艱難時代のクリスチャンについて考える。
聖書日課に従うと年末は黙示録になる。残り少なくなったし、読むのを中断できる内容ではないので、最後まで読んだ。
読みながら考えていたのは、クリスチャンは最後の艱難辛苦の時代を生きるのか、それともその前に携挙があるのかだった。
前に「主はクリスチャンが目的のない苦しみに会うのを望まれないので、艱難前に携挙があると考えている。」と聞いたことがあって、わかったような、わからないようなって感じがしてたけど、確かに患難前携挙説って言われるだけあってはっきりとしないんだろうな。
初信者のころ終末論と救いをテーマにしたメッセージが盛んで、「世の終わりが来ます。皆罪人なので滅びることになるんです。イエスを信じることに救いがあります。」みたいな感じだった。中途半端に聞いていたし、そもそもよくわかってなかったから、そんな迫害の時代は嫌だなと思ってたのと、信じたのは良かったけど救いの本当の価値をわかっていなかった。
救いの本当の価値がわかるのはそれから25年後、アルコール依存症からの回復の最初の一歩になったどん底の祈りで、・・・・。
それで今回はそんな迫害の時代は嫌だなの方なんだけど、黙示録を読みながら得た結論は、自分は艱難時代を生きて偶像礼拝を拒否して殺される。命がけの信仰を現わすことになる。何となくそんなことを考えながら読んでた。
「もしそうなってもクリスチャンとして貫き通せる自信がありません。助けてくださいね。」って祈った。
そう、今は受け入れることができていて、それも自分の意志や力が強くなったからではなく、最後まで耐え忍ぶ力は与えられるものだって考えに気が付けば到達してたんだ。
もう少し考えてみるに、与えられるって言うのは少し違ってて、受け入れられるようになるが正しいような気がする。この受け入れ態勢が整うまでこちら都合の色々があって、でも間に合わないことはない。
本題はこれで終わり。
なんだけど、このことを記事にしようと思い再度調べていてわからなくなった。
次の2節は艱難時代のクリスチャンを表している。
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。(ヨハネの黙示録13章8節)
それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。(ヨハネの黙示録13章15節)
でも次の聖句が実現する時もある。
すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。(テサロニケ人への手紙第一4章16-17節)
つまり、
- 携挙があって、その後にイエスを信じたクリスチャンが艱難時代を生きる。
- 一部のクリスチャンが艱難時代に殺されて、そんな時に携挙がある。
- 艱難時代を生き延びるクリスチャンもいて、艱難時代の後に携挙がある。
どれも考えられるので結局よくわからない。
だけど、たとえ自分が艱難時代を生きても、死に至るまで耐え抜くことができることがわかったので、もはやどうでも良い。
並行して読んでたヨブ記に従うと、この悟りらしきものも神様から来たもの。
知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ記42章3節)
確かに知りえないことを書いてて、ここに書いた悟りらしきものに至った原理や目的はもやもやとしていて説明できない。
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