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2007年4月

2007年4月29日 (日)

罪からの救い

マタイの福音書1~4章、ヨハネの黙示録1章、出エジプト記22~24章、詩篇128篇を読む。

ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。”(マタイの福音書1章21節)、

大変なことだ。神様が人の形をとってこられたのだ。
我々を罪から救ってくださるためにである。

この天地を創られた神様がである。
我々は罪から救われなければならない。

そして、この罪から救ってくださる方は”死者の中から最初によみがえられた方”(ヨハネの黙示録1章5節)。

これがイエス様である。

このイエス様を信じることによって、罪から救われる。これを信仰による義と言う。

詩篇128篇には主を恐れる人の幸せを、勤労の実を食べることと家族に恵まれることを祝福としてうけることだと述べている。

たしかに、この通りだと思う。たまにこの幸せを感じたことがあるような気がする。
これ以外は、その時限りの満足を感じたことはあるが、そこにとどまることができない。
次の瞬間には義務、重荷が増し加えられるのである。

幸せに成りたいと言うより、不幸になりたくないから、一生懸命色々なことをした。
追い求めることに疲れてしまって、追い求めるのを止めてしまった。

も止めた、タバコも止めた、ギャンブルも止めた、色事も止めた、仕事も止めた。
幸せではないが、特に困ってもいない。開放されたのだ。自由である。

死者の中から最初によみがえられた方”(ヨハネの黙示録1章5節)、とするとラザロ(ヨハネの福音書11章)は死んでいなかったようだ。
信仰による義人の死とは眠りのようである。
イエス様の奇跡は延命、死の先延ばしではないことがわかる。

罪からの救いがもたらすものは、死からの開放と生きて自由になることである。

2007年4月28日 (土)

過越し

ヨハネの福音書12章12節~21章を読む。

過越しに葡萄の杯とパン割きがない。

過越しは、晩餐、弟子への励まし、弟子のためのとりなしの祈りで構成されている。

イエス様の言葉が難解である。キーワードは下記の通りか。
”わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。”
”わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。”
”今こそ人の子は栄光を受けました。”
”神は人の子によって栄光をお受けになりました。”
” わたしが父におり、父がわたしにおられる”
”あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおる”
”あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。”
”わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。”

その御霊がわたしについてあかしします。”(15章26節)、”御霊はわたしの栄光を現わします。”(16章14節)が”聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。”(マルコの福音書12章32節)を説明しているようである。唯一赦されないのはイエス様を受け入れないことである。

2007年4月27日 (金)

マリヤ

ヨハネの福音書1章~12章11節を読む。

イエス様のお言葉とヨハネの回顧で構成されている。他の福音書が叙事に徹しているのとは違う。

このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。”(ヨハネの福音書11章2節)、が目に留まる。

イエス様に油を注いだ女の話は2箇所ある。

一つはルカの福音書7章37~50節で、罪深い女がパリサイ人の家でイエス様の足に。
もう一つは、マタイの福音書26章6~13節、マルコの福音書14章3~9節で、ひとりの女がベタニヤのらい病人シモンの家でイエス様の頭に。
ヨハネの福音書12章1~8節でマリヤがベタニヤで イエス様の足に。
マタイ、マルコとヨハネは”貧乏な人たちに施しができたのに。”と弟子(ユダ)が怒ったことから同じこと思われる。

後者のマリヤ、ラザロの姉妹とは特定していない。映画”偉大な生涯の物語”ではマグダラのマリヤになっている。マリヤはたくさんいる。

ヨハネはどの女性をラザロの姉妹マリヤと特定したかったのか。かつ何のために。

片松葉

片松葉(杖)で歩行する。

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2007年4月26日 (木)

基礎体力

ルカの福音書を通読した。

1~6章が誕生から活動の開始、7~19章が伝道旅行、20-24章が最後の1週間になっている。

主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。”(12章38節)が枯れたいちじくの話と重なる。
怠惰なクリスチャンに対する警告に読み取れるが、はたしてそうなのだろうか。
これは違うようなきがしてならない。では、何を意味するのか。依然としてはっきりしない。

何も書くことが思い浮かばない。
きっと、基礎体力をつける時期なのであろう。

2007年4月24日 (火)

無花果

マルコの福音書11章~16章、詩篇127篇、出エジプト記21章

イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。”(11章12~14節)
朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」”(11章20~21節)

”季節ではないのに、実を取りに入ったら、生ってなかったので、のろったら、枯れた。”直接的にはこうなってしまう。
うーん、これは解釈を深めなくてはいけない。

この直前1~6節ではロバの子が入用を満たしている。これと対比するといちじくは、やっぱりだめなようである。

いちじくが枯れたのは、この後の”心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。”(23節)と祈りの力に続く。

いちじくは何を象徴しているのだろうか。解らない。

うに丼

株式会社レブニーズ利尻・礼文島産塩水うに”島ノ雲丹”を食す。

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うまー。

あの薬みたいな感じがまったく無いのだ。

2007年4月23日 (月)

外を歩く

20070423_11090001 病院の行き帰りだけだが、外を歩く。

遅。。。。

上り坂で松葉杖が突っかえて辛い。
コツの領域だとは思うが。

2007年4月22日 (日)

願い

マルコの福音書6~10章、詩篇126篇を読む。

マルコの福音書10章に3つの願いが紹介されている。

1.”イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」”(17節)、これは”私は何をしたらよいでしょうか”と願っている。答えをいただくが、できないので悲しみながら立ち去っていく。

2.”イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」”(36~37節)、これは”「わたしに何をしてほしいのか。」”に答えた願いである。しかし、自分が何を求めているのか、わかっていないのです。”(38節)の通り、彼らにとって何がよくなるのかが解らない。
そもそも、次の世はイエス様が直接統治される完全な世である。何か求める必要などあるのだろうか。

3.”そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」”(51節)、これは”「わたしに何をしてほしいのか。」”に答えた願いである。また、願いが直接的である。

私はと言うと、
”どうすればよいのでしょうか”とは絶対に祈らない。何をすれば良いか解らないときは、何もしないことにしている。
”身体の傷を癒やしてください”、”バイクをもう一度楽しませてください、”家族5人がゆったり暮らせる家を与えてください”は充分にありなのだ。

2007年4月21日 (土)

従う

マルコの福音書1~5章、詩篇125篇を読む。

マルコの福音書5章18~19節を読んで、はたと考えた。
悪霊につかれていた人が助けられて、全てを捨ててイエス様に従って行く決心をしたのだが、イエス様が許されないのだ。
従って行かないことを良しとされたのである。
従って行く決心を許されないのは、この個所だけではない。

従って行く決心、バプテスマについて再三、考えてきたが、なかなか結論が出ない。

バプテスマにはどういう意味があるのだろうか。
イエス様を信じる、罪に定められない、救われる、イエス様に従う、バプテスマ、それぞれの関係がはっきりとしないのである。

自分がイエス様と救いを信じ、25年間好き放題に過ごして、破滅的な状況から生活を悔い改め、バプテスマを受けたので、どの段階で何が起こったのか整理しておきたい。
また、色々な人から聞いた話を振り返ってみても、統一した見解を得られていないと思っている。

息子へ助言をしてやりたくて改めて、みことばを通して考察してみたい。

あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。”(マタイの福音書28章18~19節)
バプテスマを授ける理由である。命令なのである。
ただ、命令の一言ではやはり寂しい感じがする。意味を知りたい。

順序は弟子になってから授けられるもののようである。ここで弟子になると言う新たな定義が登場する。
弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。”(使徒の働き11章26節)、クリスチャンのことである。
主の弟子たち(使徒の働き9章1節)、”あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。”(マタイの福音書23章10節)、にあるとおりイエス様を師と仰ぐ者である。

福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。”(マルコの福音書16章15~16節)、救われる条件になっている。新共同訳も英語訳も”信じる”とandになっている。ただし、信じればバプテスマを受けなくても罪に定められないと解釈できる。罪に定められないと救われるが使い分けられている。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。”(詩篇32編1節)、罪に定められない幸せである。旧約時代から一貫している、生きることの究極の目標である。

”罪をおおわれる”ことは救いである。これは間違いない。
ただ、バプテスマを受けることによって得る救いは別のもののようである。なんだろう。

洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。”(ペテロの手紙第一3章21節 新共同訳)、受ける側の主張を記載している。残りの人生を正しく生きたいと言う思いが伝わってくる。
これである。残りの人生をどう生きるかに対する救いが必要なのである。

生きている間は”肉の汚れ”、罪からは開放されないことを宣言している。
あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。”(ローマ人への手紙7章1節)、にあるとおり”正しい良心”が必要なのは生きている期間なのである。

なぜ必要なのか。
今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。”(ローマ人への手紙6章21節)、とある通り不幸にならないためである。

救われた人生とは。
イエス様のように生きることである。罪のない方がさまざまな状況で取られた態度を見習うことである。自力ではできないので、”神に正しい良心を願い求める”のである。

なぜ水につかるのか。イエス様を真似るのだ。”今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。”(マタイの福音書3章15節)、ヨハネからイエス様がバプテスマを受ける時にイエス様がおっしゃった言葉である。
この後、御霊を受け、40日の試みの後、公の活動を開始される。

つまり、まず最初にイエス様を信じる、これは救いを信じることである。
これにより義と認められる。永遠に対する救いを得る。
でも生き続ける。

生きることに行き詰る。”日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。”(伝道者の書1章3節)、にあるとおり。

正しい生き方を求める。神様のご計画に従うのだ。
イエス様を師と仰ぐのである。まねるのである。
それを実践する意味でバプテスマを受ける。

神様が”正しい良心”に従った生き方に導いてくださる。生きるための救いを得るのである。
今ではあなたがたが恥じているそのようなものから”開放されるのである。自由になるのだ。

持ってるものを捨てて従って行く必要は無い。律法的になることは絶対にない。
あらゆる場合、主に困難な場合にイエス様を見習って幸せになることである。

私の人生を振り返って見てもそう思う。

2007年4月20日 (金)

歩く

20070420_12430001 松葉杖にも慣れてきた。

左足の装具の取り付けがめんどくさい。
夜中にトイレは間に合わないかもしれない。

それに家の中で靴を履いている感覚が嫌だ。

2007年4月19日 (木)

もしも主が私たちの味方でなかったなら。

詩篇124篇を読む。

へんな日だなー

何も思い浮かばない理由がわかった。

この記事で書いたことがまた起こったのだ。

マルタになってしまった。

一つのことしかできないのである。
今回は新しい仕事の話が入ってきたことが優先されたのである。

マリアでありたいと思う。
しかし私の場合、常にアリアでないといけないようである。
これが困ったことなのか、マリアであればいいのかがわからない。

とりあえず仕事のことは片付けた。
自然体であれば良いようなのだが、思い悩むはずいぶん軽くなったが残っている。

2007年4月18日 (水)

最後の1週間

マタイの福音書21~28章、各福音書の最後の晩餐を読む。

特に思いつくことは無かった。

へんな日だなー。

2007年4月17日 (火)

十戒

マタイの福音書8~20章、詩篇123篇、出エジプト記19~20章を読む。

出エジプト記は十戒。十戒は以下のとおり。

1.あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
2.あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
3.あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
4.安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
5.あなたの父と母を敬え。
6.殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗んではならない。
9.あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
10.あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

最初の4つは神様との関係について、残りの6つは人間相互の関係についての戒めである。

今回の記事は”6.姦淫してはならない。”についてである。

実を言うとテレビを見ていたら、セックスを取り上げたコミカルな描写があり、それが気になって仕方ない状態で聖書を読んでいた。
何故こんなに気になるのだろうか、誘惑の罠に陥ってしまったのだろうかと考えていた。
私はこの誘惑に対して本当に弱い。

そもそも、男と女とに創造され、”生めよ。ふえよ。地を満たせ。”(創世記1章28節)と神様から祝福されたのに、姦淫が戒めとして登場してくることが不可解でならない。
”自然の用を不自然なものに代え”(ローマ人への手紙1章26節)の原理が恐ろしくあり、憎らしくある。

姦淫かどうかの境界線を守ることは非常に困難なことである。
私は常に姦淫側であったし、今もそうだと思う。

母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。”(マタイの福音書19章12節)とある。

姦淫について辞書で調べてみた。

姦淫は”男女が不倫な肉体関係を結ぶこと。”とあり、
不倫は”道徳に反すること。特に、男女の関係が人の道にはずれること。”とある。
ここで道徳が登場する。
道徳は”ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。”とある。

姦淫の意味は”個々人の内面的原理として働く正しく行為するための規範、に反しながら肉体関係を結ぶこと”になる。

個々人の内面的原理として働く正しく行為するための規範”には戒めと強制力が存在することを意味するはずである。

強制力とは良心であろう。

では戒めはどこから来るのか。自然発生的に内面的原理としての規範が構成されるはずがない。
長年をかけて人間が培ってきたものであろうか。そんな風に戒めを教わり、教えた覚えは無い。

人間が創造された証拠である。

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。”(ローマ人への手紙2章14節~15節)、と聖書には書かれている。

2007年4月16日 (月)

山上の垂訓

マタイの福音書1章~7章を読む。

求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。”(5章42節)、私はしなかった。

何故にこのことを取り上げているかと言うと、解決していないと思っているからである。

ちょうど一年前、ある人からお金を貸してくれと依頼されて応じた。
二回依頼され、二回とも返金されていない。

たいした額でないので、頼まれると断れない。
続くのが嫌だった。

このみ言葉があったので、どう対応したものかと考えた。
そして出た結論が”お金を持たない”である。
持っていないので貸せない。

それ以来、用途のない現金は持っていない。
お小遣い用銀行口座の残高も数千円である。これは病院での支払いで現金が足らない時のためにある。
とは言え現金を持っていないだけで、クレジットカードで欲しいものは購入している。

借金の依頼が続いたのかどうかは解らない。
この対応案のおかげで顔を合わせにくくなった。
友人を失った気分である。

自分の心の貧しさを思い知る。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。”(5章3節)

松葉杖

20070416_09430001 松葉杖で100mほど歩いた。

久しぶりに歩いたので、ふらふらだ。
左足の装具が食い込んで痛い。

思ってたほども感動はなかった。疲れた。

車椅子の代わりにはならないかな。

2007年4月15日 (日)

タイ漁

20070415_15310001 三時のオヤツはお約束のミニタイ焼とゴールドコーストブレンド。

三男と三つずつ食す。

ユダの手紙

最後の手紙。
イエス様の弟のユダが書いたとされている。

背教に対する備えを伝える。
教会が背教、異端によって蝕まれていくことを新約聖書は預言している。
そして”終わりの時”(18節)が来る。

旧約聖書、新約聖書を通して見るに、人類はいつも悪い方へ進んでいく。

本当に良いことが何なのか解らないのだ。良いことにとどまることができない。

事実、一個人の生きるもそうである。
良いことだと思っても、すぐに過ぎ去っていく。
悲しみと憂いがいつも目の前にある。
だから、希望が光り輝く。

永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。”(21節)
待ち望む、いつも待ち望むのである。

待ち望むことに耐え切れなくなるから、短絡的に目の前の快楽に流れていく。
それらのものの行き着く所は死です。”(ローマ人への手紙6章21節)
悲劇だ。

ひとたび伝えられた信仰ために戦う”(3節)、私は今、戦っていると思う。たいした戦いではないかもしれないけど。

皆、悲劇の主人公だ。

希望を捜し求めないとだめだ。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。”(マタイの福音書7章7節)

倦怠期古井戸チキン

20070415_12380001 ガーリックペパーチキン1p
コールスロー
フライドポテトS

632kcal

フライドポテトSのただ券があったので440円なり。

飲み物は20070415_12450001_120~50kcalで120円

2007年4月14日 (土)

イカ天

今日は一日中、YouTubeでイカ天を楽しむ。

へへへおもしろいなー。へへへ、

2007年4月13日 (金)

青空ちゃん

P10007552 青空(はるか)ちゃんです。

3月29日(木) 午後0時3分に生まれました。

私の姪になります。

かわいいですねー。

あたりまえのことですが、赤ちゃんはいつも自然体ですね。
そこが魅力的です。

”私、知ってるのよ”って顔。

天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。”(ルカの福音書10章21節)

ヨハネの手紙第三

ガイオと言う良い人とデオテレペスと言う悪い人が対比されて書かれている。

ガイオはクリスチャンの旅人を良くもてなした事が取り上げられている。
デオテレペスは党派心とヨハネの仲間を受け入れないことを取り上げられている。

私たちの国籍は天にあります。”(ピリピ人への手紙3章20節)とあるようにクリスチャンは、この世では”旅人であり寄留者”(ペテロの手紙第一2章11節)である。
神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。”(6節)の通り、教会であかしされたガイオの愛には深い意味がある。

日常のクリスチャン同士の接し方である。我々は各々どこに向かうのか、どこまで行くのか解らない旅人なのである。ただ、神様に導かれるままに旅をする。

たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得”、禁欲的である必要は無いことが書かれている。
ソロモンもヨブもこの世の栄華という形で祝福された。
神様から与えられるものは全て良いものなのである。遠慮する必要はない。楽しむべきだ。

全ての点で幸いを得たいと思う気持ちは正しい。

両脚だけで立つ

20070413_11210001 今日から右足に体重の50%の荷重をかけてよい。

支えなしで両脚だけで立てるのだー。

50%の荷重で歩いてみると、骨折箇所以外のところで変な痛みがある。
久しぶりに重さが乗ったので、びっくりしているようだ。
”何すんねん”って感じか。

2007年4月12日 (木)

ミニタイ焼比較

ミニタイ焼、一般サイズのたい焼き、今川焼きを比較のために買ってきてもらった。

20070412_15120001 味はミニタイ焼、一般サイズのたい焼きは同じ。おいしい。
今川焼きは生地がホットケーキみたいで、うーんいまいち。
たい焼き系は醤油のほのかな香りがする。
ここがおいしさのポイントか。

20070412_15120002 さて、ミニと一般サイズを比較した場合、長さ、高さは2/3ぐらいである。厚みは同じと言うところか。(後で解ったのだが、たまたまである。)
ここから計算すると体積はミニが一般の44%になる。

ミニが12個入り540g198円、一般サイズが5個入り450g158円である。

計算が合わない。

一般サイズからミニを計算すると、ミニが480gになるはずである。値段は168円になるはずである。

表示上の重さ正しいとするとミニは一般サイズの1/2の重さになる。そんなもんかなー。

ちなみに実際に計ってみると、結構まちまちだった。
食べる前に全体で計らないと、、、

おなかいっぱい。20070412_15120003

ヨハネの手紙第二

真理と言う言葉が多く使われている。

それで”真理”と言う言葉について新約聖書での使われ方を調べてみた。
J-ばいぶるを使用して新改訳聖書を分析した。

ちなみに国語辞典で真理とは、”正しい道理。だれも否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実。”とある。

”真理”と言う言葉は新約聖書中、90回出てくる。
その内、ヨハネの書簡が42回と約半分を占める。
ヨハネの書簡ではヨハネの福音書に20回出てくる。
黙示録には出てこない。

さらにおもしろいことに福音書ではマタイ、マルコ、ルカとそれぞれ1回しか”真理”と言う言葉は出てこない。
全てパリサイ人が”税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか”とイエス様をわなにかけようかとしているところでの、彼らのイエス様に対する美辞麗句”真理に基いて神の道を教え”である。
この個所、ヨハネの福音書には登場しない。

ヨハネの福音書においては、20回中、18回はイエス様の言葉である。後は、1回がヨハネの解説で”御子を信じる”を”真理を行う”としている。もう1回はピラトの”「真理とは何ですか。」”である。

つまり、イエス様が真理について説き、そして弟子たちが、その説き明かされた真理について述べ伝えていったということがよくわかる。

”真理についてあかしをする”、”真理は自由にする”、”真理に立つ”、”真理の御霊”、”真理に導き入れる”、”真理によって聖め別つ”、”みことばは真理”。
そして、”わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。”(ヨハネの福音書14章6節)

手紙に戻ってみて考えるに、”イエス・キリストが人として来られたこと”(7節)、を告白することが重要な判断基準だと述べている。
神様が人としてこられたのである。私たちの罪を贖うための犠牲となるためにこられたのである。

真理とは何か。”イエス様こそ真理である。”と大声で伝えたい。
残念ながら知っているだけである。神様の恵みによって得た信仰である。.
ピラトの”「真理とは何ですか。」”は印象的だ。私たちの持つ的外れをよく表している。真理を知識として認識していないし説明できない。

早く回りの人々にも、”正しい道理。だれも否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実。”として受け入れてもらいたい。
真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。”(テモテへの手紙第二)、このみことばは現代を象徴しているから。

2007年4月11日 (水)

ヨハネの手紙第一

ヨハネの福音書の最後の晩餐のイエス様の言葉に似ている感じがした。

正直なところ、この書での罪に対する捉え方が難解で、どうすれば良いのだろうかという気分になってしまう。

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。”(1章8節)、”もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。”(1章10節)と”だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。”(3章6節)、”神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。”(5章18節)が調和できないのである。

罪責感の中で沈んで行くのか、罪の中に生きない自由を喜ぶのか、がこの調和できない悩みから生み出される。救いの確信に至る部分ではないだろうか。

ここに”もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。”(1章9節)がかかてくる。
我々クリスチャンは罪赦された罪人である。性質としての罪を持っているし、行為としての罪も冒す。
キリストのただ一回の十字架の贖いによって、全ての罪は赦されている。また悔い改めではなく、告白によって悪からきよめていただける。

確信に関しても”私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。”(3章19節~20節)にあるとおり、現在の自分をどう認識するかとは関係なく、救われていると言う信仰を持つことができるのも事実である。

さて、どうまとめるかがやはり解らない。
考えてみれば、他の書簡では明確であったのかと言うと、そうでもない。
この書簡の記述が、今の自分の不明確さを浮き彫りにしたのだと考える。
もっと霊的に成長して理解できるように成りたい。

愛と神様に属することの表現が多様なのも特徴的である。
真理は一つであり、我々には多様に映って見えると言うことを現していると考える。
近視眼的に物事を見た時に間違いに陥る原因であろう。”自分の目の中の梁”(マタイの福音書7章3節)を思い起こす。

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。”(2章15節)、”偶像を警戒しなさい。”(5章21節)また反キリスト、にせ預言者と世の終わりに対する警告が書かれている。

Onsens

20070411_10460002 この缶、気なって仕方がなかった。

どこの国の製品だろう。ノルウエーかカナダかな。

”Onsens”の読みは”オンセンズ”でよいのだろうか。
英語で温泉は”Onsens”と綴るのだろうか。

日本の温泉の効能を取り入れている製品なんだろうか。

等等。

リハビリ室においてある。

20070411_09430001 装置にお湯をはって、この”Onsens”をいれて、患部を浸けている。
まあ、入浴剤である。

効き目の方はいかがなものなのだろうか。

写真を撮りにいって、あらビックリ。

側面の説明書きが日本語ではないか。

カタカナで”オンセンス”と書いてあった。

2007年4月10日 (火)

メダカの銀行

おじさんの動物病院のホームページを作ることになった。

20070410_10330001 資料として送られてきた雑誌である。この雑誌におじさんの記事が載っている。
九州発信のペットマガジンである。このような雑誌を見るのは始めてである。
ペットの販売、フード・用品販売、獣医、美容院、ホテル、なんと保険や葬祭まであって、人間並の至れり尽くせり具合である。

私は犬に服を着せるのもいかがなものかと考えている。雑誌を眺めていると仔豚まで服を着ていた。
この世界に対する理解はまだあまり無い。勉強、勉強。

20070409_20570001こちらの資料は ”メダカの銀行”。
これはおじさんの参加しているボランティア活動である。
クロメダカを絶滅の危機から救おうと言う取り組みで。メダカの交配、増殖を一般の方々にお願いしようと言うもの。
”一家庭に10匹貸し出しますから、2倍以上に殖やして返して欲しい”ということで銀行と呼んでいる。
そうして殖えたメダカを自然に帰していく。(ビオトープ運動)
メダカは地域によって種類の違いがあるようで、交雑種を作ることを好ましくないとしている。自然の生態系を崩さないことを大切にしている。

さて、上手に楽しく製作に取り組むことができるか。

ペテロの手紙第二

ペテロが差迫る自分の最後を目の前にして、クリスチャンを励ますために書いた手紙である。

偽教師、偽預言者といった背教、異端に対する警戒に終始している。

変貌の山でのできごとについて公言している。
イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられた。”(マタイの福音書17章9節)を思い出す。ペテロはこのことの証人なのである。

自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。”(1章9節)は本当によく陥る事柄である。
思い出した時に心の中で熱い思いがこみ上げ、勇気が湧いてくる。

わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。”(3章15節 新共同約)、パウロも書き送ったとおりですと、手紙全体を通しての重要な事柄として述べられている。
主の忍耐について自分はどう考えているのか。あまり深く認識していないのが実情である。そういう意味でこのみことばが気になる。いづれ、何か気付くことがあるのだろうか。

聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し”(3章16節)、聖書をテーマに記事を書くにあたって気になることである。
そんなに深い部分に言及してきているわけではないが、”陥らないように祈る”、これに尽きると思う。

2007年4月 8日 (日)

ペテロの手紙第一

神の羊の群れを、牧しなさい。”(5章2節)、”目をさましていなさい”(5章8節)はイエス様がペテロに語られた言葉である。福音書にでてくる。
実に味わい深い。この手紙を書くに至ったペテロの生涯に刻まれたイエス様への思いを感じる。

全体を通して、試練、従順、へりくだり、つまり耐え忍ぶことを強く勧めている。
迫害を目の前にしたクリスチャンを励ます、が背景にあるとの事である。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。”(2章22節~23節)、入院中、忍耐を試される時に慰められたみことばである。自分の心の狭さの問題なのだが、あの時は叫びたい思いだった。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。”(5章7節)、自由と平安に導いてくれるみことばである。

その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。”(3章19節~20節)、興味を引く記述だが、意味が解らない。2つほど注解書を読んだが、救いの雛形としてノアの時代のことを語っているのか、十字架から復活の間のことを語っているのか、まったく違うのか、どうなのだろうか。

パウロの手紙の凝縮版みたいな感じもする。教理は一つなので当たり前であるが。

なんといってもイエス様と寝食を共にしたペテロの手紙である。

2007年4月 7日 (土)

おみやげ

次男と三男が帰ってきた。

今夜は長男がバイトなので4人で食事。

20070407_20040001

Artist in a Box

20070407_15490001 懐かしい物である。

この”Artist in a Box”、東京で働いていた時に行商をしていた二人組みのお姉さんから購入したものである。

オフィスの前でキョロキョロと周りを見回し、困っている様子のお姉さんがいたので、”どうかしましたか”と声をかけたところ、行商中で中に入りたいとのことであった。

”部外者の方は入れませんよ”と伝えたら、ごそごそとなにやら紙袋から出して見せてくれた。
本に取り付けて使う小型のライト、要するにポータブル読書灯、売れないアイデア商品である。
ボタンを押すと電球の付いたアームが出てくるのだが、その動作がロボットのようでやたらとおもしろかった。

この”Artist in a Box”はおまけである。何か忘れたが、あと一品、付けてたしか1000円で購入した。

20070407_15500001 この箱、開くとこんな感じで化粧品セットみたいである。なんかきれいでしゃれている。
左から、クレヨン、色鉛筆、何か解らん、サインペンの4種類、それぞれ12色ずつ入っている。

私は使ったことがない。長いこと行方不明になっていたと記憶する。
ちなみにポータブル読書灯も、あの愉快な動作をみんなに披露しただけで、使ったことは無いし、もう長いこと見た覚えも無い。

あのお姉さんたちの素性や、これらの商品の販売ルートはいかにも怪しい。興味は無いが。

この色鉛筆、芯がパキパキ折れていらいらするらしい。(息子談)

くだらないことによくこんな長文が書けるもんだ。

609文字。ひまだー。

3時のオヤツ

20070407_15180001 ミニタイ焼3個とコーヒー、お気に入りのセットである。

あっと言う間に食べてしまった。

量的にはオヤツにはちょうどいいかな。

みんな出かけてて、私一人である。

トイレも行けるし、台所も片付けていただいたので入れるようになったし、寝転がれるし、車椅子に戻れるしで、不自由はしない。

やらないといけない事はしたくないし、やりたいことはないし、暇だと言えば暇だし、ゆっくりしたいし、なんか楽しいことはないかなと思うことは虚しそうだし。うーん漠然と何か欠けている感じがする。

ぼくを探しに”みたいに自分発見のための黙想をする気にもならないし。

と言うことで、つぶやき。

ヤコブの手紙

この手紙を記述したヤコブはイエス様の弟という説である。
なんとなく福音書の山上の垂訓に似ている感じがする。

行いの良さを保つことを勧める手紙である。
パウロの手紙にあるとおり、行いによる義は我々には無い。
この手紙も行いにより義を追い求めよと言っているのではない。

行いの伴った信仰の必要性を説いている。
人の場合、行いによって内面が表現されるということである。伝道のために必要なのである。

クリスチャンは信仰を通して、神様の恵みのみによって義と認められた罪人である。
だからイエス様に似るものになろうとする思いが心に刻まれている。
ここから行いの良さが、成長に伴って現われてくるのである。

なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。”(4章17節)を克服していく。

欲と、世を愛することに関して書かれている。欲は死に、世を愛することは神様への敵対に結びつけて表現されている。
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。”(1章14節)とある通り、回りの刺激から欲、世を愛する思い、が誘発される。
人を呪い、快楽を求める、むさぼり欲する。罪を生む。

私にはこれらから、やり過ごせるもの、心奪われるもの、軽はずみな言動に現われるもの、がある。
やり過ごせるものは、私の弱さの内に働く神様の力である。
それ以外はどうしようもない。
軽はずみな言動は”舌を制御することは、だれにもできません。”(3章8節)の通りである。
試練とそこから生み出される忍耐によって、克服していくのであろう。

願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。”(4章3節)について。
私の"バイク楽しみたい願望"は明確に自分の快楽のためである。
一度は願いがかなった。神様は許されることもあるのだなあと思う。
この思いも淘汰されていくのか、はたまたヨブのように繁栄が元どおりにされるのか。
今は後者だと信じて疑っていない。

2007年4月 6日 (金)

ヘブル人への手紙

ユダヤ人信者をイエス・キリストに注目させることを主題として書かれてた手紙である。

ヤコブの死、切迫しているエルサレム陥落に対して心備えさせることを目的としていると思われているらしい。

作者は不明。とにかく旧約聖書に精通している人であることには違いない。
パウロ説についてだが、パウロの他の手紙とは話の展開のしかたが違うような感じがする。ここからパウロは作者でないとするのか、相手がユダヤ人だからとするのか。どっちだろう。

読むのは3度目だが、全てが新鮮であった。(全然、覚えてなかったとも言うが、、)
旧約聖書を読みきって、この手紙を読むと確かに味わい深い。

キリストは初めの契約すなわち律法を成就した。罪は滅ぼされたもう犠牲の必要はない。
このことを祭司、契約、幕屋、いけにえの血の意味を現して証明している。

みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。”(4章3節)、神様こそ永遠にほめたたえられる方です。アーメン。
目には見えない全てのものはもう創られているのである。また、救いの実現も終わっているのである。だから全ては信じるに値する事実であり、この書の後半で語られる英雄たち同様に、私たちも信仰により全うされるのである。”神の安息”(4章)に入るのを待つばかりである。

もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。”(10章37節)はなんと勇気付けられるみことばだろうか。

堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。”(6章6節)、赦されない罪についての記述である。キリストが救いを全うしたことを否定することである。
一度救われた者の救いが無効になることがあるのだろうか?

25年間放蕩し続けた自分の今の対場は、この今もっている信仰は奇跡である。
神様の愛と恵に心から感謝します。
イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。”(10章10節)、アーメン。

2007年4月 5日 (木)

夕食

20070405_19170001 昨日に引き続き、今日も家内と二人きりの夕食である。

20代、30代の時は二人きりも新鮮であったが、40代になると寂しいものである。

昨日、今日は長男がバイト、次男三男は旅行であるが、いずれはこれが当たり前になる。

私も家内もあまりしゃべる方じゃないし、テレビも点けないので静かなもんだ。

さて9時になったし、もう寝るか。

ピレモンへの手紙

ネオシモと言う逃亡した(らしい)クリスチャンをとりなす手紙。
ネオシモは奴隷の立場から逃げ出したのか。何から、なぜ、逃亡したのかはわからない。

丁寧なお願い調の文面である。

現代の感覚では、聖書中の”奴隷は”という表現は、やはり引っかかるものである。
もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。”(16節)はほっとする。

2007年4月 4日 (水)

テトスへの手紙

内容はテモテへの手紙第一と似ている。
長老の任命と集会のあり方、励まし、救いの原理が書かれている。

この二つの手紙は同じ時期に、それぞれの地方に働く二人の弟子に送ったものらしい。

きよい人々には、すべてのものがきよいのです。”(1章15節)に希望を感じる。
きよいとはどんな人か。

不信仰な人々には”と続いている通り、信仰による清さなのであろう。
求めれば得られると信じよう。”すべてのものがきよい”と思えれば幸せである。

そういう力強さに満たされたい。

2007年4月 2日 (月)

テモテへの手紙第二

一貫してテモテを励ましている手紙である。

パウロの最後が近いようである。
最後まで戦い抜いたパウロがその最後に、”義の栄冠”(4章8節)を得る希望に満ちている姿に感動を覚える。

兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。”(2章4節)。うっ。

なぜ、キリストは復活したのかの記述を発見。
以前、息子に質問されてみことばを引用できなかった。
その時は”今も生きて、我々と一緒におられるため”と応えたが、必然性を説明できていないことが気になっていた。
キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。”(1章10節)

診察

20070402_10120001 レントゲン写真を見てもさっぱり解らないが、順調に骨ができているらしい。

次回の診察はゴールデンウイーク明けに設定。
それまでは2週間ごとに加重を増やして右足のリハビリを続ける。
次回までの目標は松葉杖で歩く。車椅子卒業である。

5月下旬ぐらいから車椅子、装具が不要になる見込み。
長かっただょ。

今年のゴールデンウイークはお家でおこもりかぁ。
Bikerにっとてはいい季節だと言うのに、残念。

2007年4月 1日 (日)

ミニタイ焼

午後3時にミニタイ焼きを食べるのが日課になってる。

一般物の2/3位の大きさだから、体積にして約30%か。
冷凍物をチンしてトースターで焼く。

これがあんこが多く詰まっていて美味しいのである。
皮がカリッとしてるところが良い。
焼きたての香ばしさとコーヒーが良く合う。

業務スーパーにて12個入り198円で販売している。

20070401_15160001

テモテへの手紙第一

さて、パウロがテモテ個人へ宛てて送った手紙をどう読むか。

テモテを通して教会への指導をするが、この手紙の趣旨のようである。
教会内でのテモテの振る舞いを含めて指導している。

テモテになされた預言、預言によって与えられた賜物、ゆだねられたものとは何だったのだろうか。
当時はこういった個々人の役割が明確なほどに、霊的だったことを現しているのであろうか。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。”(2章4節)
初めから救いにお選びになった”(テサロニケ人への手紙第二2章13節)を対比してみてみると、そこに知るべき奥義が隠されているように思える。
短絡的には”初穂”を使った新共同約が話としてつながっている。が、もっと深い意味があるような気がする。何といってもアルファであり、オメガであられる方の摂理である。
神様はすべての人が救われることを望んでおられるのである。

救われずに死んでいった人のことを考えると、もやもやとするのだがさほども気に留めていない。これは自分の罪から来るものであろう、どうにもならない。
同様に退屈でごろごろしてると、もやもやとろくでもない思いがこみ上げてくる。
ねたみや、批判がこみ上げてくる。寛容さ、すなわち愛、が著しく欠如している自分が嫌になる。

監督の職、執事に関する記述を読むと、長老になりたがらなくなる気持ちが良くわかる。

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