてくださる”(8章28節)のだ。
ある日、振り返って自分を見た時に聖化されていることに気付くのである。
つまり、何も心配することがない。今のままで良い。重要なのはここに信仰が必要なことである。
神様は私たちを愛してくださる、”ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方”(8章32節)である。

私はこう考える。
クリスチャンは生きている限り苦しみ続ける。
キリストの高みが途方もないからではない。これは希望の大きさを表している。
誤った自己認識を避けることができないからである。ただ、それだけのことでしかない。
しかし、”今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。”(8章18節)のとおり、この苦しみは取るに足らないもののようである。

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。”(8章30節)、クリスチャンとはこんなに素晴らしい恩恵を受けているのである。

怠け者

申命記29章、サムエル記第Ⅱ21章、詩篇100篇、エゼキエル書11章、ルカの福音書14章、テサロニケ人への手紙第二1章、箴言21章25-26節(Clay)を読む。

なまけ者の欲望はその身を殺す。その手が働くことを拒むからだ。 この者は一日中、自分の欲望に明け暮れている。”(箴言21章25-26節)
このとおりである。
今、私は今、なまけ者なので、暇をもてあまして、あれが欲しい、これが欲しいと欲望に明け暮れている。

すべきことはある。しかし、やる気にならないからしない。
そのくせ暇だ、暇だとつぶやいている。
何かを得たら満足するとも考えていない。

怪我や病と闘っていたときは、何もできなくても満足していた。
元気になるにつれこの傾向は強くなるようである。

人は労働に励むように創られているようである。

2007年9月14日 (金)

救われる者は少ないのですか

申命記28章、サムエル記第Ⅱ20章、詩篇99篇、エゼキエル書10章、ルカの福音書13章、テサロニケ人への手紙第一5章、使徒の働き22章1-5節(Clay)を読む。

すると、「主よ。救われる者は少ないのですか」と言う人があった。”(ルカの福音書13章23節)
救われる者は少ないのですか”は私にとっても大いに関心のあるものである。

私はこう考えている。

  • この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。”(マタイの福音書24章14節)
    福音、救いのことばはすべての人に何らかの形で伝えられる。
    生まれてすぐ死んでしまった子などは、もちろん神様が責任を負われる。
  • みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人”(マタイの福音書13章22節)
    多くの人が福音を聞くがこのとおりに実を結ばない。
  • しかし、死を目前にした時や多くの物を失った時、ふさぐものが取り除かれ実を結ぶ。
  • 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。”(テモテへの手紙第一2章4節)
    きっと多くの人が救われて、神様の大勝利がある。

楽観的といわれるかもしれないが、私はこう信じている。

祖母は必ず救われる。心に種が蒔かれているのは確かである。
死んでいった身内や知人は、その生涯がわからないので、なんとも言えない。しかし、救われている可能性は大いにある。

救われる者は少ないのですか”に対するイエス様のお答えは”努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。”(ルカの福音書13章24節)
また、”狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。”(マタイの福音書7章13節)ともおっしゃっている。

解釈を間違っているのか。辛いところである。

滅びに至るが、最後には、狭い門に殺到し、多くの者が救われる。これは曲解だろうか。

2007年9月13日 (木)

携挙

申命記27章、サムエル記第Ⅱ18-19章、詩篇98,22,16篇、エゼキエル書9章、ルカの福音書12章、テサロニケ人への手紙第一4章、使徒の働き21章37-40節(Clay)を読む。

主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら”(ルカの福音書12章36節)
この婚礼はイエス様と教会の結婚のことのような気がする。教会はイエス様の花嫁である。
ここから続くたとえはその婚礼後のユダヤ人に対することを述べられているのだと思う。

キリストと教会の結婚の前に携挙がある。
教会すなわちクリスチャンがイエス様のもとに集められる。この携挙についてテサロニケ人への手紙第一4章に詳しく書かれている。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。”(16節)、イエス様が来られる。
キリストにある死者が、まず初めによみがえり”(16節)、キリストを信じて死んでいった人のよみがえりである。
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。”(17節)、そのときに生きているクリスチャンがイエス様のもとに集められる。地上から一瞬のうちに姿を消すことになる。
このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(17節)とある。

この携挙の時がいつなのかは誰も知らない。
2000年間、クリスチャンは自分が生きている時代に携挙があると信じてきた。
私も信じている。

御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。”(ヨハネの黙示録22章17節)

迎えに来てください。

2007年9月12日 (水)

ジム

070912_13560001_2 ジムデビューする。

足が痛い。加減がわからん。

だれであっても

申命記26章、サムエル記第Ⅱ16-17章、詩篇97篇、エゼキエル書8章、ルカの福音書11章、テサロニケ人への手紙第一3章、使徒の働き21章27-36節(Clay)を読む。

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。”(ルカの福音書11章10節)
これは祈りについてのイエス様の教えの一箇所である。

だれであっても”と書いてある。

クリスチャンでなくても、
教会から離れている信者であっても、
十字架の罪のあがないが自分のためだと解っていなくても、
十字架の罪のあがないそのものが信じられなくても、
イエス様の物語が歴史上の事実だと信じていなくても、
聖書の神様が天地を創造された方だと知らなくても、

”聖書の神様”と唱えて祈れば、祈りは聞かれ、”求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれ”るのだ。
重要なのはその祈りをどなたに捧げているかである。

祈る人は”人にはできないことが、神にはできるのです。”(ルカの福音書18章27節)を信じている。
だから神様は必ず聞いて下さる。

2007年9月11日 (火)

隣人

申命記25章、サムエル記第Ⅱ15章、詩篇96篇、エゼキエル書7章、ルカの福音書10章、テサロニケ人への手紙第一2章、使徒の働き21章20-26節(Clay)を読む。

ルカの福音書10章25-37節に目が留まる。
ある律法の専門家の質問”では、私の隣人(となりびと)とは、だれのことですか”(29節)が話の主体になっている。
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。”(27節)をうけての質問である。

しかもこの質問、”彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。”に続いている。
何が正しさを示しているのだろうか。変な質問だなと思うのだが。

旧約聖書の隣人をざっと見ると、身内以外の不特定の人を意味しているように見える。
異邦人と使い分けているようにもみうけられるので、ユダヤ人に特定されているのかもしれない。

現在、隣人愛は限りなく薄れている。当時の実情もそうだったのかもしれない。
そういう意味でユダヤ人としての民族意識、もっとも重要な神様の命令に忠実である姿勢、と言う点で正しさを示そうとしたのかも知れない。

この後、強盗に襲われた人と通りすがりの三人の人のたとえが続く。
三人とは祭司、レビ人、サマリヤ人で、祭司とレビ人は強盗に襲われた人を見て反対側を通り過ぎるが、サマリヤ人だけが強盗に襲われた人を助け、介抱する話である。

イエス様から律法の専門家にこのたとえが話されて、最後に”この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。”と質問される。
律法の専門家はサマリヤ人とは答えず”その人にあわれみをかけてやった人です”(37節)と答える。
ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪いので、こう答えたと言われている。

イエス様は”あなたも行って同じようにしなさい。”(37節)と言われる。
ユダヤ人だけではなく万人に向けて、隣人の意識を持ちなさいと言っておられるようである。

さて、律法の専門家の答え”その人にあわれみをかけてやった人です”は正しかったのだろうか。
これがそもそも、この個所に目が留まった本題である。

イエス様は”自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。”(マタイの福音書5章44節)とおっしゃる方である。
質問”三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。”の答えは、正しくは全員になる。

これが”あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。”(レビ記19章18節)で神様の求めた愛である。

2007年9月10日 (月)

葬式

申命記24章、サムエル記第Ⅱ14章、詩篇95篇、エゼキエル書6章、ルカの福音書9章、テサロニケ人への手紙第一1章、使徒の働き21章7-19節(Clay)を読む。

Clay2007年4月7日のきょうの霊想”死は復活なり”に、大衆伝送者ムーディが葬式の説教の準備でイエス様を模範にしようと聖書を調べ、驚いて”イエスが葬式に来たときには、いつも死人をよみがえらせているではないか。だからイエスは、一度も葬式の説教をしていない”と語ったとある。

ルカの福音書9章に、イエス様が葬儀に直面したが、死人をよみがえらせていない場面があった。
イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
”(59-60節)
説教の言葉は”死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。”である。
新共同訳では”死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。”となっている。

イエス様は3人の死人をよみがえらせている。3人とも眠っている者を起こすようによみがえらせる。
その内のひとりラザロの話はまさに”死は復活なり”である。
キルケゴール著”死に至る病”もこのラザロのよみがえりの話より、イエス様を信じた者の死が”死は復活なり”とし”死に至らない病”を見出している。

死には2種類ある。
”死は復活なり”の死と、復活しない死である。
生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。”(ヨハネの福音書11章26節)
イエス様を信じないものは”死んでいる者たち”である。決して復活しない。
イエス様を信じたものは死なない。眠って起こされるのを待つのだ。

2007年9月 9日 (日)

ピアノリサイタル

今日は三男のピアノ発表会である。

070909_13190001_2 花束を買う。

花屋さんに普通はいくらぐらいのを買うものか相談するが、男の子向けにはたいそうになってしまった。
可愛い女の子が抱えるのを想像するよなー。

070909_16410001

ER4-S

ER4-Sが到着。早速、視聴する。

装着した途端に無音空間になる。
装着のコツが必要だそうだが解らないので、無音状態になるまで耳の穴にねじ込んでみる。

最初はたいしたことないなと思ったが、聞き流して違和感が嫌味がまったくない。
はっと気付くと聞き入ってる。
なんかいい気分にしてくれるイヤホンである。

エリックサティ”ジムノペディ”:ピアニストの吐息(?)が聞こえるぞ。
ベートーヴェン”田園”:聞き流すが、気分が落ち着く感じ。
ビルエバンストリオ”ワルツフォーデビィ”:観客の会話が良く聞こえる。すごい再現力。
ベートーヴェン”歓喜の歌”:合唱に鳥肌が。透き通るような歌声。まるでコンサートホールで生で聞いているみたい。(聞いたことないけど)
ベートーヴェン”悲愴”:ピアノの音色が本当に美しい。
ジャコパストリアス”ドナリー”:強烈な定位で一つ一つの楽器が鳴っている。ハーモニックスの響きが完璧。

このipod+ER4-Sは今までのオーディオライフはなんだったんだろうと思わせるものがある。

070909_11430001 確かに物はお粗末

難点ははずしたときにパッドに耳垢が、、、

2007年9月 8日 (土)

行列のできる店のラーメン

昼飯。
なんかだるいなー。でも、おなかすいたなー。ってな感じである。

070908_12010001 ラーメンとおにぎり2個470円

胃がもたれる。

断食終了

空腹とdiarrhea と頭痛でもう限界。

070908_05040001_2芋粥

070908_05280001_2ヨーグルト

を食べる。

粥うまー(~o~)
芋あまー(~o~)
茶こうばしー(~o~)

断食なんてするもんじゃない。

2007年9月 7日 (金)

本断食

昨晩、睡眠薬を飲んでいなかったせいか、何度か目覚めてしまい、辛い寝起きだった。
特に断食による特殊な状態はなかった。

しかし、トイレと水分補給で起き、動き出すと、胃に異変を感じはじめた。
”腹減った”と言う感じではない。なんか胃の調子が悪い感じである。
たぶん軽い胃炎になっているのだと思われる。

昼ごろになると、なんかダルイ感じがし、動く気がしない。
身体の調子が悪いときの様である。

午後1時、行こうかどうか迷ったが、プールウォーキングに行く。
3食抜いたぐらいで異変はあるまい。
ウォーキング中も特に何も感じないままである。
ウォーキング後の水分補給は少し奮発してみる。
070907_14310001 W Amino Value200円

16時、昨日、マックフルーリを食べてから24時間になる。
なんか腹が減ってきたぞ。
と、思い始めるとどんどん苦しくなってきた。

日没。
ユダヤ風では丸一日断食したことになる。
もっと言えば、明日食事をとれば3日間断食したことになる。

ひもじーよー。
今回はプチ断食と言うことで明日、早朝に芋粥を食おう。

今日は睡眠薬飲んで早く寝よ。

ER-4S

ヘッドホーンが壊れたので、新しいのを買うことにした。

ネットでいろいろ調べてER-4Sをオーダー。

SOUNDHOUSEで送料、税込みで\25,325でした。

ちょー期待(^O^)

(製品にはER4-Sと記してありました。)

機会を十分に生かして

申命記23章、サムエル記第Ⅱ13章、詩篇94篇、エゼキエル書4-5章、ルカの福音書8章、コロサイ人への手紙4章、使徒の働き21章1-6節(Clay)を読む。

先日、祖母のもとに見舞いに行ったときは、イエスキリストを思い出してもらうので精一杯だった。
まだ、次の行動を起こしていない。

外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。
あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。
”(コロサイ人への手紙4章5-6)

機会を充分に生かしているのだろうか。
祖母に対する答え方がわかるだろうか。

2007年9月 6日 (木)

断食前夜祭

”いいとも”で3日断食なるものを聞き、断食に挑戦してみることにした。
やせることにはあまり興味はないが、断食の辛さは一度ぐらい味わっても良かろう。

一応、ネットで情報収集する。事故が起こってはいけないので。
プチ断食なるものがあるようだ。

  • 3日で行う。
  • 1日目は準備と言うことで、夕食を軽めにする。
  • 2日目は本断食と言って何も食べない。
  • 3日目の朝に粥をゆっくりと食べ、段階的に食を戻す。

ものらしい。

とりあえず、3時のおやつにフルリエロを食べたので、夕食抜きから始めることにした。
何日間かは決めていない。

普通はある楽しみがなくなる寂しさは何度か経験したが、今回も同じ気分である。
まあ一生、断食するわけではないので酒やタバコとはまた違うか。

これで睡眠もなくしたら、人生の価値がわかるような気がする。

至福のひととき

070906_15020001_2
フルーリーとBackoffだぜ。
今日はアクアビクス30分もしたので疲れたyo。

パウロ

申命記22章、サムエル記第Ⅱ10-12章、詩篇93篇、エゼキエル書2-3章、ルカの福音書7章、コロサイ人への手紙3章、ダニエル書9章24-27節(Clay)を読む。

コロサイ人への手紙3章を読んで、パウロの勧めに悩む。

”上にあるものを求めなさい。”(1節)、”天にあるものを思いなさい。”(2節)とは具体的に何をすればよいのだろうか。
5節以下に”ですから”で始まり、勧めが続く。これだろうか。

  1. ”不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。”(5節)
  2. ”怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。”(8節)
  3. ”互いに偽りを言ってはいけません。”(9節)
  4. ”深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。”(12節)
  5. ”互いに赦し合いなさい。”(13節)
  6. ”愛を着けなさい。”(14節)
  7. ”キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。”(15節)
  8. ”感謝の心を持つ人になりなさい。”(15節)
  9. ”感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。”(16節)
  10. ”あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。”(17節)

できているものもあるだろう、と書いてやっぱりないかと思い直す。心がけているものはある。

パウロは頑張れと言っているのだろうか。心に留めえておきなさいと言っているのだろうか。それとも、こうであることを願い求めなさいと言っているのだろうか。

どうも願い求めるもののようである。
では、その必要性を充分に認識することがまずあるべきである。

残念ながらこの手紙からは、こうあるべきだから、としか読み取れない。
聖書全体を要約してこの10の勧めが書かれているのだと思われる。
つまり聖書全体や人生経験がこの勧めのすばらしさを証明しているのだと考える。

このように生きることは幸いなのだとは思う。
だが、”ばかになって痛みを忘れよう”と読み取ってしまい、素直に”はい”とは言えないのである。
本当はどうなのだろうと考えてしまう。

これが罪のもたらす不幸への道だと考える。
不快になるほど激しく苦しい目を見て、まだ解らない自分が悔しくてたまらない。
願い求めることすらできない。

2007年9月 5日 (水)

宗教

申命記21章、サムエル記第Ⅱ9章、詩篇92篇、エゼキエル書1章、ルカの福音書6章、コロサイ人への手紙2章、ダニエル書9章24-27節(Clay)を読む。

宗教を辞書を調べると”神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。”と書いてある。
この定義を分析すると、宗教とは人間が欲するから求めるもの、もしくは人間を超越したものの従うべき教えになる。
聖書は明確に後者である。初めに創造主である神様がありきである。
聖書は明確に宗教の経典に位置することになる。これに異論はない。

しかしながら聖書も人間が受け入れるか、受け入れないかにかかわっているので、他の宗教と同様に人間の立場からの見解が重要であることは当然である。
そこで宗教の観点で必要と不必要、本物と偽者、この2点で整理する必要が生じる。

必要と不必要について言えば、何も困っていなければ不必要、以上である。
毎日が今と同じ状態で続いて、死んだら消滅、これを望むのであれば宗教は必要ない。
しかし、こんなことを考えている人はいるのだろうか。
今のままであれば充分と思っている人はこの域には達していない。望んでいるのだから今は手にしていないのである。
一時的に今、良いことがあって人生満足としている人は、明日、不幸になることを恐れている。それこそすがりたい思いで。違うだろうか。
また、人はみな死を恐れている。なぜだろうか。なにかあると思っているからであろう。違うだろうか。

してみれば不必要な人などいないのだ。
皆、無病息災を求めて何かを拝んでいる。
か、世の快楽で気を紛らわしているかのどちらかだと考える。
宗教に頼ることは実に自然なことである。
一寸先が見えない人生と、死への恐怖がそうさせるのだ。
宗教を持たない人は一時の快楽に対する代償のために貧しさの中にいる。

つまり重要なのは本物と偽者の区別である。

  • 人を創った方と人が作った物
    どちらが本物かに議論の余地あるのだろうか。
    よく考えるべきである。
  • 不可知論(創造主を認識することはできないと言う考え)
    これは当然である。
    超越した方を自分の目線で捉えることができるわけがない。
    だから信じることが重要になるのだ。
  • 無神論
    では生きることに意味があるか。

聖書の本質は我々を創った方に従う。実に単純である。
皆、自分の拝んでいるものが何なのかを良く調べるべきである。

さて、では聖書では何を教えているのか。

一般の世に多々ある宗教は戒律を守ることを教えている。
戒律は辞書で調べると”宗教上の人が守るべきおきて”とある。
幸せな毎日、死後の安楽をかけた忍の一字である。

聖書では戒律とは”この世の幼稚な教え”(コロサイ人への手紙2章20節)としている。
また、”そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。
”(コロサイ人への手紙2章22-23節)と評している。

礼拝は何を礼拝するかが問題視されているので良くわかるが、謙遜と苦行を偽善として否定している。これは実に思い切った言い切りである。

旧約聖書は戒律にまつわる人類の歴史が書かれている。
人は神様のようになりたがった。でもなれなかった。
そして戒律を元にした契約を神様から与えられるが、守れない。この戒律を守れない暗くて長い歴史が旧約聖書の時代背景である。

新約聖書はこの戒律を守ることを否定している。
なぜか。
戒律によって人は幸せにはなれないからである。
だから神様の恵みによって栄光の到着地点と安らぎを得る新たな方法が契約として人類に与えられたのである。

イエスキリストが自分の罪の犠牲になって十字架でしなれた、そして死を打ち破って復活された。これを信じることしか聖書は求めていない。

世の戒律を求める宗教が人を滅びに導くことは旧約聖書を読めばよく解る。
自分の行いをあきらめたのなら、誰が本当の救い主かを良く考えて選ぶ必要がある。

2007年9月 4日 (火)

パウロ

申命記20章、サムエル記第Ⅱ8章、詩篇91篇、哀歌5章、ルカの福音書5章、コロサイ人への手紙1章、ダニエル書9章24-27節(Clay)を読む。

パウロという人は不思議な人である。

使徒の働きで突然登場し、その生涯を証しされ、新約聖書の手紙の大半を記述する。
最初、教会を迫害したが、イエス様にお会いして、悔い改め、改宗。
そして怒涛の勢いで教会を設立しながら、ローマ帝国時代の全世界と言って良い地域に向けて伝道の旅をする。
生まれも育ちも、ユダヤ人、ユダヤ教のエリートでローマ国籍すら持っいるが、そんなものはちり、あくたと評する。
ペテロがユダヤ人に向いていたのとは対象に、異邦人(非ユダヤ教徒)に向けて福音を広めていく重荷を負っている。これがすごい。

パウロの手紙を引用したメッセージには、”我々もパウロのようにありたいものです”が付き物のようになっている。
その都度、ひねくれものの私は”パウロになんかなれない”と反発心が起こる。

パウロは確かにクリスチャンの手本である。
だからと言ってパウロのありかたを見習う、パウロを目指すのは何か違うような気がする。
”師はイエス様でしょう”と言っているのではない。

今日コロサイ人への手紙を読んで気になったのが、次の箇所である。
キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。”(1章24節)
キリストの苦しみの欠けたところ”とはどのような意味であろうか。

イエス様が十字架と復活による我々の罪のあがないを実現し、昇天されてから2000年になる。
この間にたくさんの人がこのキリストの救いを信じ、クリスチャンとなっている。
クリスチャンが”キリストにある成人”(コロサイ人への手紙1章28節)になる、これを実現しないといけない。
なるほど、キリストがこの世におられた時代はキリストに習うことができる。
しかし、その後のキリスト不在の2000年間、これを”キリストの苦しみの欠けたところ”と言っているような気がする。
つまり聖書、パウロの書いた手紙から習うことになるのである。

パウロは教育者であり、我々は教育される者である。
だから、パウロのありかたを見習う、パウロを目指すはおかしい。
そんなことをしたら必要のない重荷を負うことになってしまう。
大切なのはパウロの手紙から、今自分に必要なことを見出すことである。
パウロはすべてのクリスチャンの必要を満たすだけの手本を残しているのだと考える。
あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。”(コリント人への手紙第一10章13節)とあかしされている。
すべてのクリスチャンが同じである必要はない。
一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように”(ローマ人への手紙12章4節)である。

このパウロの登場は重要なことである。
これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。”(コロサイ人への手紙1章26節)、ここでの”これは”は教会のことである。
旧約時代には教会時代は隠されていた奥義と言っている。
旧約時代にはキリストと教会の関係は、キリストと選民すなわちユダヤ人との関係に隠されている。
イエス様によって、神様の深い恵みによる、ただ信仰だけを根拠にした救い、行いによらない義が明らかにさたので、ここで初めて神様と神様を信じた者のあり方をクリスチャンが知る必要ができたのである。
だからパウロが登場し、聖書にパウロの手紙が掲載されたのではないだろうかと考える。

2007年9月 3日 (月)

健やかであっても八十年

申命記19章、サムエル記第Ⅱ7章、詩篇90篇、哀歌4章、ルカの福音書4章、ピリピ人への手紙4章、ダニエル書9章20-23節(Clay)を読む。

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。”(詩篇90篇10節)
労苦とわざわいか、確かにそうである。

なぜなら、人間は生きている間は絶対に達成しない。
常に襲ってくる、こうなれば、ああなれば、といった希望的な妄想の連続である。

現実もまた実生活上の労苦とわざわいヘの応対の連続である。

一過性のよろこびは何の誇りの足しにもならない。
これに人生の価値を求めるのも、またむなしい。

はぁ、まだ30年もある。

マックフルーリーオレオ&キットカット

070903_14400001 プール後に三男と待ち合わせし、一緒に食らう。

しかしフルリレオっておいしいなー。
クポーンで安くなるから食べる気になるけど。

2007年9月 2日 (日)

ホームページ

尼崎キリスト集会のホームページをリニューアルする。

尼崎キリスト集会でググると一志キリスト集会のホームページを発見。
知ってる人をたくさん見かける。感動

くびき

申命記18章、サムエル記第Ⅱ6章、詩篇89篇、哀歌3章、ルカの福音書3章、ピリピ人への手紙3章、ダニエル書9章11-19節(Clay)を読む。

人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
”(哀歌3章27-28節)
もう若くはないからくびきを負いたくはないのだが。
今の辛いのは何らかのくびきを負っているのだろうと考える。

ひとり黙って座っているか。

たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。
”(哀歌3章32-33節)に希望を抱いて。

2007年9月 1日 (土)

躁鬱

申命記16-17章、サムエル記第Ⅱ5章、詩篇88篇、哀歌2章、ルカの福音書2章、ピリピ人への手紙2章を読む。

いろいろな事をしたいと望むこともあり、何もしたくないと嘆くこともある。
自分自身の状態が不可解でならない。
病気なのであろう。
先日、テレビで見た躁鬱なのだろうか。
あせったり、いらいらしたり、倦怠ムードになったり、疲れる。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。”(ピリピ人への手紙2章13節)
確かに良い行いは、内に志が起こるように思う。
自分自身の望みではなく、必然だけが成るようである。

ではそれ以外の行いに対する思いは意味がない。

« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »