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2007年7月

2007年7月31日 (火)

あとの者が先になり、先の者があとになる

主題のみことばは意味を理解できないものBEST3に入る。

今日少し解ったような気がする。

マタイの福音書20章1-16節”自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人”のたとえにある。

最後に働きに来た雇われた者から賃金が支払われ、最後に朝早くから働きに来た雇われた者に賃金が支払われる。

全員が約束どおりに同じ値の賃金を支払われ、朝早くから働きに来た者が主人に文句を言う。
そして主人から”この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。”と説き伏せられる。

ここで、はたと考える、もし逆であったらどうなるのか。
多分に最初の者と最後のものはいさかいを起こすのではないのだろうかと考えた。
それを考慮し主人は苦情を一手に引き受けられたのではないだろうか。

主人は賃金を与えればその後のことは知ったことではない、が普通だ。
だが、神様のお考えは違う。
最後に働きに来た者にも良くしてあげたかったように、朝早くから働きに来た者の気持ちにも配慮してあげたいと考えておられるのではないだろうか。

その後の記述を読んで納得する。
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
”(マタイの福音書20章26-1627節)
神様、主人は仕えるものとして、全ての者に配慮されたのだと教えられる。

王を求める

民数記27章、サムエル記第一8章、詩篇63篇、エレミヤ書24章、マタイの福音書20章、コリント人への手紙11章を読む。

彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。”(サムエル記第一8章7節)
これはイスラエルの民が王を求めた時に神様が仰った言葉である。

神様が守ってくださり、導いてくださっていることをイスラエルの民は理解していない。

これに対してダビデは”あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。”(詩篇63篇7節)と神様に対する感謝に満ち溢れている。

この差は神様から受けた恵みに比例しているのだろうか。
聖書を読む限りではそうは取れない。

この詩篇はダビデの苦難の中での作である。
イスラエルの民も苦難の中にあっては神様をしたい求めている。

ダビデは安泰の中で大きな罪を冒す。
イスラエルの民も平和が訪れると神様から離れる。

わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。”(サムエル記第一8章8節)もイスラエルの民に対して神様の仰った言葉だ。
しかし、これは私に対することのようにも思えてならない。

私もこの神様に対する両極端な態度をいったりきたりする。
わたしは近くにいれば、神なのか。――主の御告げ。――遠くにいれば、神ではないのか。”(エレミヤ書23章23節)、まさにこの通りである。

人間とは悲しい生き物である
望むことと必要なことが一致しないのだ。
王を望むが王は必要ない。王を得ることによって重荷を増やす。
あなたがたは王の奴隷となる。”(サムエル記第一8章17節)

自分が既に必要を満たしていることを決して理解しない。
だから不必要なものを追い求め、重荷ばかりが増えていくようである。

これが罪の本質をあらわしている。
罪は人を悲しみに縛り付けている。

今、罪から開放されたものとして、罪を捨て自由を得たい。

2007年7月30日 (月)

神にはどんなことでもできます

民数記26章、サムエル記第一5-7章、詩篇62篇、エレミヤ書23章、マタイの福音書19章、コリント人への手紙10章を読む。

神にはどんなことでもできます。”(マタイの福音書19章26節)
このみことばに立ち返ることが多い。

また、”すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。”(コリント人への手紙10章23節)とある。

結局のところ何をすればよいのか、どういう態度でいれば良いのかを考えることは無意味である。

その時々におこる事象に対して反応し、対応していくことしか我々にはできない。
次の瞬間を思い通りにすることもできないし、そもそも何が最適なのかすら解らない。

高みに引き上げられることを望み、気がつけば一歩前へ引き上げられている。
この連続が生きることである。

このことから一切の思い悩みは不要である。

聖書にはたくさんの勧めや教訓が登場してくる。
私のぼんやりとした頭には具体的な所作を認知することができない。
聖書も無意味だと言っているのではない。
聖書の言葉は私の反応や対応を支配するように都度、登場し平安を与えてくれる。

瞬間ごとに実を結ぶように現実は推移していく。
そしてそれらは明らかに良いものである。

明日を想像することは無意味である。
明日を想像すると夢を見る。
夢が多くなると、むなしいことばも多くなる。ただ、神を恐れよ。”(伝道者の書5章7節)

これが正解のようだ。
受け入れるしかないようだ。
分相応であることは諦めでもなんでもない。
分不相応が悲しみの展望を引き起こしているのだ。

2007年7月29日 (日)

目標

詩篇61編、マタイの福音書18章、ピリピ人への手紙3章9節-21節を読む。

ピリピ人への手紙は学び会で読む。

ピリピ人への手紙のこの個所は文章が難解である。
目標を目ざして一心に走っているのです。”(ピリピ人への手紙3章14節)の”目標”と、”走っている”があらわす具体的な行為がわからない。

義を持つことも、復活に達することも、捕らえることも、国籍を天におくことも、姿を変えることも、全て神様から与えられた恵である。
それぞれは行いで実現することはできない。

結局のところ神様の恵深さを知ることだけがすべきことであり目標だと理解する。

これはその通りである。
持っていないものがいかにつまらないか、持っているものがいかに素晴らしいかを私は知らない。
だから不幸なのである。

この目標は具体的な行為に結びつかない。行いによらないのだから。
しかし実際には、”すでに達しているところを基準”(ピリピ人への手紙3章16節)とすることは経験しており、新たな目標を生み出している。

どこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。”(ピリピ人への手紙3章15節)
至れり尽くせりである。

しかし、この目標に対する取り組み姿勢は謎だ。
日々の暮らしぶりに関わることである。
実に悩ましい問題である。
ただ捕えようとして、追求しているのです。”(ピリピ人への手紙3章12節)
うーん。。。。

2007年7月28日 (土)

力ある働き

民数記25章、サムエル記第一4章、詩篇60篇、エレミヤ書22章、マタイの福音書17章、コリント人への手紙9章を読む。

こう何もしない日々が続くと、意味もなく空想を働かせ虚しい展開を想像してしまう。
大体パターンは決まっている。
最後は歳を取って何の楽しみもなくなる。
その時点で神様の働きに執心する。

その空想もあまりぱっとしない。
中途半端で達成感がありそうもないのである。
それでばかばかしくなる。

神によって、私たちは力ある働きをします。”(詩篇60篇12節)

私が何かしようと思い巡らしてもだめだ。
自分の想像を超えないようなものは本物ではない。
”おっ、こうなるのか”と言った展開が現実では起こるし、それが醍醐味である。

足が痛くて未来に対する見込みがない。
その上、どうなりたいかを想像するのもだめ。
やるせない気分になってしまう。

信仰の勇者と言われる人たちはどうしていたのだろうか。
こんなくだらないこと悩む暇もないぐらい忙しかったのだろうか。
それともじっと信じて待ったのだろうか。
こんなことを考えることがそもそも不自然なのだろうか。

今は神様によって起こる行動を待つのが良いと考える。

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スパゲチを作って食べる。

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量多すぎ。

2007年7月27日 (金)

法事

民数記22-24章、サムエル記第一3章、詩篇59篇、エレミヤ書21章、マタイの福音書16章、コリント人への手紙8章を読む。

今月29日に祖父の7回忌の法要がある。
もちろん行かない。
理由は”あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。・・・どんな形をも造ってはならない。・・・それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。”(出エジプト記20章4-5節)に従っている。
行くと墓の守と言う形で仕え、お経を聞きながら焼香つまり拝むことになる。

今日読んだコリント人への手紙8章にはこの偶像崇拝について興味深いことが書かれている。
私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。”(4節)、だから、偶像に備えた肉について”食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。”(8節)としている。
これは食事について言及しているが、偶像崇拝に関わる所作について適用できるように思える。
焼香は意味がまったくないので論外だが、墓洗いは汚いものをきれいにしているだけだと考えられる。
その後の食事会は単なる死者を懐かしむ会であり懇親会である。

だけど重要なのは偶像になじんできた人が私の行為を見て、まね、弱い良心を汚してしまうことである。
つまずきを与えることは良くない。
つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。
この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
”(ルカの福音書17章1-2節)、このみことばは私にとって恐怖である。

妹から参加するように要請があった。
年老いてさびしく暮らしている祖母を思いやってのことである。
また、この世で特別な関係である親族が集まる大切な機会としてのことである。

欠席するのは心苦しいが、上記の理由より決断した。
祖父を懐かしむ会、祖母を励ます会だったら名実ともに一致していて良いと思うのだが、そうはならないようである。

このことで逆の意味で親族に対してつまずきになることを恐れている。
日本ではこのあたりが厄介である。
みんなそろって仏事に意味を感じておらず、その必要性を認識していないからなおさら性質が悪い。
キリスト教徒は頑固で親族に対して思いやりがないという、まったく好ましくない構図になってしまう。

この偶像に対する認識にはクリスチャン側の感覚にも疑問が散見される。
この話はまた改めてということで。

2007年7月26日 (木)

どうしてわかりますか

民数記21章、サムエル記第一2章、詩篇58篇、エレミヤ書20章、マタイの福音書15章、コリント人への手紙7章を読む。

なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。”(コリント人への手紙7章16節)
なるほど確かにそうである。

この節は”未信者の配偶者が離れていった時には離れさせなさい”に続いている。
しかし、当該個所だけでも感慨深いものがある。

”あなたが・・・を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。”と・・・を拡大しても良いのではと考える。

決して諦め良くと言っているのではない。
重荷の持ち方に注意が必要だと考えているのである。
基本は”イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」”(マタイの福音書19章26節)に委ねることだと考えている。

そもそも人が誰かが救われて欲しいと願う感情は特殊であって、尊いと思う。
愛から来てるにせよ、愛から来ていないにせよ、神様に喜んでもらいたいと言う思いが第一にある。
福音を述べ伝えることは人間だけに与えられた特殊な使命ではないか。

人がたくさん居て互いに影響しあう、とは神様が創造されたものの中でも特筆すべき仕組みである。
このために人間は生きている。
そして福音はこの仕組みの上に成り立っている。

こう考えると人生を単純に理解し受け入れることができる。
イエス様はこの世を去られる時、”あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。”(マタイの福音書28章19節)とお命じになった。
それ以外のことについては生涯を通して、心配してはいけない、思い悩んではいけないとお話になられた。

植えることと、水を注ぐことは人間の手による。
しかし成長させるのは神様である。

2007年7月25日 (水)

人生

メッセージを集会のBLOGに掲載する。

聞きなおしてみて、改めて感動する。

水上歩行

民数記20章、サムエル記第一1章、詩篇57篇、エレミヤ書18-19章、マタイの福音書14章、コリント人への手紙6章を読む。

マタイの福音書14章でペテロが湖面を歩く。
奇跡についてとやかく言いたいのではなく、ここで描かれている光景が好きだ。
現在の自分を当てはめてみて、たとえとして読んでも実におもしろい。

少し長いが引用する。
夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
”(14章25-31節)

イエス様が一人祈っておられ、その後、弟子に追いつこうとした時のことである。

まず、”「あれは幽霊だ。」”はなかろう。
この前に五千人の給食があるのに。

ペテロの私も歩けると思って飛び出した姿に感銘を受ける。
私も聖書に書かれているみことばを忠実に信じて、その通りに歩みたいものである。

風を見て、こわくなり、”はよく有ることだ。
自分の置かれている環境が気になり始めると信仰心にかげりが出始める。

「主よ。助けてください。」と言った。”は見習いたい。
失敗したとは言え、恥ずかしがって御顔を避けてはいけない。

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」”が味わい深いのだ。
このイエス様の一言に尽きると思う。
悔しいが疑うのだ、うまくいっている時に限って心によぎる。
なぜ疑うのか、を自問自答してしまう。
ここでのイエス様の言葉は深い憐れみに満ちている。

信仰とはこの水上歩行の繰り返しである。

マックフルーリー

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高めだが、美味しい。

今日もプールで行ったり来たりの歩き回り。

2007年7月24日 (火)

実にこの通り

民数記19章、ルツ4章、詩篇56篇、エレミヤ書16-17章、マタイの福音書13章、コリント人への手紙5章を読む。

あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。”(詩篇56篇13節)、実にこの通りである。

日々、救い出されている。
そしてうんざりしていた人生から一転し、光のうちに道を歩むようになったのである。

なぜ理解されないのだろうか。
なぜ受け入れられないのだろうか。
重要なことではないと思われているのだろうか。
ありえないと思われているのだろうか。
目を向けてくれないだけなのではないだろうか。

不幸、苦痛、悲しみを認識したことがないのだろうか。
いや、違う。知っているはずなのだ 。
持ってるもので満足することを良しとしているのだ。
しかし満足できないことも知っているはずなのだ。

世のことに流されていていて不幸を感じないのだろうか。
なぜ本質を追い求めないのだろうか。
ないと悟ったからか。
なぜ悟ることができるのか。
自分が何者かも知らないのに。

幸せになれない人より、なろうとしない人が多すぎる。

晴れ

070723_12580001天気が良くて気持ちがいい。でも足は痛い。

この数日、考えていたことをまとめるとこうである。

今の自分の心の状態に思い悩んでいたが、今のままで良いように思えてきた。

わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。”(ヨハネの福音書4章14節)を信じながらも、決して満足することを知らない自分、これを納得できなかった。
自分の胸に大きく開いた空洞とそれを埋めたいと思う渇きが許容できなかった。

だが、この渇きはどうも自分がアルコール依存症であることを忘れないためにあるように思えてきた。
かと言ってアルコールの誘惑は前回いつだったかわからないぐらい無い。守られている。

イ・チソンは目に見える部分に大きな傷を負った。
そして”人はうわべを見るが、主は心を見る。”(サムエル記第一16章7節)、この領域に至って自分を受け入れ愛せるように成ったのだと思う。
そして彼女の特殊な境遇は傷を負って苦しんでいる人を助けることができる。

私は内面を損なっている。
同様にこの境遇を生かして、同じように苦しむ人の手助けができないかと考えるようになっている。

依存症で苦しんでいる人がたくさんいる。
依存症の人を身近に持って苦しんでいる人がたくさんいる。
なんとなくそれぞれの人の境遇に共感できるように思える。

自分がアルコール依存症であることを忘れてはいけないのであろう。

神様に用いられる器へ整えられることを祈る。

2007年7月23日 (月)

兄弟姉妹

民数記18章、ルツ3章、詩篇55篇、エレミヤ書14-15章、マタイの福音書12章、コリント人への手紙4章を読む。

天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。”(マタイの福音書12章50節)、クリスチャン同士が兄弟姉妹と呼び合う故である。

天におられるわたしの父のみこころを行なう者”とはイエス様を救い主だと信じることである。
明らかに洗礼を受けるではない。

そしてこのことは教会に加えられることを意味する。
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。”(マタイの福音書16章18節)
このイエス様の言葉で言っている岩とは、”シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」”(マタイの福音書16章16節)で表されている信仰のことである。

つまり教会に加えられると兄弟姉妹として扱われるは同じである。

このことからどのようにイエス様を救い主だと信じたと見極めるかが問題になる。
神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。”(コリント人への手紙第一12章3節)とある。
ここに解決策が提示されていると考える。信仰告白である。

実際のところはと言うと。
ローマカトリックは国教となって、誰もがクリスチャンになったことから、教会は堕落したと聞く。
このことから教会は純潔を守るために、洗礼を受けることを基準としてる。
それもかなり慎重になって洗礼の時を見極めようとする。

なぜこのような運用にしたのだろうか疑問に思っている。

「イエスは主です。」と言うことはできません。”をどう捉えたらよいのだろうか。

2007年7月22日 (日)

休む

民数記17章、ルツ2章、詩篇54篇、エレミヤ書13章、マタイの福音書11章、コリント人への手紙3章を読む。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”(マタイの福音書11章28節)とイエス様はおっしゃる。

私はなぜか少々疲れている。

私の周りには疲れた人、重荷を負った人がたくさんいる。
私の周りには休めない人がたくさんいたし、たくさんいる。

休ませてもらわないと、休めないことを知らないといけない。

悲しまないといけない。
苦しまないといけない。
思い悩まないといけない。
労しないといけない。
でないと思いやりがないように感じる。
掟のように心に刻まれている。

休みに行こう。

2007年7月21日 (土)

死んだ者のために

民数記16章、ルツ記1章、詩篇53篇、エレミヤ書12章、マタイの福音書10章、コリント人への手紙2章を読む。

故人の死に対して自責の念と後悔の重い荷を抱える。

ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。
しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」
こうしてナタンは自分の家へ戻った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。
”(サムエル記第2 12章13-15節)
ダビデの子の死の話である。

ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。”(サムエル記第2 12章16節)
ダビデは7日間このように祈り続けた。

ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。
しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」
”(サムエル記第2 12章22-23節)
ダビデは子供の死を確認した時に祈りを止めまた。

死んだ者のために重荷を負ってはいけない。
ダビデは自分の罪のせいで子供が死んだことを重荷にしていない。

上記のみことばで重要なのは子供が天に帰ったことをダビデは知っていたことである。
“私はあの子のところに行く”と言っている。
ヨブも証している(ヨブ記16章19,21節)が、人間は義を全うできないが、神様にとりなしてくださる方がおられると信じている。
旧約時代の信仰の勇者はまだ見たことも、聞いたこともないイエス様を信じている。

だからダビデはあっさりと祈りを止めたのかもしれれない。
悲しみに引きずられなかったのかもしれない。

ただ、生きる目的、責任は神様と個人個人、一対一の課題である。
だから、死んだ者のために重荷を負ってはいけない。

”こうしてあげていれば、ああしてあげていれば”は良し悪しを評価できないありえない推論である。
苦しみの果てしのない深みに人を引き込んでしまう。

2007年7月20日 (金)

主の望んでおられること

民数記15章、士師記19-21章、詩篇52篇、エレミヤ書11章、マタイの福音書9章、コリント人への手紙1章を読む。

今日読んだところとは関係ないが、昨日の訃報について考えた。
仲間の人知られずのしなので気になって仕方がない。

無宗教で葬儀を挙げることが遺言とのことである。
なんとなくこの気持ちがわかる。

私は不信仰時代に結婚式を挙げた。
その時は人前式という形式を取った。
神様の前でというのには延長上の抵抗があったのだ。
かといって、仏式、日本流神前は論外だったので、この形式をとった。

同じように、教理を知っているが信仰がはっきりしなかったので、無宗教を選択されたのではと考える。

私の場合は、後から解ったことだが、その時既に信仰を持っていた。

さて天に帰られたのだろうか。
はっきりと信仰を持っておられた場合は、はっきりと天に帰られたと解る。
しかし、そうでなければ天に帰られたのかどうかは解らない。
帰られなかったのではなく、解らないが正しい見解である。

イエス様と一緒に十字架に架けられた強盗達には最後のチャンスがあった。
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
”(ルカの福音書23章42-43節)
強盗は告白したからパラダイスにいけたのだろうか。違う。イエス様が救い主だと信じたから天に帰れたのだ。
人は心に信じて義と認められ”(ローマ人への手紙10章10節)
と書いてあるとおりである。

死は永遠への入り口である。永遠の滅びは恐怖だ。この恐怖は人を屈ませて、悔い改めに導かないだろうかと考る。
“神様、ごめんなさい。私を助けてください”とさえ祈れば天に帰れるわけである。
私は死の間際まで、人知れずでも、悔い改める余地が有ると信じている。

ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。”(ペテロの手紙第2 3章9節)
主はこのように望んでおられる。
このことにおいて主は勝利され、主の御名に栄光、賛美、誉が帰されると考えている。

最後にこんなみことばがあるのを知った。
生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主”(ルツ記2章20節)
死んだ者”への御恵とは考察を要する。
ただ、死んだ信仰の人生、信仰が死んだ人生は確かに多くある。
しかし“御恵みを惜しまれない主”が私たちの希望である。

2007年7月19日 (木)

訃報

机の上にメモがあった。
訃報である。

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
”(伝道者の書3章1-2節)

人は一人で死ぬ。みんな一人で死ぬ。
はたしてそうか。
イエス様と一緒に十字架に架けられた強盗には最後のチャンスがあった。
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
”(ルカの福音書23章42-43節)

死ぬ間際に悔い改める余地が有ると信じる。
生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主”(ルツ記2章20節)

17

実に魅力的なマシンである。

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スポーツジムと言う場所柄、売れるのだろうか不思議だが。

ぐっとこらえて家に帰る。カロリーオフオフ。
しかし、家で待っていたものがアイスとは。。。。orz

民の反逆

民数記13-14章、士師記17-18章、詩篇51篇、エレミヤ書10章、マタイの福音書8章、ローマ人への手紙16章を読む。

民数記14章から今の自分を学ぶ。

エジプトの地から旅立った民は約束の地の目前まで来た。
そこで12部族の代表12名を約束の地へ偵察として送り出す。
その結果、10名が悲観的な報告をし、民に嘆きをもたらす。

私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。”(2節)、絶望の嘆きである。
同じように私はここにいたようだ。
心のあちこちからこの嘆きが出てくる。

この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。”(11節)、神様が民を怒られる。

この通りなのだ。
私はアルコール依存による人生の死から助け出された。
事故の怪我もかなり回復している。
何と言ってもこの何もできない期間の生活費が傷病手当の支給として保障されている。こんな手当てがあるのを知らなかった。
その一つ一つの神様のみわざ、ご配慮から悟りを得ていない。
良くて当たり前と思っているので、感謝から出る希望がない。

エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。”(22-23節)、これが神様のさばきである。
神様の栄光としるしを見ながら信じないものは約束の地に入れない。

あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。”(33節)、背信者が滅びるまで約束の地に入れない。

この話しの教訓は、自分の不信仰が淘汰される必要があるということだ。
そうでなければ希望に満たされないし、それゆえ約束の地に入ってすべきこと、困難を乗り越えていくことができない。
しかし、これから起こる事も神様が良くしてくださると言う信仰にしたがえば困難でも何でもないのだ。
この状態にならないと幸せには成らない。

私は今、ここにいる。
約束の地に入ることができるように整えられているのである。

これを聞いた民は自分勝手に約束の地に向かっていくが、敵に撃退され敗走する。
うまくいかないのだ。
これも経験済みである。
本質が改善していなければ、本当の良いものは手に入れることはできない。

”「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」”(マタイの福音書8章13節)、イエス様の言葉である。
信じたとおりになる。

2007年7月18日 (水)

求めなさい

民数記12章、士師記16章、詩篇50篇、エレミヤ書7-9章、マタイの福音書7章、ローマ人への手紙14-15章を読む。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。”(マタイの福音書7章7節)
”何を求めようか・・・”
何を求めればよいか解らない。
何を捜しているのか解らない。
義を求めるが、具体的に何を求めればよいのか解らない。
渇望を満たして欲しいが、何があれば満たされるのか解らない。

体が良くなったとして、何が満たされるのだろうか。
バイクに乗れるようになったとして、何が満たされるのだろうか。
伝道の言葉を預かるようになったとして、何が満たされるのだろうか。

何があれば満たされるのか分からない者、良くなる希望だけを持っている者、それが自分である。
だから、ただひたすら待つのである。
あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。”(ローマ人への手紙14章8節)、この通りである。

もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。”(ローマ人への手紙14章8節)、こんな人生観が持てたら幸いである。

失業認定

失業認定を受けにハローワークへ行く。

昨年の9月末に退職したのに、今回が初回認定である。
昨年11月8日にうっかりで行くのを忘れていて、その後の事故で現在に至っている。

しかし、足が痛んでたまらない、就労可能とは思えないのだが。

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2007年7月17日 (火)

絶望

民数記11章、士師記15章、詩篇49篇、エレミヤ書6章、マタイの福音書6章、ローマ人への手紙13章を読む。

私には重すぎます。私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。”(民数記11章14-15節)とモーセが言う。
イスラエルの民がエジプトから約束の地へ向かう荒野の中で、”ああ、肉が食べたい。”と嘆いた。
それを聞いたモーセが全ての民の重荷を負っていることに耐えかねて出た神様に対する訴えである。

この叫びの祈りが私にはよく解る。
一回目はアルコールを止める苦しさの中で、また人生の目標が立たない寂しさの中で、同じ祈りをした。

自分が死んで天に帰れることはよく知っている。
だから、自分の負っている境遇に押しつぶされ、その上、これ以上生きて良くなるめどがない時、つまり絶望している時、現実逃避を求めるのである。

もちろん自殺なんてしない。”殺してはいけない”(出エジプト記20章13節)に従っている。
”生きているんではありません。生かされているのです。”、”生きる権利があるのではなく、生きる義務があるのです。”は心得ている。
だから、命の主権者である神様に嘆きをぶつけるのだ。

まず神様に救いを祈り求める。
でも、神様を見出せない時、苦しみが絶頂に達し、死を願うのである。
私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。”(詩篇6章6節)を思い出す。

患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。”(ローマ人への手紙5章3-4節)と聖書は教える。
この希望がなかなか生まれてこないのである。
絶望する故である。

今は耐え忍んで待つしかないと考えている。

この世を喜んで生きていける希望とは何なのだろうか。
それすら知らない。
生きて行くべき者がこの希望をもてず苦しんでいる。
その上に苦しんでこの希望を生み出さないといけない。
不条理なのか、人生そのものなのか。

罪の入る前のアダムはこんなこと悩んだようには思えない。
これも知ってしまった報いなのだろうか。
人間は罪に汚れて、とんでもないことになってしまったようである。

2007年7月16日 (月)

目には目

民数記10章、士師記14章、詩篇48篇、エレミヤ書5章、マタイの福音書5章、ローマ人への手紙12章を読む。

『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
”(マタイの福音書5章38-39節)
復讐してはいけない。悪い者をうらんではいけない。

旧約聖書が復讐せよといっているのではない。
神様はおっしゃる”復讐と報いとは、わたしのもの”(申命記32章35節)。
これはローマ人への手紙12章19節に”神の怒りに任せなさい。”に続いて引用されている。
イエス様は誤った捉え方を正しているのである。

イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
”(マタイの福音書22章37-40節)が重要な鍵である。

目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。”(出エジプト記21章24-25節)の個所を自分にされたくないことをするなと読むとすっきりする。
被害者の立場ではなく、加害者の立場で読む。
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。”にかかっている。

復讐や悪い者を恨むことは重荷になる。
何も解決しないことを知っているあらである。
この重荷から開放されることは本当に自分を楽にしてくれる。

同様に”自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。”(マタイの福音書5章44節)についても、迫害するものすなわち自分に不利益や嫌な思いをもたらす者のために祈るのは”巡り巡って自分のため”と思っている。
相手は欲求を満たすと、迫害してこないものである。
欲求の満たし方に問題がある場合がはなはだ多い。
欲求の満たし方を正す方向に向かえば解決する。

さすがに自分の敵を愛することは悲しいかなできないが。

たくさんの人が意地になって、相手に歩み寄れず、不幸な関係を作っている。
生きていくだけでも苦しいのに、それ以上に自分を追い込んでいる。

神様は人を愛しておられる。
イエス様はそれを解き明かしておられる。
膝を屈めてイエス様の言葉に耳を傾けよう。

2007年7月15日 (日)

待つ

民数記9章、士師記13章、詩篇47篇、エレミヤ書3-4章、マタイの福音書4章、ローマ人への手紙11章を読む。

この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」”(マタイの福音書4章17節)、イエス様は40日の断食の後、悪魔の試みに会われた。それから宣教を開始された。

この時を待たれたのだ。

目の前に新しい道が開かれ、希望に満たされて進みだすまで、待つのである。
待つ苦しみをイエス様も経験されたのだ。

我々も同じである。
待つのだ。
きっと良くなると希望を膨らまして待つのだ。

目に見えない希望を膨らませる。
なにがどんな風に変わるのか解らないことや現実が、焦燥を、不安を、苦しみを生み出す。

この希望を膨らませることが、器として整えられていくのだと気付く。
より多くの祝福を、より多くの期待を受け入れるために、より大きな希望が必要なのだ。

待つは私の最も不得意な行為である。
だが、待つ。
信仰は守られている。

願いは叶う。必ず叶う。
願いはもっとも良い形に研ぎ澄まされていくのだ。

2007年7月14日 (土)

神の義

民数記8章、士師記12章、詩篇46篇、エレミヤ書2章、マタイの福音書3章、ローマ人への手紙9-10章を読む。

彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった”(ローマ人への手紙10章3節)を読んでハッとする。

なぜハッとしたかと言うと、私が自分の立場の正当性ばかり主張していることに気付いたからだ。
だからといって自分が義だなんてことは思ってはいない。
神様が愛である方、憐れみ深い方であることを見失っている。
なぜか。
待てないのである。
信仰が試されて、道がそれていくのである。

”私は罪人でどうしようもない人間です。
だから、神様が正しく導いてくれないと迷い出ます。
神様が心を満たしてくれないと、他に喜びを求めていくのです。”
と考えている。
一見謙虚だが、実は違う。
だから神様が遠くに感じる今、私は沈み込んでしまうと、自分の立場を正当化して考えている。

ローマ人への手紙の根底を通している主題”人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。”(ローマ人への手紙9章20節)に突き当たる。

未だにどんどんとそれていく。
正しさはあちらにあると遠い目をして眺めながら。
苦しい。

2007年7月13日 (金)

迷い出る

民数記7章、士師記10-11章、詩篇45篇、エレミヤ書1章、マタイの福音書2章、ローマ人への手紙7-8章を読む。

迷い出て、やるせない気分である。
なぜかと言うと、身体は痛いし、行動は著しく制限されるし、その上それがいつまで続くのか解らないからだ。

バイクが欲しいと思い立って、聖書から祈り求めればよいと知った。
祈り求めて与えられた。
そしてその3週間後に事故である。
今もその事故の影響が続いている。

事故に遭った理由はあかしをするために、生死の境を体験するためだったのかと勝手に納得したが、影響がめどなく続くことが受け入れられなくなってきた。
生活費の得方や人生の捉え方にどのように取り組めがいいのか解らなくなってきたのも、うんざりする理由である。
雨が続いているのかも一因かもしれない。

慰めを、助けを祈り求めるが、虚しく響いているだけのような感がある。
神様は応えてくださらない。

人間にとって人生は理不尽と思われることの連続だー。

今日読んだ中に理不尽だと思う個所が3箇所有った。

士師記11章は勇士エフタの話である。
エフタは敵と戦うにあたって、”無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。”(31節)と誓願を立てる。
そもそもなんでこんな誓願を立てるのかと思う。
そして勝利を得て帰ったとき、迎えに出て来たのがなんと一人娘なのだ。
そして神様への誓願どおり彼女に行なう。
神様のものとしたのだから娘は幸せである。辛いのは別れだけと解釈する。

エレミヤ書1章は神様がエレミヤを召す場面である。
神様はエレミヤにおっしゃる”「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」”(5節)
エレミヤが応える”「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」”(6節)
神様はおっしゃる”「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。
彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」
”(7-8節)
神様のダメ押し”さもないと、わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。”(17節)
この後、エレミヤはどのような思いで預言者として働くのかに着目して読み進めよう。

最後はマタイの福音書2章、ヘロデ王が”ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。”(16節)話である。
イエス様がお生まれになって、”東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
”(1-2節)
これに”ヘロデ王は恐れ惑った。”(3節)
この後、博士たちは”夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。”(12節)
そして、御使いから父ヨセフに”「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」”とあり、イエス様がエジプトに立ちのいた後、この事件は起こる。
あくまでも悪いのはヘロデ王だ。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。”(ローマ人への手紙8章18節)を信じている。理解はしていないようだ。
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。”(ローマ人への手紙8章28節)を信じている。理解はしていないようだ。

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。”(ローマ人への手紙8章35節)
何か解りませんが、待つのに疲れました。
得たものの素晴らしさを理解していないからだ。

2007年7月12日 (木)

Walter's Walk

今日は歩く。

5日空いただけで動きが悪い。orz

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遠くを見つめて

民数記6章、士師記9章、詩篇44篇、イザヤ書66章、マタイの福音書1章、ローマ人への手紙6書を読む。

詩篇44篇を読んで、今の境遇と照らし合わせる。

ざっと引用を並べて、概要をお伝えすると以下の通りである。
神よ。あなたこそ私の王です。”(4節)と宣言している。
私は私の弓にたよりません。私の剣も私を救いません。”(6節)、自分の力に頼らない。
あなたは、敵から私たちを救い、私たちを憎む者らをはずかしめなさいました。”(7節)、神様が助けてくださったと確信を持っている。

でも

それなのに、あなたは私たちを拒み、卑しめました。”(9節)、今神様は私たちを見捨てられたと転じる。
一日中、はずかしめがあって、私の顔の恥が私をおおってしまいました。”(15節)、苦しそうである。
しかし私たちはあなたを忘れませんでした。”(17節)、神様、今も慕っています。
なぜ御顔をお隠しになるのですか。私たちの悩みとしいたげをお忘れになるのですか。”(24節)、なぜですかと問いかけ。
私たちを贖い出してください。”で終わる。

こんな感じである。

今の私はこんな気分である。
だから、うんざりしている。

私は事実、廃人同様から救い出された。
自分の力では一時的な対処はできても、何も解決できないことが解った。
対処の積み重ねは疲れるので、もうやりたくない。
私は全面的に神様にゆだねているつもりである。

でも

今、辛いのだ。
身体の傷、事故のこと、仕事のこと、型にはめたような日々、、、明るい事象が一向にない。
神様だけを慕い求めている。
祈り求めている。
何か、いいことがないかなーと、いつも遠くを見つめている感じである。

そう遠くを見つめているのだ。
見つめている方向が間違っているのだろうか。

聖書に共感を見出すと慰められる。

2007年7月11日 (水)

ギデオン

民数記5章、士師記8章、詩篇43篇、イザヤ書65章、ヨハネの福音書21章、ローマ人への手紙5章を読む。

士師記ギデオンの話から勇気付けられる。
昨日の7章から戦いが始まり、8章まで続く。
ギデオンの軍団300人が”ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな、いなごのように大ぜい”(士師記7章12節)を打ち倒す。

神様は、神様がことをなされる時、それが人間の手で成し遂げたかのように人間が誇ることを許されない。
あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。”(士師記7章2節)

最初、32,000人の民がいたが、まず”恐れ、おののく者はみな帰りなさい。”(3節)の言葉とともに22,000人が減らされる。
神様はおっしゃる、”民はまだ多すぎる。”(士師記7章4節)
そして水飲み場で”手で水をなめた三百人”(士師記7章7節)が選ばれる。
戦況は神様が敵の”陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされ”(士師記7章22節)、敵は敗走する。
そして8章で敵に止めを刺す。

この書を読んで自分のどんどん不利に成っていく境遇を思い返しわくわくする。
神様はどのようにして私を救ってくださるのだろうか。

こんな風に人生を捉えることができるのは、クリスチャンの特権である。
心配事の重荷から開放されている。
聖書は全て事実だと信じているからこそなせる平安である。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。”(イザヤ書43章4節)とおっしゃった神様が私を見ていてくださるのだから。

しかし注意が必要である。
ギデオンが死ぬとすぐ、イスラエル人は再びバアルを慕って淫行を行ない、バアル・ベリテを自分たちの神とした。”(士師記8章33節)と有るとおり、喉もと過ぎれば、イスラエルは堕落した。

注意、注意。

フィレ乙フィッシュ

20070711_12220001 マックで

20070711_12270001 食う。

足が痛くて施設にたどり着く自身がないので、今日はウォークdeプールはお休みにする。

日弁連

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事故の過失割合に関する相談に行く。

警察の調書に納得がいかないのだ。
相手の証言と状況証拠から作成された状況図が納得できない。
両車の進行方向と私の倒れていた位置の関係が物理学的にありえないように思える。

道路の傷が相手側車線から始まっているから私がはみ出したことになっているそうなのだが、トラックとバイクが正面衝突したらバイクはぶっ飛ばされるだろうと思う。

結論はどうにもならないようである。
自分で証拠を見つけ、徒労に終わる裁判をするしかないそうだ。
事故現場は見たが何にも得るものはなかったし、そんなもの初めからする気もない。
警察に再度、調書の見直しを依頼したいのだ。
依頼することはできるがようだが、見る義務はないから見てはくれないだろうとのことである。

記憶喪失では話しにならない。
真実を知りたい。
自分の力では限界のようである。

2007年7月10日 (火)

望みえない望み

民数記4章、士師記7章、詩篇42篇、イザヤ書63-64章、ヨハネの福音書20章、ローマ人への手紙4章を読む。

ヨハネの福音書20章はイエス様の復活である。
ある意味、19章十字架までは伝記として読めるが、20章復活は違う。
聖書を信じるかを問われる。

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」”(ヨハネの福音書20章29節)、これは復活されたイエス様を見なかったことから復活を信じなかった弟子が、イエス様を見て信じた時にあった言葉である。
今の我々は”見ずに信じる者”である。

十字架に架けられ、みなの前で死なれたイエス様が生き返られた。
死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。”(テモテへの手紙第二1章10節)、この希望が実現した瞬間である。

まさに望みえない望みを抱いて信じるしか、復活を受け入れることはできない。
神様は、神様を信じる者を義と認めてくださる方だと信じるなら、その信仰を義とみなされる、と聖書は語っている。

すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
”(ローマ人への手紙4章24-25節)
これが、罪から出た定め”人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている”(ヘブル人への手紙9章27節)による永遠の滅びから救われる原理である。

”望みえない望みを抱いて信じる”、これが我々の希望の光である。

曇天

20070710_11350001 足が痛い。
やはり気象予報士か。

2007年7月 9日 (月)

長老

今日は長老が家に来られた。
お昼をご一緒し、信仰生活について語り合った。

楽しいひと時であった。

十字架上での痛み

民数記3章、士師記6章、詩篇41篇、イザヤ書62章、ヨハネの福音書19章、ローマ人への手紙3章を読む。

ヨハネの福音書19章は十字架。

十字架は痛みと恥で苦しみむ刑である。
絵画や映画で表現されているものはかなり控えめである。
3本の釘を両手首と重ねた足の甲に打たれ、それだけでからだを支える刑だそうだ。
そして、”また下着をも取った”(ヨハネの福音書19章23節)とあるとおり、素っ裸のさらし者である。
イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。”(ヨハネの福音書19章25節)、母がそばにいたとある。

昨日の伝道メッセージでもイエス様の十字架についての話を聞いた。
話を聞いていた時に考えていたのは、”十字架は痛いのだろうか”。

イエス様と一緒に十字架に架けられた二人の者の言葉が聖書に書かれているが、やたらと冷静な受け答えをしているような印象を受ける。
当のイエス様は自分を十字架に架けた者たちのためのとりなしの祈りをされ、母の心配をされている。
唯一”「わたしは渇く。」”(ヨハネの福音書19章28節)だけが苦しみからの言葉である。

いつも思うのだが十字架の場面の描写はあっさりとしている。
聖書はこの十字架をクライマックスにしているはずなのに、あまりにもあっさりと描写している。
他の個所では”霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、”とイエス様の感情を描写しているところもあるのに。
なぜか?

空想小説ではないからである。
事実を見た者が見たとおりの表現しか記述できなかったからだと考える。

どんな苦しみなのかが隠されている。
刺し通される痛み、さらし者にされる痛み、死に至る痛み、神様から見放される痛み。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」”(マタイの福音書27章46節)、十字架上でのイエス様の叫び。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
”(マタイの福音書5章29-30節)、イエス様はどれぐらい悲惨な苦しみかをこのように表現された。

信じるか、信じないかに任されている。

イエス様は身代わりになられた。
イエス様の受けられた苦しみは、本来はイエス様を信じたものが受けるべき苦しみである。
つまり、イエス様を信じないものはあの十字架上での苦しみを受けることになる。

これもまた信じるか、信じないかに任されている。

2007年7月 8日 (日)

さばきと責め

民数記2章、士師記4-5章、詩篇40篇、イザヤ書61章、ヨハネの福音書18章、ローマ人への手紙2章を読む。

そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。"(ローマ人への手紙2章3節)を読んで考察する。

あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。”(マタイの福音書7章2節)に通じる。

他人をさばく者がさばかれる。
これはお互いに罪人で、自分も何らかの悪事をおかしているからと言う意味ではないように思える。
まったく同じ悪事を本人もおかしていることを意味しているのだと考える。

律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。
”(ローマ人への手紙7章7-8節)とあるとおり。
他人をさばく者は、そのさばきに関わる戒めを持っていることを示している。
故に罪がその戒めによって機会を捕らえ、その悪事を引き起こすのである。
つまり同じ悪事をおかすことになる。

私はその罪人のかしらです。”(テモテへの手紙第一1章15節)とパウロは言う。
私は上述の原理に従って本当にパウロは罪人のかしらなのだと考える。
彼はパリサイ人、”私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。”(使途の働き22章3節)とあかす通り、その厳格な律法を捕らえ罪があらゆる悪事を引き起こしたのだと思われる。
それを実行に移したとは考えないが、心の悪と戦い続けたのではないかと推察する。

もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。”(マタイの福音書18章17節)に責めなさいとある。
さばきと責めるを使い分ける必要がある。
当たり前のことだが、正しく区別できているだろうか。

さばきとは善悪の区別の判断をすることである。
さばきは義と公正をもっておられる方、神様だけが行われるべきものである。
私たちは相手の行いを見て善悪の区別をしてはいけない。
私たちはまったくもって何も知らないからである。

責めるとは、悪だと判断されてからのことで、更生を促すことである。

しかし、さばかず悪だとどのように判断するのだろうか。
責めるべきときは確実に有ると思うのだが。

私は人を責める時、自分が同じことをしていたと、いつも思い返される。
言葉が止まってしまうことがある。
こういう時は心にさばきが満ち溢れているのかも知れない。
逆に相手に解ってもらうべきだと積極的になるときもある。
こういう時は相手に対する思いやりからでているのかも知れない。
思わず責めてしまうこともある。
こういう時は自分のことしか考えていないのかも知れない。

その責める行為が客観的に正しいかどうか判らないにしても、相手に対する愛の有無が責めることの正誤の判断基準なのかもしれない。
責める前に神様に正誤の判断を祈り求めるのが最良なのは確かである。
しかし、できない。

わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。”(ヨハネの福音書5章30節)とイエス様はおっしゃる。

2007年7月 7日 (土)

二人は仲良し

姪の青空(はるか)ちゃんが生後100日目をお迎えしたそうだがな。

「お食べ初め」では”石”がメニューに入っているとは、三人も育てておいて知らなかった。

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永遠のいのち

民数記1章、士師記3章、詩篇39篇、イザヤ書60章、ヨハネの福音書17章、ローマ人への手紙1章を読む。

私の場合は満足を得ることがないことが昨日解り、少し肩の荷が下りたような感じである。
このことを心得て好きなように生きればよいようである。

それに追い討ちをかけるように、”主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。”(詩篇39篇)を読む。

生きることに希望を見出すことはないようである。
その先に本当の希望がある。
永遠のいのちに対する価値の捉え方が重要なのだ。
過小評価してはいけない。
人ははかないものであることを知らねばならない。

あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。”(ヨハネの福音書17章18節)、はかないながらもこれを全うすることに尽きるようである。
そしてそれは”信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力”(ローマ人への手紙1章16節)を述べ伝えることである。

これが第一である。

第二、第三を追い求めて虚しさに陥る。
しかし、それで良い。

2007年7月 6日 (金)

不満

レビ記27章、士師記2章、詩篇38篇、イザヤ書59章、ヨハネの福音書15-16章、使途の働き28章を読む。

7月1日のあかしで人生の新たな展開が見えるかと思いきや、何も変わらない。
いつもの営みの繰り返しの日々。
そもそも、新たな展開の根拠はなかったが。

だから、不満、不満、不満、不満、不満、で爆発しそうである。
うーん、何が変われば嬉しいのかが解らない。
営みも、イベントも具体的に期待するものがない。
だから困ってしまう。

アルコールを止めたときに胸にあいた穴に風が吹き抜けているような気分である。
正しくは穴が開いていたから、それを埋めようとアルコールを摂取していた、と考える。

まったくもって足るを知らない。
このような輩を満足させることができるのは神様だけだと希望は持っている。
ただひたすらに待っているのだ。

”神様、私に何があれば私が満足するのか、あなたはご存知です。憐れんでください。”と日々祈る。(”日々”に疑問は有るが)

私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。
主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。
”(詩篇38篇8-9節)に大いに共感する。

見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
”(イザヤ書59章1-2節)、”えーーーーー”と唸る。

わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。”(ヨハネの福音書15章11節)を読んで、”私の心をイエス様の喜びで満たしてください”と祈る。

この記事を書いていて、訳が解らなくなってきた。
何故、神様が私の心を満たす必要があるのか。
神様が喜びで満たされるために私は在るのではないのか。
そして私が喜びで満たされるのではないだろうか。

知足、知足、知足、知足、”知足とは”を調べ、検索結果の表題を流し見ていて気付く。
この問題が解決するとは私にとって、この世で生きる必要はない、ことを意味するのではないだろうか。

御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
”(ローマ人への手紙8章23-24節)、辛すぎる。

満足して何を求めよう。

フルーリーストロベリー&オレオ

20070706_15420001 割引券で190円。
おとくー。

イチゴはジャムじゃなくて、みじん切りなんだ。

スポーツ後の水分補給にはならんな。

タッキー

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レッドホットチキンセット+アイスコーヒー 640円

今日はプールウォーキングするぞ。

2007年7月 5日 (木)

Message in a bottle

20070705_13210001 今日も足が分解しそうなぐらい痛い。

今日はプールに行かない。
もう、ずっとプールに行かないかもしれない。
だから、今日はプールに行ったほうがいいような気がする。
きっと、行った方がいいような気がする。
でも、行きたくないから行かない。

レビ記26章、士師記1章、詩篇37篇、イザヤ書58章、ヨハネの福音書14章、使途の働き27章を読む。

レビ記26章を読んで。

人にとって良いこととは、仕事が充実すること、食べることに満ち足りること、安らかに暮すこと、よく眠ること、危機感に悩まされないことのようである。
あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れ時は、種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかにあなたがたの地に住む。わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る。わたしはまた悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。”(5-6節)

これに対して、人が神様定めを忌みきらって、命令をすべて行なわず、契約を破り、聞き従わないなら、悪いことを起こすと続けて書いてある。

ただ、この記述はばちを当てるとは読み取れない。
悪いことが起こってもし立ち返らないならの、もしが4回続くのだ。
しかも最後には”わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。”(44節)と書かれている。

つまり、愛する者たちに本来あるべき姿に帰ってきて欲しいと、神様が心から願っておられることが分かる。
そのための懲らしめである。
人間は懲らしめがないと立ち返らないのであろう。

この悪いことが起こる表現の中に以下の記述がある。
だれも追いかけて来ないのに、あなたがたは逃げる。”(17節)
あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き”(19節)
心の中におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ、剣からのがれる者のように逃げ、追いかける者もいないのに倒れる。”(36節)

これは私が欝で苦しんでいる時の状態に良く似ている。
何もないのに恐れおののき、立ち行けないほどに自信を失う。

人間にはこのように自分を追い詰める機能が備わっているのではないかと思われる。
神様に立ち返るための懲らしめの機能である。
この機能が誤動作した状態が欝なのかも知れない。

人にとって良いことを冒頭で挙げたが、私はこれでは満ち足りない。
だから幸せには成れない。
これも私の大きな悩みの種である。

2007年7月 4日 (水)

幻惑

誘惑されて
痛みがいざなう
天国への招待状

記憶の断片
あいまいな約束
狭い通路

セピア色の風景
眩しい光
大理石
琥珀
虚栄
赤い服

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快感
暗がり
遠い感覚
一人




終わり
椅子
静寂
赤紫の瓶

黒く塗られた部屋
残り香
冷蔵庫

憂鬱
落胆
喧騒

至福

誘惑されて
痛みがいざなう
天国への招待状

土地

レビ記25章、ヨシュア記24章、詩篇36篇、イザヤ書56-57章、ヨハネの福音書13章、使徒の働き25-26章を読む。

土地の所有権と言うものにいまいち違和感を感じる。

未開の地に最初に踏み入る、もしくは強奪すると所有権が発生するのだろうが、土地はその人が所有権を持つ前、もっと言えば生まれる前から存在する。
地球規模の時間で考えると一瞬しか存在しない人がその土地を所有しているのだ。
それでもって売買されたり地価が高騰したりする。

その上、現在は月の土地も売っているし、コンピュータではセカンドライフというバーチャルランドの土地売買で儲けている人もいる。
もうわけが解らない。いったいどうなってるんだ。
バーチャルランドは勝手にやってくれと思うが、月の所有権はいつの間に誰かのものになったんだ。

聖書のヨシュア記は約束の地を占領し、地所を各氏族に分配する話だ。
その後、イスラエル人同士で貧しさから土地を売ったり身を売ったりすることをみこして、神様はヨベルの年に関する取り決めをレビ記でしている。

50年に一度のヨベルの年になると、売られた土地は持ち主へ帰り、身売りした人は自由になる。
土地を売るとは次のヨベルの年までの収穫の回数を売ることとしている。
身売りは奴隷になるのではなく、ヨベルの年まで仕えることを意味している。

神様が人におっしゃられた次の二つのみことばが印象的である。
地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。”(レビ記25章23節)
彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。”(レビ記25章42節)

私は分譲マンションに住んでいる。
たくさんの持ち物を持っている。
でもそれらは重荷でもある。

どれも満足なんか与えてくれないし、天に持っていくことはできない。

痛いよ

足が分解しそうなぐらい痛いんですが。

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いつまで続くんでしょーーーーーーーか。

2007年7月 3日 (火)

良い物を食べよ

レビ記14章、ヨシュア記23章、詩篇35篇、イザヤ書55章、ヨハネの福音書12章、使徒の働き24章を読む。

イザヤ書55章には聖書中で最も好きなみことばがある。

なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。”(2節)、My聖書上ポストイットを貼り付けている唯一の節である。

なぜ、好きかと言うと完全な慰めを受けることができるのだ。
あらゆる重荷から私を救い出してくれるような気がするのである。

人は被造物だ

私がどうすでば幸せになるのか私には解らないが、創造主であられる方は私の作者なのでよくご存知である。
私の作者であられる方が言われる”食べること以外のことを追い求めるな”。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。”(マタイの福音書6章26節)、その上に神様が養ってくださると約束してくださってるのだ。
つまり、食べれるかどうかも悩む必要はないとイエス様はおっしゃっている。

結論。
良い物を食べよ”、これに尽きる。

その他の幸せに成るだろうと思われる物事のための努力や思い煩いは、全てむなしく終わるのでやめなさいと、私たちに休息を促してくださっている。

自分で招いたことではない労苦をしておられる方の反感を買う表現をしているかも知れないが、私自身は本当にこのみことばから慰められる。

私は色々なことを興味から始めて、習慣にして、挙句に義務にして苦しむ、これを山積みにする。
どうもこういう性癖を持っているようで、いつも息苦しい。

ここにここのみことばが光をさしてくれるのだ。
”やめなさい”といった具合に重荷を取り除いてくれるのである。
肩の力が抜けるのだ。
(余談だが、思い煩っていたことが、あっさり解決することが多々ある。)

そして私は生きることの何もかもがむなしいと常々考えているのだが、”良い物を食べよ”に生きる希望があるように思えるのだ。

一般的には馬鹿げたことのようかもしれないが、真理とはこのように隠されているのではないだろうかと思えるのである。

何と言っても人を創られた方がこうおっしゃっているのだから。

2007年7月 2日 (月)

死に至る病

レビ記23章、ヨシュア記22章、詩篇34篇、イザヤ書54章、ヨハネの福音書11章、使徒の働き23章を読む。

ヨハネの福音書11章はキルケゴール著”死に至る病”のテーマである。
正直に言うが、この本を読むのは三分の一ぐらいで挫折している。
冒頭の難解な文章は攻略したのだが、いつまでも続く意味の解らない単語群に撃退されいる。
なぜ、あそこまで難しい表現を採用するのだろうか。
教化的といいながらも。
だが、緒言のヨハネの福音書11章に対する解説は学びとして大いに勉強になる。

ヨハネの福音書11章はイエス様が死んだラザロを蘇らせるシーンである。

キリストを信じた者は死んで永眠しない。
肉体は朽ちていくが、たましいは永遠に生きるのである。
だから、キリストを信じたラザロの抱えていた病は”死に至らない病”なのである。

”死に至らない病”があるのなら”死に至る病”がある。
はたしてその”死に至る病”とは何なのか、ここから主題の読み物はスタートする。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている”(ヘブル人への手紙9章27節)にそって起こること、つまり、キリストを信じない者は罪を覆われることが無いので、さばきの結果永遠の滅びに行く。これを”死に至る病”としている。
実に教化的である。

そして罪とは何かが語られていくのだが、挫折したのでこれ以上は書けない。

それはさておき。
ヨハネの福音書11章でイエス様がマルタに語られた言葉は、それを読むものに人類最大の悩み”死”に対する希望を与えるものである。
そして、その希望に証印を押すように神様の栄光があらわされる。

イエス様の完了したことをあえて示す祈り”イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。”(41節)に感極まる。

すべては”回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために”(42節)である。

マルタに語られた言葉。
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」”(25-26節)
私は信じた。

死によって別れることは確かに悲しいことである。
だが、生きていとは一瞬のことであることと、生を終えた後に神様から与えられる莫大な財産を考えると、そこにあるのは希望である。

ロクツボヤ

家族5人で食事。

神戸南京町のベトナム料理店”ロクツボヤ”。

コース(一人2600円)を人数分注文する。
定番料理をちりばめてくれているそうな。

まずは生春巻き

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うまー。

給仕をしてくれたお姉さんがいい味を出している。
味も気分も良いお店である。

BGMがいい感じ。
CDタイトルを教えていただく。

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Norah Jones 2ndだとのこと。

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グァアバジュース

あかし

初のカテゴリー”伝道”。

伝道集会であかしをする。

メッセージをネットに公開しても良いとのことなので掲載する。

緊張してるなー。(^_^;)
夢中で話してしまった。

2007年7月 1日 (日)

だれが信じたか

レビ記21-22章、ヨシュア記21章、詩篇33篇、イザヤ書51-53章、ヨハネの福音書10章、使徒の働き21-22章を読む。

イザヤ書53章はイエス様に関する預言である。
2700年前に2000年前のことを預言している。
考古学上紀元前2世紀に埋蔵されたとされている旧約聖書写本にイザヤ書は含まれている。

だれが信じたか”(1節)のとおり、誰も信じない。
イエス様を救世主と信じない。

イエス様は十字架にかけられた。
弟子たちもイエス様が十字架に架けられた時、失意に落ち込んでしまった。
現在、多くの人が信じない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。”(3節)、福音書に見るイエス様の生涯をそのまま表している。

私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。”(4節)、十字架上のイエス様にかけられた罵声である。

彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。”(5節)、イエス様が十字架かに架けられた理由である。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。”(6節)、私たちのそむきの罪である。
これが罪の本質なのだ。

しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。”(10節)、神様の私たちへの愛から出たご計画だったのだ。

彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。”(11節)、イエス様は苦しまれ、救世主となられたことを喜ばれた。

衝撃的な記述ではないか。
感謝である。

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