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2007年8月

2007年8月31日 (金)

モーラステープ

070831_10390001 モーラステープ

本日は通院。

骨折箇所は骨はできてきている。2、3ヶ月でできて1、2年で完治するらしい。
骨折箇所が痛いのは個人差があるとのこと。うーん、たまらん。
異種骨片は小さくなってと言うか吸収されていってるらしい。人体の不思議だ。

屈伸時の膝の割れそうな痛みは靭帯の損傷らしい。シップ薬を70枚(35日×両膝)出してもらう。

世を去って

申命記15章、サムエル記第Ⅱ4章、詩篇87篇、哀歌1章、ルカの福音書1章、ピリピ人への手紙1章を読む。

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。
しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。
”(ピリピ人への手紙1章23-24節)

私を初穂とした福音の述べ伝えは私の意識するしないにかかわらず、広まっていてる。
これはすばらしいことである。

しかし、生きることは苦しいことである。
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。”(ピリピ人への手紙1章29節)と書いてある。

2007年8月30日 (木)

主は聞いてくださる

申命記14章、サムエル記第Ⅱ2-3章、詩篇86篇、エレミヤ書52章、マルコの福音書15-16章、エペソ人への手紙6章を読む。

主よ。あなたの耳を傾けて、私に答えてください。私は悩み、そして貧しいのです。
私のたましいを守ってください。私は神を恐れる者です。わが神よ。どうかあなたに信頼するあなたのしもべを救ってください。
主よ。私をあわれんでください。私は一日中あなたに呼ばわっていますから。
あなたのしもべのたましいを喜ばせてください。主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。
”(詩篇86篇1-4節)

主は聞いてくださる。
私が待てないだけだ。

2007年8月29日 (水)

ォレオ

070829_15460001_2 何かオレオって感じ。

待つ

申命記13章、サムエル記第Ⅱ1章、詩篇85篇、エレミヤ書50-51章、マルコの福音書14章、エペソ人への手紙4-5章を読む。

私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。”(詩篇85篇8節)
主であられる神は黙っておられる。我々は良い結果を待つだけである。

忍耐のない私には辛くて苦しいことである。

2007年8月27日 (月)

煩わしい

特に人との関わりが煩わしい。
何もしたくない。
いらいらする。

鬱だそうだ。
身体の不自由さも影響するらしい。

夏ばてなのか、疲れてるのか、人格の問題なのか、霊的な問題なのか、病気なのか、区別がつかん。

生きているのが煩わしい。

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2007年8月26日 (日)

元に戻れ

申命記12章、サムエル記第一31章、詩篇84篇、エレミヤ書49章、マルコの福音書13章、エペソ人への手紙3章を読む。

6日ぶりに聖書を読む。
以前のように習慣を取り戻せればよいのだが。

今の自分の状態を見失っているような気がする。

人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。”(エペソ人への手紙3章19節)

2007年8月25日 (土)

香芝SA

070825_14580001_2 アイスDEぶリオッシュ300円

お伊勢屋本舗

070825_12320001_2 松坂牛しぐれ福まん300円

鈴木水産内宮前店の寿司

070825_12210001_2 松坂牛+アワビ+鯛の昆布〆め1000円

来た、見た、食った。

ELP

070825_12010001_2 Tarcus

070825_11520001_2 見る

おかげ横丁本物志向

070825_11340001_2暑う

070825_11400001_3涼しい

070825_11410001_3 三男が景品get

赤福

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足が痛むので休憩する。

070825_11010001_2 旨し甘しでほほほほ。

おかげ横丁

070825_10420001偶像の街

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朝食

おはようございます。

070825_08030001 うまー

2007年8月24日 (金)

晩餐クワン

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=満腹だね

ジャMac

070824_15360001_2 ジャスコの一階にmacがある。

暑い日にはオレオレ。

スウィングサンタマリア

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股間がムズムズしますた!

フライングドン・キホーテ

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070824_13410001 070824_13410002 070824_13410003 070824_13420001_2 涼しい〜

あるか猿の戦い

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写メ撮ってたら射撃できんがな。

パレード

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顔でか!

闘まつさか牛コスタマタドール

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真っ暗で何も見えん。
首、肩、頭、痛。

マヨール広場アルハンブラ

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伊勢エビのパエリアセット 3000円/1人

070824_12240001_2  ガスパチョ

070824_12250001_2 パン

070824_12300001_2 サラダ

070824_12310001_2 伊勢エビのパエリア

070824_12530001_2 クレームあかたらぬあ+コーヒー

マンゴーかき氷

冷をとる

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スプラッシュ門世羅

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うーんイマイチ

ジェトコスタ

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リーンアウトでコーナーを攻める

ピレネレオ

070824_10480001_2 一回パスして一番前。

イトたのし(^o^)

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乗りながら写メ

スペインビレジ到着

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070824_10100001_2ドンキ・ホっテ

070824_16060001 フリーパス

快晴

おはよー

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2007年8月23日 (木)

晩餐

070823_18020001_2 貝がメインでーす。

お刺身のたらい盛が別途有りました。
馬。

賢島パールハウス

070823_15340001_2 到着。疲れたよう。

070823_15380001_2 ゴージャスだね〜。

伊勢マリンランド

070823_14340001_2 賢島到着 遠杉。

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伊勢志摩名物と称するてこね寿司+伊勢うどんを食べる。
醤油とかつお節の味しかしなかった。

忍者

070823_12300001_2 甲賀付近・・・・・

ESSO

070823_08390001_2 伊勢に向かってGO

ESSOで給油。
サービスカード満点でティッシュ20個Get。満タンだぜー。

2007年8月22日 (水)

music 2.5

US AmazonのUSEDでオーダーしたCDが無事到着!(^^)!

070822_22240001 ジャケットが無いが、無問題。

12日で来るとは、早。

15年ぶりに聞いたのだが、脳裏に記憶がしっかり残ってることに関心。
”Bringing JOANNA Back”がGood。

2007年8月20日 (月)

ばあちゃん

申命記11章、サムエル記第一30章、詩篇83篇、エレミヤ書48章、マルコの福音書12章、エペソ人への手紙2章を読む。

今日は祖母の居る老人ホームに行く。

元気そうだった。よかった。
ただ、物忘れがひどくなっていた。何度も同じ質問をする。

福音を伝えたいと気負ってきたのだが。
うーん、福音をどうやって伝えればいいんだろうか。全然、分からない。

”イエス・キリストを知ってる?”と聞いてみる。
”うん、知ってるよ。昔、元気な時に聞いた。時々思い出すよ”とな。
自分の子供の名前は忘れているのにキリストは知ってるとは驚きである。
福音は浸透しているものなのだな、と感動する。

”行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”(エペソ人への手紙2章9節)
神様のご計画は壮大である。
昔、蒔かれた種が実を結べばよいのにと思う。
また、それを見て私が神様の技を見て励まされる。

本は読んでいるとのことなので、今度、聖書を持ってこよう。

なか卯

070820_12230001
親子丼並+小すだちうどん790円
うーん徳島〜。

2007年8月19日 (日)

家族も救われます

申命記10章、サムエル記第一29章、詩篇82篇、エレミヤ書47章、マルコの福音書11章、エペソ人への手紙1章を読む。

振り返って見て、家族にどんどんと福音が伝わっていることに改めて気付く。
これはすごいことである。

最初は私の変わりようを見て家内が変わり。
そして夫婦の変わりようを見て子供たちが変わっていく。
家庭が聖書の示す方向に変わっていくことは、誰が見てもよいことである。
一家の主としても安心である。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。”(使徒の働き16章31節)
このとおりになっていく。

あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。”(エペソ人への手紙1章18-19節)
私の心の目もはっきりと見えるようになればと礼拝にて切に願う。

少し見えるようになったか、自分の得たものの尊さを少し知る。

2007年8月18日 (土)

出エジプト2

申命記9章、サムエル記第一28章、詩篇81篇、エレミヤ書46章、マルコの福音書10章、ガラテヤ人への手紙6章を読む。

出エジプトの目的地は約束の地である。
では出エジプトをクリスチャン人生になぞらえた場合の最終到着地点はどこなのだろうか。
我々はいったいどこに向かって日々を送っているのだろうか。

死について言えば、明確である。
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている”(ヘブル人への手紙9章27節)とあるとおり、死後の裁きで、義と認められるか、認められないかの二者択一の結果が待っている。
人は心に信じて義と認められ”(ローマ人への手紙10章10節)のとおり、イエス様の救いを信じたものは、その時点で義と認められる特権を得ている。
人が自力で達成できなかった人生の目的を神様の恵みによって達成するのである。

しかし、それが最終到着地点なのであれば、今、既にその権利を得ているのだから、なお生きていることに意味をもたらすものなどない。
ただ死を待つ人生、それもまた虚しい。
義と認められた上で、それでもなお生きる目的とはいったい何か。

人生を楽しめばよいと考えていたが、どうもそうではないようである。
人生を楽しんで得るものは、生きることによってついてくる苦痛に比べるとはるかにつまらない。もっといえば人生を楽しんで得られるものなどない。
むなしい思いをしながら、食べることを楽しむ、これだけである。

聖書はそうではないと教えている。
善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。”(ガラテヤ人への6章9節)と書いてある。
私は正直なところ人生で何かを得るということに失望している。
待ちきれなかったことが原因だと考える。
刈り取るとは何か、刈り取る喜びはどのようなものかを知らない。
悲しいことである。

人生の楽しみ方を知らないことになる。
また、ここに帰結する。

2007年8月17日 (金)

出エジプト

申命記8章、サムエル記第一27章、詩篇80篇、エレミヤ書45章、マルコの福音書9章、ガラテヤ人への手紙5章を読む。

申命記はエジプトから出て約束の地への旅が終わるにあたっての回顧録のようだ。
出エジプトとはイスラエルの民が神様に導かれて、約束の地へと旅する話である。

エジプトで奴隷の身分であり、その苦しみから神様に助けを求めることから始まる。
モーセが登場しイスラエルの民を先導しエジプトからの脱出が始まる。
初めエジプトの王パロの激しい妨害を受けるが、あの海が割れ、乾いた地面を民が歩いてわたるという超自然的現象によってエジプトを旅立つ。
民はその旅の中で神様の技をたくさん見るが、困難が起こるとエジプトを出たこと、モーセに従ったことを後悔する。
荒野を旅し一旦、目的の地の直前にまで行くが、民は最後の関門で恐れをなす。神様を信頼しないのだ。
その結果、もう40年間荒野をさまようことになる。これによってエジプトを出た人々は死に絶え、放浪中に誕生した人々と世代交代する。ただ、エジプトを旅出た世代でカレブとヨシュアだけが約束の地に入る。モーセは約束の地に入れない。

出エジプトは我々の罪からの開放を表している。
エジプトは罪を表している。罪の苦しみに耐えかねて神様に導かれ脱出するのだ。
旅路での困難は私たちの日々の苦悩を象徴している。
たしかに昔に戻りたいという誘惑が常に襲ってくる。
しかし耐え切れない困難には脱出口があり、最良の機会に神様が助けて下さる。
それを信じ続ければよいのだが、積み増される困難の前に心がなえる。
あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。――主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。”(申命記8章16節14-16節)と回顧し要約している。

この旅の中でイスラエルの民が世代交代したように、我々も不要なものが取り去られていくようである。
肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。”(ガラテヤ人への手紙5章17節)にあるとおり、肉の願いを淘汰しないといけない。

最終的には”あなたがたのうちにキリストが形造られるまで”(ガラテヤ人への手紙4章19節)これは続くようである。

2007年8月16日 (木)

無職

申命記7章、サムエル記第一26章、詩篇79篇、エレミヤ書44章、マルコの福音書8章、ガラテヤ人への手紙3-4章を読む。

朝寝坊をした。
朝寝坊をすると仕事をしていないことの負い目を感じる。
今は働ける状態ではないので、現実の問題に対する負い目ではないようである。

負い目の要素を考えてみると、

  1. 男は働いて家族を養うものだ、という考えに反している。
  2. 仕事をしている人、勉強している人、家事をしている人、その他なんらかの働きをしている人と比べ、不平等に楽な生活をしている。
  3. 仕事の報酬以外で生活のために必要な金銭を得ていることが不正に思える。

上記のとおりになる。
これに対して、

  1. 聖書ではこのようには教えていないと聞いたことがある。確かにそのとおりである。養っているのは神様だ。
  2. 聖書を学んで、神様に祈りをささげて、リハビリで身体を回復させて、これも大切な働きの準備と考えれば十分ではないだろうか。
  3. 神様が生活を守ってくださってるのだ。お任せしているのだからこれでよい。

と考える。
つまりよくよく考えると問題があっての負い目ではない。
昔の生活に引き戻そうとする力が働いているようにい思える。
負い目は一見して謙虚をあらわしているように見えるが、意味なく自己を追い込むこともある。慎重な判断が必要である。

どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。”(ガラテヤ人への手紙4章9節)
働きにつくにあたっては以前のような仕事、生活に戻るの避けたい。

上記の3点んお解釈は正解である。
無力、無価値の幼稚な教えから開放されている。

超水

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プールウォーキング後の水分補給に。
汗をかいていたかは不明である。喉が乾いているわけでもない。

顔ちぇき

070816_13030001この写メで顔ちぇき

堤真一 59%

市川亀治郎 58%

山崎邦正 58%

2007年8月15日 (水)

夏Mac

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マックフルーリーキャラメル&オレオ
クポーンで190円
好きだね〜

負け組み

申命記6章、サムエル記第一25章、詩篇78篇、エレミヤ書40-43章、マルコの福音書7章、ガラテヤ人への手紙2章を読む。

負け組みを見下して、負け続ける人がいる。
かわいそうなことである。
自分は強いと思うことと、強くありたいと思うことが混同されているようである。
その人の経験、特に苦難を乗り越えてきた誇りが弱いものを見下す意識をもたらせていると考える。

負け続ける人は戦いを止めなければいけない。
自分を助けるものにすがらなければいけない。
確かに、すがる対象を見つけ出すことは困難である。
しかし、すがることはもっと困難である。自分でこのように追い込んでいる。大丈夫なようにごまかしてはいけない。もう勝てないことを認めなければいけない。
2つの困難を解決しないといけない。

汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。
この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。
”(マルコの福音書7章25-26節)
汚れた霊になど太刀打ちできない。だから、助けを求めなくてはならない。
この女性は助けてくれる方を見つけ出し、助けてくれるようにすがった。
そして願いが叶う。

私たちが困っているなら、神様は次のようにおっしゃっている。これに耳を傾けよう。
もし帰るのなら、――主の御告げ。――わたしのところに帰って来い。もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない。”(エレミヤ書4章1節)
招いておられるのは天地を創造し、その中の全てのものをお創りになられた方である。
解決はこの方の元に必ずある。
この方にすがることは決して恥ずべきことではない。
なぜなら、我々はそのように創られたのだ。
神様にすがることを拒む心の壁も忌むべき物である。

2007年8月14日 (火)

Turn left.

申命記5章、サムエル記第一24章、詩篇77篇、エレミヤ書39章、マルコの福音書6章、ガラテヤ人への手紙1章を読む。

私はもう一度バイクを楽しみたい。
もちろん祈りの願いの一つである。
楽しみ方は最初に乗りたいと思ったときから変わっていない。
ただただ軽快に色々な所へ行きたい。それだけである。
だから、それで幸せになれるなどとは思っていない。
ただ、多分2つしかない生きる動機のひとつである。
Turn left. Turn right. 2つあれば良い。

しかし、今は希望が叶う目処が無い。
だけど慰められるのは嫌だ。
希望が絶たれるような気がするからである。

バイクを楽しみたいと思い、祈り求めて与えられたと信じている。
当時は心に形成された信仰に硬く立っていた。
みことばの力強さに勇気付けられ歩んでいた。

何が変わったのかは解らないが、今はこの状態である。
いつまでこの状態は続くのだろうか。
今までのことを思い返し、考え、眠れないことが良くある。

今、心が萎えているは神様のお取り扱いが変わったからだと考えている。
悪くなったと思っているのではない。
自分にとって本当によいものが何なのかは私には解らない。
ただただ結果が素晴らしいことに、驚き、感謝に満たされるだけである。

詩篇77篇”アサフの賛歌”を読んでいてこんなことを考えていた。

私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。
苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。
私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。セラ
あなたは、私のまぶたを閉じさせない。私の心は乱れて、もの言うこともできない。
私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。
”(詩篇77篇1-5節)
私は言った。「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」
私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。
私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。
”(詩篇77篇10-12節)

カツ飯

昨日、義理の母に夕食に招かれ、家族で伺う。
加古川名物のカツ飯をご馳走になる。

母に感謝の祈りにお付き合いいただいた。
あかしになっただろうか。

゛仏壇には手を合わせへんの゛と一言。
どうも平等な扱いのようである。

2007年8月13日 (月)

主は与え、主は取られる

申命記4章、サムエル記第一23章、詩篇76篇、エレミヤ書38章、マルコの福音書5章、コリント人への手紙第二12-13章を読む。

私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。”(ヨブ記1章21節)

全ては神様のものである。
この肉体すら塵からできたのだから神様のものである。
もちろん全ての関係も神様から賜ったものである。

もともと何も持っていなかったのだから、与えられたことに対する感謝をしなくてはならない。
もともと何も持っていなかったのだから、失うことは受け入れなければならない。

私は持っているものの素晴らしさと、持っていないもののつまらなさを理解していない。
だからいつまでたっても幸せにはなれない。

苦しいのは今の状態の必然性がわからないことである。
神様にお伺いしたいと心から思う。
しかし、最善を与えていただいていることを信仰として持つべきだとも考える。

これらの知識は私が作り出したものではない。
これも神様に与えられたものである。”主は与え、主は取られる。
必要にして十分なのであろう。
この知識の範囲で生きることを神様は望まれているとも考える。

私は裸で死んでいく。
しかし欲しいものはある。
それについて来る重荷はこれ以上負いたくないが。

どうなっていくのだろう。

2007年8月12日 (日)

大渋滞

申命記3章、サムエル記第一22章、詩篇75篇、エレミヤ書37章、マルコの福音書4章、コリント人への手紙第二11章を読む。

高速西向き大渋滞であった。30kmは軽く越えてるな。
毎年のことだが、この国は仏教国ではあるまい。
親戚一同が集まりたいなら、それぞれ記念日を決めて分散すればよいのに。
(各自に1週間ずつ休んでも会社は傾かないよ。)
毎年、この時期は出勤していたが、電車も街もすいていて良い。
難は飲食店が休みなことぐらいである。

今日伝道集会でお盆について解説を聞いた。
地獄で苦しんでいる先祖が年に3日間だけ子孫の家に帰って休息するらしい。
1.こんな話を信じてる、それ以前に知っているのだろうか。
2.人は必ず死ぬが、死後がこうだとして悩みが無いものなのだろうか。
死に対して不真面目な感じがする。

ガッつん系

お昼はラーメンとおにぎり2個。

ガッつん系坦々麺
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ラーメン多すぎておにぎりを一つ残す。

2007年8月11日 (土)

3歩進んで3歩下がる

申命記2章、サムエル記第一21章、詩篇74篇、エレミヤ書36章、マルコの福音書3章、コリント人への手紙第二10章、ローマ人への手紙6-8章を読む。

変化が無いことに飽き飽きしていて、どうしたいのか、どうなって欲しいのかが自分でも解らない苦悩は結構辛い。
酒だ仕事だ遊びだと気を紛らわせることはできるだろうが、そんなもの欲しくもない。
嘘に付き合うのはもうこりごりである。

神よ。なぜ、いつまでも拒み、あなたの牧場の羊に御怒りを燃やされるのですか。”(詩篇74篇1節)
怒られている意識はないが、立場はこれに良く似た感じがする。

もう私たちのしるしは見られません。もはや預言者もいません。いつまでそうなのかを知っている者も、私たちの間にはいません。”(詩篇74篇9節)
これが辛い。
いつまで待てばよいのですか。

なぜ、あなたは御手を、右の御手を、引っ込めておられるのですか。その手をふところから出して彼らを滅ぼし尽くしてください。”(詩篇74篇11節)
私にとっての”彼ら”とは罪や虚無や誘惑である。

私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら”(ローマ人への手紙8章17節)とあるが、その原理が解らない。
だれか解き明かしして欲しいものである。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。”(ローマ人への手紙8章18節)とある。
私には取るに足りないなどとは決して思えない。
満足している人、将来の栄光に希望を置いて喜んでいる人など居るのだろうか。
それともみんな耐え抜いているのだろうか。

なぜ神様はこのような苦しい状況をお創りになられて、我々クリスチャンをそこに置かれたのだろか。
これが聖化のプロセスなのだろうか。
もだえ苦しむような、もどかしさである。

目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。”(ローマ人への手紙8章24-25節)
確かに今は見ていないものを望んでいる。
だから、忍耐が必要だと書いている通りに苦しい。

受ける栄光の素晴らしさ。ここにしか希望は無いことも知っている。
見たことの無いものに対する希望。これこそが信仰であることも知っている。
しかし、まったく持ってここから考えが発展しない。

何を期待されているのだろうか。

ハーブとイクラの冷製パスタ

ハーブとイクラの冷製パスタを作って食べる。
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イクラ258円をドドーンと全部使用。
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男の料理を公開。

材料 二人前(一人で食べきったけど)

  • オリーブオイル:大さじ一杯(たぶん)
  • ハーブ適当に色々(イタリアンパセリ、ルッコラ、タイム、オレガノ・・・)
    店先で適当に選ぶ。特にサラダ用を選定する。
    ミントを入れたかったが無かった。これで良かったのかも。
    タイムとオレガノは乾燥してビンに入ったやつを使用。
  • スパイス(にんにく:1かけ薄切り、鷹の爪:1本、クローブ:4本)
  • たまねぎ:1/4個みじん切り
  • トマト:1個角切り
  • スパゲッティ:2人前だから200gかなー

作り方

  1. ネットで冷製パスタの作り方を調べる。
    なるほど麺は水道水で冷やすのか。それで、冷ましたソースにからめるのか。
    そういえば、昔よく通っていたイタリヤ料理屋が冷製パスタは味をしみこませるのが難しいと言ってたな。
  2. でっかい鍋にたっぷりの水とちょっと多めの塩入れて加熱しておく
  3. フライパンにオリーブオイルとスパイス全部を入れて強火で加熱
    オリーブオイルがキンキンにあったまったら鷹の爪以外のスパイスを取り出す。
  4. 中火にしてたまねぎ投入。塩とコショウを少々入れて、せっせとかき混ぜる。
  5. たまねぎに色がついたらトマトを投入。せっせとかき混ぜる。
  6. トマトがへにゃへにゃになったら、火を止め、スパイスを入れてやっぱりかき混ぜる。(ソース?完成)
  7. ちょうど鍋の水が沸騰しているので、スパゲッティを入れて7分待つ。
  8. ざるに茹だったスパゲッティをあけて、水道水をかけてもみ洗いしながら冷やす。
  9. 冷えたスパゲッティを6.のソースに入れてからめる。
    よーくかき混ぜました。
  10. 皿に移してイクラをじゃーとかける。
    そしたらパックに醤油だれがついているのを発見。しかたがないから上からかけた。orz
    今度は浸け置きしよう。

作り方を読んでいてもおいしそうじゃいが、結構おいしかったぞ。
イクラの高級な食感が良く出ていて、我ながらGJ。

悩み多き日々

070811_10530001 Clay9月号が贈呈で送られてきた。

「聖化について -悩み多きクリスチャン生活からの脱出-」と言う記事があった。
その中に”「最近喜びがない。苦しみばかり来ている。昔のあの喜びはどうしたのだろうか」と悩んでいる方、安心してください。あなたは普通です。”と記載されていた。

多くのクリスチャンが悩み多き日々を送っているのだと想像する。
私は特殊ではないようである。

脱出に至る記事は次号のお楽しみのようなので、購読するかと考える。
しかし、本来的には一話完結にすべきだと思うが。

2007年8月10日 (金)

陰険

申命記1章、サムエル記第一20章、詩篇73篇、エレミヤ書35章、マルコの福音書2章、コリント人への手紙第二8-9章を読む。

私は陰湿で陰険である。
他人を受け入れられないし、他人の過失は許せない。
しかも自分のことは棚上げである。

最近、これが大爆発した。
脳天がくらくらし、自分の考えていることに嫌悪を感じた。

なぜ自分はこんなに心が狭いのだろうか。
なぜ人となりが改善されないのだろうか。
こんなことで思い悩むために生きていかないといけないのだろうか。

本当に憂鬱である。
鬱病の苦しみではない。
明日もこうかと考えると嫌気が差す。

明日なんか来なければよいのに。

詩篇に次の通り書かれている。
私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。
しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。
”(詩篇73篇21-23節)
作者の心の苦しみと私の心の苦しみは違うかもしれないが、この様である。

突き刺された思いの中で、愚さに打ちのめされる。

そうなのだ、ここで神様への思いがよぎるところも同じである。
私が求めるのではない。
捕まえられているように引き寄せられる。

イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」”(マルコの福音書2章17節)
本当に良かったと思う。
私は自分のおろかさを補えない。
頭にも、身体にも、人格にも医者が必要である。
招かれなければ、解決しない。

music 3

音楽を買う。これは正しい表現ではないように思える。

古井戸の”古井戸の世界”2,100 円
誰がカバやねんロックンロールショーの”WAOO・・”2,415円
070810_16370001_2 

HMV.co.jpで購入する。
本日、到着。

古井戸は”さなえちゃん”が目当てで購入。
昔、ラジオで聞いたのと違う感じがする。カラオケとも歌詞が違う。
歌詞カードを見ると”2番以降は自由に歌詞をつけて歌ってください”とな。
こういうふざけた感じはこの時代の特徴として好きになれない。

誰がカバやねんロックンロールショーは聞いたことがなかったが、存在は知っていた。
一度聞いてみたいものだと思っていた。
期待を裏切らない良い内容であった。

music 2

音楽を買う。これは正しい表現ではないかもしれない。

Gillanのthe Japanese Album
The_japanese_album

US AmazonのUSEDに挑戦。

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Shipping & Handling: $6.89
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$23.86

NEWは$100とな。信じられん。
Shippingの$6.89はInternational Standardなので日本は意識していくれているようだが、さて本当に到着することやら。
6~8週間かかるらしい。

大昔に日本だけで発売されたアルバムである。
LPを持っていたが、友達にあげてしまった。
”Bringing Joanna Back ”を聞きたくて探し回っていた。

海外のMP3ダウンロードサイトに挑戦するも、クレジットカード処理がうまくいかずダウンロードできなかった。
引き落としは来るんだろうな。

Music

音楽を買う。この表現が実にマッチしている。

Tom Tom ClubのTom Tom Club
Tom_tom_club

Genius of Loveを聞きたくてiTunes Storeからアルバムごとダウンロード。1500円

昔、LPレコードで持っていたけど、友達に全部あげちゃった。
久しぶりに聞きたいなーと思ってCDを探したが見つからなかった。
最近、やっとHMVで見つけたが、もう板はいらないので、ダウンロードでok。

iTunes Storeも、日本サイトではやっとのことで発見。
以前はUSサイトにしかなくて購入できなかった。
今は知らないけど、日本のアカウントだとUSサイトでは買い物できなかった。

2007年8月 9日 (木)

福音を知らせよう

民数記36章、サムエル記第一19章、詩篇72篇、エレミヤ書34章、マルコの福音書1章、コリント人への手紙第二7章を読む。

特別に何もすることがなく、いつもと変わらぬ日々が続く。
薬のせいで精神的にもいたって健康である。
良いことなのだが、退屈で、つまらない。

多分、今日も昨日と変わらない一日だと思われる。
閉じ込められているような気分がする。
人生の価値に気付いても、それを実践できなければ何の意味もないではないか。
あれやこれやと頭の中をよぎるものがあるが、それが何だと言うのだろう。

聖書に見るイエス様の人生の目的は実に明確である。
イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」”(マルコの福音書1章38節)、福音を知らせる。これあるのみだ。
お近くに居ることができるのであれば、”はい”と応えそうな様子を想像するぐらいに、あたりまえに力強い。

彼が、助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者を救い出すからです。
彼は、弱っている者や貧しい者をあわれみ、貧しい者たちのいのちを救います。
”(詩篇72篇12-13節)、イエス様はこれを実践される。
十字架に向かってまっすぐに歩まれる。
神の子イエス・キリストの福音のはじめ。”(マルコの福音書1章1節)

しかし自分自身を再度振り返って考えるに、福音一途、こうはならない。
他にすることもなく退屈な日々を暮らしているのに。
福音を知らせよう”、このお言葉に強く励まされるのに。
私の重荷はこれだけなのに。

どうなっているのだろうか。

2007年8月 8日 (水)

パン

民数記35章、サムエル記第一18章、詩篇71篇、エレミヤ書33章、マタイの福音書28章、コリント人への手紙第二6章を読む。

ここ二日ほど気分が良い、今日も良い。
しかし、気分が良いと気持ちが神様から離れて、何か楽しいことはないかと追い求め始める。
それが悪いことだとは思わないが、行き着く先を想像すると、経験的にいい状態には至らない。

逆に精神時に追い詰められて、苦しみの中にあるとき、心は神様を追い求める。
だから何と言う感じだが、これが良いとしみじみと思う。
みことばを発見する。
そして、慰めを受け、励ましを受け、希望を受けるのだ。
実に人間らいい瞬間である。
人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる”(申命記8章3節)はよく言い当てている。

あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。”(詩篇71篇20節)
私の人生はこの繰り返しである。

人であることの充実感を得るために苦難を選ぶ。
なんと辛い原理であろうか。

悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。”(コリント人への手紙第二6章10節)
本当はこうだと聖書は教える。
このギャップは何なのだろうか。

次の一歩があるようだ。

練乳苺

070808_15370001 練乳がとろとろでウマー。

先日の大量購入の内の一品。

2007年8月 7日 (火)

幸せですか?

民数記34章、サムエル記第一17章、詩篇70篇、エレミヤ書32章、マタイの福音書27章、コリント人への手紙第二5章を読む。

先日聞いたメッセージに”自分中心に人生を考えることは思い通りにいかないので、ストレスが大きくなる。神から離れてぼろぼろに傷つくのです。中心は神です。”とあった。
私の人生はまさにこの通りであったし、回りの人々を見ていてその通りを目にする。

何も難しいことは語られていない。
みんな自分を振り返って容易に理解できることである。
問題は受け入れられない事だ。
受け入れられないとは実に理不尽な状況が発生している。

なぜか。

このメッセージには対する”神様を中心にした人生とはいったいどんな人生なのか”が語られていないのだ。
記憶の限りではこのことに対して明確に説明したメッセージを聞いたことがない。
これが原因ではないかと考える。
行き着く先がどんなところかわからなくて受け入れられるだろうか。
問題提起だけがされていることになる。

しかしこれは誤解をしている。
”神様を中心にした人生”これを選択するように捉えられているが、これは本来はあるべき姿であって選ぶものではない。
戻っておいでと呼ばれているのである。

”幸せな人生を送っているクリスチャンは居ない。”と私は考えている。
最初の罪を犯した時点で幸せな人生を送る特権は失っている。
あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。
”(創世記3章17-19節)
また”人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている”(ヘブル人の手紙9章27節)
この通り人間は一度死ぬ。
死ぬこと、失うこと、自分と関係するものの全ては無に帰する。
有限なものに希望を持つと失望する。
つまり幸せな人生などあるわけがない。
これはクリスチャンも同じである。

ただ、信じたものは罪からは開放されている。
罪がないとは言っていない。
罪の檻の戸が開いているのだ。
だから檻から出ることができるのである。
出れば罪から来る重荷に悩まされることはない。
このことにどれだけの素晴らしさを感じるかどうかは、その人の人生のありように依存する。
悲しむ者は幸いです。”(マタイの福音書5章4節)と書いてある。

この開放こそが信じた者と信じないもの人生のあり方の差である。
この開放こそが神様を中心にした人生をもたらすのである。

全てのメッセージは希望について語っている。
この希望はこの世で実現するものではない。
人生が過ぎ去り、全てが新しくされた時に実現するものである。
主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。”(コロサイ人への手紙3章24節)、この相続するものが莫大なのである。かつ、永遠のものなので失望することがない。
報いとは信じた結果に対して与えられるのである。

信じるものには希望がある。
これを幸せと呼ぶこともあるようである。
私は違うと考える。
希望はまだ実現していないことを持って希望なのだ。
幸せはこれから来る。

確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。”(コリント人への手紙第二5章4節)、ここで言う”幕屋の中にいる間”はこの世で生きることをあらわしている。
私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。”(コリント人への手紙第二5章8節)
これが信じたものの人生観である。

この変貌を信じることによって得て欲しいのである。

何を信じればよいのか。
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
”(コリント人への手紙15章3-4節)を信じればよいのだ。

言い直すと”神様を中心にした人生が自分にとってどんなに良いかは表現としておかしい。
神様を中心に置くとしつつ、自分を中心にしている表現である。

070807_12070001 ドグマチール50mg+デパス1mg

この一週間ほど薬を飲まないですごした。
飲まなくても大丈夫かなと思ったからである。
飲み忘れることもよくあったし、それでどうこうなかったし、まあ良いかなって感じである。

ここ2日ほど頭の中が大暴走しである。
考え事が止まらない。
眠れない。

もしやと思い昨晩から服用を再開する。
今日は気分が落ち着いている。

自然と変わっていくので、薬の影響かどうか解らない。
仮に薬の影響として、どっちの自分が本来あるべき姿なのか大いに疑問である。

よく考えることは良いことだ、だが今は楽だ。

2007年8月 6日 (月)

夜明け前

民数記33章、サムエル記第一16章、詩篇69篇、エレミヤ書30-31章、マタイの福音書26章、コリント人への手紙第二4章を読む。

昨晩、眠れずに考えていたこと。

なるほど、私が虚無の苦悩の中で苦しむ理由がわかった。
自己の確立の方法に問題がある。

私は自分の想像の中に自己を確立しようとする。
本来、すなわち健全な人は人間関係等の他との関係の中で自己を確立していしているのだと考える。
具体的な例を挙げると、私が手品をしようとした場合、私は上手に手品をし相手を喜ばせた自分を想像し、そこに自己を確立しするのである。
健全な人は相手がどういう反応をするかそのものの中に自己を確立する。
私にとっては相手がどうかは自分に対する評価であって、相手そのものには関心はないのだ。
同様にバイクに乗ってかっこいい自分、ベースギターを上手に引いてかっこいい自分、上手に弁舌し伝道している自分、等などを想像し、それを持ってして自己を確立している。

つまり、私は自己中心的で自己満足に閉じているのである。
聖書的な観点に立って善悪の基準は明確なので、その上に確立された自己は一見しては正常な成人男子に見えていたと考える。

しかし、ここで私の場合、自分自身に帰結する問題が発生する。
うまくいかなかった時に自分に都合よく現実の解釈を捻じ曲げてしまうのだ。他罰的と言うようである。
だから現実を受け入れ、ではどうするかに進むことができない。
まことに空想上の自己は都合よく再構成されるのである。
そして致命的なことが起こり始めた。
聖書から学び、神様を中心に据えることを目指すことにより自己満足を否定したので、自己を確立できなくなってしまったのだ。
これが虚無の苦悩を引き起こしている。

実際に私はバイクを失い、身体の健全を損なったことから諸々の趣味を失い、ここまでは自己を再構成させることで乗り切ったが、自己満足の否定から愛情を失い、礼拝を失い、と自己の確立を放棄する寸前にいる。

考察を深めるに悲惨の本質はこれではない。

先述の通り神様を中心に据え、そして自己を確立する段階まで進まないといけないのだ。
そのためには人間関係の中に神様を見出せるようになる必要があることを聖書から学ぶ。
『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』”(マタイの福音書26章40節)および”『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』”(マタイの福音書26章45節)の通りである。
ここでの””は神様である。
ここに達した時、人は自分自身の目的を見出し、満足することができる。
なぜなら人はそのように創られたからである。
人を創られた方がそうおっしゃっているので確かなことである。

こう考えると納得がいく。
健全な人、関係の中に自己を確立できる人は聖書に書かれているとおり神様を見出すことで自然とこの段階に進むことができるのであろう。
私は神様を見出しても自己の改善に進むことはできない。
なぜなら、私の場合は前述の通り自己を確立する方法の時点で問題が発生しているのである。

自己を確立する方法は、その欠陥の原因に人となりが大いに影響しているか、生まれてからの人格形成に問題があるかだ。
かつて私が否定したアダルトチルドレンが本当はこれなのかもしれない。
私自身の力ではいかんともしがたい領域の問題である。

今日読んだ聖書の個所に希望がある。
主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ”(コリント人への手紙第二4章14節)、”内なる人は日々新たにされています。”(コリント人への手紙第二4章16節)と書かれている。
神様が変えてくださる
もはやここにすがるしかない。

このことに気付いたことそのものが神様の恵みによる救いと考える。
「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。”(コリント人への手紙第二4章6節)
神様が心を照らして下さり、救済への道を示してくださったのだと考える。

一度、失って、もっと良いものを手に入れる。
この原理が自分の内に起こっていると考える。
感謝である。

アイス

プールの帰りにアイス購入のお遣いを承る。

070806_16010001_2 ウーン わくわくする光景である。

お徳用パックを6個購入 1338円

2007年8月 5日 (日)

自由

民数記32章、サムエル記第一15章、詩篇68篇、エレミヤ書29章、マタイの福音書25章、コリント人への手紙第二1-3章を読む。

旧約聖書を読んでいるとイスラエルの民が神様から戒められ、顧みられの繰り返しである。

次のような主のことばがあった。
「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」
”(サムエル記第一15章10-11節)、神様が悔いたとある。
全能な方が悔いたとはどういうことであろうか。
実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。”(サムエル記第一15章29節)とあうように本来は悔いることのない方である。
しかし”主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。”(サムエル記第一15章35節)ともう一度、悔やまれたと書かれている。
このことから神様は人間の自由意志を本当に尊重してくださっていることが良くわかる。
間違ってはいけない、神様は決して失敗される方ではない。

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。”(詩篇68篇19節)
この通り我々には信じられないことが起こっている。

このことが今日は心に残った。
そしてここから二つのことが浮き彫りになる。

一つは、人間の失敗の繰り返し、つまり罪からの救済である。
旧約聖書に書かれている暗い歴史に終止符を打つようにイエス様が登場する。
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」”(マルコの福音書2章17節)
さんざん失敗を繰り返した我々をそのまま受け入れてくださるのである。
これしか救済手段がないことが良くわかる。
感謝である。

もう一つは今の自分の持つ自由意志をどう使うかである。
礼拝、交わり、成長、奉仕、伝道、この日記の課題ではないか。

今日は”おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。”(マタイの福音書25章42-43節)だった。
”今日は”じゃなくて”今日も”か。まいった。

2007年8月 4日 (土)

堅く立って、動かされることなく

民数記31章、サムエル記第一13-14章、詩篇67篇、エレミヤ書28章、マタイの福音書24章、コリント人への手紙15-16章を読む。

堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。”(コリント人への手紙15章58節)

はい。

2007年8月 3日 (金)

預言

民数記30章、サムエル記第一12章、詩篇66篇、エレミヤ書27章、マタイの福音書23章、コリント人への手紙14章を読む。

コリント人への手紙14章は御霊の賜物、預言と異言についてである。

預言を勘違いしていた。
預言は予言ではない。
預言は神様によって示されたことばを伝えることである。
お取り次ぎするが良い表現と考える。

つまり、伝道、あかし、学びで語ることは立派な預言である。

預言の目的は”教会の徳を高める”(コリント人への手紙14章12節)、”信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。”(コリント人への手紙14章24-25節)、とある。
前者は御霊の賜物全般の目的として書かれている。

そういう意味で現在、行われていることとコリント人への手紙14章に記述されていることは一致するし、よく解る。

特に預言することを熱心に求めなさい。”(コリント人への手紙14章1節)を素直に受け止めることができる。
神様のみことばをお取り次ぎできることを祈り求めて、語っていく者で有りたい。

あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。”(コリント人への手紙14章31節)からすると牧師制度に疑問を感じる。
なぜ講壇で語るのが一人であり資格が必要なのであろうか。
私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。”(ローマ人への手紙2章12節)と有るとおりみな御霊を受けたのである。
その御霊の賜物である預言を行うのである。
人の知識や知恵によるのではない。

今の諸集会の取っている、全員がメッセージを順番に行うのは理にかなっていると考える。

2007年8月 2日 (木)

You shock me baby

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スイムキャップを忘れるorz。プールに入れない。
フロントに有るのは知ってたが、シャワー浴びた後じゃなー。

今日はプールウォーキングは中止。
サウナでお茶をにごす。

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信仰と希望と愛

民数記29章、サムエル記第一11章、詩篇65篇、エレミヤ書26章、マタイの福音書22章、コリント人への手紙13章を読む。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。”(コリント人への手紙13章13節)
こういうわけでとはどういうわけか。

文面からすると、完全なものが現れても、おとなになっても、完全に知るようになっても、信仰と希望と愛は残ると言うことを意味している。
それ以外は何も残らない。

私は残らないものを得ようと一生懸命である。
と言うか、信仰と希望と愛は得る方法が解らない。
信仰と希望と愛は艱難の中で培われていくもののような気がする。

これもまた生きる方法論として、私を八方塞な状態に追い込む。

今の自分を良しとするにしろ、委ねて待つにしろ、能動的な要素が取り残されてしまう。
そしてこれが不幸を招く。

いつになったら脱出できるのだろうか。

2007年8月 1日 (水)

Long Live the king!

民数記28章、サムエル記第一9-10章、詩篇64篇、エレミヤ書25章、マタイの福音書21章、コリント人への手紙12章を読む。

サムエル記第一9-10章はサウルの登場から王に任命されるまでである。

神はサウルの心を変えて新しくされた。”(サムエル記第一10章9節)
すごいことが記述されている。
こうだとするとサウルはなぜ神様から王に選ばれたのだろうか。

確かにサウルが神様の目にかなったと言うような記述はない。
神様は取るに足らない者を立てて事を成される方である。
これはクリスチャンの召しを象徴しているように思われる。

我々も心を変えられ新しくされる。
サウルのように急激ではないにしても。

このことに疑問を持つ必要はない。
今が良いとする理由がないからである。
逆に今の自分を任務に見合っているとは到底思えない。
良くなると信じて受け入れるに値する。

にも関わらすサウルが荷物の間に隠れていたことを見るに、相当自信がなかったと推察される。
みんなこうだ。

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