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2007年6月

2007年6月30日 (土)

罪をおおわれた人

レビ記20章、ヨシュア記20章、詩篇32篇、イザヤ書50章、ヨハネの福音書9章、使徒の働き18-20章を読む。

詩篇32篇は罪をおかしてしまった人の悩みと解決である。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。
”(1-2節)

悪いことをするといたたまれない気持ちになる。
覆い隠されたいと思うものである。

いったい何からだろうか。
自分の目から、人の目から、神様の目から。

人の目から逃れるために、一生懸命に取り繕うことはよくあることだ。
でも何かしら拭い去れないものが残り、どんどんと必死になる。
また、やるせない気持ちが残る。

それは自分の目は欺けないから。
もはやどうしようもない。
自分の目から逃げることはできない。

ここでとんでもないことが起こる。
自分のしたことを正当化し受け入れてしまい、モラルが低下する。
もしくは、果てしのない深みに沈み込んでしまう。

ここで止まってしまうと不幸である。

私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。”(3節)が追い詰めるのだ。

罪は赦されないと悲しみから開放されない。
被害者から赦されること、回りの者から赦されること、自分で自分を赦すこと。
果たして、それぞれは実現する事なのだろうか。
人間が人間を赦すことはできるのだろうか。
程度の問題なのだろうか。

慰められられることが必要なのではないだろうか。
慰められた時、開放されるのではないだろうか。
慰めに関して言えば、人は努力しくれるが力及ばないこともあるし、疲れて裏切ることもある。

本当は神様の目から覆い隠される必要があるのだ。

神様の目から覆い隠される時、人は解放されることがこの後に続く。

私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。”(5節)、神様は告白すれば赦してくださる。

あなたにお会いできる間に”(6節)、期限付きである。
死ぬまでか、さばきの時までか。

あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。”(7節)、神様は苦しみから救ってくださる。
慰めてくださるのだ。
このとき人は初めて罪責感から開放される。

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。”(8節)、神様はどうすればよいかも教えて下さる。

昨日テレビで見た”少年法を廃止します”で考えていたことを思い返す。
律法は罪を認識させるだけである。
加害者も被害者も守らないし、犯罪に対する抑止力なんてない。
恐怖は、それを上回る恐怖に飲み込まれる。

律法の必然性を教えられない現在、モラル低下には加速度が付いている。
”人を殺してはいけない”と何を基準に教えるのだろうか。

赦せない重荷、これは明らかに人を不幸にする。
復讐は赦せない重い荷を軽減しない。

加害者も被害者も必要としているのは慰められることだ。
加害者は慰められ、更生する。
被害者は慰められ、悲しみから開放される。

慰めてくれる方がいる人は幸いだ。
しかもその方が権威ある方であれば素晴らしい。

ああ、慰めに満ちた愛よ。あなたはなんと美しく、快いことよ。”(雅歌7章6節)

ネバネバ

売り切れ続出

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お手軽ネバネバそばとエビマヨネーズ 475円

長男はMEGATERIYAKIを食らう。

2007年6月29日 (金)

Walking on the Moon

前に後ろに右に左に歩く。

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贅沢な休憩
マックフルリレオのオレオ 300円

ダイエット目的じゃなくて筋力トレーニングだからOK

こだわり

レビ記19章、ヨシュア記18-19章、詩篇31篇、イザヤ書49章、ヨハネの福音書8章、使徒の働き17章を読む。

相変わらずバイクにこだわっている。

祈って、許されて、与えられたと信じて疑っていないからである。
わがままだと思われる願いも祈るべきだと聖書から教えられたと思っている。
なぜ事故にあったかは知らない。
ヨブが不幸に有った理由を知らなかったように、私も知らないものなのだろうと解釈している。

はっきり言って、形勢は極端に不利である。
事故は私が一方的に悪いことになっている。
なっていると言うのは、私には一切の記憶がないから、身に憶えがないのだ。
そもそも事故歴が多い。
その上、身体の怪我はバイクに乗れる状態に回復するめどはない。
そういう背景もあって、回りの者の理解も到底得られる状況ではない。

朝、寝起きにボーっとバイクのことを考えていて、むなしくなった。
”もう決着をつけてください。だめなら慰めてください”と祈る。

詩篇31篇を読んで、バイクのことを思い返した。

私が決して恥を見ないようにしてください。”(1節)
事故る奴、へったっぴ、心配の種から開放されたいです。

私をねらってひそかに張られた網から、私を引き出してください。あなたは私の力ですから。”(4節)
単にむなしい思いなら決着をつけたいです。

あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。”(7節)
そうです、バイクは神様が私に与えてくれた楽しみでした。

私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。”(7節)
神様は私がバイクのことで思い悩んでいるのをご存知です。

私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです。私の目はいらだちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私のからだも。”(9節)
決着のつかない状態にいらだちます。

私の年もまた、嘆きで。”(10節)
年齢的な限界も近づいてきます。

非難されました。わけても、私の隣人から。”(11節)
私のことをヘタッピだと言います。偶像だと言う人もいます。乗り方が悪いかったのだと言う人もいます。解釈を誤っている、必要ないのだと言う人もいます。

主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」”(14節)
神様は全てご存知なので、私にとって一番良いさばきをしてくださいます。
バイクが許されるにしろ、許されないにしろ。

主よ。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたを呼び求めていますから。”(17節)
神様、私の願い、もう一度バイクを楽しむことを許してください。

偽りのくちびるを封じてください。”(18節)
正しいさばきをお願いします。

私はあわてて言いました。「私はあなたの目の前から断たれたのだ。」と。しかし、あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに。”(22節)
今日、むなしさに沈みそうなので、神様に祈りました。
バイクはあきらめなくて良いのですね。

やっぱり信じて疑っていない。

2007年6月28日 (木)

けんた

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レッドホットチキンセットとアイスコーヒーR 640円
ハイカロリーだな。

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ハバネロプラスは怖くて使えない。
しかし、家でカレーに入れてみようと画策し持ち帰る。

心を開いて

レビ記18章、ヨシュア記17章、詩篇30篇、イザヤ書48章、ヨハネの福音書7章、使徒の働き16章を読む。

神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。”(使徒の働き16章14節)

主が心を開かれたとある。

何度、この祈りをしたことか。
かたくなな心、かたくなにしてしまった心をよく見る。
こだわりがあったり、嫌気がさしていたり、そもそも興味がなかったり、色々である。

私は本当に良いものを持っていている。
それを分かち合いたいと思うのだが、どうすればいいのだろうか。

イエス様について自分の持っているものを語りたい人がたくさんいる。
しかし、何を語ればいいのかさっぱりわからない。

どんな重荷を持っておられるのか本質を理解してあげていない、何を必要としているのか理解してあげていない、要するにその人の気持ちを解っていない。
これだからだめである。
語る言葉は空を切るだけだ。
議論に勝つこと、論理的に攻めること、これもよくあるが、こんなものは何の役にも立たない。
”言ってる事は解るよ、でもね・・・・”、どんなに上手に話したとしても、この応答の前に行き詰る。

人の心はそんなものは受け入れない。
そう、受け入れていただくことができない。

創造主がおられること。
この創造主に背を向けて生きている、これが罪であること。
だから、創造主とともにいられないこと。
創造主とともにいられないので、人は満たされることがないこと。
満たされないから、新しい何かを求め、目的なく迷い出てしまうこと。
迷い出た結果、世の悪に流され、悪い行いをしていまうこと。
そして後悔すること。
また満たされない、この悪循環から抜けれらないこと。
罪を持っていることを裁かれること。
裁きの結果、永遠に創造主と離別してしまう、いわゆる地獄に行ってしまうこと。
イエス様が十字架上で私たちの受けるべき裁きを身代わりになって受けてくださったこと。
そして、イエス様は死をも打ち破って、3日目によみがえられたこと。
このイエス様の救いを信じるものは、神様の前に義と認められること。
義と認められた人は、死んでもイエス様同様によみがえり、永遠の命を持ち、天国で創造主とくらすことができること。
信じた者は罪から開放され、罪のもたらす悪循環から開放されること。
信じた者は悪い行いに”NO”と言える自由を持つことができること。
信じた者は創造主との関係を回復できるので、本来の行き方を実現できること。
そして何よりも、創造主は被造物である我々を愛してくださっていること

何を相手の状況に正しく当てはめて、どんな風に語れば良いのか分からない。
創造主とその人との仲介なんてとてもじゃないができない。

神様がその人の”心を開いて”、語ってくださり、”心を留めるように”してくださる。
これを祈るばかりである。

それでも語らなければいけない。
”人は影響しあうためにたくさんいる”と三男が教えてくれた通りだ。
語ったどの言葉が、どのように用いられるかは、神様のお考えしだいである。

強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。”(ヨシュア記1章9節)

2007年6月27日 (水)

五千人の給食

レビ記17章、ヨシュア記16章、詩篇29章、イザヤ書47章、ヨハネの福音書6章、使徒の働き15章を読む。

ヨハネの福音書6章に五千人の給食の記事が出てくる。
大麦のパン五つと小さい魚を二匹を分け与え、男だけで五千人つまり女性、子供も数えれば1万人以上(?)が給食し、余ったぱん切れで十二のかごがいっぱいになった、と言う話である。

この記事はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの全福音書に出てくる。
重要な記事なのであろう。
マタイとマルコはこの後、イエス様の奇跡を信じて群集が集まって来るまでを記述している。
ルカはこの後、弟子たちにイエス様がキリストであることを示し、自分が殺され、よみがえる話を記述している。

ヨハネは他の3福音書に通じていて、イエス様の奇跡を信じて群集が集まってきて、たとえでイエス様がキリストであることと、殺され、よみがえることを示され、それを信じられない弟子たちが去っていくことを記述している。

人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。”(12節)、給食直後の群集の状態である。

群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。”(24節)、集まってくる。

しかし、数節後には”そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。”(30節)
となり。
その上、イエス様の教えを聞いて、”こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。”(66節)となる。

決して信じないのだ、奇跡を見ても、この力がどこから来たのか、この方がどういう方なのか、何のためにこれが行われたのかを悟らないのである。
パンを与えてくれる王として求めていると書かれている。

群集はイエス様の教えの直接的な表現だけを捉えて、”「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」”(60節)と言って去っていく。
肝心な”イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」”(29節)の神様のわざを行うに至らない。

奇跡は人の目を引くが、その人の心に悟りがもたらされなければ意味がない。
聖書には多くの奇跡の記述があるが、本質ではないように思える。

聖書の奇跡のすごさを人に話したことがある。
一言、”全てトリックが実証されている”と切り替えされた。
そう、奇跡は怪しみの対象である。
奇跡を売り物にするカルト集団をあざ笑うかのように奇跡は本質ではない。

信じ続けられる対象であること、本物、これが大切なのである。
神様はこの方法を採用され、栄光を受けるべき唯一の方となられた。

今の奇跡のない世でも、信じることが広まっていく理由である。
本物が聖書の中に隠されている。
へりくだって、捜し求め、発掘した人には勝利が与えられる。

さて、奇跡のないない世と書いたが、本当だろうか。
この世で起こっていることは、すべて確率にしたがって発生しているのだろうか。
私にはそうは思えない。
超自然的な介入があまりにも自然に起こっているように感じられるのである。
だから、創造主を自然体では捉えることはできないが、求めれば見つけることができるのではないかと思えてならない。

宇宙の存在、自分の存在、日常の出来事の必然性、どれをとっても自分のために計画されて起こっていると思える。
それぞれの意味を理解するには、この頭では小さすぎるだけのように思われる。

2007年6月26日 (火)

こんにちはお仕事

お医者さんに、就労可能の診断書を書いていただいて、失業保険の受給期間延長申請を変更しにハローワークに行く。
就労不可能から、失業中に立場を変更した。

重労働不可、立ち仕事不可、デスクワーク可と診断結果を頂いた。
ただ、座っていても、時間が長くなると脚が痛み始める。
状況を説明すれば、就労不可にもなると思うし、もとの仕事ができない状態は就労不可と判断しても良いようである。
もう少し傷病手当を頂いていても良いかもしれない。

実を言うと傷病手当は4月以降、打ち切られていると思っていた。
一方的な案内を鵜呑みにしていたのだ。
だからハローワークに行くに至った経緯を間違っている。
傷病手当はもらえない(収入がない)→立場を失業にする、になっている。
正しくは、傷病手当をもらいながら完治する→立場を失業にする、である。

でも、自宅で、必要であれば寝ながらでも、仕事はできるではないか。
今は本も読めるし、パソコンもできるぐらいに回復している。

もう少し傷病手当で食いつなぐかは、神様の前に正しくないと判断した。

神様が養ってくださるのだ。
全ての必要を満たしてくださるのだ。
何の心配もすることはない。

バイクショップ・エンゼル

ミニバイクのミラーが折れた。
息子が転倒して折ってしまった。

息子は無傷である。
卓越した反射神経が物を言っていると関心していまう。

直しに行こうと、バイクに乗ってみると発進がやたらと重い。うーん?
マフラーが内側に反れていて、後輪と干渉しているではないか。
足でマフラーを押して、外側に戻す。フー

走り出すと、やたらと前輪がゆらゆらしている。
何かへんだなーと思いながらも走行を続ける。

左足に強く荷重がかかると痛いので、停止に気を使う。
ひいてはすごい安全運転になる。

いつもお世話になっているバイクショップ・エンゼルに到着。

事故にあったことを社長に話す。
”バイクにまた乗りたいけど、家内の承諾は絶対に出ませんね”と笑い話をし、しばしの雑談。

お客さんが来て社長が応対に出ている間に、バイクを見てみるとミラーが直っているではないか。
まだ、頼んでもないのに。

しかもプレゼントだそうな。(^.^)

若い職人さんに前輪を見てもらう。
ホイルが歪んでる。orz
いったい、どんなこけ方をしたんだ。

店頭に止まっている納車待ちの大型バイクに萌える。
バイクショップ・エンゼルとはもう一度、大型バイクでお付き合いしたい。

いやされる信仰

レビ記16章、ヨシュア記15章、詩篇28篇、イザヤ書46章、ヨハネの福音書5章、使徒の働き14章を読む。

ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。
この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。
”(使徒の働き14章8-10節)
いやされる信仰があるのを見て”とあるが、どんな状態なのだろうか。
福音の宣教を聞いているうちに、イエス様、救いをもたらし今も生きておられる方が直してくださると信じるようになったのだろうか。
そして実際に癒された。
幸いな人だと思う。

私には病気が癒されて欲しいと思う身内がいる。

その人が本当に望んでいること、本当に必要なことが、癒されることなのかどうかは、私には解らない。
そうに決まっているだろうとは簡単には考えられないのだ。
もっと言えば、治るにこしたことがないとも考えられないのだ。

私が病んでいる時、怪我で苦しんでいる時、治ることが一番だとは思っていなかったからである。

何よりも必要としていたのは、自分の置かれた境遇の意味を知ることではなかったか、と振り返って考える。

アルコール依存症の時は生きる意味だった。
酒をやめる離脱症状がなくなって欲しいとはあまり考えなかった。
そんなことよりも、仮に治ったとしても、その後どう生きるのかの答えが欲しかった。
その答えを得られれば、苦しみは受け入れられると考えていた。
逆にその答えが得られなければ、治っても無駄だと考えていた。
だから一時は死にたいとまで思いつめていた。
そして、答えがあることに希望を見出した。
答えが具体的に何かは解らないが、起死回生を果たした。

事故で身体の自由を失った時、時よりひどい痛みが襲う時は、その境遇になった意味、必然性が知りたかった。
神様の意図が働いていることは解っていた。
自分にとってそれがどんなに良い結果をもたらしてくれるのかに希望を持っていた。
身体が不自由でも、痛みで苦しんでも、一つ一つの招かざる事象も、希望があることは揺るがさなかった。
でもその希望が具体的に何なのかは解らない。

今の境遇を受け入れられあまりあるぐらいの大切なものがあり、それを得られるといつも考えている。
ただし、その大切なものが何なのかは解らない。

その大切なものは家族や、友人や、物質や、考え方や、自分自身にはない。
それがあることを信じ、そしてきっと手に入れるであろうと信じている。

もしかしたら、その大切なものをもう持っているのかも知れない。
もしかしたら、何か解らないが希望があることを信じることが大切なのかもしれない。

今はまだ満足していないが、未来に不満はない。

その大切なものを見出している、もしくは大切なものがあると信じ求めている状態を”いやされる信仰がある”と言うのではなかろうか。

2007年6月25日 (月)

立った!!!!

地べたに座った状態から、何の支えもなしで、自力で、立った!!!!

やったーーーーーーーーーーーーーー。ヽ(^o^)丿

(写真はあまりになさけない格好なので割愛)

あなたに代わって

レビ記15章、ヨシュア記14章、詩篇27篇、イザヤ書44-45章、ヨハネの福音書4章、使徒の働き13章を読む。

あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。”(詩篇27篇8節)
これは有りだな、と納得する。

神様が遠く感じる時がある。
特段の理由もなくである。
そんな時、良からぬ考えに陥りがちになる。
これがなかなか辛い。
今まで信じていたことを再考し始め、苦難の堂々巡りに入り込むことが多々ある。

そしてまた先のみことばの通り、自分で自分を励ますように、神様に代わって自分に言い聞かせる時がある。

このみことばに出会えてほっとした。
今までは”むなしいことしてるのかな”と思ったりしていた。

よくよく考えると、この自分に言い聞かせる行為は信仰から来ていると思う。

私がつかの間に神様を遠く感じたからといって、物事が変わるわけではない。
かと言って、その時に一抹の不安を感じるのは事実である。

ようは辛抱、我慢ができないのだ。
そう、小さな子供のように不安でいっぱいになるのだ。
人間なのだから仕方がない。
先見の明なんてこれっぽちもないのだから。

だから、神様に代わって自分に言い聞かせる”「わたしの顔を、慕い求めよ。」”は最高の信仰の現われではないだろうか。

この後” どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。”(9節)と続く。

この詩の作者、ダビデの思いはクリスチャン全員の叫びだと思う。

こうして、この世で生きていきていきながら、成長していくのだろうと考えるのである。

2007年6月24日 (日)

帰ろう

レビ記14章、ヨシュア記13章、詩篇26篇、イザヤ書43章、ヨハネの福音書3章、使徒の働き12章を読む。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”(ヨハネの福音書3章16節)
誰がこのみことばの意味を理解できるだろうか。

天と地とその中の全ての物を創られた方が、ひとり子つまりイエス様を人間のために捧げられたとある。
しかも、その被造物である人間は創造主から背を向け、かってに滅びに向かっているのである。

愛されたのだ。神は人間を。
人間が滅びることを良しとされず、永遠に一緒にいたいと望んでおられる。

この愛を理解できるだろうか。

創造主から背を向け、かってに滅びに向かうこと、これが罪である。
これが我々人間の本質である。

被造物が創造主から背を向けて幸せに成れるわけがない。
被造物には創造主の意図したあり方が有る。

胸にあいた大きな空洞からくる満たされない思い、なにか間違えているようなやるせない思い、これらはこのあり方を失っていることに起因している。

人間には理解できない愛を神様は人間に示しておられる。

帰ろう。神様の下へ。

理解できないけど、受け入れる、信じることはできる。
イエス様が我々の罪のために十字架に架かられたこと、そして死を滅ぼしてよみがえられ、永遠の命を実現されたこと、これを信じる者は滅びから免れる。

へりくだって神様の下に帰ろう。

足痛い

一昨日のショッピング&散歩以来、足が痛い。

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痛み止めのボルタレンを飲むと、すうーと抜けるように痛みが取れる。
痛みの原因は解決しませんと書いてあったので一抹の不安がある。

しかし、なぜこんなに痛みのだろうか。
天気のせいだとすると、いやだけど予報士になれるな。

2007年6月23日 (土)

キリスト者

レビ記13章、ヨシュア記12章、詩篇25篇、イザヤ書42章、ヨハネの福音書2章、使徒の働き11章を読む。

使徒の働きは前章から引き続き、異邦人すなわちユダヤ教徒以外への伝道の始まりである。

イエス様をキリストとする信仰は最初、ユダヤ教の一つの異端派であった。

最初にペテロが異邦人にイエス様と罪の赦し、福音について述べ伝えた。
また、ユダヤ教からの迫害を受け散らされていった信者たちのなかの元ユダヤ教改宗者がギリシャ人に福音を述べ伝え、異邦人信者が広がっていく。

キリスト者(クリスチャン)という名の誕生である。

以降、パウロの伝道旅行の功績とともに、福音は世界に向けて述べ伝えられていく。

ユダヤ教による迫害、ローマ帝国による迫害と迫害の歴史が3世紀ほど続くなか、キリスト者は増え続けていく。

福音が嘘であったら、この3世紀の間に消えてしまうはずである。
本当の話だから生き残ったのである。

4世紀の初めローマ帝国の国教となって、福音と信仰がキリスト教と言う宗教にとって変わる。
国教となることで本当に信じないものがキリスト者になり始める。
キリスト教は聖書から離れていき、内部から腐り始める。

宗教改革を経て現在に至るが、派閥、異端、背教が付きまとっている。

福音と信仰を持ち聖書に従う本物のキリスト者は、歴史の中でか細く生き残り続けているのである。
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。”(マタイの福音書7章13節)

そして、福音と信仰は私にまで伝わってきた。

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。”(マタイの福音書24章14節)と預言されている。

2007年6月22日 (金)

受け入れる

レビ記12章、ヨシュア記11章、詩篇24篇、イザヤ書41章、ヨハネの福音書1章、使徒の働き10章を読む。

ヨハネの福音書に入る。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。”(ヨハネの福音書1章1節)、昔の聖書を見ると、ここでの”ことば”は”かしこきもの”と訳されている。
ギリシャ語の”ロゴス”が原語らしい。

ことば”はイエス様のことである。

この後” この方は、初めに神とともにおられた。”(2節)と続く。
難解な表現である。

神様の神様たる所以を表していると考える。
神様の存在の仕方の多様性を表している。

原理や教理といった詳しいことは解らないが、書かれている通りに受け入れることができる。
なんとなく心の中でしっくりくるのだ。

我々、人間は初めを想像することができない。
もちろん終わりも想像することができない。
それと同じく、神様の栄光を想像することもできない。

受け入れることなのである。

この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
”(10-11節)、これが今も続いている現実である。

神様は何故、このような被造物を滅ぼされないのであろうか。
これも不思議なことである。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。”(12節)
神様は大いなる憐れみをもって、この反逆の被造物をかえりみられた。

ただし、イエス様を受け入れことが絶対の条件である。

受け入れなかった被造物が受け入れるようになる。
この方法を神様はよしとされた。

なぜかは解らない。
この原理にこそ、神様の絶対的な栄光があらわされる方法なのか。

受け入れた者は聖書の全てを受け入れるようになる。
持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。”(ルカの福音書8章18節)に通じているようである。

最初の受け入れる、イエス様を受け入れるは、一人一人に委ねられている。

心からお勧めします。

ガンベリ

ポルトバザールのピッツェリア ラ バラオンダで昼食
ガンベリと言う名のピザセット 1200円

うまー

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2007年6月21日 (木)

選びの器

レビ記11章、ヨシュア記10章、詩篇23篇、イザヤ書40章、ルカの福音書24章、使徒の働き9章を読む。

あなたのしなければならないことが告げられるはずです。”(使徒の働き9章6節)、イエス様がパウロに対して語られた言葉である。

パウロは教会を迫害していた。
イエス様はそれをとめられ選びの器として用いようとされた。
あわせて、どんな苦難をパウロが受けるかも示された。

パウロは以降、人が変わったように、キリストの福音を述べ伝え多くの教会を立ち上げる。
新約聖書に掲載されることになる手紙13巻を書き、2000年間もの間クリスチャンを励ますことになる。

第三の天にまで引き上げられ”(コリント人への手紙第二12章2節)、”パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いた”(コリント人への手紙第二12章4節)とあるように、パウロが一身をささげる動機となる栄光に触れる。

パウロのパリサイ人としての生い立ちや素晴らしい働きに対する賞賛を聞くことがある。
パウロと比較する発言を良く聞く。

でもパウロになんてなれない。

どのように生きるかの話題の中でパウロの手紙を引用すると、引用されている内容と自分がかけ離れていることを気付かされる。
それと同時にパウロと自分がかけ離れているようにも受け取ってしまう。

そして思うのだ、パウロはイエス様から直接何をすべきか教えられた。
どんな苦難が待ち受けているかを教えられた。
来るべき栄光を見て、どう生きるかを十分に考える時間が(数日だけど)あった。
と、考えてしまう。

何かおかしい。

人間同士を比較して何か得るものがあるのだろうか。
神様がどのように見ておられるのかを推し量ることもできないのに。

パウロはイエス様の名前を”異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、選びの器(使徒の働き9章15節)である。

イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」”(ヨハネの福音書21章22節)の通り、イエス様がパウロに対して望まれたことと私とは何のかかわりもないことではなかろうか。

ただ、イエス様に従うべきなのだ。

2007年6月20日 (水)

バプテスマ

レビ記10章、ヨシュア記9章、詩篇22篇、イザヤ書39章、ルカの福音書23章、使徒の働き8章を読む。

三男がバプテスマ(洗礼)を受けたいと言っている。
まだ、10歳である。
これに対して長男はバプテスマを受けるにあたってもっと考えたいと言っている。
どちろも良いことである。

使徒の働き8章はバプテスマについて書かれている。
サマリヤのバプテスマを受けた人々に聖霊が下る話と、エチオピア人の高官がバプテスマを受ける話である。
道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
{そこでピリポは言った。「もしあなたが心底から信じるならば、よいのです。」すると彼は答えて言った。「私は、イエス・キリストが神の御子であると信じます。」}
そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。”(36-38節)

心底から信じているのか、三男に聞いてみようと思う。
長男には心底から信じているのかじっくり考えてもらいたい。

以前書いた記事”従う”で触れたとおり、正しい生き方を求めることの宣言をする決断である。
重要なのは、イエス様を師と仰ぎ、まねることである。

さて三男は解って言ってるのだろうか。
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。”(ルカの福音書18章17節)の通り、受け入れているのだろうか。
素晴らしいことである。

”若い”で聖書を検索すると素晴らしいみことばがでてくる。

神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。”(詩篇71篇5節)、何という幸せ。

どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。”(詩篇119篇9節)、ぜひバプテスマを受けるべきである。

若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。”(詩篇127篇4節)
なるほど、力強いクリスチャンになりそうである。

若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。”(伝道者の書11章9節)とある。
さまざまな葛藤が待ち受けていることだろう。

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。”(伝道者の書12章1節)
私は若いころに聞いたみことばにわざわいの日から救い出された。

Walk This Way

プールウォーキング2時間
疲れた〜。
本当に歩くのとエネルギーの消費量はどのぐらい差が有るんだろうか?
マックアイスコーヒーM180円

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2007年6月19日 (火)

みことばを実行する人

レビ記8-9章、ヨシュア記8章、詩篇21篇、イザヤ書38章、ルカの福音書22章、使徒の働き6-7章、ヤコブの手紙1-5章を読む。

ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。”(イザヤ書38章17節)、このみことばは私の人生を象徴している。

まさに、苦しんだ苦しみと決別し、苦しみの原因から開放された確信に基づく平安がある。
そして、私のたましいはアルコール依存症の末路から引き戻された。
神様は隠れている罪も赦してくださる。

なのに苦悩が私を襲う。
日々は単調に過ぎ去っていく。
何かを待っている。

まるで”自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。”(ヤコブの手紙1章24節)のようだ。

毎日、毎日が同じことの繰り返しである。
わずかな日課と、惰眠による休息、これで終わりである。
昨日の憂いを忘れ、朝起きて一日を見通す。
昨日と何も変わらないことを思い、黙想の時に思い悩みは絶頂を極める。
一日の終わりに、終わりであることを楽しみに床に就く。

みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。”(ヤコブの手紙1章23節)だからだとある。
意味は解らない。

みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。”(ヤコブの手紙1章22節)、厳しいが、これもよく解らない。
自分はみことばを実行しているのだろうか。ただ聞くだけの者なのだろうか。
そもそも、行いによって示すことはできるのであろうか。

改めて考察しようと考え、実行しない。
すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます”の通りである。

希望がないと、動機は起こらない。
乏しい日課の日々の繰り返しに陥る。

目の前に置かれた喜び、すなわち希望が欠けている。

イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
”(ペテロの手紙第一1章3-4節)、これが目の前に置かれた喜びなのだろうか。

ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。”(ペテロの手紙第一1章8節)、なぜこうならないのだろうか。

自分の得た望みと資産を信仰によって捉えることができていないようである。
結局のところ、不信仰が自分を苦しめていることになる。

自分を苦しめる状態に留まっている。

苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。”(ヤコブの手紙4章9-10節)

待とう。

2007年6月18日 (月)

御名のため

レビ記7章、ヨシュア記7章、詩篇20篇、イザヤ書37章、ルカの福音書21章、使徒の働き5章を読む。

御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、”(使徒の働き5章41節)
このように喜べる時が来るのだろうか。

以前書いた記事のクリスチャンであることを恥じるでもなく、誇るでもなく、信仰により自然体であるときとは、喜ぶのようである。

喜びとは希望に満ちていることの現われである。
つまり、恥じるから転じて、自分の考えや行いを誇るのではなく、”確信と、希望による誇り”(ヘブル人への手紙3章6節)にやはりつながる。

神様は我々が喜んで暮らすことを望んでおられる。

しかし、私は自分に何が起これば喜ぶのかを正しく認識していない。

あれがあれば、これがあえば、と思い悩むが、手に入れても一過性の、もっと言えば一瞬の喜びであることばかりである。
罪によって的外れになってしまった認知は、喜ぶこともできない不器用さをもたらしている。

また、明日が来ることの憂鬱。
これを払拭する確信と希望を彼らは持っていた。
それとともに”御名のためにはずかしめられる”、試練を受けている。
忍耐によって喜びが表されているのである。

忍耐と喜びは短絡的には結びつかない。

いつも喜んでいなさい。”(テサロニケ人への手紙第一5章16節)は、悲しいかな困難な助言である。

私は依存し続けることで、すなわち瞬間をつなぐことで、喜びを継続しようとした。
それに失敗してしまった今、最も厄介な問題がこれである。

これが私の負うべき十字架でこの重荷の中で忍耐を学ぶ人生なのか、否、単に見えていないはずである。
神様は喜んで生きることを望んでおられるのであるから。

悲しんではいない。
しかし、喜んでもいない。
ただ、時が流れていく。
思いでも残らない。

解らない。解らない。解らない。

玉子

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三男が約10秒で玉子を立てた。v(^-^)v
すかさず記念撮影。

Konami Sports Club

プールウォーキングでリハビリ。

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入会する。

休憩マック

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三角マンゴーパイとアイスコーヒーM 280円

2007年6月17日 (日)

福音の喜び

ルカの福音書19章、詩篇20篇を読む。

今日は尼崎キリスト集会で特別伝道集会。

鈴木一志兄弟の学びと伝道メッセージを聞く。
天国に行けることが約束された喜び、神様に愛される喜び、救われて生きる喜びがじんわりと伝わってくるメッセージだった。

尼崎キリスト集会のホームページを修正する。

2007年6月16日 (土)

主がお入用なのです

レビ記5-6章、ヨシュア記5-6章、詩篇18篇、イザヤ書36章、ルカの福音書19章、使徒働き4章を読む。

イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。
もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」
”(ルカの福音書19章29-31節)、主がご入用なものは主が備えられる。

”主のために・・・”を正しく使っているだろうか。

だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。”(ヨブ記41章11節)、主は大いに報われる方である。
つまり、だれも主のためにささげてなんていないのではないか。
そもそも、全て主のものだとある。

その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。”(出エジプト記4章14節)、主を恐れたとき、人は主を優先し、さまざまなことをその手から捨てるのではないだろうか。

力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。”(ルカの福音書1章49-50節)、そしてあわれみを受けるのだ。

私は捨てる時、なぐさめてくださいと祈る。
これでいいのではないだろうか。

だが、なかなかあきらめられない。
あきらめてはいけないのかもしれない。
よく解らない。

生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。”(ローマ人への手紙14章8節)、よく解らないが、どういう結果になっても主のため、が正しいのではないだろうか。

あまりにくだらないので笑わないで欲しいのだが、バイクのことを考えると、そう思う。
変なこだわりだが、そう思う。

お土産

ジャスコで売ってた。

070616_20070001 何かいいかんじだよな~

終わり

帰路

このまま帰ると8時になるな。
温泉はおあずけ。

しかし、最寄りの高速入口まで74kmって、、、

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パラグライダーが7機飛んでる。いいなー。

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お礼

鳥取県立中央病院の整形病棟にご挨拶に伺う。

3人知ってる方がおられた。思い出していただく。
今日は土曜日か。

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鳥取警察

取り調べに2時間もかかった。

解らないと言ったら卑怯だと言われる。
人権を尊重し親切に応対すると書かれた理念らしきものが掲げられていたが、むなしく見えるよなー。

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事故現場

何も思い出さない。orz

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起点

ここからの記憶がない。
ここで鳥取砂丘まで18kmの標識を見て、向かった。

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070616_11350001_1 やっと出た。

鳥取県立中央病院

後で行くよー

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のんびりやってます

後部座席をフラットにしてくつろぐ。

景色も良いし。

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道の駅ひらふく

家内は鳥取ツアー6回目である。
いつもここで休憩するらしい。
時間的に中間点らしい。

しかコロッケ塩っぱすぎ。

ゆず太、良い感じ~。

Suica安。丸で売ってるの久しぶりに見た。

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佐用

高速終わり。
こっから鳥取市内が遠いのだ。

足が痛くなってきた。

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中国道

今日は事故現場、警察、病院に行く予定。

病院にはお礼に行く。あの病院ではたくさんのことを学んだ。退院以来なので半年ぶりである。

温泉セットも積んでいるとのこと。(^o^)

中国道分岐ややこしすぎ。

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鳥取へ

昨年末の事故の現場検証と調書の作成に鳥取へ向かう。
さて、何か思い出すのだろうか。

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2007年6月15日 (金)

預言

レビ記4章、ヨシュア記4章、詩篇17篇、イザヤ書35章、ルカの福音書18章、使徒の働き3章を読む。

心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。
そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。
そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。
”(イザヤ書35章4-6節)

このような言葉を掲げた経典や宗教書が他にあるであろうか。
現代の医学は特定の時代をさしてこのように人を励ますことができるのだろうか。

これが聖書のすごいところである。

イザヤ書は紀元前700年頃に書かれたものでる。
あくまで聖書の歴史の中での話しだが。信じるか、信じないか。

聖書が語る神様がこの世の制約をあまりに超越しているから、聖書がこの世の始まりから終わりまでをあまりに昔に語ったから、科学と考古学は聖書の真偽を見極めようとした。

最古の写本は1950年頃に発見されたもので、考古学上、紀元前2世紀の中頃から紀元後1世紀に書かれた物とされている。
本文は明らかにそれよりも古くからあったことを示している。
もっと古い写本があるかもしれない。紙ができるまでは口伝えで正確に代々伝えられてきたのだ。
ユダヤ民族は民族として神様の命令を忠実に守っている。

イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。
彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。
”(ルカの福音書18章40-41節)とある。

彼は知っていたのだ。イザヤ書に書かれた”神は来て、あなたがたを救われる。
そのとき、目の見えない者の目は開き、
”を信じていたのだ。
そして叫んだ。

イエス様がこの世におられたのは2000年前である。

聖書の福音書にイザヤ書の預言は実現したことが書かれている。
イエスがはいって行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。”(マルコの福音書6章56節)、他にも数々ある。

イエス様のおられたところには5000人以上の人が集まったとも書かれている。

使徒の働きではイエス様の弟子たちが、この奇跡を引き継ぐ。
ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。”(使徒の働き3章6-8節)、イエス様は十字架の死から復活され、今も生きておられる。
イザヤ書の”足のなえた者は鹿のようにとびはね”が実現している。

現在、当時のような驚くべき奇跡は起こらない。

神様が人の形をとってこの世にこられたこと、教会時代が開始されたこと、この一時代のために奇跡は起こったのだ。

今は聖書が完成している。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”(ヨハネの福音書3章16節)。
そう、信じるものが救われるのだ。

私は信じている。
2700年前にイザヤが預言し、2000年前にイエス様が実現した。

2000年前に700年間前の約束が成就したのだ。
しかも、”目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。
そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。
”が成就したのだ。

バイクでgo

20070615_17330001 久しぶりのBiker
と、いっても原付スクーターだが。

Uターンで右足が引っかかって、手間取ってしまった。
後続車が来てて、こわー。

ポルトバザールに足の訓練(散歩)と服を物色に行く。
無事に往復できた。

店員さんにカーキーのシャツが良いとアドバイスをいただき、ポルト中を見て回る。

足が痛くなったので、スタバへ。
豆を引いてもらい、アイスコーヒーtallを持って休憩。

20070615_15590001

再度、物色。

何かブランドイメージが良い感じのお店を発見。
色使いがきれい。
水色の混麻シャツを購入。

20070615_17400001

Adam et Rope
昔、JUNって言ってたブランドのようだ。

2007年6月14日 (木)

天は巻物のように巻かれる

レビ記3章、ヨシュア記3章、詩篇16篇、イザヤ書34章、ルカの福音書17章、使徒の働き2章を読む。

20070614_12180001 ”万物の起源”と言うビデオである。

あくまでも科学的に、進化論を否定し創造論の根拠を解説している。

宇宙の発生から地球の誕生、単純な分子からの生命の誕生、生命の進化についてを言及している。
今までの考えである、無秩序から秩序が具全的に自然発生する、を科学的根拠を用いて否定している。

聖書の記述”天の万象は朽ち果て”(イザヤ書34章4節)を見ることができる。
これがすごいのだ、宇宙は完全な状態、秩序ある状態から無秩序な状態に移り変わっていくとを説いている。
エントロピーの法則と言うらしい。
イザヤ書が書かれたのは紀元前700年ごろといわれている。

今まで信じられてきたことと言えば、進化によって起こる明るい未来である。
が、現実は崩壊の危機に瀕した暗い未来が待ち受けている。

聖書のみが創造主である神、つまり我々の受ける制約を超越した存在を説明している。
この超越した存在からの霊感によって書かれた書物であるからこそ、人知をはるかに超えた真理がこの書物に盛り込まれているのである。

科学が進歩し、新たなことを発見すると、聖書の正しさが証明される。”がこのビデオの主題である。

  • 地球が偶然にでき、偶然生物を発生させ、その先にサルの子孫として人間が発生した。
  • 万物は創造主により創造された。しかも人間のために。

このどちらを思想の根底に持ってくるかは大違いである。

一般的に超越者が初めにいて、我々の認識できるものの始まりを起こされたなんて理解できない。
じゃあ、超越者はどうやって存在したのか、と言う。
なぜ、人間の限界を超越者にも当てはめるのか。
人間の知性の限界の中で超越者を捉えようとするのか。

5年生の息子がこのビデオを見て感動していた。

私はと言うと、”卵が先か、鶏が先か”の絵本で突然爬虫類から鳥類が進化したと教えられた。
だが、進化論を根底に持ってくると、命の尊厳、倫理、人生の意味を見出すことができないのだ。
これが大きな弊害となって現実の問題を生み出す。

学校教育も見直さないといけないのではなかろうか。
なぜ生きるのか、なぜ殺してはいけないのか、なぜ好き勝手に生きてはいけないのか、説明できまい。
だから、世の中はどんどん悪くなっていくのだ。

つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。”(ルカの福音書17章1節)

雨じゃん

今日は家内が出かけているので、一人である。

足の訓練の散歩を目的にポルトバザールへ行こうと思う。
昼食休憩を挟んで、ゆっくりTシャツでも物色するか、ってな感じである。
コーヒー豆も切れていたので、スターバックスにも行こう。

ミニバイクに乗れるか試してみたいとも思っていた。
多分、大丈夫だと考えている。

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意気揚々と出かけるが、”雨じゃん”orz
確か、入梅したといってたな~。

仕方がないので近所のローソンでお弁当を買って、家でおとなしくすることにする。

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割子そば+おにぎり2個 620円

2007年6月13日 (水)

不正の富

レビ記2章、ヨシュア記2章、詩篇15篇、イザヤ書33章、ルカの福音書16章、使徒の働き1章を読む。

不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。”(ルカの福音書16章9節)、”不正の富”とはなんだろうか。

ここで言う友とは永遠の住まいに迎えてくれることから、イエス様を信じた者のようである。

ここでのたとえは、主人の債務者たちの債務を勝手に軽減することで、債務者たちを友にしてしまおうと言うたくらみについてである。

主人を神様、債務を罪とすると、うーん、福音を述べ伝えることだろうか。
不正の富は神様のみことばを勝手に乱用することだろうか。

だとすると今、書いているブログそのものが不正の富になるのかもしれない。
聖書を読んで自分なりに感じたことを書いているのだから。

このブログを通して神様が語ってくださったらと願うのだが、おこがましいことはなはだしい。
読んで共感してくれた人が、最寄の教会の戸をたたいてくれたら、なんとすばらしいことか。

なによりも確かに、友達ができたらいいな、が本音である。

伝道者のメッセージをリンクしたりしているが、まさしく”不正の富”である。

この後、”小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。”(10節)に続く。

毎日、こつこつできればと思う。

神戸ハーバーランド

足の訓練に散歩でもと思い、神戸ハーバーランドに行く。

服を物色しているとモチベーションも上がるので良い。
しかし、ずいぶんと活気がなくなってるなー。

約30分で足が痛くなってくる。
まいったあー。

2007年6月12日 (火)

放蕩息子

レビ記1章、ヨシュア記1章、詩篇14篇、イザヤ書32章、ルカの福音書15章を読む。

ルカの福音書15章と言えば、”放蕩息子のたとえ”である。
実際にこのたとえとよく似た人生だった。
人生と言えば大げさだが、24年間も放蕩したのだ。
よく無事で帰れたものである。

『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。”(12節)
私は高校3年生の時にイエス様を信じ、

それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。”(13節)
1年後には教会から離れた。

そしてそこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。”(13節)
満たされない思いが鬱積し、以降、常に何かに依存する人生に入る。
次から次へと依存対象を追い求めた。満足できない日々が続く。
神様を、イエス様を信じた喜びは失われてしまった。

何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。”(14節)
依存対象を得るための代価のために窮屈な日々に変わる。
働いても、働いても富まない。いつも何かが欠乏していた。

それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。”(15節)
最後には酒におぼれて立ち行かなくなった。
本当に惨めな末路だった、もう何もできないのだ。
無気力、起きてまどろむうつろな時の流れ、責任に対する猛烈な恐怖、酒に酔う快楽の代償は廃人だ。

彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。”(16節)
立ち行かなくなって、依存を断ち切ろうとした時にあったのは、焼けるような痛みだった。
酒を断つことへの思いが、人生を歪ませて見せた。
もう何のよろこびもない、生きていたくないと思った。

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。
”(17-20節)
苦しみの中で”教会に帰ろう”と気付く。
ここがすごいのだ、当たり前のことだが息子は父がいることを知っている。
同じように、私はイエス様を信じたから、神様の前に義と認められることをていることを知っていたのだ。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。”(ローマ人への手紙10章10節)、このみことばが心のそこに残っていた。
そしてこの信仰は放蕩していた期間を通して守られていたのだ。
だから”アルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。神の配慮にゆだねる決心をした。”(アルコホーリックアノニマス12のステップ)を見た時、神様のもとに帰ることに躊躇はなかった。

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。”(20節)
温かく喜んで迎えてくれた教会。
自分は一人でないことの喜びを与えてくれた教会。
消えた痛み。

急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。”(22節)
日々、少しずつ精神が回復していく。
最初、完全に守られていて、少しずつ社会復帰の訓練を受けているような毎日が続いている。
今回、骨折からの回復で気付いたのだが、精神も肉体も回復過程は同じである。
一つ一つハードルを越えるように、少しずつ回復していく。
傷ついた心身の回復は、段階を踏まないといけないようで、時間がかかるのだ。

この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。”(24節)、このように喜んでくださると書かれている。
神様がこのように喜んでくださるので、私も喜びに満たされる。

ルカの福音書15章は人が神様のもとに立ち返ることに対する神様の喜びで満ちている。

感謝な気持ちでいっぱいになる。

2007年6月11日 (月)

塔を築く

ルカの福音書14章、イザヤ書31章、詩篇13篇を読む。

塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。”(ルカの福音書14章28節)、この一節に眼が留まる。

何をたとえているのだろうか。

英文NIV訳では”The Cost of Being a Disciple(弟子であることの代価)”と段落タイトルが打たれている中に記述されている。

わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
”(26-27節)、にこの例えは続いている。
厳しいみことばである。

イエス様の弟子になることは実際に回りの者との衝突を生み出すし、自分の思いと真っ向に相対することは多々ある。
これを憎むと言う表現で書かれているのだと理解する。
また、自分自身の負っている境遇を自分の十字架と表現しているのだと理解する。

これらのことを受け入れ続ける心構えができているか、と主題のたとえは表しているように思える。

自分を振り返って見てどうか。

アルコール依存症と縁を切って以降はそんなことは一切考えていない。
なぜなら、イエス様の弟子であることの幸いの大きさが、自分をそうさせるからである。

でも、昔、高校生のころ、イエス様を信じたときは、悩んでいたような記憶がかすかにある。
家族と衝突するであろうことや迫害についてである。
家族を憎むと言う表現の直接的な意味が、冷たさを表しているように思えたからである。

実際にはそうではない。

何よりもイエス様を優先することは常に必要なことなのである。
聖書を読んでいて解ることだが、イエス様は完璧で正しい方である。

自分の得た幸いに家族にも与って欲しいと言う思いがこみ上げてくる。
結果的には愛が満ち溢れてくるのである。

つまり、一旦手放して、もっと良いものを得る原理である。

もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。”(コリント人への手紙第一15章2節)の通りである。

福音によって、持っていた思い悩みから救われるのだ。

この”よく考えもしないで”と主題のたとえの”計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。”は呼応する。

イエス様を信じ、弟子になりたと決断する時にはよく悩み、考え込むものである。
信じる決心をしようとされている方々を見ていて、本当にそう思う。

このことこそ神様の望まれていることだと考える。

人間は知性と自由意志を持っている。
それを十分に働かせて意思決定するのである。

人間はロボットのように創られたのではない。

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。”(詩篇8篇5節)

すがすがしい日だなー

20070611_12360001 風が気持ちイー。

Bike乗りたいな。

病院からの帰り、迎えを待つ。

AEROBIKE

20070611_11020001 リハビリ、自転車こぎ運動。

ぼちぼち、やってますー。

2007年6月10日 (日)

ドナルド・ロス・リビングストン宣教師

ルカの福音書13章、イザヤ書30章、詩篇12篇を読む。

今日は尼崎キリスト集会で特別伝道集会。

ドナルド・ロス・リビングストン宣教師の学び、伝道メッセージ、宣教の報告を聞く。
伝道メッセージは使徒の働き3章11-15節から。
感動してしまった。

尼崎キリスト集会のホームページを修正する。

2007年6月 9日 (土)

身を避ける

ルカの福音書12章、イザヤ書29章、詩篇11篇を読む。

主に私は身を避ける。”(詩篇11篇1節)

そう、私は神様に頼る。
これをください、あれを実現してください、直接的なお願いをいつも祈りの中に織り交ぜる。

私は、物欲の塊で、底知れぬ嫉妬心の持ち主、自分で問題解決できない弱虫だ。
もう自分でがんばることに疲れきってしまった人間である。

子供が親に甘えるように、困ったときの神頼みである。

でも、明らかにそれが良いのだ。
欲しいものが手に入るからではないし、問題が解決するかからでもない。
安心が来るのだ。
もうこれで大丈夫、と気持ちが切り替わる。
これに勝るもはない。
そして実際に、私はずっと平安である。

右に行きたいからといって、右に行くことが自分にとって良いとは限らない。
自分に必要なものと自分の欲しいものは違うのは大いに有りだ。
悩んでいる時、目の前の問題と本当に解決して欲しいものが違うこともよくある。

そもそも、どうなれば良いのか解らない、がいつも本質である。

あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。”(ルカの福音書12章25節)とイエス様はおっしゃる。

人は必ず死ぬ、しかも突然死ぬ。
今回の交通事故で身にしみて解った。
最も重要な問題、”いつ死ぬか”、”死ぬまでにやるべきことを全うできるか”を我々は解決できない。
確かに一番身近で避けることのできないこと、解りやすいこと、言い換えれば”小さなこと”、なのかもしれない。

身の周りで起こることは、たくさんの登場人物の要求が入り混じる。
その上、自然、経緯、見通し、力量、等などのさまざまな環境がある。
明らかに我々の理解を越えるぐらい超複雑である。

だから、全能の神様に頼ることが絶対の解決になる。

神様は天(Heavens:複数形である)と地(Earth)とその中の全てを方を創られた方である。
この方にできないことはない。

また、”最初であり、最後である”(ヨハネの黙示録21章6節)方である。
この方は全てを見通されている。

その上、何と言っても、”わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。”(イザヤ書43章4節)と有るとおり、私は愛されている。

私にとってもっとも良いものを実現してくださるのだ。
そう信じることが私にはできる。
私にはこれしかないが、こんな幸いなことはあるだろうか。

あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。”(ルカの福音書12章32節)、このことの実現のために神様はイエス様を我々のために捧げてくださったのだ。
この方に身を避けない理由などあろうか。

2007年6月 8日 (金)

戦い

ルカの福音書11章、イザヤ書28章、詩篇10篇を読む。

ルカの福音書にまったく意味の解らないたとえが二つある。

気になって仕方がない。
他にも解らないところは多々あるが、ここを読むたびに止まってしまう。

なんとなく知らないといけない重要なことが隠されているような気がするのだ。

強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。
しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
”(21-22節)

汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言います。
帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。
そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。
”(24-26節)

なのだが、

両方とも悪霊を追い出した後の話である。

何を意味しているのだろうか。
クリスチャン生活のあり方だろうか、救われることについてだろうか。

前者はイエス様や使途たちが悪霊を追い出すことをいっているような気もする。
強い人が自分でがんばっても、だめだと言っておられるのだろうか。

後者は単に悪霊の性質を説明しているのだろうか。
だとすると、防ぎ方が語られていないので、困ってしまう。
これも自分でがんばる、掃除をしてきちんとかたづける、ではだめだと言っておらっるのだろうか。

結局のところ、悪霊はどんどん強くなって、しつこく攻めてくるので、人間ががんばって対抗してもだめだということか。

だとすると、このたとえが語られて2000年たつ今、悪霊の力は相当のものになっていると思われる。
そもそも、現在、悪霊をどう捕らえればよいのか解らない。
それぐらい相当な影響力を持って人間を支配しているのだろうか。

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
”(エペソ人への手紙6章11-13節)、とある。
このことを示唆したイエス様のたとえだったのだろうか。

恐ろしいことである。
この世の主権、力、暗闇世界の支配者、はてしのない力との戦いである。

こんな緊張感は正直なところ持っていない。
この世の主権の中に安住しているようである。

しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。
”(エペソ人への手紙6章14-16節)

戦う時は来るのだろうか。

要点は自分の力ではなく、”神のすべての武具”、”神の指によって”である。

SG顆粒

私は昔からの頭痛もちである。

顆粒のセデスGを愛用していた。

アルコール漬け時代は、毎朝飲んでた。
このまま、この薬を飲み続けると何かなるのかな、などと思いつつ。

実はセデスGは既に処方されなくなっている。
それからは代わりに市販のセデスHIを愛用していた。

20070608_14080001 今回、SG顆粒と言う薬を処方していただく。
SG顆粒はセデスGと似た成分の新薬だそうだ。

確かに薬の利き方がセデスGと同じである。
しかも見た目もそっくり。
SG(Sedesu G)か。

診察

久しぶりに心療内科の診察を受ける。
入院、自宅療養期間中は、薬を頂くためだけに家内に出向いてもらっていた。

待ち時間1時間、リハビリ後の足にはきつかった。

20070608_11190001 病院、ビルの8Fからの風景。

2007年6月 7日 (木)

悩む者の望み

ルカの福音書10章、イザヤ書27章、詩篇9篇を読む。

貧しい者は決して忘れられない。悩む者の望みは、いつまでもなくならない。”(詩篇9篇18節)。

私、心が貧しいです。いつも何かで埋めていないといけないようです。
その上、埋めようとしていることがうまくいかないので、悩んでます。

幸い。

昨日、息子にTシャツ作り依存症?と言われる。

その通りである。
常に何かに熱中している。
止まらない。止まったらどうなるのか解らない。

神様依存症になりたいのに、余計なものが心を占領する。
”心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。”(ルカの福音書10章27節)、できません

私は何ゆえ、このような性格に創られたのだろうか?

ルカの福音書では70人の弟子が働きに出る。
その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた。』と言いなさい。”(9節)が、その労働内容である。
働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。”(7節)とおっしゃられている通り、立派な労働である。

さて、七十人が喜んで帰って来て”(17節)、この労働は成功に終わったようである。

出て行くときに、”財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。”(4節)、と指示されているので、ほかに何もすることがないはずである。

なんと、うらやましい。
イエス様の直接指導を受けたいとまじめに思う。

やらないといけないことはやりたくない。
やりたいことを次から次えと追い求める。

”ただ、生きているだけ”、そんな感じがしてならない。

もう、手をすり抜けていくものを追い求めるのは嫌だ。

明日もまた一日が始まり、一日が終わる。

明日は何で心を埋めようか。
失意ではなく、恐怖である。

あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。”(41-42節)、このみことばを読んで仕事を辞めた。

それは正解だった。
新たな人生の展開は依然とは比べ物にならにほど素晴らしいものである。

ただ、いつまでたっても解決しない。

必要な一つのことに熱中していたいのに。
いつその時が来るのだろう。

RA272

手作りTシャツシリーズ第?回。

HONDA F-1 RA272 Tシャツ。

20070607_20120001_1

20070607_20130001_1

やっぱり仕上がりがいまいち。
カバーシートがうまく貼れなくて、くもってしまう。

写真撮影後によく見ると裏面車シールのマフラー部が剥がれていたので、再度アイロンプレス。
仕上げシートのかかっていない文字にアイロンが当たり溶けて、ハゲる。orz
赤マジックで修正しようとしたら、表面に滲んでしまったがな。さよーなら。(T_T)/~~~

ちなみに昨日作った”I Love Rock -n- Roll”Tシャツは、プリントシールをエタノールで剥がそうとして、さらにひどい目にあう。そのままさよーなら。(T_T)/~~~

シルクスクリーンに手を出そうかと考え、オークション等調べる。
結論、普通にデパートで良いTシャツを買うのが良いと判断する。

プロの技に参りました。

2007年6月 6日 (水)

恥と思うなら

ルカの福音書9章、イザヤ書26章、詩篇8篇を読む。

もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。”(ルカの福音書9章26節)

昔から気になるみことばである。

大きな声で自信満々に”僕はクリスチャンです”と言えるだろうか。

あえてその話題にならない限りは言わない。
その話題になれば、多分、普通に自己紹介できると思う。

恥ずかしい自己紹介に慣れてるから、ではなかろうかと考える。

レストランで食事する時も感謝のお祈りをする。
家族と一緒のときは私が代表してお祈りする。
みんなに見られることが気にならない。感謝しなくてはと言う思いが前面に出る。

ただ、これは間違っているような気がしてきた。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。”(マタイの福音書6章18節)に反してないか。

そもそも、イエス様は”恥と思うなら”と言っておられる。

こんなことを気にすること自体が、恥と思うことの表れである。

クリスチャンであることを誇りに思っていれば、と書いて気付く。

誇ってはいけない。

恵なのだから。

まだ、何か勘違いしているようである。

何かが欠けている。大切な何かが。

パウロは”神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。”(ローマ人への手紙15章17節)と言っている。
また、”私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです”(コリント人への手紙第一9章16節)とのことである。
人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。”(コリント人への手紙第二11章12節)ともある。

つまり、神様の恵みにより、神様に仕えることに与ることのみ誇れるのである。
もしくは、信仰により自然体であるとき、これは何らかの形で神様に仕えることに与っていることになると思うのだが、”恥と思わない”ことになる。
信仰から出ていないことは、みな罪です。”(ローマ人への手紙14章23節)

これが”確信と、希望による誇り”(ヘブル人への手紙3章6節)のようである。

黒T

20070606_21040001 "I Love Rock -n- Roll"Tシャツを作る。

苦労のわりになんか仕上がりいまいち。

黒Tは図柄を切り抜かないといけないので難しい。

2007年6月 5日 (火)

現実の問題

ルカの福音書8章、イザヤ書25章、詩篇7篇を読む。

舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。こで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。”(ルカの福音書8章23-24節)

現実の問題は時に恐ろしいこともあり、時に重荷になる。
どう展開するかが解らないのだ。

「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」”(25節)とイエス様はおっしゃる。

この差を埋めることはできるのだろうか。

ここで、必要なのは絶対に良くなる、悪くはならない確信である。
たとえそうでなくても、結果を受け入れいれることができる確信である。

これがなければ、イエス様のように平静さをいつも持っておられることはできない。

私たちは今まで信頼できるものがどんどんなくなっていき、自分自身で身を守り、道を切り開いていかなければなららなかった。

だから、自分でどうにもできないことの前では、あまりにも無力で弱い存在である。
そして、人は自分が思っているほど、強くも、器用でも、ない。
なんといっても一瞬先に何が起こるかなんて解らないものだ。

つまり、まったく逆なのだ。

自分でできないことを認め、神様にゆだねる。
自分は愛されていることを信じ、神様にゆだねる。

そうすれば幸せと平安のなかにとどまることができる。

どれだけ、”自分で”から自分を解放するかがコツのようである。

2007年6月 4日 (月)

罪深い者

ルカの福音書7章、イザヤ書24章、詩篇6篇を読む。

さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。”(ルカの福音書7章36-38)

光景を想像するに、この女性の行為はすごいことである。

この女性はパリサイ人からは罪深い者として厄介者扱いされている。
そのパリサイ人の家に乗り込んでいって、ひざまずき、ここに書かれていることを行ったのだ。

この後、イエス様の”あなたの罪は赦されています。”(48節)から察するところ、面識はないようである。

一心不乱であったに違いない。
罪が赦されたと信じる気持ちが、彼女をこうさせている。

ここでイエス様は言われる。
この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。”(47節)

私はと言うと、
イエス様にあこがれている。
言動の一つ一つが感動を与えてくれるのだ。

感覚がずれている。

愛しているかと言われるとどうだろう。

もちろん愛している。
ただ、この女性の行動を見て、自分を振り返って、考え込んでしまう。

ここまで愛しているだろうか。

私は”少ししか赦されない者”(47節)なのだろうか。

当然、そんなことはない。
本質としての罪、行いとしての一生分の罪が赦されているなだから。

罪に対してあまりに無知なのだ。

そして、愛に対してもっと無知なのだ。

聖書からこの二大無知を思い知らせる。

2007年6月 3日 (日)

霊とまこと

ルカの福音書6章、イザヤ書23章、詩篇5篇を読む。

あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。”(詩篇5篇11節)を賛美で使おうと考え、礼拝に臨む。

”霊とまことによって礼拝に臨むことができますように”と祈ったとたん、たくさんの言葉が頭の中に浮かんできた。

結局、詩篇の引用はやめ、先週中まじめに考えていたことを口にする。

これが、”霊とまこと”なのだろうか。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。”(ヨハネの福音書4章24節)

2007年6月 2日 (土)

大ぶるまい

ルカの福音書5章、イザヤ書22章、詩篇4篇を読む。

私は、罪深い人間ですから”(ルカの福音書5章8節)とペテロはイエス様に言った。

ペテロは一介の漁師である。極悪な稼業の人ではない。

今のわれわれと比べて、罪に対する捉え方の違いを感じる。
神の業をなされる方を恐れているのだ。
その方の前で罪あることはとんでもないことと判断している。

こんな感覚は我々の日常にはない。

本当にこれで良いのだろうか。
無関心なのではないだろうか。
あり、なしを判断する以前のところに我々はいる。

毎日の日々を変えたくない?

私は変えたかった。

自分のしでかした事の罪責感が毎日つきまとった。
言った事、やった事が自分を責める。

良心は何のためにあるのか。
良心はどこから来たのか。
なぜ、生まれながらに、正しいことと、間違ったことを識別する能力があるのか。

そしてその能力は自分を責める。

仕方がないは、もうやめにしたい。
流すたびに、心の奥底に重荷が鬱積していく。

罪と向かい合って、解決したい。

イエス様は言われる”医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。”(ルカの福音書5章31-32節)

おっしゃるとおりです。

大ぶるまいの食卓。
招きに与るためには、罪人であることを知らなければならない。

悔い改めさせるとある。
改めることができるのだ。

やっと足を洗えると言う思いにならないであろうか。

オリジナルT

20070602_13080001 オリジナルTシャツ作成のため、BlackTシャツを3枚購入。

UNIQLO Premium Cotton 1枚1000円×3

オンラインショップだと合計で500円ほど安いのだが、送料がかかる。

tsutaya

20070602_13020001 TSUTAYAにてCD14枚を借りる。

CDレンタルは10枚までだそうな。
4枚は息子に借りてもらう。

これからiTunesにせっせと取り込むのだ。

2007年6月 1日 (金)

朝起きたら

ルカの福音書4章、イザヤ書21章、詩篇3篇を読む。

朝起きたら。
以前は、”今日こそ、あれをしなくちゃ”、”今日はあれがあるから憂鬱だ”、といった感じだった。
今はと言うと、失業して、骨折の治療中のため、いたって気楽な目覚めである。

とは言え、毎朝考えることは、”また、今日が来た。あっそうか、特段悩むこともないな。しかし、代わり映えせん日々だなー。”ってな感じである。

一旦はおびえるところがあるのがおもしろいし、小学生のころの遠足の日の朝のような感じは長いこと味わったことがない。

私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。”(詩篇3篇5節)、作者であるダビデはこの後に、”私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。”(6節)と続ける。
自分の子から追われ、逃げていた時の詩なので、こうくるのか。

5節の後は何を続けてもありだと思う。
”今日も思い悩みがない”、”今日も満ち足りた一日であることに心が躍る”、などなど。

と、こうは成らないのだ。

先ほどの通り、毎朝、”代わり映えせん日々”と思うのには意味がある。
”これでいいのか”が、背景にあるのだ。

失業して、収入のめどはずうっとない。
しかし、毎月、ほぼ決まった金額の収入はある。
もちろん合法的な受けるべきものである。
ただ、方法が想像したことのないものなのだ。

生活費の煩いからは初めから開放されているのだが、それが実現している。

だから、自分のあり方に日々、悶々としているのである。
”これでいいのか”は”こんな俺でいいのか”なのだ。

有り余る時間。有効活用しているか????
神様との関係は良好か????

こう在りたいと思うことは、ことごとく実現しない。

いつも同じ。

だが、重要なことはここにある。
神様は、わたしのために、一人子イエス様を犠牲に捧げられたのである。

罪の贖いの十字架、わたしの身代わりに架かれたのだ。
わたしを神様のもとにおらせるために。
惜しみなく愛を示されたのだ。

神様のお力をあまく見てはいけない。
神様はわたしが信じた後、どんな人生を送るかもご存知で、助けてくださったのである。

人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。”(詩篇8章4-5節)

5節を読んで驚いた。

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