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2007年5月

2007年5月31日 (木)

意思

ルカの福音書2-3章、イザヤ書19-20章、詩篇2篇を読む。

ヨハネのバプテスマ(洗礼)は”必ず来る御怒りをのがれる”(ルカの福音書3章7節)ものではないと宣言している。

民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていた”(ルカの福音書3章15節)とある通り、群集は救いを待ち望んでいる。

この群集が待ち望んだ救いとは何なのだろうか。

人は必ず死んで、さばきを受けるので、神様から義と認められることが必要である。
主が罪を認めない人は幸いである。”(ローマ人への手紙4章8節)とある通り。

悔い改めにふさわしい実を結びなさい”(ルカの福音書3章8節)とヨハネは言う。
罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマ”(ルカの福音書3章3節)なのだ。

群集は”私たちはどうすればよいのでしょう。”と言う。

行いによって義を全うすることはできない。
悔いるが改まらないのだ。

神様の前に罪が覆い隠される必要がある。

イエス様があの十字架で実現してくださった救いは、信じるだけで受けることのできる救いである。
この救いは神様からの一方的な恵によるものである。

つまり罪が赦されることに、悔い改めに基づく恵に基づくの2種類があることになる。

ただし、この時点でイエス様の救いは明らかになっていない。
ヨハネのバプテスマは何を意味していたのだろうか。

明確なのは悔い改めて、神様の赦しを得たい、と言う意思があることだ。
この意思の宣言は重要である。

この意思の宣言があって、行いによる義を全うできないことを知り、恵による義を得ることを望むようになる。

さて、今、どれだけの人にこの意思があるだろうか。
なければ始まらない。

意思があれば、必ず罪の赦される恵に与ることができる。

2007年5月30日 (水)

何と幸い

ルカの福音書1章、イザヤ書18章、詩篇1篇を読む。

その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。”(詩篇1篇3節)、正しい人の幸いである。

イエス様の救いを信じた人は、神様の前に正しい人である。

この節の前に次のように書かれている。

幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。”(詩篇1篇1節)

やはり正しい行をする人さしているようである。ムリ

救いを信じた人には、この世での行いも正しくなる自由があるのだと信じる。
が、やっぱりムリ

でも、正しい人の幸いに与っているような気がしてならない。

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。”(ルカの福音書1章45節)
人にはできないことが、神にはできるのです。”(ルカの福音書18章27節)

信じる

リハビル

20070530_10070001マターリいってまーす。

2007年5月29日 (火)

体調悪い

マルコの福音書15-16章、イザヤ書17章を読む。

マルコの福音書は裁判、十字架、復活である。。。。。

2007年5月28日 (月)

各種煩い

マルコの福音書14章、イザヤ書15-16章を読む。

イザヤ書はモアブについて。
注解書でモアブがロトの子孫であることを再確認する。忘れてた。

マルコの福音書は最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、真夜中の裁判。

まことにもって、世に属する各種煩い神様への熱意は両立しない。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。”(マタイの福音書6章24節)、この通りである。

富んでいる訳ではない、富んでいるかのような、勘違いをしているが正しい。
あるかどうか解らない富や可能性をどのように使うか、実現すか、妄想にふける。
客観的に見て、愚かしいことはなはだしい。
今手にあるものに、今実現していることに向き合ってないのだ。

あれが欲しい、これがしたい、あれこれ考えてきりがない。

だが、日常のわずかなことに、満たされていることに気付く瞬間がある。

持っているものよりも、持っていないものに気が行くのである。
我に返って。全ての必要は満たされ、その時々に実現していると考える。

今日読んだマルコの福音書に次のようにある。
ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。”(51-52節)

なるほど、身軽な青年が大変な目にあったのだと読み取る。
何を意図してこの一文が差し込まれるように書かれたのかは解らない。

なのだが、私ももっと身軽になって、私を捉えようとする各種煩いから裸で逃げ出したい気分である。

このように自由人であることは、はなはだ難しいとつくづく実感する。
物事の捉え方の違いで、大きく立場は変わると思われるのだが、それができない。

ぽると

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神戸ライスL 997円 Lって多すぎ。

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スタバ 本日の珈琲

この後、服を見て周り、調子に乗って歩き回る。

足が痛い。orz

歩歩歩

20070528_11200002 杖無しで歩く。

20070528_12040001 まだまだヨチヨチ歩きなのと、立ち座りに支えが必要なので、山登り用の杖を購入。

Montbell Tグリップ ¥4,500

2007年5月27日 (日)

耐え忍ぶ

マルコの福音書13章、イザヤ書13-14章を読む。

わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。”(マルコの福音書13章13節)、耐え忍ぶとある。。。。

憎まれるのは辛いな。

メッセージ

今日は礼拝と学び会に参加。
三男が一人で留守番なので、伝道集会はあきらめて帰宅。

礼拝に参加できることが本当に感謝である。

80GByteのポータブルディスクに過去のメッセージを入れていただく。(残り20GByte)
特別伝道集会のメッセージを集会のBLOGに掲載していく予定。

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2007年5月26日 (土)

救いの泉

マルコの福音書12章、詩篇150篇、イザヤ書11-12章を読む。

詩篇はこれにて通読。

イザヤ書はメシヤの誕生と王国について。
あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。”(12章3節)

預言は希望を与えてくれる。それで良い。
それがいつかはどうでも良い。

その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。”(マタイの福音書24章36節)

預言

20070526_17160001 ”これからの世界情勢と聖書の預言”(高木慶太・芦田拓也)を読む。

終末預言について、携挙、艱難時代、再臨、御国、最後の審判、永遠、に関する知識が体系的に整理できたと思う。

今後の聖書の読み方に大いに影響するだろう。

この本は明確にクリスチャン向けである。

なぜかと言うと”もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。”(コリント人への手紙第一15章2節)、を気にしている。
この本にも語られているが、知的好奇心の満足に終わってしまうことを大いに危惧している。
また、ここに書かれている衝撃的な内容、艱難、最終戦争、最後の審判、地獄、から、強迫観念を引き起こし衝動的になってしまうことも危惧する。

実際に1980年ごろは、よくこの本に書かれている内容を基にした伝道メッセージが良くあった。
当時、携挙で取り残されることを脅迫観念として持っていた記憶がある。
最近ではこの終末預言のメッセージは聞かない。

本質はイエス様の救いである。

以下の3つを自分のこととしてとらえること。

  • 自分が罪人であることを受け入れる。
    人は罪のため一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていることを信じる。
  • 行いによる救いは不可能、だから恵である救いを受け入れる。
    イエス様が自分の罪の贖いの犠牲として十字架にかかられ、自分の罪が赦されたことを信じる。
  • 以降の人生にイエス様を救い主として受け入れる。
    イエス様が三日後に復活され今も生きておられることを信じる。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。”(テモテへの手紙第一2章4節)

昼食

今日は家族が全員出かけていて、私一人だ。

家内が昼食の用意をしようとしてくれたが、自分で買出しに行くことにした。
歩く訓練を兼ねてのことである。

かくして松葉杖一本でえっちら近所のSATYへ向かう。

SATY3~400メートルほどのところにある。
11時、サンダル(白いの)でも物色してちょうど良いかと出発

12時半、帰宅
往復で1時間以上もかかってしまった。

20070526_12180001 遠い。。。。(・。・;

20070526_12220001 ちょと怖い。。。。(・・;)

20070526_12470001 何とか。。。。(^_^)/

月見とろろそば、焼鯖すし、五目鰻太巻で1156円
おなかをすかして買出しをすると、買いすぎる

2007年5月25日 (金)

王国

マルコの福音書11章、詩篇149篇、イザヤ書6-10章を読む。

イザヤ書は約2700年前に書かれたとされている。
福音書は約2000年前に書かれたとされている。

聖書で描かれている歴史はとにかく長い。
そして聖書の記述はこの長い歴史をまたいで一貫しているのである。

イザヤ書を読んでいると福音書に引用されているみことばが出てくる。
2000年前に実際にあった、イエス様の誕生と、ユダヤ人指導者がイエス様に関する預言の成就を理解できないことについてである。

イザヤ書にはイエス様の王国についても記述されているが、それはまだ成就していない。

ユダヤ人民衆はこの王国の成就が一向に実現しないので、イエス様につまづく。
しかし、一部のユダヤ人はイエス様の十字架、復活と言った実際にあったことを目撃し、そして王国の実現までに教会時代があるという奥義に気付く。

この一部のユダヤ人が初代のクリスチャンである。

そこから300年間、クリスチャンはどんどんと増え続けるが、その背景はユダヤ人から、ローマからの迫害の歴史である。

ユダヤ人はユダヤ人から、異邦人つまりユダヤ人以外はローマから迫害を受けた。
追放、投獄、拷問、極刑である。

300年間も迫害されて存続し、成長した集団なんて他にあるだろうか。
命を賭けて信仰を守りぬいたのである。

簡単に物語や嘘だと片付けられることだろうか。

聖書の歴史同様に、神様のわざ、事実、真理なのである。

その良い知らせ、福音は、東の辺境、日本の一高校生の心に入った。
そしてそれから25年間、心の中でくすぶり、人生の危機を救ったのである。

こんなつまらない小さなことにまで、神様のわざはおよぶのだ。

私はこのイエス様の王国の到来を待ち望んでいる。

たくさんの愛する人たちが、この福音を信じ、永遠の祝福と本当の自由を勝ち取ってくれることを望んでいる。

イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」”(ヨハネの福音書6章29節)

無花果が心の中でくすぶっている。

2007年5月24日 (木)

何故に、我有るか

マルコの福音書10章、詩篇148篇、イザヤ書3-5章を読む。

詩篇のテーマは”全ての被造物は創造主をほめたたえよ”

彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。”(5節)
彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。”(13節)

初めに、神が天と地を創造した。”(創世記1章1節)、聖書の一番最初の記述である。
私の信じている神様とはこの天と地を創造された方である。

なぜなら神は愛だからです。”(ヨハネの手紙第一4章8節)、ありがたいことにこの方は愛である。

神にはどんなことでもできます。”(マタイの福音書19章26節)、つまり全てをお任せしてよいのである。

さて、創造主という言葉はあまり一般的ではない。
回りの多くの人は、自分が被造物だという意識がない。
サルから進化したと考えている。進化論である。

これに対して創造論がある。
インテリジェント・デザインと言う、知性ある設計者によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする説である。

どちらも論説である。
証明なんてされていない。

私は知性ある設計者(すなわち創造主)が、人間のために、あらゆる物を精妙なシステム下に創られたと信じている。
なぜ人間のためかと言うと、創造主が人間を愛されたからだと考えている。

ところで、進化論を信じる人たちは、本当に自分がサルの子孫だと思っているのだろうか。
サルの子孫で、偶然の産物として、自然発生的に、自分ができたとするなら、なぜ生きるだ

生きることは苦しみの連続ではないか。
偽り挫折不満疲労心配絶望罪責悲嘆恐怖孤独恥辱失望嫉妬疑惑違和、、、
つかの間の喜びを楽しみにして生きるのか。割に合わないぐらい苦しみは多くないか。
そもそも我々、欲望の固まりが満足することはありえるのか。

本当はそんなことを考えられないぐらいに、何かに没頭しているのではないのか。
だから、没頭するものを失った時に、不条理に悩んで頭を抱えているのではないのか。
もしくは、常に何かに没頭し続けようとしているのではないのか。

人は必ず死ぬ

死んだらどうなるのか。
消滅するのか、あるいは知性ある設計者(すなわち創造主)の決められたとおりになるのか。
どちらかである。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている”(ヘブル人への手紙9章27節)、知性ある設計者(すなわち創造主)はこう決めておられる。
人間の存在目的と照らし合わせてさばきを受けるのである。

みんな、もしかしたらと思っているのではないのか。
死んだら、何かあると。

この大事な問題から目をそらしてはいけない。
目をそらすから、的外れな生き方になるのである。

創造主をほめたたえよ
これが本来の人間の在り方なのだ。

そして、キリストは我々の死後のさばきでの弁護士である。

ホームページ開設

私の集う尼崎キリスト集会のホームページが開設されました。

まだ、建設中なので集会案内と所在地だけです。

心の重荷

20070524_15530001心の重荷に別れを告げて―詩篇23篇の約束(マックス ルケード を読む。

自分を苦しめている、さまざまな重荷を下ろすことを手助けしてくれる良書。

詩篇23篇にうたわれている神様の愛を解き明かしてくれる。
クリスチャンにも、そうでない人にもお勧め。

詩篇23篇

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

2007年5月23日 (水)

神仏

マルコの福音書9章、詩篇147篇、イザヤ書2章を読む。

その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。こうして人はかがめられ、人間は低くされた。”(イザヤ書2章8-9節)、惨めである。

人間が想像した物を拝んでなんに成るのであろうか。
人間を創造した方を拝むべきではないか。
考えてみれば当たり前のことである。

なのだが、回りを眺めてみると、少し事情が違うようである。

多分に、誰も八百万の神や仏様の存在なんて信じてないんだろうなと思う。
その延長線上に人間を創造した方も理解することができない。
これが事実なのだと考える。
本質を見失うごまかしでいっぱいだ。

神仏にまつわる行事は、習慣、付き合い、責任、に動機付けられている。
これが本当のところなのだろう。

墓や仏壇を守る必要があるようだ。
行事は一応こなしておく必要があるようだ。
お守りは持っておく必要があるようだ。

親戚一同への顔向けの関係上、避けて通れないのか。

記念撮影のためなのか。

ご利益は話半分、ばちはひょっとしたらなのか。

死んだ先祖があの世で良い思いをするため、と聞いたことがある。
誰が決めたんだそんなこと。
もし嘘だったら、脅迫と言うとんでもない大罪だぞ。

全部捨てて、肩の荷を降ろせばいいのに。

人間が想像した物と人間を創造した方、どちらに関心を向けるべきか。
お世話をしないといけない物とお世話をしていただく方、どちらに関心を向けるべきか。

本質に眼を向けなければいけない。

2007年5月22日 (火)

マルコの福音書7-8章、詩篇146篇、イザヤ書1章を読む。

マルコの福音書では7、8の各章とも奇跡によって病人が癒される。
”奇跡によって病人が癒される”なんて言うと、”なんか怪しくないか”と思うものだ。

私には病気の癒されて欲しい親類がいる。

私はと言うと依存症(心の病)と、骨折(身体の病)を抱えている。
骨折の方は快方に向かっているし、仮に治らなくても不便なだけなので、まあ良いかと言うところである。

切実なのは依存症の方である。

酒を飲みたいわけではない。
酒を飲まないことで、見た目は健常な状態を継続している。

酒を断ったとき、つまり何かに依存することをやめたときに、心に変化が起きたのである。
のめりこむことに恐怖を感じるようになった。
もう、何物にも熱中できないのである。
価値を見出せない。

このことが意外と心に重くのしかかってくる。

義務感だけが行動を起こす動機付けになってしまった。
そして、この義務感が大きくなってきた時、心を攻めるのである。
これが辛い。

実を言うと、バイク事故を起こしたツーリングの時もおかしな精神状態が起こっていた。
朝、ツーリングに行かなければと思ったのだ。
楽しみのはずが、楽しむことが義務にすり替わったのだ。

入院中に振り返って見つめなおしていたこと、”何のために生きるのか?”
この疑問がいつも、心の中を占めているのだ。

病気が治ることはそれほど重要なことではないのでは、と思う。
重要なのは生きる意味、一つ一つの行動の意味、である。
これがないと生きることは苦痛以外の何物でもない。
逆にこれがあると、病気も単なる過ぎ去っていく日々のできごとでしかない。

そして、この意味は自分自身の中には見出すことはできない。
自分となんらかとの関係の中に見出すものである。

この関係の相手がつまらないものだと、依存症と言う病気になる。
なぜなら、どこまで行っても自分の心を満ち足らせることができないからだ。

私はこの関係の相手を酒に集中させてしまっていた。
家族、趣味、社会、全てのものよりも、酒だったのだ。
酒は飲み続ければ、酔うと言う喜びを与えてくれる存在だった。
しかし、行き着く先は破滅だった。

酒のために全てを捨てた、そして酒を失った。

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。”(ルカの福音書9章24節)、この通りである。

神様との関係、この中に意味を見出さなければならない。
なぜなら、神様は無限なるお方なので、神様との関係には無限の価値が存在するのからである。
心を満ち足らせることができるのだ。

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」”ヨハネの福音書(4章13-14節)、この決して渇かない状態を意味しているのだと考える。

この原理に従って、私は神様との関係に依存している。
ただし、これは秘訣ではない、せざるを得ないのだ。
依存していないと、むなしさが襲い掛かってきて、生きるのが苦しくなるのだ。

病気の癒されて欲しい親類について言えば、やはり奇跡によって癒されて欲しい。
子供なのだ、癒されることによって人生の可能性の広がりを持って欲しい。

しかしそれよりも、今持っている生きる価値に対する答え、これを見失わないでしっかりと持っていて欲しい。

なぜなら、次のように書かれているのだから。子供は答えを持っているのだから。生きることそのものに苦しんで欲しくないから。
これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。”(マタイの福音書11章25節)
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。”(ルカの福音書18章17節)

2007年5月21日 (月)

荷物が歩いている

三男が5泊6日の自然学校から帰ってきた。

hotel taitsuneのホームページに掲載されている活動状況の写真を見ながら、土産話を聞く。

しかしまるで荷物が歩いているようである。

20070521_16110001

身一つ

マルコの福音書6章、詩篇145篇を読む。

旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。”(マルコの福音書6章8節)

12弟子を伝道旅行に旅出させる時の、イエス様の指示である。
なぜイエス様は旅の仕度をしてはいけないとおしゃっられたのだろうか。

持っていると、持っていない物や、乏しくなってきた物が発生した時に、それが気になって、大事なことに集中できないからではないだろうか。

何も持って行ってはいけません”と命令されて、その状態になる。
乏しさが負い目にならず、逆に”神様、何とかしてください”と言う信仰が強められるのではないだろうかと考える。

何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。”(マタイの福音書6章31節)、この開放は幸いである。
失業していてつくづく思う。

もう一つ、”イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。”(マルコの福音書6章48節)、について。

以前、イエス様は自分のためには奇跡を使われなかったと書こうとしたとき、この個所が気になって、書かなかったのである。

荒野での40日の試みにあるとおり、イエス様は自分のためには奇跡を使われなかったのは、その通りである。

ただ、なぜ湖の上を歩かれたのかが解らない。
しかも、”漕ぎあぐねているのをご覧になり”とあり、”そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。”とある。うーん。

イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。”(マタイの福音書14章33節)、とあるとおり、弟子たちを励ます結果になったようである。

詩篇は昨日の礼拝前に読みたかった。

2007年5月20日 (日)

礼拝

20070520_19490001 今日は礼拝、学び会、特別伝道集会に参加。

集会に行く途中、車の中で礼拝の祈りの言葉を考える。
どきどきする。
詩篇のように賛美したい。

今日の伝道集会は昨日に引き続き特別番、
高原剛一郎氏のメッセージ。躍動する命

2007年5月19日 (土)

伝道集会

20070519_14090001 半年ぶりに伝道集会に参加。

今日は特別伝道集会で高原剛一郎氏のメッセージ。
テーマは躍動する命

やはりクリスチャンとの交わりは良い。

やっとここまで来た。

汚れた霊

マルコの福音書5章、詩篇144篇を読む。

イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。”(マルコの福音書5章2節)

今、汚れた霊につかれた人を見ることはない。私は見たこともないし、そんな話を聞いたこともない。

私はアルコール依存症で始終、酔っ払って奇怪な行為をしていたが、汚れた霊につかれていたわけではない。
はたから見ても、たんなる酔っ払いだっただろうし。

福音書を読んでいて、この汚れた霊をどのようにとらえればよいのか解らない。

特徴はと言うと、”彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。”(マルコの福音書5章5節)

そのほかの個所にもあるのだが、自分を傷つける、ようである。

自虐的な行為は事例をよく聞く、自分もそういう一面があった。
悪霊と自虐的行為の関係もないと思う。共通する悪い特徴だと考える。

罪の奴隷から解放されることと、悪霊から開放されることを重ねて読み取るのはありかと思う。

ただ、当人の意識の関与の度合いの違いはどうなのだろうか。
悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。”(マルコの福音書5章18節)、から察するところ、悪霊につかれていた人は望ましくない状態に苦しんでたようである。

やはり、罪の奴隷と同じように解釈して良いようである。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
”(ローマ人への手紙7章19-20節)

2007年5月18日 (金)

Happy Birthday カルメン・マキ

今日、5月18日はカルメン・マキのHappy Birthdayである。

なぜ知っているかと言うと、レコードの解説に書いてあったのを昔、昔に読んだ。

なぜ憶えているかと言うと、私も今日がHappy Birthdayなのだ。

最近、カルメン・マキの曲をよく聴く。

昔は”私は風”が好きだった。今は”午前1時のスケッチ”が好きだ。

たとえ

マルコの福音書4章、詩篇143篇を読む。

隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。”(マルコの福音書4章22節)、たとえで話されることは必ず全て明らかにされる、の意味なのか。
隠れても逃げ切れない、の意味だと思っていた。

たとが明らかになって理解するためには、こつが要るようだ。
あかりを持って来るのは枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか”(マルコの福音書4章21節)、明かりを上に置かないといけない。

明かりと言えば、
からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。”(ルカの福音書11章34節)、
あなたがたは、世界の光です。”(マタイの福音書5章14節)、
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」”(ヨハネの福音書8章12節)

イエス様を自分の心の頂点に置くことである。

2007年5月17日 (木)

食事会

マルコの福音書2-3章、詩篇142篇を読む。

生きていると悪いことが次々と起こる。
今日は良いことがありますようにと、すがるような思いになる。

タイかどこかの国ではお守りブームだそうな。
金運、その他の運が上昇し、お守り自体の価値も上がってるらしい。

一般的な価値観を考えるに、本当に必要なことを識別する判断基準として妥当なのか疑問に感じる。
仮に人生が一瞬で終わるなら、身の回りで起こるさまざまなことや、境遇はどうでもいいことになってしまうように考える。

人生は長いのだろうか。

永遠と比較すると一瞬のことである。
実際に生きていると長く感じる。

今、直面している現実の問題があるので、明日も、明後日も、そのまた先の日も、辛い一日が続いていくのか、と言う気分になる。

でも、過ぎ去ってみるとあっという間なのだ。

感性に何らかの問題があるようである。
この世の支配者の良いように翻弄されているだけのような気がしてならない。
空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊”(エペソ人への手紙2章2節)、サタンである。

詩篇はダビデの作で、”彼が洞窟にいたときに”とあるので、命を狙われた時のものである。
私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします。”(詩篇142篇2節)、切実な問題を神様の前に持っていっている。

福音書はイエス様の伝道旅行である。
群集を教え、病人を癒し、悪霊を追い出す。
現実の問題から人々を解放していかれる。

イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。”(マルコの福音書2章15節)、同席したいと思うか、思わないか、これが人生の捉え方の分かれ目ではないだろうか。

現実の問題から開放されて、同席して楽しみたいと思う。
これで良いのではないだろうか。

嫌われてるから、罪の意識に駆られるから、同席しない。
パリサイ派の律法学者のように一線を引いて同席しない。
これでは楽しい食事会に与れない。

2007年5月16日 (水)

累積点数通知書

家に帰ると自動車安全運転センターから”累積点数通知書”なるものがきていた。

20070516_14590001 

11月13日の事故で累積4点(減点ではなく加算)とな。orz
あと2点で免停。

しかし、怪我で警察に行けないのと、記憶喪失で、事情聴取はしていない。
今回の事故について警察と何の話もしていない。
調書も取ってないのに違反点数が発生するものなのか。

警察の方とは病院で挨拶はしたが、その時に言われたことが通告になってるのだろうか。

確認の電話を入れてみた。

このはがきに対する問い合わせ先の自動車安全運転センターの方によると、”安全運転義務違反”で2点発生したらしい。
詳しく聞いてみたが、”連絡してるだけなので、聞かれても困る。管轄の事故係りに聞いて欲しい”とのこと。

事故係の方に問い合わせると、”事故状況を報告しているだけで、違反内容を決めていないから、聞かれても困る”とのこと。
また、担当が違うらしい。

後刻、電話をくださるとな。

運転免許課行政処分係の方から電話をいただく。

ご説明いただいた内容は以下の通り。

  • 事故現場の状況報告、事故相手の事情聴取内容から、私が対向車線にはみ出したと判断した。故意なら通行区分違反、過失なら安全運転義務違反になる。今回は安全運転義務違反。
  • 人身事故は違反点数入力をその時にしないといけない。
  • 当人が一切、関与も確認もしていない捜査書類に基づいて違反点数入力することもある。
  • 異議申し立てできない。理由は行政不服審査法に基づく実質的な不利益を被ってない。
  • 免停になった、優良講習から一般講習になった、は実質的な不利益だが、違反点数入力は実質的な不利益ではない。次の違反で免停になると、今回の件で異議申し立てできる。
  • 反則金が発生しても実質的な不利益ではない。理由は違反点数入力は行政手続き、反則金は刑事手続きで、反則金は行政的な不利益ではない。
  • 行政手続きと刑事手続きではお互い一切関与しない。違う結果が出たと言う判例は山のようにある。
  • 私の事情聴取が上がってきたら見る。よっぽどのことがないと結果は変わらない。

知りたかった3点、調査完了前に違反点数入力するのか、本人の事情聴取は参考にしないのか、違反内容の確定に本人の確認は必要ないのか、は全て警察的には一般的なことらしい。

1時間弱も電話で話をしてしまった。

記憶喪失だからといって事情聴取がなくなるわけではないのだ。
警察から、怪我が治ったら来るように言われている。
”事故現場をみたら思い出すかも知れませんよ”と警察の方が言ったのだ。

事故跡が相手側車線から始まってるので、私がはみ出したと判断されている。
事故現場はバンクのないカーブで、事故が多そうなところ。
知ってるのはこれだけである。保険会社の方から聞いたのだ。

客観的と言われれば返す言葉はない。
私の過失であれば、本当に申し訳ないことである。

記憶を喪失しているだけに、身に覚えのない罪を問われている気分になるのである。

何で、はみ出したんだろう。
下手だから。以上。か、、、、

最後に、
無知な一般市民にお付き合いいただいて、ありがとうございました。

マックドナルド

息子のラジコンカーの修理に必要なパーツを買いにショップへ行く。

閉まってる。営業は12時から。
確かに、ラジコンショップが平日の午前中に店を開ける理由がない。

まだ30分あるので家内とマックで食事して時間をつぶすことにした。
ベーコンレタスバーガーセットのポテトLを食べる。

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食べ終わっても時間が余ったので、デザートにシェィクSを追加。

買い物も済ませて、帰りに散髪屋さんに行く。
久しぶりに気持ちが良い。

帰りは松葉杖で歩いた。足が痛い。疲れた。

悔い改め

マルコの福音書1章、詩篇141篇を読む。

イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
”(マルコの福音書1章14-15節)、とある。

改まらないから福音が必要なのだと考える。
正しくは、”後悔して福音を信じなさい”、”後悔しなさい、福音を信じて、改めなさい”ではないだろうか。

英訳(NJK:New King James Version Bible)ではRepentが使われている、”後悔する”と”悔い改める”の意味がある。

取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。”(ルカの福音書18章13-14節)、これが正しい解釈を表していると思う。
改まらないから、あわれみが必要なのだ。

2007年5月15日 (火)

Tシャツ

ユニクロのTシャツに触発されてTシャツを作ってみました。

名づけてミュージシャンTシャツ死んだ人シリーズ。(写真は表と裏)

1.Jaco Pastorius Punk Jazz

Jaco1_3 Jaco2_1

2.Janis Joplin Cheap Thrills

Janis1 Janis2

3.Miles Davis We Want Miles

Miles1 Miles2

血の責任

マタイの福音書27-28章、詩篇140篇を読む。

民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」”(マタイの福音書27章25節)、イエス様を十字架につけろと民衆が叫ぶ。

もちろんイエス様に罪がないことはみんな知っている。
あれだけの奇跡を見て、しかも5000人以上の群集が集まっていたのに。
宮に入る時も大騒ぎだった。

ユダヤ民族がこの選択をしたから、我々に福音が訪れた。

2007年5月14日 (月)

傷のついた道

マタイの福音書26章、詩篇139篇を読む。

さて、我々がこの世で生きるにあたり、どれだけのことがあらかじめ決められ、どれだけのことが自由なのだろうか。

詩篇139篇はダビデの作である。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。”(16節)、私たち個人個人を神様は憶えておられることを表している。
一人一人固有の人生を設計してくださったのである。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。”(23-24節)、”傷のついた道”とあるように私たちの意に反する状態が存在するようである。
ここに我々が自由意志で行動することを求められていることが解る。
また、意に反する状態は改善していただけると述べている。

日常生活では些細なことから、大きなことまで、色々なことが起こる。
このさまざまな状況は個人個人ユニークに、神様が設計してくださったのである。

そのさまざまな状況で、我々がどのような行動を取るかは、我々の自由意志に任されている。

この詩の中で、ダビデは神様が自分を憶えてくださっていること、いつも見守ってくださっていることに感謝している。

立つ

杖も装具も無しで立つ。

20070514_11280001 本日より左足が体重の50%荷重可。

2007年5月13日 (日)

めい

姪の写真が送られてきたので掲載。

Photo

おなかすいたけど眠い、だそうな。

愛が冷える

マタイの福音書24-25章、詩篇138篇を読む。

不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。”(マタイの福音書24章12節)は今の世の中をよく表している。

悲しい現実である。
人はなぜたくさん居るのか。憎しみあうためか。
お互いに無関心であることが、当たり前のわけがない。

かかわりあうためにたくさん居るのだ。
愛が冷たくなってしまえば、生きることはあまりにもセツナクナイカ。

2007年5月12日 (土)

6ヶ月

事故から丸6ヶ月たった。

怪我の状況はと言うと。

左脛が体重の1/3を支えられる。
砕けた骨片が盛り上がっててピリピリするし、当たると痛い。
骨折箇所からつま先までがしびれる。

左膝が曲げ伸ばしで時々痛む。

左膝下に髄内釘のボルトトップが盛り上がっていて当たると痛い。

右膝が(まっすぐ伸ばした状態を0°として)105°しか曲がらない。
膝をまっすぐに伸ばした状態で体重を支えられない。カクカクする。だから歩く時に左足を出せない。
左内側に異種骨片ができていて当たると痛い。
曲げ伸ばしで痛む。

右太腿が全体重を支えられる。しかし、荷重が抜ける時に痛む。

左肩が(手をたらした状態を0°として)、前に110°、横に70°しか上がらない。
上へのひねりで痛みがある。

確か全治3ヶ月だったと記憶するのだが。
長引いているのは歳のせいだろうか。
両脚骨折は片足の2倍の期間がかかるように思える。

6ヶ月前のBLOGを読み返してみて、よくここまで回復したもんだとしみじみ思う。

ただ、毎朝、”あっそうか、骨折してるんだ”って思い出す、車椅子でトイレに行く、にもいい加減嫌気が差している。

2007年5月11日 (金)

選び

マタイの福音書20-23章、詩篇137篇を読む。

招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。”(マタイの福音書22章14節)

招待されると選ばれるは違うようである。この差は何なのだろうか。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。”(マタイの福音書9章13節)

義人はいないので、すべての人が招待されていることになる。

あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。”(ペテロの手紙第二1章10節)

選ばれるとはとはどう意味だろうか。自由意志との関係は。うーむ、解らん・・・・・・。

2007年5月10日 (木)

あきらめるか

マタイの福音書19章、ヨハネの黙示録19-22章、詩篇136篇を読む。

青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。”(マタイの福音書19章22節)が目に留まった。

悲しんで、とある。
真実と理解し、あきらめたのか。

青年は”永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。”と尋ねた。
青年はイエス様から”戒めを守りなさい”と言われた。
青年は”守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。”と答える。

青年は欠けていることと、解決策が必要であることを認識している。

もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。”、イエス様の言葉である。
これに、青年は”多くの財産を持っていたから”応じられなかったと書かれている。

ここまで来て、あきらめるか。
”売り払えません、しかし、ついて行きます。”とか”できません。助けてください。”と、すがるように会話を続けられないものなのだろうか。
マタイの福音書15章のカナン人の女は拒否されても、すがり、救いを得ている。

イエス様が救ってくださると信じる、信仰の多さ、強さ、の差が現われていると読み取れる。

この差は永遠を決める一大事なのである。
青年は旧約聖書に精通し、ことの重要性を知っているはずである。

今までは、強気な青年、富を愛する不幸と思っていたが、この”悲しんで”の一言に、青年の哀れさを強く感じてならない。

このように、もう一歩のところであきらめ、悲しんで去っていく人は多く居るのだろうか。
あまりにも重要な決断を誤っている。

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。”(ヨハネの黙示録20章12節)
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。”(ヨハネの黙示録20章15節)

いのちの書”に名がしるされるべきだ。

2007年5月 9日 (水)

心のチューニング

マタイの福音書17-18章、ヨハネの黙示録17-18章、詩篇135篇を読む。

心のチューニング 合わせて 合わせて
あなたと歌う 一晩中 一晩中
最愛の人たちと 同じ時を重ね
生まれて来る歌を 捧げる 高める
一晩中 祈る歌
いつまでも祈る歌
(マーレーズ 祈る歌)

もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。”(マタイの福音書18章19節)

なんか通じてて、いい感じ。

さよなら特注ブーツ

20070509_10430001 左足すねに体重負荷をかけないための装具である。
右足を慣らしていくために使っていた。

右足を慣らす訓練が一応終わり、訓練も左足を慣らしていく段階に入ったので不要になった。

一月半ほどの短い付き合いであった。
しかし、定価11万円のブーツである。(3割負担で3万3千円)

まあ邪魔になるだけなので、捨てよう。
あまり愛着もないし。

2007年5月 8日 (火)

シンボルマーク

マタイの福音書15-16章、ヨハネの黙示録14-15章、詩篇134篇、出エジプト記35-40章を読む。

昔、仕事関係の試験勉強で見た例題。(正確には覚えていない)
Q.あなたはプロジェクトマネージャーです。互いに知り合いでないメンバーが集まった時、最初にすべきことは以下のどれでしょう。
1.情報共有のシステムを構築する
2.シンボルマークを作る
3.懇親会を開く

答えは、2.シンボルマークを作る。

出エジプト記は最後の6章で幕屋、天幕、祭壇と関連する諸々を作る話だった。
この幕屋で神様を礼拝する。

モーセが40日40夜、山に登って神様と会っている間に、イスラエルの民は新しい神として金の子牛を作った。

さまよえる集団にはシンボルマークが必要なようである。

幕屋は来るべき救い主、イエス様の救いの型である。(ヘブル人への手紙)

ただ、神様は幕屋を民に与えられて、荒野をさまよう民族の統一を守ってくださったと考えても良いのではないかと思う。

2007年5月 7日 (月)

持っている者

マタイの福音書13-14章、ヨハネの黙示録12-13章、詩篇133篇、出エジプト記32-34章を読む。

持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。”(マタイの福音書13章12節)はその通りだと思う。

昔、聖書を通読した時はあまり、みことばが心に残らなかった。
今、聖書を読むと、みことばがしみじみその通りだと思えるのである。

何が違うのかはっきりとは解らないが、どうも、みことばの受け取り方が違うようである。
今は何かを持っているようなのだ。

福音書を読んでいると、”イエス様の言葉だ”と感じる。
出エジプト記を読んでいると、”神様が語っておられるのか”と感じられる。

気にしてたことの一つの答えを発見。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。”(マタイの福音書10章37節)について忠誠心と考えていたのだが、”あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。”(出エジプト記32章29節)と書かれていた。

祝福を受けるためだったのだ。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。”(ヨハネの黙示録12章11節)は興味深い。
告発者、サタンに打ち勝つ方法である。
自分たちのあかしのことば”とある。”人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。”(ローマ人への手紙10章10節)のことだと考える。

”イエス様が自分の罪の身代わりになって、あの十字架で裁かれ、死なれたこと。3日目に死に打ち勝ってよみがえられたこと。”これを信じたと告白することが、”あかしのことば”だ。

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。”(詩篇133篇)、そろそろ教会に通いたい。

がんばれ草

20070507_11350001 セメントの隙間に生える草。
ビルの屋上なのだが、どこに根を張るんだろうか。

今日は診察。
右脚は100%荷重可、左足は1/3荷重可になった。

松葉杖を持ち替えて歩いてみるが、歩き方が解らない。
左足と松葉杖を一緒に前へ出さないといけないのだが、うまくいかない。(゜o゜)

うー、両脚とも痛くなってきた。(-_-;)

2007年5月 6日 (日)

ひまわり

20070506_1146001 ひまわりだそうな。

今日は遅く起きて、一日中ビデオを見ていた。

明日は診察だ。

2007年5月 5日 (土)

解らん

マタイの福音書12章、ヨハネの黙示録6~11章、詩篇132篇、出エジプト記30~31章を読む。

マタイの福音書は解らないことが多かった。

特に次の聖句が何を意味するのかまったく解らない。
汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。
そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。
そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」
”(12章43節~45節)

この個所の解釈を基準に注解書を買うか。

2007年5月 4日 (金)

気にしてたこと

マタイの福音書10~11章、ヨハネの黙示録5章、詩篇131篇、出エジプト記29章を読む。

マタイの福音書10章はクリスチャンになることに対して後ろ向にさせる表現がある。
12使徒を伝道旅行に遣わすさいのイエス様からの注意事項である。

迫害、家族間の衝突×2回、イエス様への忠誠心×2回、地上の不和。
忠誠心は家族や周りの者を捨てろと言っているように聞こえる。

聖書を読み始めたころ結構、気にしていたことを覚えている。

よく読めば分かるとおり、イエス様が問題を引き起こしているわけではない。
世が悪いのである。

しかし、ここに書かれていることが起こることを許容して、クリスチャンになることを選択する。

それで良しと考えるのだ。

自分の良いと思っているものが、本当は良くないことを知る。
本当に良いものが聖書にあり、それを得ることができる希望を持つからである。

2007年5月 3日 (木)

豊かな贖い

マタイの福音書8~9章、詩篇130篇、ヨハネの黙示録4章、出エジプト記28章を読む。

マタイの福音書8~9章は病人の癒しの奇跡が続く。

イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。”(マタイの福音書8章3節)は好きな描写だ。
彼は伝染性の皮膚病である。イエス様は触ってから、そして癒された。
彼はその病によって人との触れ合いに飢えていたはずである。
まずイエス様に触れられたことで、彼の心がどれだけ満たされただろうかと想像する。

マタイの福音書9章2~8節が解らない。

イエス様が中風の人を癒すさいに、”罪は赦された”と言ったことに対して、律法学者が批判するのである。
”罪を赦せるのは神様だけ、イエスは自分を神様と等しくした”が指摘内容のようである。

5節でイエス様が”罪は赦された”か”起きて歩け”、癒すさいの言葉としてどちらを使うかを問うている。
これが解らない。病は罪か、と考えてしまう。

しばし考え、ひらめいた。

病人には罪が赦されることと、病が癒されることの両方が必要だったのではないだろうか。

イエス様が病を癒してくださると信じた病人達は、イエス様の癒す力は神様から来たものだと考えていた。
神様から来た力を持たれた方の前に出るのだ、自分の罪を思い返して躊躇したことだろう。
でも、彼らは前へ出た。

イエス様が罪を赦してくださり、病を癒してくださると信じたからではなかろうか。
罪が赦され、病が癒されたのではないだろうか。

そしてイエス様は”あなたの罪は赦された”と言われた。
こちらが重要なのだ。

主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。”詩篇130篇3~4節の通りである。

神様の前に悩みを持って行くものは幸いである。
主には恵みがあり、豊かな贖いがある。”(詩篇130篇7節)。

2007年5月 2日 (水)

尼崎へ

20070502_10550001 久しぶりに通院以外の外出である。

楽しかった。

2007年5月 1日 (火)

さばいてはいけません

マタイの福音書5-7章、ヨハネの黙示録2-3章、詩篇129篇、出エジプト記24-27章を読む。

他人の言動に対して批判的になることがある。
よくある。言う、言わないの前に頭の中が批判でいっぱいになる。

そんな時に自分もそうだっただろうと、反省が横からこみ上げてくる。

さばいてはいけません。さばかれないためです。”(マタイの福音書7章1節)このみことばが頭の中をよぎる。

確かに自分自身をさばいているのだ。
そしてそのさばきを負わないといけないのだと感じる。

傷つけた、破壊した、不正をした、償わないといけないことがたくさんある。

それを考えると、さばきは負いきれるものではない。
自分にとってそうなのに他人をさばく無責任さがそこにある。

そこでさばくことをやめ、考えを中断するのだが、
今のところ、一切問題は発生していない。
どうも、相手が考えを改めてくれているようである。

それが真実なのであろう。
情けをかけているわけではない。情けをかけるほど豊かではない。
正さないことと、悪いことが起こることに因果関係はないのであろう。

さばきをやめる。寛容に成ることは良いことである。
怒りと言う嫌な思いから開放される。
Happyなことである。

ノンステップバス

20070501_10440001 プシューって音と共にえらい車体が下がったなー。

ノンステップはバスの中のことを言っているのだと思うけど。

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